丸屋 武士(選)
(2004年8月)
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 日本教育界の巨人となった嘉納治五郎は本シリーズ6でも紹介したように明治42年(50歳)にはアジアで初の国際オリンピック委員会(IOC)委員に選ばれ、明治45年(1912)、ストックホルムで開催された第5回オリンピック大会に金栗四三、三島弥彦の二名の選手を引率する役員として日本人最初のオリンピック出場を果たした。このストックホルムオリンピックでは15競技、108種目が競われ、28ヶ国2490人の選手が参加した。前年(明治44年)11月に国内選考会が開かれ、そこで当時の世界最高記録を出してマラソンに優勝した金栗四三(東京高等師範学校)は大いに期待されたが、本番では32キロ過ぎて日射病で倒れてしまった。同じく国内選考会の短距離で優勝した三島弥彦(東京帝国大学)は本番の100メートル、200メートルともに予選最下位で終った。自分を含めてたった3名の選手団で、戦績もこのようなものであったから、「何くそ」の精神をモットーとする嘉納も後進国の悲哀を噛み締めたことであろう。因みに1896年の第1回アテネ大会の参加国は欧米先進の14ヶ国、選手は古代オリンピックと同じく女人禁制で男子のみ280人であった。陸上、水泳、体操、レスリング、フェンシング、射撃、自転車、テニスの8競技、43種目が行われ人気のあった陸上競技全11種目のうち9個の金メダルをアメリカ合衆国の選手が獲得した。
 既に明治44年大日本体育協会(現日本体育協会)初代会長となっていた嘉納は昭和の初めからオリンピック大会の日本招致に奔走した。何度も外遊を重ねた多年の労苦が実って、第12回大会(昭和15年予定)の東京招致とその2年後の第5回冬期大会の札幌招致に成功を収めるという大働きをした。しかしながら戦雲によって嘉納の努力も、東京の駒沢に11万人収容の大競技場を建設するという計画も、共に水泡に帰してしまったのである。
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