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『実り多き米国留学三年−秋山真之海軍大尉の気迫』 第4章 「米西(アメリカスペイン)戦争」キューバでの出来事 |
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実り多き米国留学三年―秋山真之海軍大尉の気迫 第4章 「米西(アメリカスペイン)戦争」キューバでの出来事 第1節 「特別諜報第百十八号」―秋山が見たスペイン艦隊殲滅作戦 明治31(1898)年4月21日、海軍少将心得に抜擢され正式に北大西洋艦隊長官に補せられたウィリアム・サムソン(58歳)は、旗艦「ニューヨーク(装甲巡洋艦)」に座乗し5月4日、戦艦「アイオア」、巡洋艦「デトロイト」、水雷艇「ポーター」等々7隻を率いてとりあえず、本国を出港したセルベラ少将率いるスペイン艦隊がキューバ周辺到達までに寄港すると予想される(スペイン領)プエルコ・リコ島サン・ホワン港を目指して出撃した。 一方、4月8日、既述のように、主力の装甲巡洋艦2隻を率いてスペイン本国を出航したセルベラ少将は、アメリカがその行方をつかめないまま4月29日には一応の艦隊を整えて、北西アフリカ西沖合のカポ・ヴェルデ諸島を出港し、5月19日になって最終目的地であるキューバのサンチャーゴ・デ・クーパに投錨した。 サンチャーゴの人々はセルベラ艦隊を熱狂的に歓迎したが、少なくとも大艦(戦艦、装甲巡洋艦等)8隻、水雷艦艇12隻は来るものと期待していたのに、入ってきたのは、大小あわせて6隻であった。 一方のアメリカ大西洋艦隊は、プエルコ・リコ島サン・ホワン港には居なかったスペイン艦隊の行方がつかめぬまま、太平洋岸からはるばる南米南端ホーン岬を廻って駆け付けるアメリカ合衆国最新鋭戦艦「オレゴン」の合流を待つ、という神経をすり減らす日時を費やしながら、最終的には明治31(1898)年6月1日、サムソン長官座乗の旗艦「ニューヨーク」以下、全艦隊がサンチャーゴ港沖に集結した。 戦艦「オレゴン」の合流が、スペイン艦隊との対決に間に合うかどうか、全米が神経を尖らせた問題以外に、夫々の船足(最高速度)が異なる艦が艦隊として最適速度で航行する中で、補給(給炭)のタイミングについては北大西洋艦隊各艦の艦長は特に神経を使っていた。荒天時に接舷しての給炭は時間がかかり、補給基地(給炭地)で補給するにしても、そんなタイミングに敵艦隊と遭遇することだけは誰もが避けたいことであった。 さて、これより先の明治31年5月15日、日本陸軍参謀本部の命を受け、駐英公使館付武官としてロンドンに駐在していた柴五郎砲兵少佐(38歳)がワシントンの日本公使館に到着する。 この5月15日、柴五郎少佐は星亨公使、駐在武官・成田勝郎海軍中佐や留学生・秋山真之海軍大尉らの前で今度の「米西戦争」について概ね次のような見解を述べたという。 1、ヤマは、今度の戦争の原因となったキューバ島の争奪である。 2、アメリカはスペイン人をキューバから駆逐しないかぎり戦争目的を達しえない。 3、スペインはキューバを取られなければ良く、両国共に陸軍を使う前にキューバ周 辺の海上権を手に入れねばならず、そのためには一方の艦隊が相手方の艦隊 を撃破するか、特定の場所に封鎖するしかない。 4、両国の海軍力は、ほぼ互角である。 5、アメリカとしては1日も早くスペイン艦隊と対決して撃破しなければならず、今どこ にいるかわからないスペイン艦隊も、どこかで燃料(石炭)補給や修理をせねば ならず、そういう状況が長引く前に全力を集結させ、出来るだけアメリカ艦隊を分 散させておいて一か八かの勝負を決めたいところであり、こう見ると両国海軍の 決戦は近い。 6、陸軍について、キューバにはスペイン政府軍10万人程が駐留し、これに反抗す る反乱軍が1万5千人ぐらい。