![]() |
|
『実り多き米国留学三年−秋山真之海軍大尉の気迫』 第3章 留学生・秋山真之海軍大尉と駐米特命全権公使・星亨 |
|
|
![]() |
実り多き米国留学三年―秋山真之海軍大尉の気迫 第3章 留学生・秋山真之海軍大尉と駐米特命全権公使・星亨 さて、新進気鋭のセオドア・ルーズベルト(39歳)が合衆国海軍次官に任命された明治30年、既述のように同年6月、アメリカ留学命令を受け渡米した秋山真之海軍大尉(29歳)は、マハン大佐や海軍大学校長グッドリッチ大佐、そして海軍省情報部や海軍文庫等に関係する多くの淡白懇切なアメリカ海軍士官らとの幅広い交流によって、充実した留学生活を送ることができた。 そしてそれ以外に、秋山真之のアメリカ留学生活を極めて実り多いものとしたのが、秋山が絶えず身を寄せたワシントンの日本公使館(大使館となったのは日露戦争以後)と、そこにおける駐米特命全権公使・星亨そして後任の小村寿太郎との深い交流であった。 第1節 明治日本政界の偉才(異才?)星亨 容貌魁偉、時に傲岸不遜、そのあだ名も「おしとおる」であった星亨(ほしとおる)は、江戸の左官職人の子として生まれた。その父は、彼が1,2歳の頃、失踪して行方不明となり母子は麻布の裏長屋で暮らす中で、母は幼児の星を背負ったまま赤坂の溜池(実際に広く深い池があった)に身を投げることを思うほど貧窮していた。その後、星は母の再婚相手の貧しくも心優しい養父と、流浪先の横浜で知り合った人々のおかげで、幕末、宣教医へボンが深く関係した横浜・幕府英学所(現在の神奈川県庁所在地にあった)で英語を学ぶことができた。遊び友達の父親が神奈川奉行支配の蘭方医という縁で、流浪生活の中の星がその蘭方医の息子と連れだって英語を学ぶことを許されたのである。 その後、江戸で御家人小泉家の養子となった星が、縁あって江戸で小さな家塾(英書・漢書塾)を開いていた前島密に、その才能(明晰な頭脳と集中力)を見出されたことから星の運が開け始まる。新たに開設された薩摩藩開成所の英学教師を勤めていた前島密が、兄(300年続く新潟の豪農・上野家の長男)の死を理由に休職し、薩摩を出て再び戻らず、江戸で目立たない家塾を開いていた所へ入門したのが星亨(当時16歳前後)であった。 前島の恩人(師匠)であり日本英学の源流である長崎英学の泰斗・何礼之(が のりゆき、長崎洋学所学頭から幕府開成所教授、幕府海軍伝習生取締、後に岩倉使節団一等書記官、貴族院議員)と、その英語一番弟子である前島密(薩摩藩開成所英語教師、幕府開成所数学教授、兵庫奉行支配役、明治新政府における初代駅逓総監、後に「日本郵便の父」と称される)に鍛えられ、期待され(厚遇され)、ミシミシと英語を勉強した星は、この二人との縁によって陸奥宗光の知遇を得る。 余談ながら敢えて言及すると勝海舟が神戸に開設した「海軍塾」の塾頭・坂本龍馬の指導を受けてその配下となり、長崎において若輩ながら「海援隊」商事部門を統括した陸奥宗光(当時は伊達小次郎、陸奥陽之助等々を名乗る)は、「何礼之英学(私)塾(門人は加賀藩、松前藩、黒田藩等々諸藩からの俊秀300余名)」において薩摩藩士・錦戸弘樹を名乗る優秀な門弟でもあった。 英語を勉強した星が英語教師(大阪洋学校訓導)として世に出たところは、10歳でへボンの門弟となり既述のような活躍をした高橋是清と同じであるが、明治7年1月、星亨(25歳)は陸奥宗光にその才腕を買われて租税権助・第4代横浜税関長に任命された。 