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『実り多き米国留学三年―秋山真之海軍大尉の気迫』 第2章 二流海軍国から一流海軍国へーマハン大佐を庇護したルーズベルト海軍次官

セオドア・ルーズベルト大統領 アジア歴史資料センター所蔵
2024年11月20日(水)
道場主 
[埼玉県]
実り多き米国留学三年―秋山真之海軍大尉の気迫

第2章

      二流海軍国から一流海軍国へ―マハン大佐を庇護したルーズベルト海軍次官


第1節 「ペンの人」マハン海軍大佐

 秋山真之海軍大尉がアメリカ留学を命じられた明治30年頃、二流海軍国であったアメリカ合衆国を一流海軍国にするために大きな力を発揮したセオドア・ルーズベルトは、「新興国(青年国家)アメリカ合衆国(合州国)」の指導者として、ケネディ以前で最も活発な大統領とも評される史上稀な活動的人物であった。
 そして、そのルーズベルトを理論面で支えたのが、慶應4年正月7日朝、部下の水兵が第十五代将軍徳川慶喜らをボート(短艇)で幕府軍艦「開陽」まで移送するのを見届けた、あのアメリカ軍艦イロコイ号の副(艦)長アルフレッド・セイヤー・マハン(当時27歳、少佐)である。
 そのマハンには二人の弟がおり、一人はウェストポイントの陸軍士官学校を、もう一人はアナポリスの海軍兵学校を卒業して夫々職業軍人としての道を全うした。だが、ウェストポイントを首席で卒業して教官となり戦略・戦術を講じ、その後16年間、同校校長を勤め、「陸軍士官学校の主」と称えられていたアルフレッドの父デニス・マハンは、長男アルフレッドの海軍軍人志望に強く反対したという。
 長男は軍人向きではない、牧師とか、教師といった知的職業が向いている、ということであった。日本近海から帰国後、ベルモント号艦長、ワスプ号艦長等を勤めたが、アルフレッド・マハンは海上勤務を嫌い、彼の父親が見抜いていたように明らかに「ペンの人」であった。
 明治10(1877)年から3年間、砲術主任として二度目の海軍兵学校教官を勤めたアルフレッド・マハン中佐は、その後ニューヨーク海軍工廠や海上勤務の後、前述したように明治16年、その論文「メキシコ湾と内海」が高く評価されて大佐に昇進した。既述のように明治19年6月、マハン大佐は海軍大学校第2代校長に就任して明治22年1月まで勤める。
 アルフレッド・マハンが海軍大学校長在任中の明治20(1887)年、同校に赴き当時名高い海軍書『1812年戦争海戦史(”The Naval War of 1812”)』の著者として講演を行ったのが29歳のセオドア・ルーズベルトであり、以後、両者の密接な関係は大正3年のマハンの死まで続いていく。17歳年下ではあっても海軍書の著者として、ルーズベルトはマハンの先輩であったことを忘れてはならない。
 部下の指揮や艦の運用(操船)が不得手で、海上での生活を嫌い、艦長室にいるよりも自宅の書斎での執筆生活を好む「ペンの人」として、世界的名著の著者となったアルフレッド・マハンは、明治35(1902)年には「アメリカ歴史学会」の会長に選任されているが、その10年後の1912(大正元)年、「アメリカ歴史学会」会長に選任された(元大統領)第26代アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルト(54歳)は、大正3年3月にマハンが死去(享年74)すると、翌1915(大正4)年1月13日付の雑誌『アウトゥルック』に、アメリカ歴史学会の会長として、「一人の偉大な公の人(”A Great Public Servant”)」と題する弔文を寄稿し、そこで次のように述べた。

「(マハン大佐は)米海軍史上の有能な一士官に過ぎない。近代兵器の実際の運用に関してはマハン大佐以上の技量を発揮した士官は少なくない。しかし、海軍の必要性を一般大衆に啓蒙したことで大佐は隔絶している。また国際問題に関して、第一級の政治家としての意見を持つ唯一の偉大な海軍の書き手であった」

