丸屋 武士(著)
(2005年1月)
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  英国王位に就いて名誉革命は達成し、希求していた英蘭連合は成立したが、シリーズ8で詳述したようなヨーロッパに突出する軍事大国フランス、そしてその主として「並び立つものなし」を座右銘とするルイ14世との対決は終っていない。1691年1月、ウィリアム3世は名誉革命以来初めて(ほぼ3年ぶり)オランダへ帰国した。ハーグにはウィリアム以外にバイエルン選帝侯、ブランデンブルグ選帝侯、スペイン領ネーデルラント総督などが集まり、フランスに対抗して22万の軍勢を投入することが決められた。この時以降約10年間、春には大陸に渡ってルイ14世の軍と戦い、秋には帰国してイングランド議会を開会する。そしてイギリスへ帰る前にヘット・ロー宮殿を拠点に狩りをして気晴らしをする、というのがウィリアムの毎年の生活パターンとなった。それほどヘット・ロー宮殿はウィリアムにとってなくてはならない、今様に言えば「男の隠れ家」であった。国家元首であるから、所在を晦ますことはできないが、ホイッグとかトーリーとかが、無遠慮に政争に明け暮れるイングランド議会、片やイギリスへ行ってしまったウィリアムの母国に対する面倒見が悪いといったオランダ側の不満、常在戦場とは言ってもウィリアムにとってはうんざりする日々が重なったことであろう。ヘット・ロー宮殿にいて狩りをする何週間かはこの堅忍不抜の士にとっても命の洗濯の時であったに違いあるまい。
 名誉革命によってイギリス国王となったオランダ人ウィリアム3世は本シリーズ8で述べたように、母はイギリス国王チャールズT世の娘メアリー、妻はそのチャールズT世の次男で、兄の死後イギリス国王となったジェームズ2世の娘メアリーであった。母も妻もイギリス国王の娘というこの血縁によってイギリス貴族に招請されイギリス(イングランド)国王となった。当時のイギリス臣民が、40年前の忌まわしい国家的混乱(内乱)の再現と、大陸において勢威を振るっているルイ14世を旗手とするカソリックによって国が支配されることを忌み嫌った結果に他ならない。あの清教徒革命と呼ばれる混乱(反乱)の中で、国王チャールズ1世の首は鉞で切り落とされ、王政復古となってからはオリバー・クロムウェルの骨を墓から引きずり出し絞首台に吊すといった凄惨な場面があった。そういう凄慘な場面を二度と見たくないというイギリス臣民の思惑通り、オランダの貴族がすんなり玉座に載せられたように思う人は少なくないであろう。『阿蘭風説書』の言うようにオランダ国の守護がイギリス国の将軍(国王)になったと言うのはその通りである。しかしその「オランダ国の守護」は凡百の王侯貴族とは雲泥の差の「気骨と品性」を有し、大勢に抗することをものともしない沈着、剛毅なエリート、公共の為には命を失うことも厭わないエリート、即ち「真の貴族」であった。ウィリアム3世の生涯は12歳年上のフランスの太陽王ルイ14世との対決の生涯であり、フランスの膨張、圧迫、侵略と対峙しながら「ヨーロッパの勢力均衡」に祖国オランダ連邦共和国安寧の道筋を見出さんとしていた。その為にはイギリスの国王となることをも企図(画策)し、長い隠忍自重の末に1688年(元禄元年)11月、ついに自らの命とオランダ連邦共和国の命運とを賭けて敢然とイギリス侵攻に討って出たのである。
美しいヘット・ロー宮殿。
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