その横浜税関長・星亨は就任から半年余りの業務の中で、「Queen」を女王と翻訳したところ、それを「女皇」と訂正しろと抗議したイギリス領事に対して、不敬、乱暴な言葉を吐いたとかいうことで、その上司イギリス公使パークスの怒りを買った。当時のイギリス公使パークスの立場は、太平洋戦争敗北直後のマッカーサー元帥のような感じで、狼狽した日本政府首脳は、とりあえず横浜税関長としての星を免職にして贖罪金2円を払わせた上で、大蔵省租税権助の身分はそのままにしてイギリス留学を命じた。 明治7年暮れからロンドンはミドル・テンプルの法学院で持ち前の明晰な頭脳と集中力を発揮した星は、明治10年6月には法学試験に合格し、「日本人初のバリスタ―(英国法廷弁護士)」の免状を手に同年8月、意気揚々と帰国する。 明治11年2月、予定通り日本国初の「司法省附属代言人」の辞令を受け、29歳の星亨は代言事務所(法律事務所)「有為社」を設立、英国流に弁護料の半分は前収し、残額を勝敗の如何に関わらず取る方式を励行、諸官庁依頼の訴訟では高額の弁護料を遠慮なく請求した。 その一方、英国ジャーデン・マセソン社から高島炭鉱をめぐって巨額の損害賠償を求められ法廷に引きずり出された元土佐藩上級士族(元・左院議長、元・参議)後藤象二郎の弁護を引き受け、後藤にとっては極めて有利な条件で示談に持ち込むという才腕を発揮した。この事件を契機に、弁護士(代言人)星亨の評判と収入は鰻登りで、程なくして一財産を手にした星は政界に進出、明治15年、出来たばかりで早くも金欠病に罹り始めた板垣退助の「自由党」に幹部として加わり、「自由新聞」によって薩長藩閥政府の批判を展開する。 高まる自由民権運動や明治23年に予定されている国会(帝国議会)開設を前に、「薩長藩閥政府」は「政党」を厳しく弾圧し、明治20年12月には、内務大臣・山縣有朋が命じ警視総監・三島通庸も逡巡する程の苛烈な「保安条例」の施行により、星は東京での居住を禁じられ、間もなく「出版条例」違反の罪を着せられて投獄されるに至った。 明治21年、出獄した星は日本を出てアメリカとカナダで1年を過ごし、その後イギリスに、そしてドイツのベルリンに暫く滞在して明治23年に帰国する。星がベルリンに滞在した頃、講道館長にして学習院の前教頭(宮内省御用掛)として欧州視察中の嘉納治五郎(30歳)もベルリンにいた。 ドイツ滞在中の星には、カフェで女連れの態度の悪い(東洋人蔑視)オーストリア貴族の顔面を、コウモリ傘で殴りつけるという武勇伝(『赤毛布――洋行奇談』明治33年刊)もあった。殴打されたまま黙ってその場を去った人物は人々に怪しまれ、結局、連れの女がコールガールであったことがバレて、その貴族は事を丸く収めるどころか、却って面目を失ったという。 その後、明治25年2月15日に行われた第2回衆議院総選挙で、星亨は自らが衆議院議長になることを「公約」として掲げ、地縁も血縁もない栃木1区から立候補して当選する。その選挙運動の中で星は、「諸君、星君は我輩である。此度何等の因縁か栃木第一区より候補者に立った。抑々それは選挙区の名誉である。諸君、此の名誉を重んずれば我輩をして当選せしめよ」と切り出したという。この選挙で当選した星は公約通り、初代衆議院議長・中島信行(陸奥宗光の義弟)を継いで第2代衆議院議長に就任する。 ところが、明治日本政界の偉才(異才?)とも称さるべき星亨・第2代衆議院議長は、明治25年11月25日、国会開院式の直後、「議長星亨君ニ信任ヲ置ク能ワズ……故ニ同君自ラ処決セラレンコトヲ望ム」と緊急動議案を提出され、その動議は可決されたが、「内ニ疚シイコトガゴザイマセヌカラ」と突っぱねた星は翌日も登院して議長席につく。