一方、アメリカ合衆国(人口7千万)の陸軍は僅か3 万人程度、しかも訓練も装備も30年前の南北戦争時代と大して変わらず貧弱で、その上、 キューバはこれから雨季を迎える。「熱帯の雨季という最悪の条件」で戦うアメリカ陸軍や、 最近募集された「義勇軍」は苦戦するであろう。 以上のような見解をワシントン日本公使館において陳述した日本陸軍参謀本部所属・柴五郎砲兵少佐のキューバ以後の活躍についても、後に一章を設けて言及したい。 その柴少佐は6月7日、フロリダ州タンパ市のホテルで夕食を食べていると、アメリカ陸軍第五軍団司令部から従軍する外国武官(観戦武官)一同に向かって、行き先は一切知らせずに明8日未明午前2時に乗船せよという通知があった。 陸の観戦武官の中では、ロシアのエルモロフ陸軍大佐(駐英大使館付武官)が先任で、柴少佐の顔見知りであった。イギリスのリー大尉は駐米大使館付武官であり柴は先日会っていた。更にスウェーデン、ノルウェーから夫々大尉が1名加わり、ドイツのフォン・ゲッシェン伯爵中尉、トルコの陸軍将官1名とフランスのグランプレ陸軍少佐とが後から乗り込むという。 外国武官(観戦武官)1名についてアメリカ陸軍から乗馬1頭、電騎(騎兵の伝令)6名、テント一張を貸し出し、糧食は全て師団司令部から支給されるという話であった。だが後述するように、クリミア戦争でロシア陸軍を相手に外征の辛酸を舐めた英仏陸軍に比べて、外征経験のないアメリカ陸軍は、キューバへの海を渡る兵員や兵站の輸送に不具合(兵站輸送の為の港湾施設の不備や、船舶の不足)を重ねた上、雨季の熱帯という最悪の条件下の悪戦苦闘に、観戦武官らの対応にまで手が回らず、怒って途中でワシントンへ帰ってしまった外国武官もいたようである。 一方、駐米公使館付武官兼造船造兵監督・成田勝郎海軍中佐の計らいにより、留学生・秋山真之海軍大尉は 観戦武官として、英独仏露各国の将校11人、マスコミ(新聞)関係者55名と共に、軍団司令部が乗り組むアメリカ海軍兵員輸送船「セグランサ」に乗る約束で、6月9日には陸路フロリダ州タンパに到着する。 合衆国北大西洋艦隊司令部付外国武官(観戦武官)の一人である秋山は、乗船した「セグランサ」艦内で、先に乗っていた合衆国陸軍第5軍団司令部付観戦武官の柴五郎砲兵少佐と意見交換(情勢分析)する機会があった。 柴少佐は秋山大尉より10歳近く年上であったが、秋山真之の兄・秋山好古(陸士旧第3期)の同期生として共に陸軍に勤務して、その関係で二人は顔見知りであった。参謀畑の軍人として、年下の秋山にとっては柴少佐の見分の広さ(情報収集力)や、高い教養(見識)に触れ、得るところがあったのではないか。 さて、封鎖作戦を続行するアメリカ海軍であったが、キューバを目指してスペインの第2艦隊がスペイン本土を出たとの情報もある中で、明治31年6月22日、遂にキューバ上陸の先頭を切るアメリカ陸軍第二師団が、ダイキリ村海岸から上陸を開始した。 沖の艦隊から海岸掃撃の猛烈な砲火を浴びせたのに対し、海岸防備のスペイン軍はサンチャーゴ方面や内陸方面に逃走していて、上陸作戦に対する抵抗は殆どなかった。その後、上陸地点もサンチャーゴにより近いシボネー村に変更されて、第五軍団の揚陸は無事に進行、6月29日には軍団司令部も陸上に移り、第一師団に同行した柴少佐もエルモロフ大佐らと共に24日には上陸していた。余談ながら、いずれも人気の高いラムベースのカクテル「ダイキリ」や、「シボネー」という名称は、この辺りに由来するものか。 陸軍の上陸作戦を無事に援護した北大西洋艦隊は、いよいよサンチャーゴ・デ・クーパ港内に停泊しているセルベラ少将麾下のスペイン艦隊に対して手を打ち始める。 