丸屋 武士(選)
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土蔵内の道場で苦心
  北稲荷町には明治十六年二月までおったが、前にのべた村田源三との関係から、移転をすることになった。(中略)
 土蔵で稽古したのは一か年ほどだが、その間のことで伝うべきことが少なくない。そのうちの一つはいかに弟子を得るに苦しんだかということである。第一、自分は柔道師範として相当に自信は持っていたが、世間から見れば弱年の一文学士である。柔術のもっともすたっている時代において、まだ世に名もない弱年の文学士のところに、柔術を学びにこないのは当然のことである。たまたま来た人をばこれを大事に待遇して、あきさせずに継続せしめることがもっとも必要なことであった。その時に道場らしい道場でも建てて弟子をむかえたならば、まだしも世人の注意を惹いたであろうが、さような訳には参らず、やむなく弘文館の付属土蔵、それも恐らく十畳敷位にすぎなかったらしいその土蔵には、角のある柱がほうぼうに露出している。その道場で稽古を励むもののうちには、なかなかの荒武者もいる。力一杯あばれ廻る。そのようなものを無遠慮に扱い、柱に打ちつけでもして怪我でもさせたら、その人に気の毒であるのみならず、弟子もなくなろう。今は故人となったが、数年前まで大阪ホテルの支配人であった尼野源二郎のごときは、当時家塾(嘉納塾のこと−丸屋註)の塾生でもあり、また柔道の修業者でもあったが、彼のごときはなかなかの元気者で、勝れた体力で力一杯にかかって来た。これを怪我させずに扱うことの苦心はひととおりではなかった。
 なお一つ苦心したことは、当時のことであるから、稽古時間を限定すると通って来る人に都合が悪いので来てくれない。それ故、日曜は午前七時から正午まで、いつ来てもよいことにし、ふだんは午後の三時頃から七時頃まで、いつでもよいということにした。稽古するものの少ない割に時間は大変長い。その時間に自分が道場に出ていなければ、来るものが相手がないといって帰ってしまう。そうしてその次からは来なくなる。これを長くつなぐにはいつ来ても稽古の出来るようにまちうけてやらねばならない。午後のときは格別苦痛でもなかったが、日曜日の寒気の厳しい午前七時からの時などは、人の来ると否とにかかわらず、じっとまっていることの苦痛はたいていなことではなかった。
 自分が何か他に用事が出来るか、またはその他の差支えで、日曜日の七時から出ておられないときは、西郷四郎をさきに出しておいて、自分があとから出る。すると西郷は凍りつくような道場で、身に迫る寒さと戦いながら、唯一人ポツネンとして来場者をまっている。その状が今もなお眼底に明らかである。最初から自分の出るときは、西郷と二人でまず稽古をするのであるが、その時は、足は冷えきって棒のようで感覚がない。この頃西郷はまだ熟達していなかったから、自分のまだ暖まらないうちに、彼は疲れてしまう。何本も何本も、休んでは稽古をするが、遂に足の無感覚のままでやめてしまうことが幾回もあった。その当時はいうべからざる苦心であったが、これが今日の講道館を作りあげたのだと思えば、むしろその記憶が愉快にたえない。
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