そこで次には不信任上奏案が出され、それも可決されたが星は従わず、議員の体面を汚すものとして12月5日に7日間の出席停止案が可決された。ところが8日目には平然として登院し議長席についた星は12月13日には懲罰委員会に付され、本会議でも3分の2の賛成で衆議院から追放されてしまった。現職衆議院議長が衆議院から除名されるという日本憲政史上唯一の出来事の主人公・星亨は、しかしながら、翌明治27年3月1日の第3回衆議院選挙に同じく栃木1区から立候補して当選し、議席を回復する。 第2節 政界の領袖・星亨の怒気と軍人・秋山真之の気迫(度胸) 星亨が議席を回復して間もなく「日清戦争」が勃発し日本は勝利を収めたが、戦後の「下関条約(日清媾和条約)」調印から6日後の明治28年4月23日、ロシア、ドイツ、フランス三国の駐日公使たちが連れだって外務省を訪れ、所謂「三国干渉(遼東還付)」という国辱的事件が発生した。 明治28年4月17日、下関の料亭・春帆楼において下関条約(日清媾和条約)が締結され、朝鮮国の独立、台湾、遼東半島、澎湖諸島の割譲、賠償金・庫平銀2億両(当時日本の国家予算の3年分)等が決定した。戦勝気分に沸く日本国民は各地で「提灯行列」を盛り上げながら、同条約で獲得した台湾や遼東半島における「植民地経営」に夢を馳せる。 ところがその6日後の明治28年4月23日、ドイツ帝国、ロシア帝国、フランス共和国の駐日公使たちが連れだって外務省を訪れ、病気療養中の陸奥外相に代わって応対した林董外務次官に対し、日本の遼東半島領有は東アジアの平和を乱すものとして、「遼東還付を勧告する覚書」を手渡す。この三国を相手に戦う能力は日本にはなく、日本政府は5月5日の閣議で「遼東放棄」を閣議決定し、同日その旨を独露仏駐日公使に連絡した。 「捕らぬ狸の皮算用」となった「遼東還付」は、日本国民の自尊心を大きく傷つけ、新聞の見出しも「遣る瀬無き悲憤」等々の悲壮な言葉に溢れ、やがて巷では「臥薪嘗胆」等のスローガンが叫ばれ、日本社会全体が国粋主義的、軍国主義的雰囲気に覆われていく。換言すれば、この事件をきっかけとして、「臥薪嘗胆」を合言葉とする「国粋主義的、軍国主義的風潮」が「精神的底流」として、日本社会の支配的雰囲気(国民感情或いは世論?)を形成していく。 前述した「時勢は変転し、時流は変化する」という島田謹二の言葉通り、「自由民権」、「民力休養(減税)」等々を主張する民党(政党)対して、「軍備増強」を優先する「薩長藩閥政府」という「日本政界の基本的構図」に代わって、新たに政党間(板垣、星らが率いる自由党対大隈重信が首領の進歩党)の足の引っ張り合い、あるいは自由党、進歩党内部でのゴタゴタが社会現象化してくる。 星亨は、そういう「日本政界の地合いの変化」の中で、様々な葛藤に嫌気が差したか、自由党領袖として明治29年2月6日、伊藤博文首相を訪ねて外国行きの希望を漏らす。伊藤は自らが率いる薩長藩閥政府と密接な協力関係となってきた民党・自由党との連携に自由党の内部事情によって、むしろ障害(邪魔)になってきた自由党領袖・星に対してイタリア公使となることを勧めたというが、明治29(1896)年4月27日、星亨は駐米全権公使に任命された。 そして明治30年、留学生・秋山真之海軍大尉が初めてワシントンの日本公使館(大使館に昇格したのは日露戦争後)に顔を出した時の駐米全権公使・星亨は、優れた英語力と無類の読書家という一面で周囲を圧していた。 