ハバナに次ぐキューバ第2の都市(人口7万余)サンチャーゴの大西洋に向かっての港口はごく狭く、湾曲していて、せいぜい戦艦1隻が通れるぐらいの水路で、サムソン長官はチャドウィック参謀長と以前から練っていた「サンチャーゴ港閉塞作戦」を実行に移す。 6月3日早暁、アラバマ出身のリッチモンド・ホブソン大尉(海軍兵学校首席、海軍造船大技師)が指揮し、大勢の志願者の中から選抜された8名の乗員(救命帯をつけ拳銃を手にしている)を乗せた給炭船「メリマック(2千5百トン)」は、全速一杯で港口めがけて驀進し満潮を利用して港口を真横にふさいで自沈させるつもりであった。 ところがスペイン側から速射砲弾と機関銃弾とが雨あられと撃ちかけられ、舵機を破壊されたメリマックは潮に押し流されていく。ホブソンは錨を入れさせ,水線下の左舷に吊っていた用意の水雷を全て爆発させた。メリマックは沈み、かねて用意の大イカダにしがみついていたホブソン以下乗員たちは、夜が明けて近ずいてきたセルベラ少将の乗る汽艇に収容され「捕虜」となった。 ホブソン大尉らの行為は、英雄的行為として全米で熱狂的に称賛されたが、サンチャーゴ港口閉塞の目的は達成されず、入り口を横に塞ぐところを潮に流されて予定地よりは水道の奥で船は縦に沈み、スペイン艦艇の通行は依然として可能であった。 続いて6月10日、サムソンは大した抵抗も受けずにサンチャーゴ港からほど近いグァンタナモ(21世紀の今も米軍基地がある)の外港を占領し、そこを米海軍の補給(給炭、給水)基地とした上で、北大西洋艦隊を二小隊に分け、サンチャーゴ港口に近いモロー古城(小さな砦)から6マイルの弧を描き、その中心に重戦艦群5隻をいつも汽醸させたまま(エンジンとしてのボイラーを炊いたまま)港口に向かって布陣させた。 二つに分けられた艦隊の旗艦「ニューヨーク(サムソン長官座乗の装甲巡洋艦)」と、「ブルックリン(シューレイ代将座乗の装甲巡洋艦)」とを、それぞれ東翼と西翼に配したのは、万が一セルベラが脱出する時には、これらの快速力を持つ装甲巡洋艦に有利な態勢をすばやく取らせるためである。 この主力艦7隻の描く半円の列中に巡洋艦群を交え並べ、それより陸地に一段と近いところは水雷艇群と代用砲艦群とに見張らせた。夜間には、港口から150ヤードないし100ヤードぐらいの所に哨戒艇(警戒船)が何隻もいて、その外に水雷艇やダイナマイト砲艦3隻が巡邏している上に、更にその外に主力戦艦が探照燈を以て港内を真昼のように照らしていた。 こうなっては大小6隻のスペイン艦隊は「袋のネズミ」である。仮に港外に出ても、アメリカ北大西洋艦隊と戦うには余りにも非力であり、大西洋を逃げおおせる艦は、ほぼ有り得ない状況ではないか。 ところが、明治31年7月2日未明、スペイン本国海軍省から「封鎖線を破って出よ」という訓令が来た。これを受けてスペイン艦隊は7月2日のうちに港内に敷設しておいた自軍の水雷(機雷)を除去する。 7月3日朝、旗艦「インファンタ・マリーア・テレサ(艦隊司令官セルベラ少将座乗の装甲巡洋艦)」を先頭に単縦陣で6隻、狭い水道を時間をかけて通過したスペイン艦隊は、港を出て大西洋に出てからは右側に2隻の駆逐艦がついてアメリカ海軍包囲陣と対峙した。「袋のネズミ」となって、どう見ても勝ち目のないスペイン艦隊脱出(破封鎖)作戦の骨子は、次のようなものであった。 「米艦隊の封鎖力が軽減する瞬間を狙い、ふいに突出して西方に逃走する。米艦の中で追撃してくる速力を持つのは「ブルックリン」だけであり、この一隻の力はスペイン艦二隻の合力に及ばないから、旗艦「インファンテ・マリーア・テレサ」を先頭に「ブルックリン」に向かって突進し撃破することを最大目標とする。ただ米戦艦の猛撃を受ければ、必ず犠牲が出る。少なくともスペイン艦一隻はその犠牲になることを覚悟する」 ところがスペイン艦隊は一隻も封鎖線から逃れることが出来ず全滅した。