丸屋 武士(選)
    5     10
 16世紀はスペインの世紀、17世紀はオランダの世紀と言われている。言うまでもなく20世紀はアメリカの世紀であり、世界大戦の世紀であった。21世紀は果してどうなるのか、環境や食料を含む資源の問題が切迫してきて、人類そのものが存亡の危機に瀕し、世界は怪しい雲行きである。当サイト卓話室Uのシリーズ13でも言及したが、第二次英蘭戦争が終結して、1667(寛文7年、徳川家綱の世)年9月、ブリュッセル駐在イングランド公使ウィリアム・テンプルは、誤解を受けないように正式な休暇を取った上で昨日までの敵国オランダへ視察旅行にでかけた。妹のマーサ(ジファード夫人)が評判の国オランダを見たいと言い出したからであるが、アムステルダムでテンプルが観たものは想像を絶するものであった。国際法や近代哲学の基礎、数学や物理学、臨床医学等々に輝かしい進歩がもたらされたオランダでは、国家の最高責任者デ・ウィットやオランダ海軍の最高責任者デ・ロイテル提督がお供も従えず一人でハーグの街をテクテク歩いていた。「信仰の自由」と「政治的自由」が確立され、とりわけオランダ人が最も重んじている「政治的自由」の実態にふれたテンプルは驚愕した。公(おおやけ)の事柄について人々が何の遠慮もなく、あらゆる事を真剣に議論していたのである。東洋であれ西洋であれ他の国であれば、たちまち鞭打ち、あるいは話の内容によっては死刑という事態を招いた時代である。

江戸城桔梗門
 195年後の1862(文久2)年8月、日本は江戸城において将軍家茂の御前で陸海御備向(おんそなえむき)取調御用の会議が開かれ、22名の担当部局の者以外に、老中、若年寄、大目付、目付、御勘定奉行、講武所奉行、軍艦奉行らが出席した。軍制改革の一環として、順次軍艦三百数十を備え、幕臣を以てこの操練に従事させ、東西南北の海に軍隊を置くという方策が発表され、この策を全うするにはおよそ幾年を要するか、と筆頭老中水野和泉守(出羽山形藩主)が列席者にたずねた。席中誰一人声を発する者がなく、ついに末席にいた軍艦奉行勝海舟が指名されると、将軍が「それへ」と声を発した。声に応じて勝は立ち上がって前に進み、平伏してから「申し上げ奉る。五百年の後にあらざれば、軍艦三百数十の全備はなりませぬ。五百年でござりまする。如何にも軍艦は幾年を出でずして整いますでござりましょう。しかし、その従事の人員は決してその幾年の間には出来ぬのでござります。いや、ただ人の数だけは出来も致しましょう、その習熟、その鉄石の魂、これがどうしてその数年の間に出来ましょう。かの英国さえ三百年の歳月を費やして、漸く今日に到りしもの。・・・・」等々と陳述した。勝のこれらの言葉に誰も反駁する者がなく沈黙が続いて、とうとう将軍は席を立ってしまったという。


江戸城二の丸庭園
 そしてこの直後に勝は大目付らに別室に呼びつけられ、大目玉を食った。勝の陳述に対する政策的あるいは技術的反論や苦情は一切なく、問題は将軍が「それへ」と声をかけた時には匍匐膝行蠢動してから発言するのが柳営の慣例であり、立ち上がって席を移した勝は慣例無視の無礼者ということであった。これでは大目付主催の単なる「いじめ」ではないか。その余力を次第に東洋の果てに伸ばして来る帝国主義列強に対する情報収集、情報分析の能力もなく、封建領主(大名)や旗本が大目付だの目付けだのと親の身分を承継して幕閣に名を連ね、しかも情報収集、情報分析の中心機関を「蕃書調所(ばんしょしらべどころ)」とか命名するような低劣な認識の持ち主が大多数であった。これが小普請組40俵扶持から、大抜擢の1000俵を頂く軍艦奉行勝海舟を取り巻く当時の「世の中」(俗)であった。勝はこの2年前、咸臨丸を指揮してアメリカへ渡りサンフランシスコ周辺に20日足らずの滞在をして、アメリカ合衆国を体感、体験しており、日本社会に横行するこのような「権威主義」、「事大主義」には臍が茶を沸かす(ちゃんチャラおかしい)思いがしたのではないか。勝が咸臨丸でアメリカへ渡る10年前、既に英仏海峡には海底電線が敷設されていた。

    5     10