丸屋 武士(選)
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7年間におよぶ国際連盟事務次長の大任を終え、
ジュネーブより帰朝した新渡戸夫妻
(昭和2年)
『日米のかけ橋−新渡戸稲造物語』堀内正己著
(彩流社)1981年刊より

1920(大正9)年、59歳の新渡戸は国際連盟事務次長に就任、スイスのジュネーブに赴任して65歳で退任するまで洗練された英語で見事な活躍をした。公務の合い間にヨーロッパの著名な新聞や雑誌に寄稿した評論は、その筆致の巧妙と論旨の高遠とによって新渡戸稲造をヨーロッパ論壇の大家の一人に押し上げた。

 金子男爵は、「日出ずる国」の人ではあるがハーバード大学出身であることはつとに知られている。「血は水よりも濃い」というが、大学時代の血はますます濃いと言うべきである。ことにフットボールで共に遊び、古文の講習を一緒に受けて、ストーリーあるいはラングデールといった著名な学者の薫陶を受けたからにはなおさらである。静かに男爵の演説を聞いて日露両国の態度を考えると、我々は、はしなくも『イソップ物語』の熊と羊とを思い出してならない。統計をあげて事実を明らかにし、自ら是非を言わずに人を判断させようとするのが金子男爵の演説法である。ことに25年間も使わなかった外国語を使って見事に演説を終了した。この成功は誠に偉大である。金子男爵が我々に教えたものは、聴衆をして弁士が故意に言わなかったところをくみ取らせる寓意的演説法である。我々はあえて我が国大学における修辞学の教授にすすめるとは言わないが、学生諸君はこの方法について深く学ぶべきではないか。言わないことを言い、語らないところを語るのが男爵の真意だったのであろうか。そうであるならば、あのシェークスピアのマーク・アントニーは日本雄弁術のために凌駕されたというべきである。


 全米にその名が知れ渡った雄弁家金子堅太郎の注目度をいやが上にも増したのが満州の野におけるその後の日本陸軍の連戦連勝であった。1905(明治38)年3月10日、日露戦争陸戦の最大最終となった奉天大会戦にも日本は勝利し、はるばる極東に向ってくるバルチック艦隊の行き先と日本国の行く末に米国民ばかりでなく世界中が耳目をそばだてていた1905(明治38)年4月2日、金子の雄弁家としての声望を決定的にした演説が行われた。この日、大実業家アンドリュー・カーネギーが私財を投じて建設したニューヨークのカーネギー・ホールで行われた単独演説会で、金子は1時間半にわたり3000人余りの聴衆を感動させる名演説を行った。その反響は凄まじく、演説要旨は翌日から5、6日かけて東部ばかりでなくシカゴやセントルイスの新聞にまで掲載されたという。余談になるがカーネギー(特にその妻)は日露戦争の最後まで日本に好意を寄せず、ロシアシンパであった。


晩年の新渡戸夫妻
『新渡戸稲造』
松隈俊子著(みすず書房)1981年刊より

『Bushido』はアメリカで出版されると間もなくドイツ、ポーランド、ボヘミア、ロシア、イタリア、スウェーデン、ノルウェー、インドなどの諸国で次々と出版されて同書は世界的ベストセラーとなった。新渡戸の愛弟子の一人であり、後年『武士道』(岩波文庫)の日本語への翻訳者となった矢内原忠雄(後に東大総長)はその序文で、「明治32年といえば日清戦争の4年後、日露戦争の5年前であって、日本に対する世界の認識のなおいまだ極めて幼稚なる時代であった。その時に当たり博士が本書に横溢する愛国の熱情と加うるに該博なる学識と、雄勁なる文章とをもって日本道徳の価値を広く世界に宣揚せられたことは、その功績三軍の将に匹敵するものがある」と述べている。

 日露開戦と同時に渡米し、正に獅子奮迅、その働きは三軍の将にも匹敵する大働きをした金子堅太郎活躍のもう一つの要因はハーバード倶楽部(ハーバード大学同窓会)であった。今ここで、このハーバード倶楽部を機縁として金子とルーズベルトの縁を取り持ったビゲローについてもう少し注目したい。前シリーズ(シリーズ13)の9頁でお話したように金子堅太郎は帝国議会開設のための英米視察旅行の途次、当時31歳のセオドア・ルーズベルトをワシントンの宿舎に訪問し、ハーバードの同窓生として初対面の挨拶をした。1889(明治22)年秋のことであり、この時金子はビゲローがしたためてくれたルーズベルト宛ての紹介状を手にしていた。結果として近代国家日本にとって最も貴重な交遊関係の仲立ちをしたビゲローであった。
 だが、日本にとってのその大きな貢献はこれに止まるものではなく、ビゲローはフェノロサ、岡倉天心等との交遊を通じて明治の美術運動に多大の経済的援助を与えた上、美術と宗教を中心にアメリカにおける日本文化の先駆的紹介者となったのである。しかもビゲローが日本文化の真髄を最もよく伝えた相手は他ならぬセオドア・ルーズベルトであった。
 ウィリアム・スタージェス・ビゲローは1850年、ハーバード大学医学部教授を父とし、東洋貿易の開拓によって巨万の富を得たウィリアム・スタージェスの末娘を母としてボストン市に生まれた。地元の小学校を経て私立ディックスウェル校に入学し、ギリシャ、ラテンを中心とするいわゆる古典教育を受けた。この私立校において後の上院議員ヘンリー・キャボット・ロッジと友達になり、共にその後ハーバード大学へ進学して1871(明治3)年これを卒業した。前シリーズでお話したようにロッジ家はアメリカ政界屈指の名門であり、このヘンリーとセオドア・ルーズベルトは生涯の親友であった。続いてビゲローは父の意向を汲んだのかハーバード医科大学に進んで1874(明治7)年に卒業し、当時の風潮にならってヨーロッパに留学した。ドレスデンでドイツ語を修めてから、ウィーン、ハイデルベルグ、ストラスブルクを経てパリのパスツール研究所で細菌学を1年間勉強した。29歳になり5年間のヨーロッパ留学を終えて1879年モロッコ経由で帰国したビゲローは、父の意向でマサチューセッツ総合病院外来外科医兼ハーバード医科大学助手というポストについた。1、2の学術論文を上司と共同で発表したビゲローは2年後(1881年)、健康を害して医師としてのキャリアーを断念した。3歳で母を失ったが大富豪の一人息子として不自由のない生活を送り、親類縁者から「ヨーロッパに憧れ」、「故郷ボストンと医者の職業に帰りたがらない」と揶揄されていたビゲローが1882年(明治15)年6月5日、「生涯の分岐点」となった航海を終えて上陸したのはヨーロッパではなく、日本の横浜であった。5年間のヨーロッパ留学中にビゲローは当時のパリで流行になっていた浮世絵、根付等の輸入日本美術品にひかれ、イタリア旅行中には日本刀をも購入したという。だがビゲローの目をヨーロッパから日本に向けさせた直接の契機は動物学者モース(大森貝塚の発見者)がボストン市内で行った日本についての講演であった。一時帰国中の東京大学医学部教授エドワード・モースの3度目の来日の道連れとしてビゲローは来日することになった。

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