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『実り多き米国留学三年−秋山真之海軍大尉の気迫』 第5章 見事な国際人柴四郎・五郎兄弟と会津藩家老山川家の奮闘 |
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実り多き米国留学三年―秋山真之海軍大尉の気迫 第5章 見事な国際人・柴四郎・五郎兄弟と会津藩家老・山川家の奮闘 会津藩士族・柴佐多蔵(しばさたぞう、250石)の五男として生まれた柴五郎は、8歳で遭遇した「戊辰戦争」において、祖母、母、兄嫁、姉妹が自刃し、叔父・柴清助が介錯して屋敷に火を放つという酷烈な目にあった。会津には、女は敵に恥をさらしてはならず、仮に敵兵に凌辱されるようなことになれば末代までの恥として、その前に自決することが武士の妻女の作法とされていたのである。 会津落城降伏後、五郎は父や主家(松平容保)と共に不毛の地・斗南(青森県下北半島)に移住し、藩校日新館や青森県庁(斗南藩庁)での給仕等々、辛酸を重ねながら陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に進学、秋山真之の兄・秋山好古と同期(陸士旧第3期生)の陸軍将校となった人物である。 前章で詳述したように、「駐英公使館付武官」から「米西戦争観戦武官」として、アメリカ、キューバにおける任務を遂行、帰国した柴五郎は陸軍中佐に昇進し、「清国公使館付駐在武官」に任ぜられて北京に赴いた。 ところが着任間もなく明治33(1900)年5月勃発した「義和団の乱(別名・北清事変)」に際して、柴中佐は西徳次郎公使(後に外相、枢密顧問官、ロサンゼルス・オリンピック馬術金メダルの「バロン西」こと西竹一陸軍大佐の父)の下で居留民(北京在住外国人)保護にあたり、英、米、ドイツ、オーストリアその他各国(合計10か国)公使館配属の護衛兵(8か国が出兵)400余名と協力して、時に何千人もの義和団兵を相手に、60日余りの「籠城戦」を戦い抜いたのである。 柴中佐は、包囲攻撃する義和団兵に対しての「戦闘指揮能力」が高いだけでなく、英語、フランス語、中国語等にも通じていて、戦後、列国外交団から多大の称賛を浴びた上、ヴィクトリア女王を初め各国政府からも勲章を授与されるという栄誉を受けたのであった。 前章で述べたようなキューバ(雨季の熱帯)における厳しい任務をも完遂して、英語、仏語、中国語にも通じる柴五郎砲兵中佐の図抜けて高い能力が、オーストリアその他、北京駐在欧米武官や外交官たちの「人種的偏見」を突き破ったと言えよう。 北京市内で欧米10か国と日本の公使館が隣接している「公使館区域」に集結、各国外交官以外に籠城を余儀なくされた北京市一般居留民(外国人)の一人であるアメリカ人女性ポリー・C・スミスは次のような記録を残している。 「最初の会議では、各国公使も守備隊指揮官も、別に柴中佐の見解を求めようとはしませんでした。でも今では全てが変わりました。柴中佐は王府での絶え間ない激戦で常に快腕をふるい、偉大な士官であることを実証しました。だから今では、すべての国の指揮官が柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです」 明治37(1904)年の日露戦争には、野戦砲兵第15連隊長(大佐)として従軍した柴五郎は、その後、第12師団長、東京衛戍総督を歴任、陸軍大将に叙され、台湾軍司令官、軍事参議官に任命されている。 さて今ここで見事な国際人・柴五郎陸軍大将に言及したからには、その兄・柴四郎(筆名・東海散士)を含めて、「賊軍」、「朝敵」の汚名を着せられながら逆境の中で奮闘し、飛びぬけた業績を挙げた会津の人々についても言及しておきたい。 明治4年7月14日、「日本が世界に誇るべき無血革命」としての「廃藩置県」によって、諸藩の大名を先頭に200万とも言われた「武士階級」は、一日でその特権(既得権)たる禄(収入源)を奪われ、武士は戸籍上、「平民」とは異なる「士族」と記されるだけの存在となった。 