犠牲になることを覚悟したセルベラ少将座乗の旗艦「インファンテ・マリーア・テレサ」は米艦「ブルックリン」を目がけて突進するが、米艦隊の猛砲火を浴びてセルベラ自身も海に投げ出され、米艦に救助される。 スペイン艦隊全滅の最大要因は、「艦の速力」が予想以上に、いざ決戦の場で低下していたことである。長い間の航海によって艦底に付着した貝類等を除去、掃除する時間がなかったのか。更にはスペイン艦隊の機関部員も十分な能力を備えず、巡洋艦最大の特徴である速力を生かすことが出来なかった。期待していた速力が出なければ、装甲巡洋艦4隻からなるスペイン艦隊は、速力は遅く、攻撃力も弱い二等戦艦4隻に堕してしまう。 明治31年7月3日午前9時半頃、米戦艦「アイオア」が「敵艦脱出セントス」という信号旗を掲げて合図の軽砲弾を打ち上げ、秋山ら観戦武官を載せた米海軍兵員輸送船「セグランサ」は「セルベラ艦隊脱出!」という合図を見て、合戦準備の姿勢で艦隊の後を追ったが、観戦距離として、同艦は初めから終わりまで4海里(7408メートル)以内に入ることはなかった。 砲撃戦は絶えず行われ、火薬の煙は海面を真っ黒に覆い、両軍の位置は見極めがたく、報告書を作成するにあたり、秋山はサムソン司令官の「戦闘報告」を参照し、更には戦後、捕虜となったスペイン艦隊幹部(例えば旗艦「インファンタ・マリーア・テレサ」の先任将校アスナール少佐ら)をも慰問・面談して、詳しくスペイン艦隊の内情を聞いている。 既述のように戦後、ワシントンから秋山は明治31年8月15日付けで、サンチャーゴ港封鎖作戦の全貌を、海中に投げ出されたスペイン将兵(セルベラ少将を含む)の救助に至るまで、精細な報告書にして直属する海軍軍令部第三局諜報課に送った。 それは緒論、本論、結語という構成で、10章に亘って展開される「本論」は第1章としてサンチャーゴ港及びその周辺の地勢から始まり、第2章はサンチャーゴ港水路の防備という順序で第10章まで続く精細な論文で、秋山真之大尉(30歳)のアメリカ留学の最大収穫と言うべきか、秋山が到達した知的レベル(見識)を充分に示している。 大口径砲、速射砲を搭載した高速の戦艦、装甲巡洋艦の戦いを実際に目にした日本史上まれに見る貴重な報告書(後に「極秘諜報第百十八号」と銘打たれる)の「緒言」として次のように述べた秋山は、その意図を明らかにしている。 「小官視察ノ着眼ハ、主トシテ米軍用兵、師兵諸術ノ巧拙、得失、若シクハ実戦ニ於ケル近世兵器、兵具ノ利鈍、便否等ニアリシヲ以テ。此ニ報道スル処、又其外ニ出ル事叶ワズ」 このように秋山が要求しなくても、当然「部外秘」となった「極秘諜報第百十八号」ではあるが、序章(プロローグ)で述べたように、これを「古めかしい封建制度を漸く脱して近代国家としてスタートしたばかりの日本社会(近代国家としての揺籃期日本社会と言うべきか?)」において、初代海軍卿・第2代海軍卿という役割を担わされた勝海舟や榎本武揚が目にしたならば、まさに「今昔の感」に襲われたのではないか。 幕府留学生として4年余りオランダに滞在した榎本は、既述のように元治元(1864)年2月か3月、同僚の赤松則良と共に「日本人観戦武官の嚆矢」として、第2次シュレースビッヒ=ホルシュタイン戦争を視察し、クルップ砲の威力を体感した経歴の持ち主である。 その上、榎本武揚は徳川幕府最新鋭軍艦・オランダ渡来のフリゲート「開陽」の艦長を勤め、「鳥羽伏見戦争」の際は大阪湾に停泊し、留学生として4年に亘るオランダ滞在中には、「無線機」を借りて日本人として初めて「モールス信号(トン・ツー?)を練習した人物であった。 