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『実り多き米国留学三年−秋山真之海軍大尉の気迫』 第6章 連合艦隊作戦主任参謀秋山真之中佐(37歳)

松山市立子規記念博物館所蔵
2024年12月10日(火)
道場主 
[埼玉県]
実り多き米国留学三年―秋山真之海軍大尉の気迫

第6章

            連合艦隊作戦主任参謀秋山真之中佐(37歳)


第1節 日本国民への忠告(警鐘?)―「連合艦隊解散之辞」
 
 
 「アメリカ合衆国海軍の象徴」として21世紀の今も現役の木造戦艦「コンステチューション」、そしてネルソン提督座乗の戦艦「ヴィクトリー」と同じく、「世界三大記念艦(軍艦)」の一つとされる戦艦「三笠」座乗の東郷平八郎提督は、日本海(対馬沖)海戦に臨み、「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」の意味を込めてZ旗を掲げた。序章(プロローグ)で述べたように、その文案を起草したのは連合艦隊参謀・秋山真之中佐であり、同艦隊出撃の際、大本営宛てに発せられた秋山起草の報告電文「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」は名文として余りにも有名である。
 「天気晴朗」ということは、霧や悪天候によって敵を見逃すことはないことを示唆し、「波高し」ということは作戦の初期段階に想定した雷撃(魚雷攻撃)は出来なくなり、大艦同士の砲撃戦になることを示唆していた。
 そして「日露講和条約」が両国によって調印された後の明治38(1905)年12月20日、連合艦隊はその戦時編成を解き、翌21日の解散式において司令長官・東郷平八郎が「連合艦隊解散之辞」を述べて告別とした。
 「二十閲月の征戦已に往事となり」という書き出しで始まり、「勝って兜の緒を締めよ」という言葉で締め括られた「連合艦隊解散之辞」は、近代日本名文の一つと称えられているが、これを起草したのも他ならぬ参謀・秋山真之中佐である。
 前述したように、その「連合艦隊解散之辞」がアメリカ合衆国第26代大統領セオドア・ルーズベルトの心の琴線に触れ、大きな感銘を受けた大統領は直ちに翻訳を命じた。自らその翻訳英文をじっくりとチェックしたうえで、「合衆国軍人ないし、軍人たらんと欲する者全てに対し、また不幸緩急の事態出来に至らば(戦争勃発のこと―筆者注)、アメリカの名誉にかけ、かく行動すべきと信ずる全ての者に余は上記演説を推薦するものである」と書き添えて、大統領は(仮想敵国)日本の連合艦隊司令長官が発した言葉(秋山真之起草の演説)をアメリカ合衆国陸海軍事機関の全てに配布したのであった。
 ところが一方、秋山の祖国日本では「勝って兜の緒を締めよ」という文言で締め括られた秋山真之の日本国民に対する忠告(警告?)は全く無視され、「勝った、勝ったの驕慢の風」が蔓延する日本国内であった。
 ここに改めて一例を挙げると、明治42(1909)年1月、講道館長にして東京高等師範学校長である嘉納治五郎はクーベルタン男爵の友人である駐日フランス大使ジェラールから突然会見を申し込まれ、早速1月16日に嘉納はジェラールと会見、そこでIOC委員就任を要請された。
 ジェラールの要請を快諾して東洋人初のIOC委員に就任した嘉納の心底には、外には体育運動を通じて「諸外国と好誼」を結び、オリンピックで競われる各種スポーツの国内普及によって日本人の「体力向上」を図ると共に、スポーツによって培われる青少年の「品性の陶冶」を図るという、3つの大きな目標があった。
 蛇足ながら敢えて言及すると、この頃の日本にはスポーツという言葉はなく、体操,体練等々の、かたぐるしい言葉が主流で、従来「運動競技」と称されていたものに対しジャーナリストとして新聞紙上で初めて「スポーツ」という言葉を用いたのが、「早大野球部米国遠征団(第一回)、明治38年」の主将(遊撃手)橋戸信(頑鉄)であり、早大卒業後改めて4年間の滞米生活の後、橋戸が帰国して新聞社に勤めた明治44、5年のことであった。