この日、明治4年7月14日(西暦1871年8月29日)、明治新政府に協力的な有力大名が参列した皇居において、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)、西郷隆盛ら首謀者の筋書き通りに、19歳の明治天皇が自ら「廃藩置県の詔」を読み上げるという、迫真の政治ドラマが展開された。 後には対立した西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、山縣有朋、板垣退助らが一致協力、用意周到にも直前5月頃から、皇居周辺に8000余の軍隊(薩摩藩兵、土佐藩兵、長州藩兵)を駐屯させ、人々(諸大名?)を威圧(威迫?)して推し進めたのが「廃藩置県」という「無血革命」であった。 敗者(賊軍)としての辛い状況に追い込まれた上に「廃藩置県」という「革命」によって、「武士という特権(禄その他)」をも失い、戸籍上「士族」と記されるだけの存在となった会津藩士・柴五郎や、その周辺の多彩多能な人々の、予期せぬ逆境における「明治武士道」とも称さるべき奮闘を、ここに改めて記しておきたい。 五郎の実兄である東海散士こと柴四郎の作である『佳人之奇遇』は、明治時代日本最高の政治小説と称さるべきもので、全国無数の青年たちが、そのさわりの部分の格調高い文章を暗誦するするのに夢中になった傑作である。 会津落城の際は14,5歳で、藩校・日新館の学友である山川健次郎と共に、兵士としてはやや力不足ながら城内で懸命に働いた柴四郎は、その後、東京で賊軍の一人として暫く謹慎生活を余儀なくされた後、勉学を志すが学資を得られず苦労をしていた。そこへ明治10年、「西南戦争」が勃発して柴四郎は政府軍(東北から4000人のうち旧会津藩から200名が参加)に参加して、後述する山川浩中佐指揮の別働第2旅団の一員として出陣する。 その結果、熊本鎮台司令官・谷干城少将の知遇を得た柴四郎は、谷の友人であり、土佐藩出身の豊川良平(岩崎弥太郎の従兄弟)を紹介され、そのツテで明治13年、財閥・岩崎家の援助を得て、27歳にしてアメリカに留学するという幸運を得たのであった。 因みに、土佐藩御殿医の息子であった小野春弥は明治2年に、豊臣の「豊」、徳川の「川」、張良(漢の劉邦に仕えた軍師)の「良」、陳平(同じく劉邦の軍師)の「平」を一字ずつ取って、「豊川良平」と改名した。 明治8年慶應義塾を卒業した豊川は、従兄弟の岩崎弥太郎が経営する三菱に荘田平五郎、近藤廉平ら逸材を送り込んだことで知られている。 近藤廉平は後に三菱グループの中核ともいえる日本郵船会社社長を26年に亘り勤め、日本実業界で有名な存在であった。一方の荘田平五郎は後に「三菱財閥の大番頭」と称された人物であったが、明治8年、慶應義塾教員から「三菱商会」に入社して(27歳)、早くも明治10年には「郵便汽船三菱会社簿記法」を整え、日本で初めての「複式簿記」を三菱に導入したことで知られている。 それまで日本には「大福帳」しかなく、聞いたこともない「複式簿記」というシステムの「貸方・借方」という「言葉」は、自らを「翻訳の職人」と韜晦する福沢諭吉が、当時アメリカの「チェーン店方式の商業学校」で使われていたテキストから翻訳して新たに造った言葉である。蛇足ながらcivilizationを「文明」、speechを「演説」と翻訳(造語)したのも福沢諭吉であり、それ以前の日本には、「演説」とか「文明」という言葉(概念?)が無く、福沢は初めspeechを「演舌」としたが後に「演説」に改めたとか。 「天下無敵」とも言うべき名前に改名した小野春弥改め豊川良平が入学する前後の慶應義塾においては、会津の戦場で分捕ってきた紅い女物の着物を着たり、これみよがしに朱鞘の大小を差して通学する土佐藩出身者がいたという。 