丸屋 武士(著)
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ブリクサム港のウィリアム3世像を囲む風景(2004/12撮影)
 ところで、同じくシリーズ8で述べたように、speechを演説とし、civilizationを文明と翻訳したのは福沢諭吉である。福沢とは違う人物の翻訳であると思うが、civil engineeringを土木と訳したのも名訳と言えよう。それよりもオランダ連邦共和国総督を「オランダ国の守護」としたのは、よくぞ最適の言葉を選んでくださったという感じがしてならない。もっとも同じ文中の「エゲレス国の大名共申し合わせ・・・」という件(くだり)を読むと、福沢と同じく封建制度という因習の中で生まれ育った人間が、自国にない事物を翻訳する場合の限界とおかしみあるいは悲しみを感ぜずにはいられない。本シリーズ3で言及した冗談としてCollege of Armsというイギリスの一種の役所である「紋章院」を「戦争大学」と翻訳する類の話である。  確かに27歳の福沢は何度も言及したようにロンドンを訪問した時、議会(パーラメント)という言葉を理解するのに難渋した。しかしながら、そのような苦労をして明治維新の前に欧米を体験した福沢は、明治の時代になっても日本人が封建制から脱し切れていないことを嘆き、そこが改まらない限り近代国家日本の文明は開かれないことを強調した。シリーズ3でも言及したようにそのことの啓蒙に全てを費したのが福沢の一生であった。「私立の人」として明治の新政府へも仕えず、爵位も勲章ももらわず、終始民間の学者としての態度を一貫して通し、自らを「翻訳の職人」として、学問も商売も同じであり、学者も一種の職人にすぎないという意識を持ち続けた。(南博著『日本人論の系譜』1980年講談社現代新書)。

  ブリクサム港からバスで30分程の所にアガサ・クリスティーの愛したホテル・グランドがありトーキー(Toaquy)駅は目の前。イギリスのリビエラと呼ばれる美しいこの地域はアガサの故郷でもある。
 さすがに、榎本武揚らオランダに派遣された15名の留学生は徳川幕府が選りすぐった人材であった。伊東玄白と共に医学を専攻した林研海は帰朝後陸軍軍医総監に任ぜられた。蛇足ながら榎本と赤松則良はそれぞれ林の姉妹を妻としている。津田真道は明治4年外務権大丞として日清和親条約の締結に尽力し、オランダにおけるフィッセリングの薫陶によって得た該博な法律知識を活かし、裁判官、貴族院議員、衆議院議員を務めて男爵に叙された。福沢流に評すれば官(お上)に仕えた御褒美としての男爵であろう。オランダにおけるもう一人の国際法専攻者西周(あまね)はシリーズ3でも言及したように明治の兵制の近代化に貢献し(山縣有朋の求めに応じたとされている)、貴族院議員に列せられた。その西周は日本最初の哲学者と呼ばれ哲学(philosophy)、科学(science)等々は西の造った(訳した)言葉であるという。その西が明治7年12月、雑誌『明六雑誌』第23号において、西洋人の内地旅行は日本人との間にいろいろ摩擦を起こすから「内地の人民が開(ひら)けた上で許した方がいい」という意見に対して「御一新後七年という星霜を経て人間の身体も骨から変わった」から維新までの「攘夷絶交」に対し「好和開交」のためにも外国人の内地旅行を認めるべきである、と論じた。ちなみに明治8年までは横浜にはわずかながら軍隊(英仏軍合わせて500名前後)が駐留した。野蛮な日本人から居留民(欧米人)を保護するためであるが、今日の日本人の殆どはこの事を知っていない。明治8年『明六雑誌』第26号において、福沢諭吉は「内地旅行西先生の説を駁す」と題して、内地旅行尚早説を主張した。「抑(そもそ)も御一新とは何事なるや幕府屋の看板を卸(おろ)して天朝屋の暖簾を掛け今の参議を昔の閣老に比すれば毛が三本多い位の相違にて(中略)好和開交と定むるも唯政府一家の針路のみにて人民は則ち然からず此民(このたみ)や旧幕の専制を以て行われたる無気力の瓦石(かわらいし)なれば昔より今に至るまで針路も方向もある可らず仮令ヒ7年の間に骨質は一新するも基気質は依然たる疑なし」といい、明治維新が「天下の人心を一変するの功を奏したりとは思わず」と日本人の不変を結論した。福沢は自らの文明論を「衆心発達論」と称して、民衆の心の発達こそ文明の発達であるとしていた。残念ながら封建制度や鎖国あるいはもっとさかのぼって古代からの日本的風習、風土によって日本の国民性は徳川時代から全然変質していない。本質的な部分では明治維新どころかマッカーサーによる占領を経ても変化はしていない。人心の変化は日本人の精神構造の表層の部分に未だとどまったままである、と言っても過言ではない。
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