 また一方、国際社会の冷厳な一面というべきか、日露戦争の勝利、とりわけ「日本海(対馬沖)海戦大勝」という世界戦史に画然たる大勝を目にして、幕末以来、日本に不平等条約(半植民地的待遇)を押し付けてきた欧米諸国の対日認識は、大いに改まっていた。
 明治43年、駐日スウェーデン公使からもクーベルタン男爵同様、明治45年にスウェーデンの首都ストックホルムで開催される「第五回オリンピック競技会」に、初めて日本が代表選手を派遣するよう要請があったという。
 こういう背景において、嘉納治五郎は胸中、オリンピック参加の意志を固めると共に、日本を代表すべき運動選手の選出母体について思いを巡らせ、最初は自らが局長を務めたことがある文部省の協力・援助を求めた。
 ところが当時の日本社会は日露戦争の勝利、なかんずく「日本海大海戦大勝」に酔いしれており、「オリンピックとか何とか、たかが西洋の運動会に、日露戦争に勝った日本国(上等な国?)が、わざわざ行ってやる必要はない」という陋劣な雰囲気に汚染されていた。世間知らず、或いは「夜郎自大」と言うべきか、こういう傾向(国民性)は21世紀の今も大して変わっていない。
 だが、それは無理もないことで、幕末における列強とのいさかい(たった2日か3日で降伏、止戦媾和となった薩英戦争・下関戦争)で受けた屈辱感、あるいは、その後の「文明開化」のプロセスの中で味わった劣等感の反動と見れば、うなずけないことではない。   
 まして日露戦争の10年前、日清戦争勝利の暁には列強によって「三国干渉(遼東半島の還付)」
という煮え湯を飲まされた日本国民は、悲憤の涙の中で「臥薪嘗胆」等のスローガンを叫び、挙句に到達した「戦勝」であってみれば、ふんぞり返りたくなるのは無理もないことであるとも言えよう。
 周到な秋山は、自ら起草した「連合艦隊解散之辞」における有名な結語「古人曰ク勝ッテ兜ノ緒ヲ締メヨ」という言葉の前に、「神明ハ平素ノ鍛錬ニ力メ戦ハズシテ既ニ勝テル者ニ勝利ノ栄冠ヲ授クルト同時ニ、一勝ニ満足シ治平ニ安ンズル者ヨリ直ニ之ヲ褫フ(うばう―筆者注)」という重い言葉を置いたが、日本国民の大多数は、秋山のそういう思いを深くは受け止めず、むしろ一勝に我を忘れる大満足で、「勝った、勝った」の驕慢の風が吹き荒れる日本社会は次第に「夜郎自大」に陥り、「国風はみな善」、「外国に学ぶものなし」といった言葉が広く聞かれるようになっていく。
 だが「更ニ将来ノ進歩ヲ図リテ時勢ノ発展ニ後レザルヲ期セザル可カラズ」とも訴えた「秋山中佐の忠告」は、最近のNVIDEAの躍進に象徴される半導体産業の激烈な競争、宇宙開発に伴う精密誘導技術の進展やレーザー兵器の開発に狂奔する21世紀の今日においても、一流を目指す国家にとっての「永遠の戒め」と捉えるべきではないか。
 世界は今や秋山が超えようとしたマハン大佐の世界的名著『海上権力史論』で論じられた「sea power(海上権力或いは海上武力)」に代わって、「space power(宇宙権力或いは宇宙武力)」争奪の真っ只中にあるからである。
 大方の日本国民とは異なり、冷徹に世界情勢(列強の動向)を見据えていた山縣有朋は 明治26年、内閣総理大臣から枢密院議長に転任した同年9月、政府(第二次伊藤博文内閣)に対して長文の「意見書」を提出した。山縣はヨーロッパの軍事技術の進歩を見逃さず、その意見書(論文)の中で、兵器の進歩によって「今日の一は以て従前の十に当たるべく、今後の一は以て今日の百に当たる」と鋭く指摘している。
 最近の「ウクライナ戦争」で活用されている「ドローン」と呼ばれる「無人飛行物体」の発達進展、AIや量子コンピューター等のIT技術、更にはレーザー技術等々の進歩が示唆するところは、山縣の言葉を借りると、「今後の一は、以て今日の百に当たる」ものではないか。
 元治元年8月6日(1864年9月6日)、四国(イギリス、フランス、オランダ、アメリカ)連合艦隊の来襲に対して、「攘夷の念」に燃えて壇ノ浦支営(砲台)を守っていた26歳の奇兵隊軍監・山縣狂介(有朋)は、あっという間に敵陸戦隊(英仏海兵隊?)に砲台を占拠され、守っていた大砲全てを破壊されるという痛烈な体験の持ち主でもあった。そういう経験もあってか、慎重かつ周到であった山縣有朋は、的確、精細な観察眼をもって欧米列強の「実態」と、その「行動パターン」とを、キッチリと認識していた数少ない日本人の一人である。
