丸屋 武士(著)
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   1688年11月1日、遠征艦隊500隻余りはオランダから出撃し、11月5日にはイングランド西南端に近いデボンシアの小村ブリクサムにウィリアム以下2万1千余の将卒は上陸を開始した。オランダから連れて来たイギリス人部隊を先頭にデボンシアの中心都市エグゼターに向かって進軍する。途中のニュートン・アボットにおいて11月7日、本文でその一部を紹介する「イギリス国民に対するオレンジ公ウィリアムの宣言」を読み上げた。エグゼター市長はウィリアム軍に対する協力を肯んぜず、町の主だった者たちも脱出していなくなり、主教(多分エクゼター大聖堂の主)はロンドンへ逃亡して政府にウィリアムの侵攻を報告した。国王ジェームズの朝廷は、これを忠義としてたまたま空位にあったイングランド宗教界第2位とでもいうべきヨーク大司教にこの主教を任命した。
 イングランド攻撃に向かったスペインの無敵艦隊が海の藻屑と化してから奇しくも丁度100年たったこの時、輸送艦を含めると500隻の大艦隊としてオランダ無敵艦隊が出撃した。ウィリアム3世の乗艦ブリールの艦橋にはためく旗印には、フランス語で「イングランドの自由とプロテスタントの信仰」と並んで「我、貫徹せん」と記されていたという。船中ウィリアムに同行した者の中に祖父も父もオレンジ家に秘書として仕え、自身もまた総督フレデリック・ヘンリーの秘書であったが、後述する無総督時代には失職して画家として身を立てていたコンスタンチン・ホイヘンスが再びオレンジ家の秘書として控えていた。同名の父は前述したようにウィリアム3世の祖父である総督フレデリック・ヘンリーに外交官として仕え、次男である弟は土星の輪を発見したあのクリスチャン・ホイヘンスである。オレンジ家4代と、ずっとその秘書を務めて来たホイヘンス一家との関係は、土星(Saturn)とその衛星タイタン(Titan)を連想させると言えよう。
 大艦隊が運ぶ歩兵、騎兵は2万1千を下らず、その内訳は歩兵としてイギリス人部隊6個連隊、オランダ正規軍4個連隊(以上はオランダ連邦議会の管轄)、そして総督ウィリアム3世直属の5個連隊、他にブランデンブルク(ブランデンブルク選帝侯は血縁によってウィリアム3世の後見人)の1個連隊、北欧から借りた2個連隊の計18個連隊からなっていたという。このウィリアム3世の「鉄の意志」とオランダ国民の「堅忍不抜の精神」とがあってイギリス名誉革命は達成されたのであり、この「事変」を経ずして以後のイギリスの発展はあり得ないものであった。以下、ウィリアム3世の事跡については、最近(2004年)出版された友清理士氏の労作『イギリス革命史』(研究社刊)の記述を主たる道しるべとしていきたい。  イギリス遠征に際してウィリアムは宣言書を作製し、それは当時の政治パンフレットが二、三千部という時代にイギリス民衆の支持を得るために英語で6万部も印刷されたという。「神の思寵によりオレンジ公等々たるウィリアム・ヘンリー殿下による、イングランド王国に武装して赴くに至らしめた理由の宣言」というタイトルの通り、イングランド出征の理由を宣言する中でウィリアムは「・・・・・余の遠征の目的は、自由にして合法的な議会をかなう限りの早期に開くことにほかならない。・・・・・そして余のほうでは、この国の平和と幸福を獲得するためのもので、自由にして合法的な議会が決めることは何事においても同意することにする。なんとなれば、余がこの大業において目指しているのは、プロテスタントの信仰を保護すること、あらゆる人々を信条を理由とした迫害から守ること、そして国民全体がその法律、権利、自由を正統にして合法的な政府のもとで享受できることを確かにする以外の何物でもないのである。・・・」等々と述べている。
 「ヨーロッパの勢力均衡」を胸奥に秘め、プロテスタントの旗手として、信条の自由を大義として掲げ、異端をものともせず、自らの命をも顧みない「真の貴族」としてオランダ人ウィリアムが「オランダの世紀」を貫徹したと言える名誉革命であった。40年前の大きな内乱は「清教徒革命」とも呼ばれ、1688年のこの出来事は「Glorious Revolution」とも呼ばれて、それが日本では「名誉革命」と翻訳されていることに、「あまりよい訳とは思えない」とシリーズ8で敢えて述べたのは、この点を指摘したかったからである。
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