丸屋 武士(選)
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 嘉納が数多の来賓の中から敢えて名前を挙げた三人のうち、嘉納の人生に最も大きな影響を与えた人物は勝海舟である。文学部第二回生(同期生6名)として東大を卒業し、学習院に奉職した嘉納治五郎は旧知の勝海舟を訪問して、「暫く学問に没頭しようかと思う」と言ったところ、勝は「学者になろうとするのか。それとも社会で事をなそうとするのか。」と聞いた。嘉納は「後者です。その為しばらく必要な学問に集中しようと思います。」と答えたが「それはいけない。それでは学者になってしまう。事をなしつつ学問をなすべきだ。」と勝が忠告したという。爾来、嘉納は実地実際の事柄からものを考え、必要に応じて本を読む、という実学主義の立場に立ってユニークかつ世界的レベルの業績を上げ、「講道館柔道」は世界に900万とも2000万とも言われる競技人口を擁して、今や地球文化の一端を担う存在となった。ロシアのプーチン氏は自宅の一室にブロンズ製の嘉納治五郎の像を安置して毎朝拝み、得意技は巴投げであるという。余談になるが、あのピョートルやエカテリーナを連想させるような絶対的な力を有するプーチン氏は、もはや「プーチン雷帝」という感じではある。「ハジメ」「マテ」「イッポン」「セオイナゲ」「オオソトガリ」等のように日本語が世界語となっている事例は他にはなく、このような事を成し遂げた日本人は嘉納治五郎以外には見当たらない。
 当コーナーのシリーズ11で詳述したように古流柔術を基に画期的イノベーション(技術革新)を成し遂げた嘉納は、その講道館柔道の技の名称についても新たな工夫をした。大内刈り、小外掛け、送り足払い、或いは払い腰、跳ね腰、釣り込み腰のように、素人にも判りやすい名称を用いた。これに対し、門外不出、秘密主義の古流柔術においては、岩波、柳雪、打砕(うちくだき)、山颪(やまおろし)等々、素人にはどのような技なのか全く見当がつかない名称が使われていた。近代的な用語ばかりでなく、嘉納が掲げた「精力善用、自他共栄」と言う理念は「オリンピック憲章」「国連憲章」にも引けを取らない立派な理念ではないか。序に言えば、オリンピックその他、世界で広く行われているスポーツに用いられる用語は殆ど英語、たまにフランス語であり、彼我の文化力あるいはソフトパワーの差は余りにも隔絶している。文化力あるいはソフトパワーの差を画然と示しているのがその国に集まってくる留学生の数ではないかと思う。

勝海舟の墓がある大田区千束、洗足池北端の桜
 自らの生涯をも支配する決定的影響力を及ぼした勝海舟という人物について、嘉納はいわゆる「維新三傑」との対比において次のように述べている。「木戸の識、大久保の断、西郷の量、三者相俟ってここに天地を旋転する大業が成就せられたのである。世に彼等を尊んで維新の三傑と称するも亦偶然ではない。当時彼等三傑が同心戮力して経国の大業を建てつつあった時に、他の一面においては、奇傑勝海舟のごときがあって、よく時艱を済うた。海舟人となり雋異(俊異とも書くー筆者注)卓抜、其の炯々たる眼識はよく時局を大観し、機略縦横、死生の境を行くこと平地の如く、終に幕府をして恭順の実を挙げしめ、生民をして塗炭の苦を免れしめたのであった。」(青年修養訓)
 その勝と治五郎の生家である神戸・灘の嘉納家には深い因縁があった。徳川幕府軍艦奉行勝海舟が仕事で嘉納家を訪れた日にその母屋ではお産があり、生まれた子供は勝海舟にあやかって勝子と命名された。作家志賀直哉や武者小路実篤らと親交のあった文芸評論家柳宗悦の母がこの嘉納治五郎の次姉勝子である。当サイト「私の心の散歩道」コーナー (2007年3月18日付)でも言及したように、学習院出身のこれら白樺派と呼ばれる文芸家や陶芸家バーナード・リーチらが集まって我孫子市の手賀沼北辺が「北の鎌倉」と呼ばれるようになったのは、嘉納が明治44年ここに別荘を建て、嘉納の誘いで甥の柳宗悦がその隣に「三樹荘」という別荘を建てたことが発端である。嘉納家の三男として治五郎(幼名伸之助)は神戸・灘の「千帆閣」と呼ばれる豪壮な邸で生まれたが、治五郎の父、治郎作は実は近江坂本にある日吉大社の神官、生源寺希烈(まれたけ)の次男であった。由緒ある家の次男として諸国遍歴の旅に出た生源寺希芝(まれしば)は東灘・御影村の酒造家嘉納治作の邸に暫く逗留した。頼まれて『論語』の講義などをするうちに、その人柄を見込まれ、懇望されて治作の長女定子の婿養子となり、嘉納治郎作と改名した。日吉大社は比叡山延暦寺の守護神であり、山王権現とも呼ばれ全国にある日吉、日枝、山王神社の総本宮でもある。そこの神官として、和・漢・仏に通じた父希烈の薫陶を受け希芝も漢学に通じ、絵もよくしたという。フリー百科辞典『ウィキペディア』の「嘉納財閥」を参照すると清酒「菊正宗」「白鶴」等を生産する本嘉納、白嘉納と称されている嘉納財閥の本嘉納の一族である治五郎の祖父治作には実子もあり、治郎作(希芝)は敢えて酒造家としての家督は継がずに自らは外に出て、回槽業その他手広く事業を営むようになった。江戸と阪神を結んで日本初の洋式船舶による定期航路を開設運営して貨客を運搬し、軍艦奉行勝海舟の命によって兵庫和田岬砲台の建設を請け負い完成させたのも幕府御用達嘉納治郎作であった。明治の世になり、日本海軍の創設者勝海舟の意を受け、嘉納治郎作は海軍のテクノクラートとして、その邸には常に十人以上の使用人がおり、その中に秘書として仕えていたのが富田常次郎であった。講道館初の黒帯取得者であり、草創期の「講道館四天王」の一人である富田常次郎(小説『姿三四郎』の著者富田常雄の父)の柔道人生は5歳年上の坊ちゃまの格闘のお相手をすることから始まったのである。


勝の墓前に供えられた手水鉢に刻まれている嘉納治五郎の名前

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