 軍事に限らずスポーツの世界においても、「世界トップレベル」を維持することは如何なる国家にとっても「至難の業」であり、例えばサッカー・ワールドカップ2010年大会に優勝したスペインは、次の2014年大会では、一次リーグ敗退で終わっている。残念ながらFIFAサッカー男子世界ランキングでは2024年7月18日時点で、日本は18位にとどまって(女子は7位)、日本男子がFIFAランキング10位以内に入るのは、何時の事であろうか。
 一方、直近のパリ・オリンピックにおける「柔道」の結果を見ると、今や正に「日本発(初)世界標準」となった「講道館柔道」であり、「巴投げ」と「腕ひしぎ十字固め」のコンビネーションを徹底的に(究極的にと形容すべきか?)探究した角田夏実選手の鮮やかな活躍が象徴するように、「柔道発祥の国」日本は、立派な成績を挙げた。
 だが、「混合団体戦」に「難民チーム」を含めて10チーム以上が参加するほど世界柔道人口は高いレベルに到達し、今後、東欧、中央アジアを含めて世界柔道界には、日本人が想像できないような身体能力や怪力の持ち主が続出するのではないか。因みにGeminiによると、世界の柔道人口は2000万人、柔道競技人口はブラジル200万人、フランス56万人、ドイツ18万人、日本16万人、キューバ15万人であるという。こういう競技人口の実態が示すように、今や世界柔道のレベルは高まり、一流選手のパフォーマンス(映像)が世界中で利用(解析)できる時代に、「お家芸」なんていう甘い(おごった?)心情を以てしては到底、世界トップレベルを維持することは困難ではないか。
 他方パリ・オリンピックでは、「近代五種」とか「フェンシング」、「馬術」等々、「西洋人が勝ちを独占してきた種目」で日本人がメダルを獲得したことは大変嬉しく、「日本文化の多様性進展」という見地からも喜ぶべき事象である。
 そして今、何よりも嬉しいのは、その記録が「前人未踏」、「唯一無二」と形容される「異次元(別次元?)のアスリート」或いは、「百年(二百年?)に一人の野球選手」大谷翔平が、アメリカ合衆国の「国技」とも言うべき「ベースボール」において、その「歴史を書き換える大偉業」を成し遂げたことである。
 内乱(南北戦争)の最中、滞陣中の将兵の無聊を慰める格好のスポーツであったベースボールは戦後、復員兵によってあっという間に全米各地に伝播して、早くも明治2(1869)年には、プロ選手だけで構成された「シンシナティ・レッドストッキングス」が「初のプロチーム」となり、地方都市を巡業したという。
 そのような長い歴史を有するアメリカのプロ・ベースボール(MLB即ち「大リーグ」)の「歴史を書き換える大偉業」を、日本人・大谷翔平が成し遂げたことは、日本近代におけるこの上なき痛快な「一大快挙」であると言えよう。
 その大谷翔平が肩の負傷にもめげず、最後まで健闘したワールドシリーズ(野球世界一決定戦)の開会式においては、「アメリカ合衆国海軍旗」その他の旗を捧げ持つ兵士たちを中心に、球場一杯に一枚の巨大な「星条旗(国旗)」を広げ、5万人を超える人々が「国歌」を斉唱、時刻を合わせて上空にアメリカ軍戦闘機編隊を飛来させる等々、他国には例を見ない壮麗なアメリカ合衆国特有の「セレモニー」は、多民族国家アメリカに不可欠な「政治装置(システム)」の一部であり、見事である。
 だが、アメリカ合衆国の威信を示す壮麗、雄大なセレモニーに感心する一方、もっぱらテレビ観戦一方の大リーグ・ファンの一人として、驚き呆れた(あきれ返った)出来事(事象)についても言及しておきたい。
 ヤンキースタジアムのライト側観客席(品の悪い言葉が飛び交い、ガラの悪いことで悪名高い?)に居ながら、ドジャースのムーキー・ベッツ右翼手が観客席に入りそうになった外野(ファウル)フライを確保し「アウト」にした球を、強引にベッツのグラブからもぎ取ったような、「原始的欲望剥き出しの(品性に欠ける?)人々」が少なからず居るのが、アメリカ合衆国(合州国)の「お国柄」でもあり、どのような国、どのような民族においても、そういう階層が一定数存在することは人類史の一端ではないか。
