丸屋 武士(著)
貫徹せり、オランダの世紀−国士ウィリアム・テンプル−
底深い精神文化
(2005年7月)
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ケンブリッジ大学トゥリニティ カレッジ大門楼(正門)
 (2004/12撮影)
 トゥリニティ カレッジはケンブリッジ大学にある31のカレッジの中で最大(学部学生700人、フェローを含む教授陣250人)のカレッジであり、これまでに28名のノーベル賞受賞者を送り出している。ケンブリッジのトゥリニティ カレッジとオックスフォードのクライスト チャーチ(慣例上クライスト チャーチ カレッジとは決して呼ばない)の学長(学寮長)は他のカレッジにおけるようにスタッフの互選ではなく国王が任命するしきたりが今日まで守られている。トゥリニティの卒業生名簿はそのまま「英国紳士録」にもなり得るほど世界的に煌(きらめ)く人材を雲の如く輩出した。
 池宮彰一郎氏の名作『平家』に次のような件(くだり)がある。「こういう言葉がある。<壮士は身を溝壑(こうがく)にうずめ、敵に頸首を捧ぐるを以て本懐とす>身は溝泥(どぶどろ)に斃(たお)れ、敵にその首を取られることが、志を抱く者の本望である、との意である。武門に身を置く者は、壮士であらねばならない。その身その姿がどうであれ、どう蔑(さげす)まれようと、心に一片の志を抱き、義を貫けばそれで足る。清盛はおのれを壮士になぞらえた。悪源太義平もまた志こそ違え壮士である。清盛は、重盛に武士の生きよう死にざまを学ばせようとした。だが、その思いはどれほど重盛に伝わったであろうか。」
 言うまでもなく、これは平治の乱に勝利した平清盛と敗れた源氏の頭領源義朝の嫡男悪源太義平にまつわる話の一部である。平治の乱(1159年)の戦に敗れ、降りしきる雪の中を父義朝、異母弟朝長、同頼朝ら8人は、美濃、尾張をめざして逃避行を開始し、義平は単身北陸道へ落ち延びた。そこで義平は兵を募ったが、都における源氏の敗報は早くも伝わっていて義平に味方する者は現れなかった。やむを得ず、下人に身をやつして京に戻って来た義平は宿敵清盛をつけ狙っているうちに捕縛されてしまった。前九年、後三年の役に奥羽を平定した八幡太郎義家を直系の祖とする源義朝の嫡男源太義平はこの時まだ19歳であったが、早くからその剛勇をもって知られ、鎌倉悪源太義平と呼ばれていた。処刑する前に清盛は義平の武勇を惜しんで贅をつくした酒食を用意させたが、義平はそれらを一切口にせず、昂然として斬首されたという。源家の嫡流、武家の頭領として当然の振る舞いであった。義平の処刑後40数日にして異母弟頼朝が美濃の国司平頼盛の家人に捕えられた。その時14歳の頼朝には捕えた平宗清が気圧(けお)され畏(かしこ)まる程の威厳が備わっていたと伝えられている。源頼朝は平治の乱の合戦において、「右兵衛佐(うひょうえのすけ)頼朝、生年13歳なり」と名乗りを上げると敵中に斬り込んで敏捷に馳せまわったという。この時頼朝は三男であるにもかかわらず、「源太の産衣(うぶぎ)」と呼ばれる鎧を着て「鬚切(ひげきり)」という太刀を帯びていた。二つともあの八幡太郎義家が着用して以来、源家の嫡男から嫡男へと相続されてきたのであるから本来、義平が着用、佩用(はいよう)すべきであるが義朝は武家の頭領としての資質を三男頼朝に見出していた。三年前、義朝は清盛と共に戦った保元の乱において、敵方に回って敗北した父為義の助命を嘆願したが赦されなかった。京都北郊船岡山で、義朝は父や父と共に敵方についた幼い弟の首を刎ねるという厳しい役回りを演じさせられた。その後の義朝には、多くの判断要素が加わったことであろう。蛇足ながら付言すれば、剛勇をもって鳴る長男義平の母は三浦半島の豪族三浦義明の娘、次男朝長の母は西相模(秦野市)の豪族波多野義通の妹であった。そして三男頼朝の母は、鳥羽上皇に寵愛され尾張三の宮熱田神宮の大宮司に任ぜられた藤原季範の三女由良御前であった。庶系とはいえ、公卿(くげ)の藤原氏の血が頼朝には入っていた。テレビドラマ等で周知のように弟義経(牛若)の母は常盤御前である。

ケンブリッジ大学トゥリニティ カレッジ大門楼の紋章
(1985/11 撮影)
 中央上部の彫像は創立者ヘンリー8世であり、その右手に握られているのは「王笏」のはずであるが、昔の学生が悪戯(いたずら)をして「椅子(いす)の足」に差し換えた。いかなる権威をもコケにする逞しい英国風ユーモア精神を象徴しているとも言えよう。学生の悪戯はなかなかのもので、隣のセント・ジョンズ カレッジ「溜め息の橋」の下に自動車が1台吊るされていたこともあったという。ヘンリー8世像の下に見えるのは、もともとこの場所にあったカレッジ(キングス・ホール)の創立者エドワード3世の紋章である。百年戦争のきっかけとなる戦争をフランスに仕掛けたエドワード3世の紋章はシリーズ4(4頁)で紹介したようにそれまでのイングランド王の3頭の金色のライオンにフランス王の紋章であるユリ小紋を加えた四つ割紋の嚆矢となった。エドワード3世の紋章の下に並ぶ6つの紋章は彼の6人の息子達の紋章である。左から中央寄り3番目の紋章は大陸に渡りフランス軍を相手に獅子奮迅の働きをしたブラック・プリンス(黒太子)の紋章であり、その下に添えられた白い羽根飾りとモットー(座右銘)は現在の皇太子チャールズも用いている。右側に見える無地の紋章(白地の盾紋)はエドワード3世の息子ハットフィールド伯のものであり、彼が夭折したことを表している。
(2005年7月)

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