本を読みながら食事をし、読みながら食べながら人にも会う、という人を食った人物でもあった星は、公使としての交際費の大部分を書籍の購入にあて、後年、星の不慮の死の後、1万を超えるその蔵書は慶応義塾大学図書館に寄贈され、現在も「星文庫」として収蔵されている。星コレクションの中核である”The House of Commons Parliamentary Paper”(Bound set)は英国の近現代史はむろん、あらゆる社会科学分野の情報源であり、19世紀イギリスの議会文書(Sessional Papers)を網羅する貴重な世界的資源とされるが、その中には、1547年〜1782年の「下院議事日誌」が含まれていて、星亨の学殖の深さを窺わせる、正に「国宝級の極めて貴重な資料」である。 ワシントン日本公使館2階の一室が星の書斎になっていて、秋山がそこに出没して勝手に本を取り出して読むことを苦々しく思っていた星がある時、機嫌を悪くして大声で秋山を怒鳴った。これに対して秋山は、「公使は貴重な書物を色々お求めになりますが、とてもそんなに沢山お読みになれますまい。ワシが代わって読んでさし上げているのです」と答え、まわりの者(ワシントン駐在日本公使館員ら)は度肝を抜かれたという。短躯、容貌魁偉、いわゆる壮士たちをもアゴで使ってきた明治日本政界の領袖・星亨の怒気と、それをカラリと躱した容貌非凡な軍人・秋山真之の気迫(度胸)が、周囲の人々を圧したのではないか。 第3節 ハワイ併合とキューバ問題 ワシントン日本公使館でこのようなエピソードがあった明治30年、アメリカ合衆国は「ハワイ併合条約」を締結して上院の批准を待つ展開となった。これに対してハワイには3万近い「移民」がいる日本はアメリカ政府に抗議したが、大隈外相、星公使から提出された「抗議文」の文面が厳しく、それを読んだマッキンリー大統領が、まるで「最後通牒」か「宣戦布告」のようだと言ったとか。 当時アメリカ政界の実情として上院では「ハワイ併合」反対論者が多数で、条約は容易に批准される状況にはなく、むしろ目と鼻の先のキューバ植民地を統治している老大国スペインとの「緊張関係」に、人々の神経が集中していた。 そういう状況の中で、星公使は明治30年一時帰国し、先にマッキンリー大統領に対して強硬な抗議文を提出させた大隈外相の「アメリカによるハワイ併合」に対する本音を確認する。先ず星は、建前として次のような強硬な「意見具申」をして大隈の反応を探った。 「ハワイの地理的条件、日本人が2万人以上いる事実、また多年の日本とハワイ両国の関係を考えれば、超然黙過できない。……現在、ハワイ国との間に日本人移民上陸拒否事件に関する談判が進行中である。急速に有力の軍艦数隻を派遣し、反報の名を以て同島を占領する時、日米両国間で兵火相見るの不幸になるやも知れないが、ハワイ合併を防止する結果を見るに至るべきかと考える」 「対外硬」という日本伝来(独特)の「外国に対する威勢のいい姿勢」は、政治家にとって国民的人気を得る一つの有力なポーズではあるが、対外硬伯・大隈外相を含めて日本政府当局者の中に、アメリカ合衆国に対して「有力軍艦数隻を出しハワイを占領してまで事を構える」愚か者がいないことを確認して、星は任地ワシントンへ戻る。 日本政府はアメリカと事を構えるどころか、2年前の「三国干渉(遼東還付)という国辱」を踏まえ、西洋諸国(主として英国)に軍艦を大量発注し、おまけにアメリカの機嫌を取るためか、海軍省装備局長・山本権兵衛少将が中心となり、「巡洋艦2隻」の建造をアメリカの会社に依頼した。 