 米国の海外進出や外交に不可欠の海軍関連でマハンの意見を聞き、「海軍増強の必要性を世論に訴えること」にマハンのペンを活用したのが、若い頃から終生の「海軍増強論者・セオドア・ルーズベルト」であった。
 マハン父子は共に軍人として実戦経験を持たなかった半面、頭脳の鋭さ、知的能力に対する自負、知的家系の誇りばかりでなく、孤高狷介で真の友人がいないという性格を共有していた。共に癇癪もちで、うつ病に苦しんだことでも、この親子は性格的に酷似していた。そういうアルフレッド・マハンに対する「ペンとインクで稼いだ海軍士官」というやっかみや、「本を書くのが海軍士官の仕事ではない」等々の非難からマハンを庇護したのが、強い握力で海軍省を掌握していく17歳年下のセオドア・ルーズベルトであった。
 精力絶倫のルーズベルトは生涯に38冊の本を書き上げ、残された手紙は15万通に上るが、処女作となったのが『1812年戦争海戦史(”The Naval War of 1812”)』である。ルーズベルトがハーヴァード在学中に起筆し、卒業して新婚ホヤホヤの自宅から歩いてコロンビア大学法科大学院に通う中で(明治14年12月)脱稿した同書は、海軍大学以外にもいくつかの大学の教科書に採用され、6年間で4版まで出版されて明治19(1886)年にはアメリカ海軍の艦船全てに配備されることになった。
 この書の執筆に際してルーズベルトは、集められた膨大な英米両国海軍の公的資料を縦横に駆使したばかりでなく、一般には馴染みのない操船その他に関する海軍(海事)専門用語を十分に咀嚼して、歴史に名高い米艦「コンステイチューション号」の活躍ばかりでなく、米英両国艦船の動きを詳細に追跡した上で、両海軍の戦法を論じたのである。
 明治14(1881)年に出版された同書はアメリカばかりでなく世界第一の海軍国イギリスでも多くの専門家に高く評価され、これによって23歳のセオドア・ルーズベルトは、歴史家、文筆家として揺るぎない高度の学術的資質を天下に示した。
 周知のように1812(文化3)年、ナポレオンとの戦いに手一杯のイギリスに対して、アメリカ合衆国議会が宣戦布告をして始まった「米英戦争」ではあったが、陸上でアメリカは連戦連敗し、首都ワシントンの大統領官邸もイギリス陸軍に焼き払われてしまった。第4代大統領マデイソンは食事中のところ、召使の急報によってイギリス陸軍の急襲を知り、ナイフ、フォークを放り出して馬車で逃走したと伝わるように、あわよくばイギリスの植民地カナダをイギリスから奪うことをも念頭に(野心に燃えて?)「宣戦布告」をしたアメリカ合衆国議会と大統領ではあったが、思惑は外れた。
 この戦争でボルチモア港の「マクヘンリー要塞」に設置された特別大きな星条旗(当時は星15個、縞15本)が、イギリス海軍の長時間に亘る砲撃にも耐え,へんぽんと翻る情景を謳った詩が、「アメリカ合衆国国歌」の基になったことは周知である。
 焼き払われた大統領官邸を再建するについて、火事で焼けた部材(焦げた木材)を隠すために白いペンキが塗られ、以後、「大統領官邸」が「ホワイトハウス」と呼ばれるようになったのであるが、そのいきさつを知る人は少ないようである。
 大統領官邸が焼き払われるという劣勢の中で、しかしながら、大西洋のイギリス海軍に対する米艦「コンステイチューション号」の活躍は、陸上での連戦連敗に沈みがちなアメリカ国民に、大きな勇気と希望とを与えたのであった。
 因みに、1797(寛政9)年進水の「コンステイチューション号」(木造船殻、三本マスト、砲数44門)は、現在、航海できる最古の現役艦(アメリカ海軍の象徴)として、ボストン市北東部チャールズタウン海軍基地の1号桟橋に係留されて、21世紀の今も 一年中、観光客の見学を許し、乗組員は現役の水兵である。


第2節 セオドア・ルーズベルト― 生い立ちから最年少ニューヨーク州下院議員(23歳)