咋今叫ばれる「脱炭素化」等々と同じく、「文明開化」という「お題目」は先行したが、周知のように「帯刀禁止令」が発布されたのは、漸く明治9(1876)年3月28日になってからの日本社会であった。 本題に戻ると、渡米した柴四郎は、先ずサンフランシスコの商業学校を卒業した後、アメリカ東部に向かいハーヴァード大学に何か月か居たが、最終的にはペンシルベニア大学ウォートン校(Whorton School of the University of Pennsylvania―全米で最初に開設されたビジネススクール)を卒業した。サンフランシスコの商業学校で学んだビジネス知識(簿記を含む)が、ウォートン校の卒業に役立ったのではないか。 明治18年帰国後、前述した明治日本最高の政治小説『佳人之奇遇』を発表した柴四郎は、谷干城農商務大臣秘書等を経て、明治25年の第2回衆議院総選挙に福島から立候補して当選(41歳)、前後8回の当選を果たしている。 一方、藩校日新館における柴四郎の学友・山川健次郎は明治4年、北海道開拓使派遣留学生(留学予定期間10年)の一人に選抜されてアメリカに留学し、エール大学を卒業して明治8年に帰国、開成学校(東京大学の前身)教員に採用され、その優れた資質と会津落城以来の必死の勉強(苦闘)が実り明治21年、「日本人として初めての理学博士」となる。 その後、山川健次郎は東京帝国大学総長、安川財閥の創始者・安川敬一郎の要請に応えての明治専門学校(九州工業大学の前身)総裁、九州帝国大学初代総長、再度の東京帝国大学総長(一時期、京都帝国大学総長兼任)を歴任、そして晩年には武蔵高等学校の校長を勤めた。 さてこれら柴四郎、柴五郎、山川健次郎ら会津藩出身者の活躍の中で、最も中心的役割を果たした山川浩から目をそらすことは出来ない。 山川健次郎の兄・山川浩は、父の病死により15歳で家督を継ぎ、若年ながら家老職(禄高1000石)の家に生まれた才幹溢れる人物として藩主松平容保を補佐、会津落城降伏後は青森県下北半島に転封された会津藩改め斗南藩の責任者(権大参事)として領民と共に塗炭の苦しみを舐めた。 餓死者病人続出という厳しい日々の中で、「廃藩置県」により斗南県そして青森県となった下北の地を去り、東京は浅草永住町の観蔵院に間借りしていた浪人・山川浩の家には貧しい会津出身の書生も寄宿し、斗南から上京して陸軍幼年学校入学を目指す柴五郎も、その一人であった。 そういう生活の中で山川浩は明治5年のある日、陸軍大佐・谷干城の突然の来訪を受ける。戊辰戦争の際、土佐藩大軍監・谷干城(当時31歳)は、日光口で大鳥圭介が率いる幕府軍と連携した山川浩(当時22歳)指揮の会津軍とも戦った。そしてその敵将・山川浩(明治以前は山川大蔵と名乗る)の名を忘れなかったのである。薩長の方針には安易に妥協しない人物でもあった谷干城は山川浩との面会によって、その優れた資質(一軍の将たる器)をすぐに認識し、二人は旧友のように語り合ったという。 谷の勧めに従い明治6年3月17日、陸軍に八等出仕した山川浩は同年7月10日、陸軍裁判所大主理に、12月4日付で谷陸軍少将が総司令官を務める熊本鎮台に少佐として着任した。翌明治7年、「佐賀の乱」鎮定に出陣した山川少佐は銃弾による左上腕複雑骨折という重症を負うが、中佐に昇進する。 そして明治10年の「西南戦争」に征討軍団参謀として柴四郎らを含む選抜隊を率いた山川中佐(31歳)は、熊本城を包囲している薩摩軍(西郷軍)の包囲網を破り、「熊本城包囲網突破一番乗り」として城内に到達、谷干城少将(40歳)の恩に報いた。 この戦に際して山川浩が詠んだ「薩摩人(さつまびと) 見よや東(あずま)の丈夫(ますらお)が 下げ佩(は)く太刀(たち)の 鋭(と)きかにぶきか」という一首は、会津落城降伏後、会津人が被ってきた数々の屈辱や危難を打ち払う「名歌」であると言えよう。 一方、山川浩は極めて開明的、進取的な人物であった。