かくして明治31年1月20日、フィラデルフィアのクランプ造船所で行われた日本海軍向け巡洋艦の進水式で命名その他の主役を演じたのは、ワシントン社交界の花ヘレン・ロング(ロング海軍長官の愛娘)であり、その後の盛大な祝宴(日本海軍のナリタ中佐、アキヤマ大尉、アメリカ海軍のマハン大佐夫妻や海軍省各局長、ロング海軍長官そして国務長官らも出席者の中にいた)を主催し、しかるべき司会をしたのはイギリス法廷弁護士(バリスタ―)資格を有する英語の達者な特命全権公使・星亨であった。アメリカ合衆国で建造された戦艦「笠置(進水式後イギリスのアームストロング社で兵装を搭載)」及び「千歳」の2隻は、周知のように7年後の「日露大海戦(対馬沖海戦)」その他に参加する。 さて一方、その明治31年8月10日行われた第6回衆議院総選挙に、星の股肱の臣とでも呼ぶべき「自由党関東派」と称される勢力によって、不在(米国駐在)のまま栃木1区から立候補して当選した衆議院議員・星亨(米国駐在全権公使)は、ハワイにおける日本移民上陸拒否事件をめぐっての米国務長官との交渉に自分なりの目鼻を付け、明治31年7月20日、上司(内閣総理大臣兼外務大臣・大隈重信)の許可を求めぬまま、勝手にワシントンを発って帰国の途についた。 明治31年8月15日早朝、横浜に上陸した星はサンフランシスコで受け取ったか、「帰国を許さず」という外務省からの電報を出迎え人の前で開封し、「もう帰朝してしまったのだから、今更引き返す訳にはいかぬ」と、うそぶいたとされている。その後の星は「大隈内閣(隈板内閣、日本最初の政党内閣)破壊の謀議」に毎日を費やしたという。 第4節 「米西(アメリカ・スペイン)戦争」開始の背景と新聞業者 星が一時帰国してワシントン日本公使館に戻った明治30年頃、アメリカ国内は62万人余りの犠牲者を出した内乱(南北戦争)から30年が過ぎ、漸くその傷も癒えて「工業化」のテンポが上がり始め、1870(明治3)年の時点では世界に占めるGDPが、アメリカが8・72%、イギリスが8・48%、日本は僅か2・26%であったが、1890(明治23)年になると、アメリカは12・6%、イギリス8・4%、日本2・3%という具合で、アメリカが工業国家としてダントツの一位を占める国となった。(ウェブサイト「世界の購買力平価GDP」による) それのみならず、既に1890(明治23)年には、ミッドベール・スチール社を退職し、「高速度鋼」ほか200件もの特許を取得したフレデリック・テイラーが、Taylor Shop Systemと呼ばれる「科学的管理法」を普及し始め、アメリカの工業力は明治30年を過ぎると名実共に世界一の隆々たるものになりつつあった。 一方、日本が鋼鉄を作れるようになったのは官営八幡製鉄所が完成した明治34(1901)年のことである。明治8年の第1回文部省派遣留学生11名の一人として鳩山和夫、小村寿太郎、平井晴二郎、原口要らと共に選抜された長谷川芳之助(コロンビア大学鉱山学科卒)が帰国後、設計の中心人物となって官営八幡製鉄所は建設されたのであった。 第1章で言及したように日本では明治17年に農商務省の外局として「特許庁」が発足し、「特許」とか「商標」という言葉を殆どの人々が知らない中で30歳の高橋是清が初代特許庁長官に就任するという程度の近代化(工業化)レベルであった。 