丸屋 武士(選)
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札幌農学校生徒時代
(1879年8月25日撮影、18歳)
右端が新渡戸稲造、その左が佐藤昌介(後に
北海道帝大初代学長)
『新渡戸稲造』
松隈俊子著(みすず書房)1981年刊より

札幌農学校2期生として内村鑑三らと共にホイーラー教授の指導を受けた新渡戸稲造は明治16年9月東京大学文学部入学に際し外山正一教授の面接を受けた。大学で何をやりたいか問われた新渡戸は農政学以外に英文学を習い太平洋の橋になりたいと答えたという。冷笑する外山に新渡戸は「日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に普及する媒酌になりたいのです」と述べ、以後外山の懇切な指導を受けたという。翌明治17年新渡戸は発奮して東大を退学、アメリカに私費留学し、アレゲニー大学に一ヶ月いてボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学に転学した。当時、アカデミックな水準において全米一と評価された同大学大学院における新渡戸の級友の中に、後にプリンストン大学総長からアメリカ合衆国第28代大統領となったウッドロー・ウィルソンがいた。

 再び話を日露戦争に戻すと、15年ぶりに運命的再会を果たした金子堅太郎に対してルーズベルトはすぐに暖かい手を差しのべ、再会した2日後1905(明治37)年3月28日、金子をホワイトハウスに招待し昼食を共にしながら本格的に会談してくれた。その席でルーズベルトは、日本人の性格や精神形成の原動力となるものを知ることができる書籍があれば教えて欲しいと依頼した。これに対して金子は、新渡戸稲造博士の『武士道』(”Bushido,the Soul of Japan”)と英国人イーストレイキ(F・Eastrake)の著書『勇敢ナル日本』(”Heroic Japan”)の二書を挙げたという。それから2ヶ月後の6月6日に再々度ホワイトハウスから招待を受けて金子が午餐会に臨んだ折、ルーズベルトはその読後感を次のように披瀝したという。「先般拝受した書の中で『武士道』は最もよく日本人民の精神を写し得ている。予はこの書を読んで始めて日本国民の徳性を知悉することが出来た。そこで書店に命じて30部を購求し、友人に頒布して閲読させ、また自分の5人の子供に各々1部を配布して、日常この書を熟読し、日本人のように高尚優美な性格誠実・剛毅な精神とを涵養するように申付けた。」その後の金子は一年有半のアメリカ滞在中に午餐会や深夜の単独会見によるルーズベルト大統領との会談を前後十数回も重ねた。大統領の心をしっかりと掴んでアメリカ訪問の第一の目的である「ルーズベルト大統領との親交を深めること」は、十二分に達せられた。


札幌農学校教授時代の新渡戸夫妻
『新渡戸稲造』
松隈俊子著(みすず書房)1981年刊より

1906(明治39)年、45歳の新渡戸は東京帝国大学農学部教授と兼任で第一高等学校(一高)校長に任ぜられ、3年後には東大法学部教授をも兼任した。1918(大正7)年、東京女子大学が創立されてその初代学長に就任した。

 そして金子渡米の第二の目的である「アメリカ世論の対日友好親善化を計る」という困難な課題は、主として金子の卓抜した英語力と天性の機略とによって十分に達成された。少くとも日露戦争終結までは、アメリカ国内に日本政府首脳が最も恐れていた黄禍論的世論が盛り上がることはなかった。広報外交全般におけるロシアの戦略との対比等の問題を措いて、演説家としての金子堅太郎の成功は正に衝撃的とも言えるものであった。その卓越した演説を背後から支えたものは、聖書をはじめとする西洋古典についての広範な知識と、8年にわたる留学生活で培ったアメリカ社会に対する深い洞察である。就中、欧米社会に伏在する通奏低音のような「黄禍論」に対する金子の論陣は周到にして鋭いものであった。ルーズベルトと前述の二回目の会談の後、金子は手始めに母校ハーバード大学を寄る辺とする広報活動を開始した。金子がルーズベルトと再会した3月26日の翌日、日本海軍は第二次旅順口閉寒作戦を敢行するが、失敗して前ページで紹介した講道館柔道の猛者広瀬武夫少佐はここで壮烈な戦死を遂げた。だが4月13日、日本海軍が敷設した機雷にその乗艦が触れた旅順艦隊司令官マカロフ中将という名将をロシアは失った。こういう背景において1904(明治37)年4月28日、金子は母校ハーバード大学サンダース講堂(劇場)における2時間超の大演説によって、傑出した雄弁家としての資質を遺憾なく発揮した。この演説の要旨は数日のうちに全米の新聞紙面を賑わし、地元の『ボストン・ヘラルド』紙は5月2日の社説において大要次のように金子演説を絶賛した。(傍線筆者)

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