 幼少時は近眼で喘息持ち、絶えず動き回るが、どちらかと言えば神経質で虚弱な少年であったセオドア・ルーズベルトに対して、ニューヨーク有数の資産家(大実業家)であり、慈善事業にも熱心でリンカーン大統領とも交際があった父親は、次の当主となるセオドアの為に10代に2回も、長期に亘るヨーロッパへの家族旅行に付き添ってくれたばかりでなく、自宅の二階に運動場を設け、そこでセオドアは三歳年上の姉バミーや近所の友達とレスリングに励んだ。
 同時に祖父の屋敷で乗馬や射撃に励んだセオドアは、後述するダコタ準州での生活も寄与したか、馬術(horsemanship)と射撃(marksmanship)でも一流の人物となった。
 明治2年5月、10歳になったセオドア(テッド或いはテディと呼ばれる)は、父が引率する家族旅行でニューヨークを出航する。イギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ、スイス、イタリア、オーストリア、再びドイツからパリ、そしてリヴィエラを経てクリスマスはローマで過ごし、パリ経由でイギリスに戻った。
 翌明治3年5月帰国の途に就き、377日かけて「ヨーロッパ文明を体感する大旅行」を終え、故郷ニューヨークに戻ったセオドアは11歳になっていた。時に持病の喘息の発作に苦しめられながらも、父母(特に父親)の手厚い看護もあって、スイスではアルプス登山の体験もした。
 更に明治5年10月、15歳のセオドアは、翌年開催される「ウィーン万国博覧会」の「アメリカ合衆国コミッショナー」に任命された父セオドア・ルーズベルト・シニアに引率された家族旅行で、まずエジプトに向かい、ナイル観光を楽しんだ後、エジプトと並ぶ「古代文明の跡地」レバノンやギリシャから、1000年の長きに亘り東ローマ帝国が支配したコンスタンティノープルを経て明治6年4月にはウィーンに到着する。
 「万博コミッショナー」としての仕事もある父親の配慮と、ドレスデン駐在アメリカ領事の斡旋で、セオドアは「エルベのフロレンス」と呼ばれるドイツの文化都市ドレスデンの中流家庭に、弟エリオット、妹コーリンと共に寄宿し、ドイツ語フランス語の学習を主体に夏を過ごして、明治6年10月末に帰国するという得難い体験もした。
 余談になるが、寄宿したミンクヴィツ家には15歳を頭に三人の姉妹とその上に大学生二人の兄弟がいて、通じても通じなくても、同家家族全員とアメリカ人との会話は全てドイツ語であり、15歳の長女は連日飽くことのない辛抱強さを以て、ドイツ語とフランス語の文法をルーズベルト兄弟と妹コーリンに指導してくれた。
 とりわけセオドアが気に入っていたのは、凄みのある顔をした同家の大学生兄弟であり、兄は決闘による切り傷が顔にあって、弟は決闘によって切り落とされた鼻を縫合した顔の持ち主であり、「決闘が盛んなドイツ学生界の尚武の気風」を、15歳のセオドアは善しとしていたようである。
 当時、富裕層の子弟としては珍しくないことであったが公立の学校には行かず、優れた家庭教師による教育を受けていたセオドアは喘息の発作頻度も下がり、次第に健康になってハーヴァードに入学する。
 ハーヴァード在学中には、厩のある下宿に「ライトフット(Light foot)」と名付けた少年時代からの愛馬を飼い、ボストン周辺での通学その他外出にはバギー(buggy)と呼ばれる「一頭立て軽装馬車」を操縦(運転)するのがセオドアの日常であった。
 自動車が普及するのは30年も先のことで、セオドアは大学生活の中では何よりもボクシングに熱中して、ライト級(当時はライト級とヘビー級の2階級のみ)で学内2位にランクされるところまで精進した。
 少年時には近所の友達と小動物の剥製を作るなど、セオドアは成人しても動物学、博物学に深い興味を示していたが、大学卒業前には政治志向となり、卒論のタイトルを「男女同権の実行可能性(Practicability of Giving Men and Women Equal Rights)」として、優等な成績(magna cum laude)で、ファイ・ベータ・カッパ(Phi Beta Kappa)の一員にも選ばれ明治13年6月卒業した。セオドア・ルーズベルトの卒業成績は177人中21位である。
 ハーヴァード卒業直後(22歳の誕生日、明治13年10月27日)に、ルーズベルトは評判の美人アリス・ハサウェイ・リーと結婚するが、ボストン郊外チェストナット・ヒルのリー家に明治11年11月2日、2度目の訪問をした時からアリスを結婚相手とすることを堅く決意したように、飛び抜けた美貌のアリスとその人柄に魅了されたハーヴァード大学2年生セオドア・ルーズベルトであった。
 結婚の翌年、新婚家庭からコロンビア大学法科大学院に歩いて通う生活の中で、共和党のニューヨーク支部から推されてニューヨーク州議会選挙に立候補したルーズベルトは、最年少23歳で当選した。
 最年少下院議員として当選したニューヨーク州議会においては、ルーズベルトの所属する共和党は少数派で民主党が多数を占め、世界的大都市ニューヨークで繫栄する様々なビジネスや利権と絡み合っている民主党に牛耳られて、そこでは既成勢力(既得権益)と対立する案件(議案)を潰すためには買収は素より、玄人女性を使っての誘惑(その後の脅迫)等、卑劣な手段も横行していた。
 そういう環境に戸惑いや勘違いもあり、時に怒りを感じながらも、ルーズベルトは自らに関わりのある議案(案件)については事前の調査を徹底し、生来の雄弁と徹底した調査力とによって、議員生活2年目には少数派共和党の領袖的存在となり、本人が希求したように、「特定のグループの為に活動する」のではなく「世の中全体の役に立つ仕事をしている」という自覚を持てるようになった。その上、具眼のジャーナリストからは大統領としての資質を有する人物と目されるようになる。


