丸屋 武士(著)
貫徹せり、オランダの世紀−国士ウィリアム・テンプル−
底深い精神文化
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ケンブリッジ大学トゥリニティ カレッジ中庭
大門楼(入口)より右手(中庭北側)を見る
 (2004/12撮影)
 アイザック・ニュートンは1661年ここに入学してフェローに選ばれた。本編の主人公ウィリアム3世の結婚から、イングランド国王としての勢威が最も高まった時期と重なる期間(1679年から1696年)、この一画にニュートンは起居して研究に励んだ。中庭の隅にあるリンゴの木は、ニュートンの故郷リンカーンシャーにあったリンゴの木の何代目かに当り、1951年ここに植えられたものである。
 斬刑梟首(きょうしゅ)と決まっていた頼朝は、平清盛の継母池禅尼の助命嘆願によって伊豆配流となった。静岡県伊豆の国市韮山で、頼朝は20年もの間、表向きは平家に処断された父義朝や兄義平らの菩提を弔うために、平家の監視下で読経三昧の「流罪人」としての生活を強いられた。頼朝には誕生と同時に、父義朝が選んだ数人の乳母がつけられたが、殆どが関東各地の豪族の妻たちであった。その中の一人である比企尼(ひきのあま)が歴史上果たした役割というべきか「働き」は本シリーズ1の主人公マーガレット・ボーフォート(エリザベス1世の曾祖母)を彷彿とさせるものがあった。現在の埼玉県東松山市大谷バス停の近くにあるこんもりとした雑木林が比丘尼山(びくにやま)と呼ばれているが、この辺りから伊豆の韮山まで毎月1回食料等(米麦金員等)を20年の長きに亘って届けさせたのが比企尼である。食糧ばかりでなく頼朝にとって重要なことは、平家の動向や各地の豪族等に関する「情報」であったと思われる。埼玉県比企郡の領主であった比企遠宗の妻として比企尼は毎月食糧等を届けさせたばかりでなく、自らの3人の娘たちとそれぞれの夫である安達盛長、河越重頼、伊藤裕清を頼朝の身辺にやって、身の回りの世話(近侍)をさせた。河越重頼夫妻の娘は後に義経の正妻郷(さと)御前となる。「平家にあらずんばひとにあらず」と言われる程の世情の中で、これらの人々はどのような苦心、工夫をしたものか、並の人間にはせいぜい3、4年がつきあいの限界というところであろうか。逆風の中、「日本初の武家政権」を樹立させた堅忍不抜の士の20年にわたる努力の中心人物が頼朝の乳母比企尼であった。
 隠忍自重の20年という歳月を経て、ついに治承4年(1180年)8月、源家の頭領頼朝が平家打倒に立ち上がった時、頼朝の手勢はわずか10人程であった。そのたった10人の手勢のうち4人が近江源氏佐々木四兄弟である。平治の乱に義朝の下で戦って敗れた近江源氏佐々木秀義は義朝の首が京の都に晒されるという状況の中、奥州藤原氏を頼りに東国まで来た。その武勇に魅せられた相模国渋谷荘の豪族渋谷重国のすすめに従って秀義は次男経高、三男盛綱と共に渋谷氏の許で暮すことになった。長男定綱は栃木県の宇都宮氏に寄宿し、幼い四男高綱は本拠地京都の身内に預けていた。比企尼からの連絡によって頼朝の流人暮しの実情を知った秀義は、我が子4人がそれぞれ成人するのを待って次々と頼朝の許へ送って仕えさせるという献身ぶりであった。8月17日の夜、伊豆の目代(県知事のような存在)山木兼隆の屋敷を襲った義父北条時政の30人程の手勢以外に、頼朝の側に残った10人の中から三男盛綱を頼朝の親衛として残した佐々木兄弟はたった3人で目付(警察署長のような存在)堤権守(つつみごんのかみ)の屋敷を襲撃し、堤の首を討ち取った。煌々たる満月の下、塀によじのぼった次男経高の放った矢は母屋の玄関の板戸を突き抜け、史書『吾妻鏡』に、「源家、平氏を征する最初の一箭なり」と記された。
ケンブリッジ大学トゥリニティ カレッジ
大門楼(入口)より左手(中庭南側)と噴水をのぞむ
 (2004/12撮影)

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