丸屋 武士(選)
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           パルテノン神殿
      (写真提供「ハシムの世界への旅」


 公(おおやけ)と私の区別を弁(わきま)えること、法律を尊重する心と侵害された者を救う掟、その上「万人に廉恥の心を呼び覚ます不文の掟」とが整って初めて民主政治は十全に機能する。
 1945年、日本国民はダグラス・マッカーサー元帥によって初めて「民主主義」なるものを与えられた。あれから60年、民主主義の根底となるLiberty(自由)やIndividualism(個人主義?)について日本国民が自ら体得したことは一つもなく、一方において戦争のような徹底的抑圧、貧困や飢餓といった厳しい不条理も戦後数年を除いては体験することなく今日に至った。最近10年のデフレ(極めて深刻な不況)によって光を失ってしまったとはいえ、日本はそういう60年の中で経済大国には成り上がった。
 ところが卓話室Uのオランダ話(シリーズ10〜15)でお話したように、封建制度や鎖国あるいはもっとさかのぼって古代からの日本的風習風土によって形成されてきた日本人のメンタリティーは、徳川時代から今日に至るまで殆ど変質していない。明治維新やマッカーサーによる占領によっても日本国民の精神構造の変化は表層の部分にとどまったままである。同じく卓話室Uに引用した福沢諭吉は、民衆の心の発達こそ文明の発達である、という「衆心発達論」を持論とした。その福沢が明治5年から9年にかけて発刊した『学問のすゝめ』は初編のみで20万冊を超える「古来稀有(けう)」の大ベストセラーとなって明治の人心を刺激啓発した。だが、この書は果たして福沢が企図したように、「全国の人心を根底から転覆して、絶遠の東洋に一新文明国を開く」端緒となったであろうか。答えは否である。実際には「天は人の上に人を作らず・・・」云々の枕詞のような空疎単純な言葉のみが一人歩きをして、福沢が委曲をつくし口をすっぱくして説いた内容を日本国民は未だに全く学習していない。福沢は言う。「政府は国民の名代にて、国民の思うところに従い事をなすものなり。----国法の貴きを知らざる者は、ただ政府の役人を恐れ、役人の前を程能(ほどよ)くして、表向に犯罪の名あらざれば内実の罪を犯すもこれを恥とせず。・・・」等々。本の出版から130年も経った今日、日本国民の精神構造(衆心)を知って、福沢は呆れ返るどころか腰を抜かして筆を取る気力も失せるであろう。福沢が腰を抜かす事例は枚挙にいとまはないが、ほんの一例を挙げれば高度経済成長の結果、日本各地には県庁や市役所と称される「お城」のような建物が続々と建設された。今となってはそれらの維持費にも苦しみ、財政赤字を云々する一方で、これらの建物の内部にフカフカのじゅうたんを敷き、その地位や立場に得々としている議員や役場員(公務員)が少なくない。「天下り」などという言葉が日常茶飯に使われても、それを異常、異様に思う者は多くはない。まさに福沢諭吉のいう「愚民の上に苛(から)き政府あり」という事態の一つの典型とでもいうべきであり、欧米社会ではこのような事は到底考えられない。公金(税金−みんなのお金)の流用は欧米人の意識の中では反逆罪に次ぐ重罪であるが、日本では封建時代の「お上」やそれに連なる人々と同質のメンタリティーの持ち主たちによって公(おおやけ)と私の混同は至るところで行われている。封建時代と同質のメンタリティーとは何か。それは近代市民社会の市民としての自覚(政治意識)に欠け、一方においては「拠(よ)らしむべし、知らしむべからず」の基本態度、片や無気力の不勉強と、「長いものには巻かれろ」という知恵(処世術)を拠り所とする精神構造、ということになろう。これらの事を考えると、昨今の日本社会は、一見自由にして個の主張も盛んではあるが、実態は民主主義とは似ても似つかぬ私生活主義、単なるミーイズムではないか。
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