更に、日本が鋼鉄製の軍艦を建造できるようになったのは、日露戦争が終わって暫く経ってからであり、世界戦史に画然たる大勝となった日本海大海戦(対馬沖海戦)に活躍した東郷平八郎提督座乗の旗艦「三笠」はイギリスのヴィッカーズ社によって、主力戦艦「敷島」と「富士」もイギリスのテムズ鉄工所で、戦艦「朝日」は同じくイギリスのジョン・ブラウン社で建造され、装甲巡洋艦「春日」と「日進」はイタリアのアンサンドル社製を買ったものである。 さて、迸る国民的エネルギーを背景に、明治30年頃、アメリカ人の気に障ること(気にくわないこと)は、目と鼻の先のキューバ島で行われている老大国スペインによるキューバ人民に対する圧政であった。 「イギリス(国王)の圧政に反抗して(謀反を企て)武装蜂起し、8年に亘る苦難に満ちた戦争の末に独立を達成したアメリカ合衆国(合州国)国民」から見れば、キューバ島人民を「強権的に統治する老大国スペイン」は気に食わない存在であった。そこへキューバでは「自由」と「独立」を求める運動(反乱)が起こり、1896(明治29)年、本国スペインが派遣するキューバ総督が代わると、反乱(謀反)の火の手が更に広がり、アメリカ人の同情も増していった。 一方スペイン国王アルフォンゾ13世はまだ少年で、母后マリア・クリスチナが摂政の地位にあったが、キューバ反乱軍に対する兵器その他がアメリカの港から出ていることにスペイン政府は不快感と警戒心を懐き、アメリカ、スペイン両国の疑心暗鬼(悪意?)の連鎖は輪を広げていく。 折しも明治31年1月上旬、ハバナで反乱軍とキューバ総督軍(スペイン政府軍)との間で小規模の市街戦があった。アメリカ合衆国は、総領事その他キューバ駐在アメリカ人の万一の場合の救出を目的として戦艦「メイン」を派遣する。表面的には事態が改善されつつあるキューバへのアメリカからの親善訪問、即ち友誼行動として戦艦「メイン」は派遣されたのであった。 ところが明治31(1898)年2月15日深夜、ハバナ港に停泊していた戦艦「メイン」が謎の大爆発によって沈没し、日本人(厨房員)6名を含む乗組員260名が死亡した。これによって米西(アメリカ・スペイン)両国の不信と憎悪は益々深まっていく。 3月半ば、星公使は駐米公使館員と共に駐在武官・成田海軍中佐や留学生秋山海軍大尉らと「米西関係の情勢分析」を行い、その席で秋山大尉は次のように述べた。 「アメリカ人一般がこの問題のために何となく不安の念にかられていることだけは、街を歩いていてもよくわかります。ことに下層民は、センセーショナルな新聞紙の扇動で、イスパニアにひどく敵愾心を抱いています。イスパニアを嫌いぬいています。アメリカ政府もこれをなだめることは容易ではありますまい……」 秋山真之大尉の指摘のとおり、この機会を「商売拡張の絶好機会」と見做した新聞業者が大車輪の活動を始める。「ニューヨーク・ワールド」経営者のジョーゼフ・ピューリッツアーの好敵手である「ニューヨーク・ジャーナル」紙オーナーのウィリアム・ハーストは、競争相手に輪をかけて世論を煽り庶民を興奮させ、ハバナの奴バラは「メイン号」犠牲者である英霊を侮辱している、とまで書いて煽りまくった。 この「英霊に対する侮辱」という言葉こそ、古今東西、万国共通の「国民扇動用語の最右翼」、或いは「病人に対する劇薬」とでも称さるべき言葉であり、同種の言葉を駆使する新聞業者によってアメリカの大衆は見事に踊らされてしまった。大西洋沿岸の住民は寄るとさわると騒ぎ出し、そのうちスペイン艦隊が突然現れ砲撃してくるのに対して、「自分たちの港を守るための軍艦派遣」を海軍省に陳情する日々が始まる。 「メイン号の復讐だ。