丸屋 武士(著)
貫徹せり、オランダの世紀−国士ウィリアム・テンプル−
底深い精神文化
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アムステルダムの風景(背景の尖塔は南教会)
 (2004/12撮影)
 オランダ話の最後に来て話はあちこちに飛ぶが、比企尼やマーガレット・ボーフォートに言及した上は、本編の主人公ウィリアム3世の祖母アマーリアと曽祖父ウィリアム1世の母ユリアナという傑出した二人の女性についても言及せねばなるまい。アマーリアの息子、オランダ連邦共和国総督、オレンジ公ウィリアム2世が天然痘に罹って24歳で急死し、その遺体の埋葬も済まないうちに誕生した孫のウィリアム3世は、どちらかと言えば身体強健な子供ではなかった。政略により10歳でイギリスから輿入れして来た嫁のメアリーはオランダ語を学ぼうともせず、実家(スチュアート王家)をかさに着て権高なところがあり、当然嫁姑の関係はしっくりしたものではなかった。ウィリアムが10歳の時、母メアリーは1歳年上の兄イングランド国王チャールズ2世を訪ねて渡英したが、イギリス滞在中に病を得てそのまま不帰の客となってしまった。オランダ衆民に不人気のメアリーではあったが、ウィリアム少年にとって母を失ったことは痛手であり、祖母アマーリア、教育係ザイレステイン、あるいは幼友達ベンティングら周囲の人々の気遣いもまた察せられるところである。オレンジ家と共和派(議会派)との関係は既にウィリアム2世在世中から険悪なものとなっていた。シリーズ12で述べたようにオレンジ家に挑戦的態度を取るデ・ウィットの父その他共和派の議員6人をクーデター的な挙に出て一斉逮捕したウィリアム2世は、天然痘で急死しなければ共和派の人々を処断したであろうことは間違いない。そのような動きに対する反動も大きかったか、既述のように4歳にも達していないウィリアム3世は「完全なる共和体制」あるいは「真の自由」を求める共和派によって父祖伝来の総督位を剥奪され、辛うじて母と共にビネンホフ宮殿に暮すことを許される境遇になってしまった。いわゆる無総督時代となってからデ・ウィットを中心とした共和派に対するアマーリアの気配り、手配りは並大抵のことではなかった筈である。18歳になったウィリアムが公的生活への参加を志すようになり、オレンジ家の本拠地の1つであるゼーラント州の総督就任に意欲を示したことがあった。その時、アマーリアとハーグ駐在イングランド大使、本編のもう一人の主人公ウィリアム・テンプルが、この時点においてデ・ウィットと決定的に事を構えることの不利を説き、両者の助言に従ったウィリアムは事なきを得た。それから3年もしないうちに圧倒的なフランス軍が侵攻して来て、「敵がエイセル川を越えたら自分は死んだものと思って欲しい」と言い置いて出征した孫のウィリアムを、アマーリアはどのような思いで見送ったことであろうか。
 アマーリアが出征するウィリアムを見送った時からおよそ100年前、ウィリアムの曽祖父「オランダ建国の父」オレンジ公ウィリアム1世(別名ウィリアム沈黙公)はフェリペ2世配下のスペイン領ネーデルラントの執政アルバ公の暴虐からオランダ民衆を救うために兵を挙げた。1568年、先祖伝来の宝石、銀食器等々を売り払い、荘園その他を抵当に入れた資金を投入して3万の兵を集めることができた。一方のアルバ公は自らの父が異教徒ムーア人との戦いで戦死したせいか、異教徒、異端に対しては容赦のない惨い戦(いくさ)をしたが、冷徹犀利な人物であり、無用と思う戦闘は、たとえ卑怯と呼ばれても避けるという自制心のきいた名将であった。そのアルバ公率いるスペイン軍に対するウィリアム軍(オランダ独立軍)の戦いは戦闘というよりはスペイン軍による一方的殺戮の様相を呈し、程なくしてウィリアムは中途半端な戦闘で8000の兵を失うという危機的状況に陥った。結局3万の兵の給料は軍需物資を抵当にして支払っても足りず、将来の支払を約束して軍を解散し、ウィリアムらは一旦ドイツへ引き揚げる仕儀となってしまった。この時ウィリアムと行動を共にしたのはオランダ兵1200人と3人の弟(次男ルートヴィッヒ、四男ハインリッヒ、五男ヘンドリック)であった。あくまで剽悍精強なスペイン軍に対して、お先真っ暗、最悪の状況に置かれたこのオランダ独立軍の士気を鼓舞し、支援してくれるドイツ諸侯にアピールするため作られた歌が本シリーズ11頁末尾で紹介する「ウィルヘルムス」である。18歳の五男ヘンドリックは大学を中退して長兄ウィリアムの義勇軍に加わっていた。三男アドルフはフリースラントの戦いで、2500のスペイン兵を指揮するアレムベルク伯に切り倒されて戦場の露と消えていた。アレムベルク伯は深追いがたたってオランダ軍に敗れ、その恥辱を雪(そそ)ぐためには自らの死をもってする以外にないことを悟って挑んできたのであった。純情なことで知られていたアドルフは健気にも騎士道の作法に従い一騎打ちに応じ、ピストル弾1発を見舞ったが切り倒されてしまった。残されたアドルフ麾下(きか)の兵卒は忽ちアレムベルク伯を屠った。独立戦争の絶望的な艱難に立ち向かい煩悶するウィリアム1世の弟達に対して、五男七女の母ユリアナは手紙によって「全てを神の手に委ねて、ひたすら正しい行動を貫くこと」を教え、励ましていたという。次男ルートヴィッヒと四男ハインリッヒもその後(1574年)モークの戦いに斃れた。
オレンジ公ウィリアム2世像
ハーグ市ビネンホフ宮殿前
 (2004/12撮影)

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