丸屋 武士(著)
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(1985/11 撮影)
 当主である第10代クレア伯(エリザベスの兄)の戦死によって、ドゥ・クレア家、グロースター伯領、ハーフォード伯領の広大な所領は、エリザベスと2人の姉の所有するところとなり、結局彼女はドゥ・クレアの財産を相続してクレア家の当主(the lady of Clare)となった。その後エリザベスは再婚したが、その翌年に夫と死別し、1321年には3度目の結婚相手をも失ってしまった。この頃から彼女はグロースター伯領の大部分をも手中にして、財産は増々大きなものとなった。慈善行為を志し、学問を愛したエリザベスは、当時財政難に陥っていたケンブリッジ大学ユニバーシティ・ホールの再建にその莫大な資産を活用し、同ホールは1346年クレア・ホール(Clare Hall)と呼ばれるようになった。通常は向かって右に配置される妻の紋章が逆の左側にあって、妻優位の紋章として知られるクレア・カレッジの紋章は、以上のような経緯を示すためであろうか。
(1985/11 撮影)
 「金地に赤色三本山形紋」として知られるクレア家の紋章は、フランス王ルイ7世(在位1137〜80)が始めて用いた「青地に金のゆり小紋」と共に、最も古い紋章のひとつとしてしばしば言及されるものである。イングランド最古の紋章としてよく例証されるのは、ソールズベリー伯ウィリアム・ロンゲペー(ヘンリー2世の庶子、1226年没)の「青地に6匹の金獅子紋」である。イングランドの紋章はそのウィリアム・ロンゲペーの祖父ヘンリー1世の頃を発生期として、エドワード2世の時代に至る約200年の間に普及、完成の域に達した。中間色やパステルカラーの使用は一切禁止され、金属色としての金(黄)および銀(白)は交互に重ねてはならず、原色(赤、青、黒、緑、紫、橙、そしてまれに深紅)の上に原色を重ねることも規定違反であるといったルールや、その他多くの規則が確立されたのである。
 余談になるが、エドワード1世が奪ってきたスクーンの石は1950年、スコットランド民族主義者によって強奪され、ウェストミンスター寺院に戻ってくるまで3ヶ月もかかった。しかしながら、スコットランドの人々にとっては屈辱のシンボルとしてのこの石は戦利品として持ち帰られてから丁度700年たったのを期に、ついに1996年スコットランドに返還され、現在はエディンバラ城に保管されている。スコットランドのイングランドに対する怨念は根強く、北海油田の発見に際しては、所有権を主張し、その経済効果によってスコットランドの独立を達成しようと宣言するグループもあったほどである。また、われわれ外人がスコットランドの人々と話をするには、極力English(イングランドの)という言葉を避け、Britishという言葉を使う方がより歓待されるといわれるのも、あながち誇張とはいえない。
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