明治18年12月、維新以来の古めかしい「太政官制」なるものから「内閣制」となり、第一次伊藤博文内閣の農商務大臣に就任した谷干城陸軍中将(前学習院長)と並んで文部大臣に就任した旧薩摩藩士・前英国駐在公使・森有礼(もりありのり)は、その山川浩陸軍大佐を陸軍現職のまま中等教員養成機関である東京高等師範学校(筑波大学の前身)の校長に任命した。 明治24年まで足掛け6年、山川校長の新方針によって、それまで規律(discipline)に全く欠けていた校風は改まり、各科生徒の授業、体操の様子から寄宿舎まで巡覧した明治天皇は大いに満足し勅語を賜ったという。 余談ながら明治24年8月、山川浩は依願退任し高嶺秀夫が校長兼教授に就任する。高嶺秀夫は会津藩校日新館で異例の速さで進級した秀才で、会津落城の際、降伏の儀式に藩主松平容保の小姓を勤めていた。そして明治26年9月、高嶺の依願退任により東京高等師範学校校長に就任したのが、講道館長にして学習院前教頭の嘉納治五郎であった。 講道館長・嘉納治五郎は何と23年と4か月余り、東京高師校長を勤め、「天下御免の名校長」として、「高師の嘉納か、嘉納の高師か」と謳われる存在であった。明治42年1月、クーベルタン男爵の友人である駐日フランス大使ジェラールの訪問を受け、そのIOC委員就任要請を快諾した嘉納治五郎は、アジア初のIOC委員としての四半世紀に及ぶ精力的活動の末に、昭和15年開催予定の東京オリンピック招致にも成功する。その後、同オリンピックの開催は戦局の悪化(日中戦争の拡大)を理由に、日本政府が返上したことは周知である。 さて余談の余談にはなるが、このような会津藩の山川家、柴家の傑出した兄弟の話をしたからには、二男五女の山川家の末娘・咲子の活躍についても言及せねばなるまい。 会津落城降伏後、斗南に移住した山川家の人々の中で長兄浩は斗南藩政の責任者(権大参事)として、朝は藩庁に上り藩務を処理し、夕には鍬を手にして糞尿を担い、衆に先立って開墾に従事し、明治3年の時点で11歳の末娘咲子は毎日、姉達と一緒に畑に出て肥桶をかつぎ野良仕事を手伝っていた。不毛の地・下北半島での生活は厳しく、長兄・浩は母・唐衣(からごろも)と相談の上、咲子を箱舘へ里子に出すところまで生活は困窮した。 ところが浩は北海道開拓使次官・黒田清隆が海外女子留学生(留学予定期間10年)を募集していることを知り、咲子をこれに応募させた。周知のように応募者は少なく、山川咲子以外には津田梅子(8歳)、吉益亮子(16歳)、上田悌子(16歳)、永井繁子(10歳)の4人がアメリカへ向かう。 兄・浩によって箱館から斗南(田名部)の山川家へ連れ帰られた咲子に対して、母唐衣は、「一度は捨てたつもりで、十年後の帰国を待つ」という思いを込めて「捨松」という名前を与えて送り出したという。 明治4年11月12日(1871年12月21日)、横浜からアメリカ汽船「アメリカ号」に乗船しサンフランシスコに向かった「遣欧使節団」又の名を「岩倉使節団」とも呼ばれた一群の人々の中に山川捨松の姿もあった。 全権大使・岩倉具視、副使・木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら使節46名、随員18名と共に43名の留学生が同行し、黒田藩留学生・金子堅太郎や団琢磨ら男子留学生と共に前記女子5名は、大陸横断鉄道によってアメリカ東部に到達する。 一方、これより先の明治4年正月元日、アメリカ汽船「ジャパン号」に乗船し、北海道開拓使次官・黒田清隆に引率されてアメリカに向かったのが捨松の兄・健次郎であった。未開の地・北海道はアメリカにおける「西部」と同じく貴重なフロンティアであり、「ロシアの南下政策」に対しても「えぞ」の開発は明治新政府最大案件の一つであった。 明治3年、黒田清隆による「北地問題に関する建議書」を全面的に受け入れた明治新政府が、「北海道開拓に必要な外国人技術者の雇用と農業機械購入」を全て黒田に委任した結果の黒田の米国出張であった。 ワシントンで駐米弁理公使・森有礼と共にグラント大統領と会見した黒田は日本政府の意向を伝え、農務局長ホーレス・ケプロン(当時68歳)が破格の待遇で「御雇教師頭取兼開拓顧問」として招請されたのである。 