そういう榎本が、「サンチャーゴ封鎖作戦」最前線の当事者である「合衆国北大西洋艦隊長官サムソン少将(装甲巡洋艦ニューヨーク座乗、どちらかと言えば寡黙な人物)」について、或いは同艦隊「装甲巡洋艦ブルックリン艦長シューレイ代将(ジャーナリストに対して当たりが良く人気が高い海将)」について、秋山がその論文(本論)において論じた「人物評」を読んだならば、どのような感想を漏らすであろうか。 第2節 キューバ島陸上戦闘とセオドア・ルーズベルト陸軍大佐 米西戦争に際し、義勇騎兵隊・別名ラフ・ライダース(荒馬騎馬隊)の隊長(陸軍中佐)に就任しキューバに出征したセオドア・ルーズベルトは、有力政界人(アメリカ合衆国海軍次官)としての単なる思いつきや人気取りを目的として、その地位についたのではなかった。 20代半ばの2年余に亘った牧場主(Rancher)、狩人(Hunter)、文筆家(Writer)として酷暑酷寒のダコタ準州における厳しい生活(修行)の外に、実はルーズベルトは時間を見つけてはニューヨーク州兵の訓練にも定期的に参加してCaptain of National Guardに任命され、陸軍将校としての素養も身に着けていたのである。 周知のように、州兵(National Guard)には災害救援、暴動鎮圧などの治安維持のほか、アメリカ軍の予備部隊としての機能が大きい。 剛毅な風貌と不屈の精神で好戦的言辞を吐くばかりでなく、用意周到な人物でもあったセオドア・ルーズベルトは、自分が幼かった南北戦争の際、尊敬する父(セオドア・ルーズベルト・シニア)が、当時認められていた(富裕層の)慣習に従い、金銭を支払って代理徴兵人を立て、戦争に直接参加することを免れていたことを、心の中で深く遺憾としていたのではないか。 既述のように、明治31年4月末の「米西戦争」勃発により5月6日、欣然と「海軍次官」の職を辞し、キューバに赴き戦うことを決めたセオドア・ルーズベルトに対して、直属の上司ロング海軍長官(前マサチューセッツ州知事、温厚な性格で海軍省の多くの事をルーズベルトに任せていた)やマッキンリー大統領らは、口を極めてルーズベルトをいさめたというが、「軍備(海軍力)増強の権化」セオドア・ルーズベルトは聞く耳を持たなかった。 絶えず海軍力増強を唱えるルーズベルトは、南北戦争の傷が漸く癒えて平穏な社会となった当時アメリカ政界主流(穏健派?)からは「好戦的な暴れ馬」のイメージを抱かれ、頭脳明晰、舌鋒鋭いルーズベルトは他の政治家にとっては煙たい存在でもあったが、その決意が堅いことを知って大統領以下、アメリカ合衆国陸海軍を挙げて、ルーズベルトが主唱する「義勇軍結成」に協力する方向に向かったのである。 そもそも「義勇軍」とは何か。日本人には馴染みのない「義勇軍」なるものを辞書(デジタル大辞典)で引くと、「義勇軍」とは「戦争・事変の際に人民が自発的に編成する戦闘部隊」となっている。 我々の記憶に残る最近の「義勇軍」は、昭和11(1936)年7月17日から昭和14(1939)年4月1日に戦われた「スペイン内戦」に55か国から4万人とも言われる人々が参加した「スペイン内戦時の国際義勇軍」である。 左右両側の立場で、陰に陽に様々な義勇兵がスペインに流入したが、反乱を起こしたフランコ将軍に敵対する勢力の一員として参加したのが、アメリカのアーネスト・ヘミングウェイ、イギリスからのジョージ・オーウェル、フランスからのアンドレ・マルローらの文化人であり、ジョージ・オーウェル著『カタロニア讃歌』、アンドレ・マルロー著『希望』、そしてアーネスト・ヘミングウェイ著『武器よさらば』、『誰が為に鐘は鳴る』等々の著作は、今や人類にとっての大きな遺産となっている。『誰がために鐘は鳴る』は、昭和24(1949)年、ゲイリー・クーパーとイングリット・バーグマン主演の映画となって、世界中の人々に強い印象を与えた。 そして何よりもアメリカ合衆国国民にとって、最も印象的で子供でも知っているのが、ジョン・ウェイン主演の映画『アラモ(The Alamo)』に描かれているテキサス独立戦争中の1836(天保7)年2月23日から3月6日まで戦われた「アラモの戦い」である。 