丸屋 武士(選)
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 さて、いよいよ柔道家としての嘉納について話をしなくてはなるまい。明治15年(23歳)、東京下谷の北稲荷町永昌寺に富田常次郎以下9人の門弟と共に「講道館」を創設して館長となった嘉納は、その後わずか5,6年の間に全国に覇を唱えるという奇跡ともいえる「離れ技」を演じて日本スポーツ界の巨人となった。それはあたかも20世紀におけるビル・ゲイツを想起させるような目ざましい働きであった。古来、日本の武術は「わざ」の内容やその名称から段位(修業の階悌)のつけ方や人生感、基本思想に至るまでそれぞれの流派が独自性を保ち、それを誇りとしていた為に「十人十派」の様相を呈していた。天神真揚流と起倒流の二流をあわせ学んだ嘉納はそのエッセンスを抽出し、なお嘉納独自の工夫を加えた上に、今までの柔術になかった全く新しい「講道館柔道」というシステムを構築(クリエイト)したのである。世間一般に柔術、やわら、あるいは体術と呼ばれていたものを敢えて柔道と称したのは嘉納も言うように生花を花道と称するような類の話ではなかった。今、剣道とよばれているものは、元々は撃剣、あるいは剣術と呼ばれており嘉納が柔道と称するようになってから始めて剣道と称するようになったのである。嘉納が教え広めようとする柔道は従来の柔術とは全く異ったものであり、単なる武術を教える場所ではないことを明らかにする為に講道館という名称が用いられたのである。そうでなければ嘉納も言うように練武館でも尚武館でもよかったのであった。嘉納本人が『武道宝鑑−講談社刊』において「柔道の本義と修業の目的」と題し、次のように述べている。「昔柔術という名称で攻撃防御の方法が教えられて居た頃は原理の応用としてではなく個々の先生の工夫としてであった。或る先生は人を投げるにはかうするがよいとか、逆を取るにはどうするがよいとかいう風に一の原理の応用としてではなく人々の工夫として教えていた、それだから柔術は幾多の流派に分かれることになったのである。」と分析し、柔道とは、多くの「わざ」から帰納した根本原理に対する名称であることを説いて「嘉納治五郎は自分の工夫を教えたのではなくて誰でも自身にそれに基いて工夫し得る根本原理を教えたのであるから未来永劫亡びることはない。」と確固たる信念を披瀝している。更に踏み込んだ嘉納は「嘉納治五郎の教えた技でもその原理に会わなかったならばそれは本当の嘉納治五郎の教でなく嘉納治五郎が応用を過ったのである。」とまで明言した。そしてその柔道の原理とは物理学でいう偶力「物体に働く大きさが等しく向きが反対の一対の力」のことであり、二点、二方向に反対に加わる力によって相手が前後左右に倒れることになるわけである。例えば「大内刈」であれば刈る足の掛る位置、踏み込む軸足の位置、その他細部に多少のズレはあっても、世界中、エジプト人の掛ける技も、ロシア人、アメリカ人の掛ける技も大内刈は大内刈であって、問題はどこまでその技を原理に基づいて考究練磨するかにある。襟や袖をつかむ位置、仕掛けるタイミングや間合等々にあらゆる工夫をこらし、より切れ味の鋭い大内刈、より深みのある大内刈に仕上げ、名人芸、神技と呼ばれる領域をめざすのが修業者個々人の目標である。
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