同時に北海道開発のための要員養成も焦眉の急であり、東京大学開校に先立つ明治9年8月、開校式が挙行された「日本初の学士号授与機関(近代日本初の大学)・札幌農学校(Sapporo Agricultural College)」設立も、ケプロンのお膳立てによって実現されたのであった。 賜暇休暇中のマサチューセッツ農科大学ウィリアム・クラーク学長が、「教頭(実質的校長)」として破格の高給で招聘され、9か月間、同校の全てを指導し、同校のセレモニーに際し学生に与えた訓示の一節である”Boys be ambitious!”は、その時のクラーク本人の発言意図(文脈)とは関係ない文脈で、今日も人口に膾炙している。 余談ながら敢えて言及すると、カリキュラムを含めて札幌農学校の全てを取り仕切ったクラーク博士は「南北戦争」の際、北軍に志願して第21マサチューセッツ歩兵連隊の連隊長(陸軍大佐)を勤めた人物であった。 クラークが9か月の指導を終えて帰国し、ホイーラーが教頭を務める札幌農学校では「必修科目」として「軍事教練」が含まれ、その成果を発表するためか、内村鑑三や新渡戸稲造らクリスチャンに改宗した生徒を含めて全校生徒が年に一度、札幌市内を銃を担いで行進した。 太政大臣・三条実美の月俸が800円、参議・大久保利通の月俸が500円の時代にケプロンの報酬は年俸1万ドル(2万円)、日米往復と滞日中の生活経費の全ては日本政府負担という文字通り「破格の待遇」で3年半、日本に滞在したケプロンの功績を称えて、その銅像が今、札幌大通公園に立つ。 「北海道は寒い。薩長の子弟だけではだめだ。賊軍である会津と庄内からも選ぶべきだ。反対はおいどんが許さぬ」という黒田の一喝で、斗南藩が推薦する会津藩校日新館の俊英・山川健次郎が「北海道開拓使派遣海外留学生(予定留学期間10年)」に選ばれたのであった。 当時の日本は、翌明治5年に学制(学校制度)が敷かれる前で、「大学と呼ばれていた役所」が「文部省」となって、「文部省派遣第一回海外留学生(予定留学期間3年)」を選抜し、鳩山和夫、小村寿太郎らをアメリカに派遣したのは、明治8年になってからである。 北海道開拓使次官・黒田清隆と別れ、山川健次郎がたどり着いたのは、大西洋岸のニューヨークとプリンストンの中間にあるニューブランズウィックという静かな学生街であった。そこには20人ほどの日本人がいて、その中の庄内藩士・高木三郎は健次郎が会津出身であることを知ると親切に世話をしてくれたという。 高木(当時31歳)は、坂本龍馬と同じく勝海舟の「氷解塾」の門弟で、仙台藩上級士族・富田鐡之助と共に選ばれて、勝海舟の長男・勝小鹿(かつころく)をアナポリスの海軍兵学校に入学させる(入学試験に合格する学力をつけさせる)ための監督役としてアメリカに来ていたのであった。 この両者の監督の下に3年の準備期間を経て相応の学力を蓄えた勝小鹿(18歳)は、無事にアメリカ海軍兵学校入学試験に合格した。その任を解かれた富田鐡之助は、ウィリアム・ホイットニーの商業学校に入学、森有礼と相談してホイットニー一家を日本に招き、商法講習所(一橋大学の前身)設立の端緒を為す。高木は後に駐米日本公使館書記官に採用され、帰国後は実業界で活躍した。 富田鐡之助や森有礼の先見の明によって設立された「商法講習所」はその後、「商人に学問はいらぬ」といった程度の低劣な認識が支配する民度の低い日本社会においては、政治家たちの政争の具にもされて、何度も存亡の危機を迎える。その都度、渾身の力を振るって同校(一橋大学の前身)を存続させたのが、明治11年に東京商法会議所(昭和3年東京商工会議所に移行)を設立して38歳で初代会頭に就任し長年にわたり会頭を務めた渋沢栄一であり、外務省官吏(一時、駐米代理公使)から身を転じて同校校長に就任した矢野次郎であった。 