現在のテキサス州サン・アントニオ中心街に遺跡として残っている「アラモ伝道所」で、強大なメキシコ軍に包囲され「玉砕」した200名内外の人々は、殆どが「義勇兵」としてメキシコ軍との戦いに志願して集まった人々であり、ジョン・ウェインが演じる映画の主人公デイビー・クロケット元テネシー州選出連邦下院議員に率いられた「12名の勇者」もその中にいた。 ローレンス・ハーベイが演じるトラビス大佐の最後の発信「敵は私の降伏を要求した。私はただ一発の大砲で彼らの要求に答えた。私は決して降伏しない」という言葉は、誇り高いテキサス人(テキサン)のプライドの根源となり、日本よりも面積が広いテキサス州で活躍する人々の体からは、21世紀の今日もそのプライドが発散されている。 驚くべきことに、62年前にそういう「玉砕」という事実があったアメリカ合衆国(合州国)において、セオドア・ルーズベルト前海軍次官の呼びかけに応じ、キューバで戦うべき「義勇軍騎兵」となるために、全米から何と2万人を超える人々が応募してきたのである。 ハーヴァードやエール、プリンストン等いわゆるアイビーリーグの学生達、プロ(野球?)やアマチュアのスポーツ選手、中西部からも街の旦那衆やカウボーイ、鉱山師や鉱夫、狩人、小売商人、保安官や前兵士、そしてインディアンと呼ばれるアメリカ原住民等々が応募し、20倍を超える高い競争率の中で、約1000人の人々が「義勇軍兵士」として選抜された。 集められた「義勇軍」は、由緒ある前記テキサス州サンアントニオ(アラモ砦の遺跡が残る町)において騎馬連隊(?)としての訓練を受けた後、明治31年5月29日、同地を出発、4日をかけてフロリダ州タンパ港へ移動する。その後カリブ海の制海権がスペイン側にあることを警戒してか、6月13日になって漸くキューバに向かった「義勇軍」は、輸送力の不備(港湾施設の不備や軍馬の輸送に適しない輸送船等)その他の理由によって1000名から700名に減員となり、せっかく選抜されながらタンパ港に置き去りにされてしまった義勇軍兵士300名は悲嘆に暮れたという。 円滑とは到底言えない輸送や揚陸というプロセスを経て、6月23日、サンチャーゴ東方約25キロの小村ダイキリに上陸したセオドア・ルーズベルト指揮下のラフ・ライダース(荒馬騎馬隊)は、6月30日、サンチャーゴ市街(軍港)背後にあるサン・ホワン丘上のスペイン軍要塞を攻撃する命令を受ける。 黒人部隊を含むアメリカ陸軍正規部隊の右翼に位置して、前進を開始したルーズベルト(陸軍中佐から大佐に昇格)らを待ち受けたスペイン軍もよく戦って、この日1日だけでアメリカ陸軍の損害は数百人に及んだという。熱帯での戦争ゆえ、双方の死体にはハゲワシや陸蟹が群がり、凄惨な様相を呈したという。 既述のようにキューバに駐屯するスペイン軍10万(そのうち5万はハバナ周辺に展開)に対して、当時人口7500万人のアメリカ合衆国陸軍の総兵力は2万足らずで、この戦役に出征したアメリカ陸軍正規部隊は、旅団長シャフター少将率いる第5軍団、兵数1万6千の臨時編成混成旅団であった。 一方ルーズベルト陸軍大佐の義勇軍は、騎兵部隊のはずが、アメリカからキューバまで輸送できた馬は殆ど無く、幸か不幸か騎兵を展開できるような戦場の地形でもなく、砲火と銃火が断続的に続く中でただ一人、馬上で戦場を往来したルーズベルト隊長であった。 そのルーズベルトも馬が鉄条網に絡まり最後は徒歩で突進したが、ルーズベルトとその部隊「ラフ・ライダース」にとって明治31(1898)年7月1日は、「生涯で最も偉大な日」であった。 キューバ反乱軍との戦闘経験があるばかりでなく、最新強力なモーゼル銃を手にするスペイン軍に対して、正規軍を含むアメリカ陸軍の火器、装備は南北戦争時代と大して変わらない貧弱なものであった。