スペイン人をぶったおせ」と書いたプラカードや大旗、小旗をひるがえしたデモ隊が幾組も首都ワシントンを練り歩く様子を見た星亨・駐米特命全権公使は、本省宛てに(事態切迫の?)緊急電報を送ったという。 4月上旬、アメリカ政府はスペイン政府に対し、キューバ島民の独立自治を認めるよう交渉するがスペイン政府は応じず4月8日、スペイン海軍のセルベラ少将が率いる装甲巡洋艦2隻がスペイン本国を出航し、キューバに向かう。 4月19日、アメリカ合衆国議会はキューバ島民の独立を承認し、同島から「スペインの陸海勢力を撤退させるための武力手段採用の機能」を大統領に賦与した。こうなればもう、騎虎之勢というべきか、議会を中心にこういう「国民的雰囲気(世論)」が醸成されては、「戦争反対」なんていう声は、その渦に飲み込まれてしまう。 4月21日、マドリード駐在アメリカ合衆国全権公使ウッドフォードが、このような内容の「合衆国議会の決議文」をスペイン政府に持ち込んだ。ウッドフォードはニューヨーク周辺の共和党の大物であり、6年後の明治37年、日露開戦に際し密命を帯びて渡米した金子堅太郎男爵(伊藤博文枢密院議長秘書)のために、ニューヨークのユニヴァーシティ・クラブで大盛宴を開催してくれた人物である。 そういうアメリカ公使の持ち込んだ文書に対してスペイン政府は、その決議案をスペインに対する「宣戦布告」と解釈、受け取りを拒否して翌22日、公文書でその内容を世界に訴え球をアメリカに投げ返して、ウッドフォードには帰国旅行券(パスポート)を与えて追い返した。随分と乱暴な(強引な)アメリカ合衆国のやり口に対して、ヨーロッパ諸国は今や世界一の工業国家アメリカとの貿易を顧慮してか、積極的に口を出す国はなかった。 4月23日にはスペインがアメリカ合衆国に「宣戦布告」し、そして4月25日にはアメリカ合衆国がスペインに対し「宣戦布告」して、アメリカは同時に「キューバ及びプエルト・リコ島の封鎖」を宣言した。 そして前章で言及した5月1日のデユーイ代将率いる合衆国アジア艦隊によるマニラ湾における圧勝(スペイン東洋艦隊の全滅)は、アメリカ国民を大いに沸かせたのであった。その6日後の5月6日、セオドア・ルーズベルト海軍次官は欣然と辞職し、キューバ陸上で戦うべき義勇騎兵隊の結成をめざす。 「米西開戦」の報を知った秋山真之は、手元のノートに次のように書き込んだという。 「治ニイテ乱ヲ忘ルベカラズ。天下将ニ乱レントスト覚悟セヨ。」 「国際公法」などというものはあっても、「人類という動物」の心の中に欲望(征服欲や権勢欲その他諸々の欲望)や「怨念」等が存在する限り、「外交はバックに武力がなければ全く無用のものとなる。外交は戦士の主人ではなく、使用人である」と、新進気鋭の海軍次官セオドア・ルーズベルト(39歳)がマハン大佐(57歳)が校長を務める海軍大学における講演で述べたように、21世紀の今日まで、その言葉を裏付けるような事象を繰り返してきた人類ではないか。 ニーチェも言う通り、「狂気は個人にあっては稀有(けう)なことではあるが、集団、党派、民族、時代にあっては通例だからである。(『善悪の彼岸』岩波文庫1970年刊) また人間は、「感情の動物」とも言われる。個々の人間に生まれた感情が集団の中で生成発展してAIならぬ「国民感情」或いは「世論」、更には「空気」とか呼ばれ、それに支配され引きずられ、今日も世界各地で戦争(狂気の応酬、暴力の連鎖)が行われている、というのが悲しくも人類の実態ではないか。 |
![]() |
![]() |