丸屋 武士(選)
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 剣道であれ柔道であれ、上達するにつれて相手(相手の実力)を見切るのが速くなると言われている。剣道の場合、剣先が触れ合う瞬間あるいはそれ以前に、柔道の場合は互いに襟、袖を掴んだ瞬間に、相手がどれほどの者か判断できるという。直心影流免許皆伝の勝海舟は20日足らずのサンフランシスコ滞在でアメリカという国を見切ったと思う。同時にそのアメリカとの対比において徳川幕府が支配する日本という国をも勝はきっちりと見切った(見限った)のではないか。勝の一生を賭けての大問題は「欧米列強と対峙するためには日本のどこがおかしいか、何が遅れているか。」ということに尽きた。そして日本は200年を超える鎖港と封建制(門閥制)に泥み、帝国主義列強に対して国家として到底対抗し得ない状況にあった。薩摩も長州も列強(英仏蘭米等)相手に威勢のいいことを勇ましげに叫んではいたが、戦争(薩英戦争、下関戦争)が始まるとたった3日でどちらも「止戦媾和」という体たらくであった。敗戦前後、両者(薩長)共に幕府に内緒で(密航)イギリスへ留学生を送ったのが日本国のためには救いであった。後日その留学生達が日本近代化の核心となる働きをしたからである。
 長崎海軍伝習所の教官として勝や榎本武揚らに「カッテン先生」と呼ばれ親しまれていたカッテンディーケ中佐は、日本国民に「国民国家」としての意識が欠落していることを知って驚き呆れたという。長崎の一商人に長崎が脅かされた時、町民は町を防衛できるかどうか尋ねたところ「そんなことは我々の知ったことではない。それは幕府のやる事だ。」という返事で、カッテン先生はびっくりした。16世紀の超大国スペインに対して80年にも亘る独立戦争を戦い抜き、世界最初の国際条約であるウェストファリア条約(1648年)によって、正式にその独立を認められたオランダではその後200年来そんなことを言う国民は一人もいないからである。「アメリカ合衆国憲法」が制定されてからほぼ70年後にアメリカを体験(体感)した勝は、造船技術や製鉄技術、鉄道その他のインフラ整備といった表面的で到達(模倣)可能な問題とは次元を異にして、もっと根本的、根元的で100年や200年では追い付けそうもない「国民の政治意識」の差をも十分感知したはずである。明敏犀利な勝は、この最重要問題については、焦るよりはむしろ諦めに近い心境でサンフランシスコを出港し、帰途についたのではないか。


洗足池北端にある勝海舟の墓。「海舟」の字は徳川慶喜の筆によるとか。
 渡米する7年前の1853(嘉永6)年7月、31歳の勝麟太郎義邦は小普請組松平美作守支配の微禄の身分ながら「海防意見書」を幕府に差し出した。6月来航して国交を要求したペリーに対する処置に困った幕府が、諸大名や幕臣、博徒の親分に至るまで広く「意見書」を提出するよう求めたからである。その意見書の中で勝は最重要事項として次のように提言した。 「(前略)就中、御政事に携わり候お役人は、別して厳重に御人選遊ばされ、廉直にして其の志、正大雄偉の者を以て 任ぜられ候様つかまつりたく存じ奉り候。且つ又御役人ども、時に御前へ召しいだされ、天下の御政事、外寇の御所置など闘論考究仰せ付けられ候はば、自然と良籌善作湧出つかまつり、これによっておのずから言路も開け申すべくと存じ奉り候。泰平の通弊は尊卑隔絶つかまつり、下情上に達せず、自然と言路ふさがり候に御座候。故に何程の良将賢相御座候とも、下情に通達いたさず候ては、万民悦服致し候様なる御所置は相成り難き儀と存じ奉り候。故に右の所へ御注意遊ばされ、言路益々相開け候様仕りたく存じ奉り候。(後略)」
 人材を厳選して正大雄偉な人物を選び(能力主義の徹底)、言路(君主や上役などに対して意見を述べる方法・手段)を開けて、下情(社会の実態、実情)を十分認識した者が政策遂行の任に当たるよう提言した勝は日本が抱える問題の所在をきっちりと認識していた。9年後、幕臣として最下級の身分から大抜擢を受け1000俵扶持の軍艦奉行として将軍の前に勝麟太郎義邦が座るほど、幕府の危機感は高まってはいた。ところが、その会議においては「闘論考究(討論考究)」が行われるどころか勝海舟は当コーナー5頁で述べたような「いじめ」に遭ってしまった。辞書を引くと、「権威主義」とは「権威をたてにとって思考行動したり権威に対して盲目的に服従したりする態度」とある。「事大主義」を引くと「自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度」となっている。
 勝とは関わりの深い福沢諭吉は、西洋人(白人)の人種的、宗教的偏見(優越感)を「数百年来遺伝したる西洋人の個疾」と見て、この悪質な病気につける薬はないと嘆いたように、「西洋礼賛一辺倒」ではなかった。だが、千の軍艦、万の商船の背後に於ける民衆の心の発達こそが文明の発達であることを信じていた福沢が切言痛論、しばしば揶揄嘲弄する言葉を浴びせた相手は議員や役場員(公務員)ではなく無気力な(瓦石のような)個々の日本国民であった。最近(2005年)、その福沢の慶應義塾大学出版会から『戦前日本の政治と市民意識』と題する立派な本が出版された。中身は確かめてはないが、これに巻頭言を寄せた塾長安西祐一郎氏は福沢を引いて、現実の日本で身分階級が存在することの責任は、特権を行使する武士だけではなくて、それを見過ごしている市民にもある、と福沢が批判したことに言及、「人民の無知をもって自ら招く禍なり」と福沢は戒めた、と述べている。次には是非、「戦前日本の」ではなく、「平成日本の政治と市民意識」と題した本の出版が待ち遠しいところである。


曽禰達蔵(当サイト「私の散歩道」コーナー2007年8月26日参照)が設計し重要文化財に指定されている慶応義塾図書館

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