断続する弾雨、砲撃の中で兵卒に前進を促すただ一人馬上の隊長ルーズベルトの姿は、ラフ・ライダース隊員の目には正に「鬼神」のように映じたのではないか。 戦闘はこの日で終わらず、翌2日午前3時、飛来した敵の奇襲砲弾によってルーズベルトのそばにいた数人が斃されたが、ルーズベルトは砲煙(煤)を浴びただけで済み、「不死身の男」の評判は益々高まったという。 サン・ホワンという険しい丘の上にスペイン軍の砦が築かれ、頂上の左右にはスペイン軍の塹壕も見えて、丘の頂上に立てばサンチャーゴの市街と港が見下ろせるという地形の中での戦いであった。 記憶すべきは、この戦闘をアメリカ軍砲兵陣地の近くの小高い丘からつぶさに観戦したのが、英国駐在武官からこの戦争の「観戦武官」としてワシントンに派遣された日本陸軍参謀本部諜報課所属の柴五郎砲兵少佐、ドイツ陸軍武官フォン・ゲッシェン伯爵中尉ら外国武官たちであった。 アメリカ軍がダイキリ村、その近くのシボネー村に上陸してからサン・ホワン丘に至る前のエル・カネーの戦いを含めて、スペイン陸軍は将官2名、佐官10名をはじめとして将校48名、兵士533名が死傷した。前線で指揮を執っていたサンチャーゴ州総督ボンボ中将は、左右両足を二発の銃弾で撃ち抜かれタンカで運ばれる途中、タンカを担いでいた2名の兵士と同時に敵弾を浴びて息絶えたという。 未経験の熱帯における戦争に、誰よりも先に健康を害してしまった最高司令官シャフター少将(南北戦争で活躍した北軍の勇将)が象徴するように、このキューバ陸戦におけるアメリカ合衆国陸軍は、ロシア軍を相手のクリミア戦争で苦い体験をしたイギリス陸軍やフランス陸軍とは異なり、「対外戦争」の経験が無いためか、兵員輸送、揚陸計画その他、大軍の運用・作戦には、お粗末な局面を露呈したようである。 しかしながら、この血なまぐさい実戦を通じて観察されたのは、体が強健で困難にはよく耐え、勇敢で沈着、危うい時に平気な顔をしているアメリカ兵の姿であった。敵の負傷兵や捕虜に対しても親切だし情け深い。その義侠心は下士官や兵にも一貫しているのを実見した柴五郎少佐は、アメリカ陸軍を見直したという。 他方、スペイン軍も世評と異なり、卑怯、臆病なところは微塵もなく、勇気があり大胆で見上げた軍隊であることを柴少佐は実感した。 総司令官が寝込んだ上に、多くの死傷者を出したアメリカ陸軍第五軍団は、臨時編成混成旅団であり、外国武官(観戦武官)に対して十分な対応が出来なかったせいか、既述のように観戦武官先任将校のエルモロフ大佐他、何人かは怒ってワシントンへ帰ってしまったという。 そういう状況においても、慣れない雨季の熱帯という最悪の条件下で、最後まで職責を全うした柴五郎少佐(後に陸軍大将・第12師団長・東京衛戍総督・台湾軍司令官)の国際人としての見事な事績について、敢えて次章で言及したい。 第3節 セオドア・ルーズベルト―キューバ凱旋から大統領(42歳)への道 サン・ホワン丘の攻略に成功したアメリカ陸軍は、戦いが終わってから黄熱病やマラリア等の伝染病により将兵がバタバタと倒れ、義勇軍連隊長ルーズベルトは正規軍を含む米軍将兵を代表して陸軍長官宛の(転地の)嘆願書をシャフター総司令官に提出する。陸軍省はカンカンに怒ったが結局、サンチャーゴ派遣アメリカ陸軍は8月15日の朝には、検疫のためニューヨーク州ロングアイランドに上陸した。 前述したように、柴五郎砲兵中佐がイギリスからの観戦武官バシェット大佐やドイツからのフォン・ゲッシェン伯爵中尉らと共に、つぶさに推移を観察したサン・ホワン丘の戦いで、義勇軍「荒馬騎馬隊(Rough Riders)」第一連隊長として、鬼神のような働きをして一躍「国民的英雄」となったルーズベルト(39歳)は、同年11月行われたニューヨーク州知事選挙に立候補して見事に当選した。 