 しかしながら、「(法律を守ろうとしない)原始的欲望剥き出しの階層(勢力?)」が勢いを増して「空気」が変わると、そういう空気に便乗して仕事をする一部のマスコミや、近頃とみに力を増してきたSNS等によって、国家エゴ剥き出しの国民感情或いは世論(その典型的一例は鈴木大拙の言う「安直な愛国主義」ではないか)が醸成されることは、極めて悲しいことである。
 そうなれば、世の中(世界)は増々暴力的傾向を強め、国内社会に於いても国際社会に於いても「剣呑な話(事象)」が増加する一方だからである。
 願わくば、如何なる国家(国民)も、今、この瞬間も秒速何百キロものスピードで宇宙を爆走している(「宇宙船・地球号」乗り組みの一員)としての自覚を持って欲しいものである。
 


第2節 アメリカ北大西洋艦隊「司令部付士官」として6か月の修行

 さて既述のように、衆議院に議席を有しながら駐米公使を勤めていた明治政界の偉才(異才?)星亨は、明治31年7月20日、上司(内閣総理大臣兼外務大臣大隈重信)の許可を求めぬまま、ワシントンを発って勝手に帰国してしまった。秋になって駐米全権公使として赴任してきたキャリア―外交官・小村寿太郎と秋山は馬が合ったのか、二人はしばしば夕食後にザル碁に興じて、碁が半分、話が半分という時間を楽しんだという。
 特筆すべきは、その小村寿太郎公使の斡旋によって合衆国海軍「実地見学」の許可を得るという僥倖を手にした秋山真之海軍大尉は、翌明治32年2月から、合衆国北大西洋艦隊司令部付きとなって同艦隊の旗艦「ニューヨーク」乗り組みを許されることになった。非凡な容貌と高橋是清仕込みの英語力を備えた秋山のアメリカ留学生活は、これによって一段と充実したものとなったのである。余談ながら、秋山真之の兄・秋山好古は鼻筋の通った容貌で、陸軍大学教官メッケル少佐は秋山好古を見て白人と思ったとか。
 ネルソン提督が壮烈な死を遂げた「トラファルガー海戦」以後百年近く、七つの海を支配してきた大英帝国海軍には及ばなくても、既にGDPが断トツ世界一の隆々たる経済力をバックのアメリカ合衆国海軍の中核をなす北大西洋艦隊(常備艦隊として最も戦力の充実している艦隊)の幕僚部(サムソン長官、チャドウィック参謀長、ストートン参謀、艦隊副官ベネット少尉)に同乗同行する秋山は、言わばアメリカ海軍中枢と6か月間、旗艦「ニューヨーク」において寝食を共にするという誠に貴重な体験をする。外国武官をこのように遇してくれる合衆国海軍(U.S.Navy)の懐の深さに舌を巻く思いがするのは筆者ばかりではあるまい。
 気のいいヤツ、鋭いヤツ、冷徹犀利な人物、沈毅豪胆な人物等々、アメリカ海軍の精鋭たちと旗艦ニューヨーク艦内で6か月余、共に触れ合った経験(体験)は、当時30歳を過ぎたばかりの秋山海軍大尉にとって、その後の人生に資する貴重な財産となったのではないか。
 そしてこの貴重な体験によって、「アメリカ海軍の空気と感情」そして「科学的方法と組織」とは、カリブ海、メキシコ湾、大西洋等の潮風と共に秋山真之に沁み込んだのではないか。
 戦艦「アイオア」「インディアナ」「マサチューセッツ」「テキサス」の4隻と装甲巡洋艦「ニューヨーク」「ブルックリン」という2隻を中心に構成されたアメリカ合衆国北大西洋艦隊が、明治32年2月、ニューヨークを出航して5月2日に帰港するまで、向かった先はカリブ海、メキシコ湾方面であり、前年7月3日に同艦隊がスペイン艦隊を殲滅したキューバ(サンチャーゴ港)にも寄港した。
 旗艦「ニューヨーク」に乗り込んだ秋山は、「司令部付士官」として時に命ぜられるままに、下級参謀の受け持つ碇泊位置に関する作図作業を、潮流、風向き、現地人情等を加味して、(英語で)話しながら書き込む作業を行うこともあったという。
 70日余の航海の中で同艦隊は日程表により、小銃訓練、ボート訓練、信号訓練、防火訓練、総員配置訓練、武技(剣術?)訓練、衝突訓練等を繰り返す。日本海軍と大きく異なる点は、艦内に「海兵隊」が乗り込んでおり、陸兵である彼らの役割は「憲兵」業務であった。
