丸屋 武士(選)
 2        10 11 12


ホワイトハウス前に立った山下夫妻(中央の2人)
『柔道百年の歴史』
(講談社)1970年刊より

 「ホワイトハウス日本人物語」とでも題すべきこのような出来事に至るまでの山下、竹下両人の足跡をたどる時、人の世の不思議な縁というものを実感せずにはいられない。幕末、小田原藩武術指南役の家に生まれた山下義韶は20歳になった1884(明治17)年、嘉納治五郎の家塾「嘉納塾」への入塾を認められ、柔道修行と共に、英語の修行にも励み、2年後には講道館幹事に任命された。元旦から大晦日まで年中無休、しかも1日数時間休むことを許されないぶっ続けの猛稽古を続けることによって柔道家としての天倫の才に磨きがかかった山下は、24歳にして東京帝大と海軍兵学校の柔道師範に任命された。1年後(明治22年)、山下は海軍兵学校師範を辞するかわりに柔道師範の最高峰とでも称さるべき警視庁柔道師範を拝命した。明治26年、29歳の山下は柔道家として益々脂が乗り、海軍大学柔道師範にも任ぜられると共に、慶応義塾の柔道師範をも引き受けることになった。この慶大柔道部師範と海軍大学柔道師範という二つの役目が、1904(明治37)年3月のホワイトハウスにおける出来事に繋がろうとは、山下は夢にも思わなかったであろう。


ワーズワース夫人と山下筆子
『柔道百年の歴史』
(講談社)1970年刊より

 まず、海軍大学柔道師範として山下は当時海軍大学(丙種)在学中であり兵学校における柔道を通じて顔なじみの竹下勇海軍少尉(海兵15期)の柔道を鍛えた。海軍兵学校では入学後柔道と剣道を共に履修し、6ヶ月経ってから柔道か剣道どちらかを選んで必修課目として継続する規則であった。改めて説明すると、明治21(1888)年、東京は築地から広島県江田島に移転した海軍兵学校の江田島最初の卒業生(海兵第15期)には前述の竹下勇(後に連合艦隊司令長官、海軍大将)のほかに岡田啓介(後に首相)、財部彪(後に海相)そして広瀬武夫(日露戦争で戦死)らがいた。因みに、数学を得意とした竹下の卒業成績は3番。1番は財部であった。この中の広瀬、財部は築地に兵学校があった頃講道館門下生として嘉納から柔道の指導を受けていた。この二人と既に兵学校教官となっていた八代六郎(同じく講道館門下生で後に海軍大将)とが、海軍兵学校に柔道科を設置することを当時の校長に献言した。そして海軍兵学校柔道科の教師として最初に派遣されたのが山下義韶と佐藤法賢であった。軍歌「同期の桜」が有名な江田島海軍兵学校は発展してその後世界三大兵学校の一つとなったが、学校として日本初の正課に講道館柔道が採用されたことによって日本海軍に優れた柔道家を輩出し、講道館の発展にも大きく寄与することになった。明治30年、竹下は再度海大(甲種)に入学し、当然柔道は山下の指導を受け翌年卒業して砲術学校教官に任ぜられた。一方、慶大柔道部師範としての山下の自宅には稽古帰りの慶大柔道部学生が何人もたむろして、あたかも梁山泊の様相を呈したという。その慶応柔道部OBの柴田一能かずより二段がアメリカのエール大学へ留学することになった。柴田の壮行会において山下は「自分もできれば海外に出たい。日本の優れた文化を世界に知らしめたい。自分としては世界に誇るに足る講道館柔道を、アメリカに広めることに尽力したい」と柴田に語ったという。そして妻の筆子にも柔道を手解てほどきしようと思っているとも言ったという(この頃講道館は女子の稽古を許していない)。この山下の言葉を覚えていた柴田一能は、渡米後ニューヨーク日本人会会長・古谷政治郎を介して当時鉄道王とよばれていたグレート・ノーザン鉄道社長ジェームズ・J・ヒルの養子と親しくなった。ある日ヒルの屋敷で息子に対して柔道の模範演技を示していると、ヒルから「息子に武士道的な教育を施したいのだが」と相談を受けたという。柴田は迷わず恩師山下義韶に連絡を取った。1903年(明治36)年9月嘉納治五郎の許しを得て警視庁柔道師範の職を辞した山下は妻筆子を伴い太平洋を渡った。ところが到着したニューヨークのヒルの屋敷では「こんな危険な稽古を自分は承知していない」というヒル夫人の頑強な反対によってヒル令息に対する柔道の指導は中断を余儀なくされてしまった。その後いろいろあったが、山下はヒルの尽力によってワシントンの社交界に紹介され、その妙技を認められてアメリカでの最初の地歩をワシントンに築くことができた。とりわけ柔道にわか仕込み(形の反復練習のみ)の妻筆子はその気性も明るく他人に好かれて、南軍の将リー家の孫娘達も弟子入りして筆子の護身術の指導を受けるようになったという。南北戦争が終わって50年、国家としてその傷も癒え、急速に工業化、都市化の進むアメリカ合衆国、そしてその首都ワシントンでの出来事であった。山下夫妻にとって何にも増して力になったのが、稽古場を自らの屋敷内に提供したワシントン社交界の花形(重鎮)ワーズワース夫人であった。そのワーズワース夫人の引きによって柔道家山下義韶はセオドア・ルーズベルト大統領の知遇を得ることが出来たのである。

 2        10 11 12