Boy Governor(少年知事?)という言葉が生まれるほど新鮮な出来事ではあったが、長年のしがらみや利権が渦巻くニューヨーク政界においては煙たい存在であった。 「俗は俊畏を悪(にく)み、世は奇才を忌む」という諺があるが、ニューヨーク政界は、「全米的名声を得たルーズベルト(アメリカで最も有名な人物)、39歳」を煙たがり、明治33(1900)年の大統領選における共和党大統領候補マッキンリーの下の副大統領候補に押し上げて(棚上げして)しまう。 当初、ニューヨーク州知事として再選を望んでいたルーズベルトは、明治32年6月フィラデルフィアで開催された「共和党全国大会」にニューヨーク州代表団の一員として出席した。そこでの事態はルーズベルトが予想もしない展開となり、ニューヨーク州選出プラット上院議員や全米的影響力を有する共和党大物たちの舞台裏を含めての熾烈、巧妙な駆け引き(取引)に引きずり込まれたルーズベルトが、遂に「副大統領候補」としての「指名受託演説」を行う局面を迎えたのである。 思わざることに副大統領候補となったルーズベルトは、受け身ではなく、むしろ能動的、積極的にアメリカ史に残るほどの遊説実績(距離と頻度)を重ねて、明治33年の大統領選挙では、マッキンリー・ルーズベルトのコンビが民主党コンビに圧勝する。 ところが、当選したマッキンリー大統領が翌明治34(1901)年9月暗殺されて、セオドア・ルーズベルトは史上最年少(42歳と10か月)で、第26代アメリカ合衆国大統領に就任したのであった。 その後、明治38年春行われた大統領選挙に当選して二期目の大統領として余裕があったか、コロラドの山中に馬で4週間分け入りテント生活をしたルーズベルト大統領は、6頭の大熊(体長2メートルを優に超えるグリズリーベアー)を自らの銃で仕留めた。 その中の最大の熊(体長3メートル)の毛皮を日露の戦勝を祝して明治天皇に贈呈し、返礼に明治天皇は緋縅鎧(ひおどしのよろい)を贈ったという。 体長2メートルを超えるようなヒグマを狙うとき、急所を外せば自分に向かって突進してくる大熊に、ひるむことなく第二弾の引き金を引く、決断力に富んだセオドア・ルーズベルトであった。 * 写真はセオドア・ルーズベルト大統領から柔道の師範(Professor)山下義韶に送られた葉書。 日露開戦から1月足らずの明治37年3月1日、ホワイトハウスにおける試合でアメリカ海軍のレスリング選手ジョージ・グラント大尉(身長2メートル、体重160キロ)を「巴投げ」と「腕ひしぎ十字固め」でギブアップさせた山下義詔を師匠として、週に3回、朝食前の70分、セオドア・ルーズベルトはホワイトハウスの書斎を改造した道場(畳70畳敷き)で、時に山下の弟子であるワシントン駐在日本公使館付駐在武官竹下勇海軍大尉も加わり、山下が帰国するまでの2年間、柔道の修行に励んだ。 竹下勇(海兵15期)は、これによってホワイトハウスを訪れるのにアポイントを必要としない特別の存在となり、ワシントン社交界の注目を集める。本文に述べた通り海軍兵学校の2期先輩で秋山真之とは気が合った竹下は、後に連合艦隊司令長官、海軍大将に叙された。 日本人にとってなんとも痛快、破天荒なことに、山下義詔(後に昭和10年、その葬儀において嘉納治五郎から「講道館初の十段位」を贈られる)は、この明治37年3月のホワイトハウスに於ける出来事の後、年俸4000ドル、2年契約でアメリカ海軍兵学校に新設される「柔道科」の教官として採用されたのである。 当時の為替レートは1ドル約2円であり日本の海軍中尉の年俸が400円であったから、山下の年俸8000円は途方もない高給であった。 |
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