山川健次郎に話を戻すと、大学入学には程遠い自らの英語力を鍛えるために山川(19歳)が、日本人のいない町ノールウィッチに移り「中学校」に入学し、そこの校長の手厚い指導を受けるという幸運を得たのは、その人柄のせいであろうか。既述の遣欧使節団と共に渡米した黒田藩派遣留学生・金子堅太郎(18歳)が、ボストンの「小学校」に入学したのと同じ発想である。そこからスタートして山川健次郎は遂に明治8年5月、エール大学からバチェラー・オブ・フィロソフィー、理学士の学位を得て、4年半に及ぶ死に物狂いの勉強に終止符を打ち帰国する。 その山川健次郎を驚かせたのは明治4年11月、妹の咲子(12歳)が捨松と名を変えて日本初の女子留学生としてアメリカに来るというニュースであった。驚愕した健次郎は兄・浩の大胆さに半ばあきれたという。健次郎周辺のアメリカ人の慫慂により、翌明治5年の晩秋、ワシントンから永井繁子と共にニューヘブンを訪れた捨松は5年ぶりに兄と再会した。錦秋のコネチカットは今も紅葉が素晴らしく、秋になるとそこへのドライブを楽しむニューヨーカーは少なくない。二人の再会は、その紅葉に彩られて一層印象深いものとなったのではないか。 捨松は全寮制の名門女子大学ヴァッサー・カレッジを明治15(1882)年、優等な成績で卒業し卒業生総代の一人にも選ばれて、卒論「英国の対日外交政策」を基にスピーチを行い、その論文は地元新聞にも掲載された。大学卒業後改めて上級看護婦の資格をも取得した捨松は、国費が支給される北海道開拓使派遣留学生としての予定留学期間10年が満期となって明治15年暮れ、11年ぶりに祖国日本の土を踏んだ。 そして帰国して1年も経たない明治16年、その捨松に対する結婚申し込みがあった。相手は日本陸軍の最高責任者・陸軍中将・陸軍卿・大山巌(42歳)である。大山との三人の子を残して病没した妻・沢子の父・吉井友実(元薩摩藩誠忠組の中心人物、日本鉄道株式会社社長、後に枢密顧問官)も大山の再婚相手として山川捨松(22歳)に注目、西郷隆盛の弟・西郷従道を仲立ちとしての縁談に山川家は揺れる。 「戊辰戦争」で大山(当時27歳)は薩摩藩二番砲隊の隊長として、会津鶴ヶ城と向き合っていたが右大腿に貫通銃創を受け後送された男であり、陸軍大佐・山川浩(47歳)にとっては、日本陸軍の最高責任者が自分の義弟になる話である。 振り返ると明治元年8月26日、籠城兵力(総勢5900人余り)が一応整った会津藩は、重臣たちの分担を決め、政務の総督が家老・梶原平馬(25歳)、軍事の総督が家老・山川浩(22歳)、城外諸兵指揮が佐川官兵衛(36歳)と定められ、籠城婦女子600名の中に山川家の母・唐衣、長女・二葉、次女・三和、三女・操、四女・常盤、五女・咲子らが、断髪男装してスペンサー銃を手にする山本八重(22歳、後の新島八重)らと共に籠城し、浩の妻・登勢(19歳)は、飛んできた敵の砲弾の破片に当たり即死するという惨劇もあった。 山川家を訪れ、捨松に一目惚れした大山の熱意は高く、結局何回かデートをした捨松は、すっかり西洋風でワインとチーズをこよなく愛する日本陸軍の総責任者・大山巌中将に好感を抱いて縁談は成立した。薩摩藩士・大山(幼名弥助、西郷隆盛、西郷従道と従兄弟)は明治2年から5年間フランスそしてスイスに留学していたのである。 明治16年11月8日に婚儀が行われ、その1か月後、オープンしたばかりの「鹿鳴館」で千人を超える客を招き、盛大な結婚披露宴が開催される。その後、鹿鳴館で度々開催される夜会において、日本人女性には珍しい長身と、フランスから取り寄せたセンスのいいドレスを着こなし、英、仏、独語を駆使する陸軍卿・大山巌夫人捨松はダンスのステップも堂に入って、「鹿鳴館の花」と称えられる存在となった。 捨松は先妻の子3人を含めて5人の子供を育て上げ、夫婦二人の時の会話はフランス語であったと伝えられている。20歳年上の夫・大山巌に対して捨松は 人前でも、「イワオ」と呼びかけることで有名であったとか。 |
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