 海軍の演習は、島田謹二東大名誉教授がいみじくも指摘したように、「絶えず勉強している学生が学期ごとに受ける期末試験」のようなものであり、決して怠ることが出来ない「必須要件」であると言えよう。怠れば、運動しまくる敵艦船に、こちらも動きながら大砲を命中させるようなことは、極めて難しいこと明らかである。
 訓練ばかりが続くのではなく、寄港地では将兵それぞれがドンチャン騒ぎその他によって、訓練航海のストレスを発散する。古今東西、陸に上がった水兵が、小さく言えば「憂さ晴らし」、大きく言えば「浩然の気を養う」方策は同じではないか。
 明治32年5月2日、ニューヨーク軍港に帰投した同艦隊は2週間かけて整備、補修作業を行い、5月29日には再び出港、今度はアメリカ東海岸沿いに北へ向かい、ニューポート、ボストン、ポーツマス、ポートランド(メイン州)港に寄港しながら8月3日にはニューヨークに戻ってきた。
 毎日激しい訓練が続くわけではなく、この航海においてもボストンに寄港した際は、地元名士による盛大な歓迎パーティーの中で、同艦隊の司令官である名将サムスン提督に対して、ハーヴァード大学エリオット総長による顕彰も行われた。
 訓練の合間には、洋上で水泳大会や艦対抗ボート(競漕)大会なども行われたという。もし水泳大会に参加すれば、幼少年期から四国は松山の海で鍛えてきた秋山真之は、アメリカ海軍将兵に引けを取らない実力を発揮したのではないか。
 この明治32(1899)年のアメリカ合衆国北大西洋艦隊の整備計画は、その戦力を「戦時と同じ程度に維持する」ことにあった。弾薬の保管供給、大砲の旋回と発射の実験が繰り返され、7月下旬には大小の艦船50余隻が合同して「仮想敵」とぶつかる対抗訓練が行われた。とりわけ合衆国海軍は射撃訓練(遠距離射撃、夜間射撃)を重視し、大口径砲の発射は耳に綿をつめても、その轟音が渦巻いて人々を圧したという。
 秋山が6か月間、この訓練航海に従事した体験と、前年のサンチャーゴ港閉塞に続くスペイン艦隊殲滅作戦の観戦から得た大きな教訓の一つは、海戦の中で運動しまくる軍艦の発射する大口径砲が命中する(敵艦に当たる)確率はかなり低く、命中率を上げるには絶えざる訓練を必要とする、ということであった。
 そういう基本認識の持ち主・秋山真之大尉は明治32年後半しばらくイギリスに滞在後、翌明治33年8月に帰国して常備艦隊参謀に、翌年には少佐に昇進、明治35年には海軍大学教官に任命された。
その間秋山は、米国滞在時と同じく、そしてマハン大佐と同じく、「古今海陸の戦史を渉猟して、その成敗の因ってきたる所以(ゆえん)を討究し、以て自家独特の本領を養成する」努力を怠らなかったのではないか。
 明治38(1905)年、「日本海(対馬沖)大海戦」に第一艦隊参謀(作戦主任参謀)として参画した秋山真之中佐(37歳)は、6年前の日本海軍軍令部第三局諜報課宛ての報告書「サンチアーゴ・デ・クーパ之役(後に「極秘諜報第百十八号」と銘うたれる)」に盛り込まれたような「レベルの高い知性」に、更に磨きをかけていたに違いあるまい。
 その上「米西戦争(スペイン艦隊殲滅作戦)実況見分」と併せて、アメリカ北大西洋艦隊「司令部付士官」として同艦隊旗艦「ニューヨーク」に乗艦しサムソン長官以下幕僚部将兵と寝食を共にした訓練航海6か月で得た教訓は、長年浸ってきた潮風のように秋山真之に沁み込んでその血肉となっていたのではないか。
 ロシア帝国バルチック艦隊来襲という乾坤一擲の時を迎えて、そういう秋山中佐が「バルチック艦隊撃滅(殲滅)」の為に、海軍兵学校在学中には誰にも首席を譲らなかったその「抜群の知力」を駆使して、あの迎撃作戦計画・「七段構えの戦法」を練り上げたのであろう。
 周知のように、7か月の日時をかけて日本に襲来した戦艦8隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻、巡洋艦5隻、特務艦を含めて全38隻からなる「ロシア・バルチック艦隊」は、この「対馬沖海戦」2日間の戦闘により、戦死約5000名、捕虜6106名という結果となって壊滅した。


* 写真は明治30年7月、渡米直前に秋山真之が親友正岡子規に贈呈した自らの肖像写真の裏に記したサイン(序章に掲示したポートレート写真の裏側)