丸屋 武士(選)
(2005年12月)
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           パルテノン神殿
      (写真提供「ハシムの世界史への旅」


 シリーズ8において紹介したように、日本における縄文時代から弥生時代への移行期とされる2400年余り昔、27年間に亘ってギリシャ全土を混乱の巷と化したペロポネソス戦争が勃発した。
 アテネ市民は「秀逸無二」のリーダー、クサンティッポスの子ペリクレスの戦争指導方針に従って、陸上では侵攻を慎んで防御に徹する戦略を貫いた。 一方海上では、かってペルシャをも撃破した(BC480年、サラミスの海戦)実力と伝統を誇る海軍力を駆使し、大艦隊をもってエーゲ海を制圧した上、機動的にペロポネソス沿岸を攻略するという戦略を採用した。
 そして、この年(BC431年)の冬、アテネ対ペロポネソス同盟(その盟主はスパルタ)の戦いの初年度における戦没者に対して、アテネ市民は父祖伝来のしきたりに従って国葬を執行した。市民(国民)に尊敬を受け、見識ある人物が国葬の弔辞者に選ばれる慣習であったが、その弔辞者に選ばれたのは、この戦争を指導し、当時のアテネにおける弁舌、手腕のいずれにおいても並びなき能力を有して、21世紀の今日に至るまで「秀逸無二」と評されているペリクレスであった。
 国葬の儀事が進んでいよいよその段に至ると、ペリクレスは墓前から離れて、会衆全部に聞こえるように高く築かれた壇の上に登った。前置きとしてペリクレスは、一人の弁者(弔辞者)の言葉の巧拙によって、戦死者の武勇(勇徳)が褒貶される危険性に言及するという、周到かつ鋭敏な天性のリーダーとして資質の一端を示す。
 その上で慣例にのっとり、まずアテネ市民達の祖先に讃辞を捧げた。ついでポリス(都市国家)としてのアテネにかってない繁栄を招来し、古代ギリシャの「黄金の50年」と呼ばれる時代をもたらした彼等の父親の世代に格別高い称賛の言葉を呈したのであった。哲学者ソクラテスが生きたのもこの時代であり、今日世界中からの観光客を魅了してやまないパルテノン神殿(政治的経済的繁栄の象徴)もこの時代の産物である。
こうしてアテネ市民の祖先や父親の世代に手厚い讃辞を呈するという順序を踏んだ上で、ペリクレスは「不世出の雄弁家」としての本領を発揮し、話をいきなり核心にもっていく。人類にとって最も根源的な問題としての「いかなる政治を理想とするか」、「いかなる人間を理想とするか」というテーマを正面から振りかざしたのである。
 この演説の作者(?)であリ、ペリクレスと同時代を生きた歴史家トゥキュディデース(ツキジデス)は世界最初の、そして最高の、とでも呼ぶべき歴史哲学者であり、ここに紹介するペリクレスの第2演説(国葬演説)を含めて、ツキジデスの記述は彼の意図した通り、ギリシャのみならず全世界の人々にとって正に「世々の遺産」となった。2400年後の今日、当今はやりの言葉を用いれば「人類最高の世界遺産」と称されるべき『戦史』である。
 「稲妻を発する」とか「雷を轟かす」と全ギリシャに喧伝されたペリクレス演説の真髄は、この『戦史』によって2400年の時空を越え、我々の胸に鮮烈な響きをもって伝わってくる。対句法、対照法を縦横に用いるツキジデスの見事な修辞法を味わいながら「理想の政治」、「理想の人間」について思いを巡らせてみたい。
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