丸屋 武士(選)
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 渡辺昇(のぼり)は一説によると大佛次郎の名作『鞍馬天狗』のモデルであるという。嘉納の招待に応じて列席した渡辺は、当サイト「私の心の散歩道」コーナー(2008年2月2日付)でお話したように幕末、「神道無念流練兵館」道場において塾頭を務め、同じく塾頭を務めた桂小五郎と共に「練兵館の双璧」と謳われた人物である。維新後、明治政府に仕えて刑法官権判事、弾正大忠、盛岡県権知事、大阪府知事等を歴任、この落成式に出席した当時渡辺は会計検査院長であった。還暦を迎えた明治31年に退官し、その年、渡辺昇子爵は「大日本武徳会」8人の会長の一人に選任された。池波正太郎の短編小説『剣友』の主人公として渡辺は幕末紛糾の京都市中で何人かの刺客を切り倒している。一時、国許(肥前大村藩2万7千石)へ戻り兄の清と藩論統一や軍制改革を推進し、外にも出て坂本龍馬と行を共にし、薩長の間を周旋したという。千葉周作や渡辺の師匠斉藤弥九郎の三男である鬼歓こと斉藤歓之助、渡辺の前任の練兵館塾頭桂小五郎、いずれも長身であったが、渡辺も「体格肥大にして酒を好む」幕末から明治にかけての剛勇の一人であった。その渡辺昇の眼前で武道家として充実しきった自らの腕前(技前)を披露した嘉納治五郎は、心中愉快を覚えたことであろう。

この「靖国神社南門」を入ってすぐの左側に
渡辺昇が塾頭を勤めた「神道無念流練兵館」
道場があった。
 次に名前を挙げた品川弥二郎と嘉納は年齢差(16歳)を超えて因縁浅からぬ仲であった。品川は1857(安政4)年15歳の時、松下村塾に入門、江戸では高杉晋作、桂小五郎らと共に「練兵館」で剣術を修行し1862(文久2)年の英国公使館焼き討ち事件にも高杉や伊藤俊輔(博文)らと行を共にした。戊辰の役には奥羽鎮撫総督参謀として従軍、「宮さん、宮さん」という官軍の歌「トンヤレ節」は品川の作詞である。明治3年8月、新政府から普仏戦争視察の命を受けて品川はフランスに赴きパリ籠城軍の中にいたが、まもなくパリ陥落によってベルリンに移った。そのベルリンには既に長州藩留学生として青木周蔵がいた。青木は留学生、外交官として延べ25年ドイツに滞在、日本きってのドイツ通となり、第一次伊藤内閣の外務次官、第一次山縣内閣、第一次松方内閣の外務大臣をつとめた。品川は明治4年には短いイギリス視察旅行をしたが、「鉄血宰相」ビスマルクが君臨するベルリンに再び戻っていた。ナポレオンに蹂躙されて以来、半世紀ぶりにフランスを破って普仏戦争の戦勝気分に沸く新興ドイツ帝国の首都ベルリンに、明治6年3月、岩倉具視、大久保利通と共に長州藩の先輩桂小五郎や伊藤博文らの「遣欧使節団」が到着した。品川弥二郎は3月12日付で大日本公使館一等書記官事務心得を命じられ、翌7年には公使代理に異動した。余談ながら「遣欧使節団」一行はビスマルクにすっかり心酔して帰国したようである。一方、品川は明治8年3月には外務一等書記官に昇進して10月には帰国した。帰国後、内務大書記官、内務小輔、農商務大輔等に任ぜられた品川に嘉納は思わざることで世話を受けることになった。明治15年、講道館を創始した嘉納は翌明治16年、師匠飯久保恒年から起倒流免許皆伝を受け、飯久保の所持する全ての伝書を譲り受けたが、若輩の文学士のところに来る弟子は少なく、弟子を引き止めるのに苦労をしていた。そういう境遇での友人であり、柔道の弟子でもある村田源三のアメリカ留学に一肌脱いだのが嘉納治五郎であった。嘉納は長州藩出身の村田の留学資金を集める為に、同じ長州の品川弥二郎や長州閥の頭目山縣有朋陸軍大将に協力を仰いだ。そして村田は念願のアメリカ留学を果たし、帰国後、福島県郡山中学校校長や滋賀県彦根中学校校長を務めた。その品川が明治18年駐独全権公使としてベルリンに赴任するに際し、麹町区富士見町の屋敷(敷地約1000坪)と建物を使ってくれるよう嘉納に申し出て、講道館の歴史において最も活発な研究が行われた「富士見町時代」となったのである。時は流れて、明治25年3月、第二回総選挙がおこなわれ、内務大臣品川弥二郎が九州佐賀に遊説することになった。これに対し野党が武力をもって品川を襲撃するという噂が流れ、この時、熊本の第五高等中学校(五高)校長であった嘉納は書生風に変装して佐賀に向かった。身をもって品川を護るつもりであったという。結局暴力沙汰は起きなかったようであるが、この選挙に対する激しい干渉の咎めを受け品川は内務大臣を辞任することになった。


江戸城田安門近くに建つ品川弥二郎の銅像

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