第3節 セオドア・ルーズベルト― 「大悲運」の克服と「大きな人間力」獲得(28歳)

 ところが好事魔多し。
州都アルバ二―でニューヨーク州下院議員として活躍していたルーズベルトに妻アリスの女子出産の電報が来て喜んでいると、その数時間後には妻と母がチフスで危篤であるという2度目の電報が届けられた。汽車で5時間かけて駆け付けたニューヨークの自宅で明治17年2月14日、ルーズベルトは朝方に母(48歳)を、昼には、一粒種アリスを2日前に出産したばかりの妻アリス(22歳)を、いずれも病気によって失うという大きな不幸に見舞われた。
 二人の葬儀の後も最年少州議会議員としての活動を続けていた傷心のルーズベルトは、3か月後の5月、シカゴで開催された共和党全国大会にニューヨーク州代議員の一人として出席するが、自らが肩入れする上院議員は大統領候補には指名されず、共和党は混乱した。
 混乱の中で明治17年6月、ルーズベルトはシカゴからニューヨークには戻らず、悪い言葉を使えば「政界を逐電して」、そのままダコタ準州に向かったのである。妻と母を同日に失うという「大悲運」によって傷んだ魂を癒すためか、悄然とした姿を人前にさらすことを潔しとせず、人里から離れた所に住み、厳しい自然と孤独の中で自分の精神も肉体も鍛え直そうと思ったからであろうか。
 実は、1年前の明治16年秋、懐妊した最愛の妻アリスを残して一人ニューヨークから5日間、鉄道に揺られて辺境ダコタ準州を訪れたルーズベルトは、バッファロー狩りのガイド(案内人)を探して雇い、辺境の地で暮らす人々と触れ合う中で、放牧業への関心を深めていた。
 本人が言う「悪夢のような夏」即ち明治16年の夏、克服されたはずの幼時からの痼疾であった喘息が、この夏にわかに再発した上に、「未知の病因の激しい胃腸炎」にも罹って、ルーズベルトはその後アリスを伴い保養地で療養に努めた後、9月3日、一人で辺境の地ダコタ準州のBadlands(悪地)に向かったのであった。
 海軍増強論者として昵懇になった退役海軍中佐が、同地の放棄された陸軍宿営地跡を買って、ビジネスとしての狩猟用農場をオープンする目論見を聞いているうちに、ルーズベルトは念願のバッファロー狩りを思い立ったのである。
 この明治16年の「気晴らし旅行(ストレス発散旅行?)」の最大目的の一つとして、ルーズベルトは「文明の果てダコタ」でバッファロー狩りを楽しみにしていたが、既にこの時点でスー族等先住民が政府の許可を得て、一度に数千頭ものバッファロー狩りを完了していて、ルーズベルトが予期したようなバッファローの大群はどこにもいなかった。
 旅の終わりに辛うじて1頭仕留め、ルーズベルトはガイドと共にそれを処理して肉を焼き、牛肉ならぬバッファロー肉のステーキを堪能したとか。少年時代は近所の少年たちと「小動物の剥製」を作ることに熱中したように、仕留めた獲物の処理は彼の得意とするところであったろう。
 翌明治17年6月、シカゴ共和党大会を逐電して現れた辺境ダコタ準州においては、1日中、一人で大海原を突き進む小舟のように、馬上で大平原(大草原)を突き進み、途中、乗っている馬もろとも流砂にはまりそうになるという珍しい体験もしながら、ルーズベルトは日が暮れる前に適当な野営地を探して火を焚き、串刺しにした動物の肉を焼いて食べ、テントで寝る日々を1か月近く続けた。
 この旅(放浪)の中で、再度、地元の人々やリトル・ミズーリ川流域の風景、風物と接したルーズベルト(25歳)は、大実業家であった父の遺産を元手に、自ら「放牧業」を営む手がかりを得る。即ち数千頭の牛を対象とする放牧業に向いた適地を見つけたのである。
 一旦ニューヨークに戻ったルーズベルトは、母を失った一人娘アリス・リー・ルーズベルトの養育を姉バミー(29歳)の手に委ねて明治17年7月の下旬には、改めて大陸横断鉄道を利用して新たな生活の場(牧場)としてのダコタ準州に向かい、明治18年にはルーズベルトが所有する牛は5000頭に達した。
 1874(明治7)年の「ブラックヒルズ金鉱床の発見」によるゴールド・ラッシュで、当時の「ダコタ準州」は人口が急増、食肉生産量を増やすために「放牧業」こそが、広大なダコタ準州(その面積は、ほぼ日本国の面積に匹敵する)に「最適の産業」と目されていたのである。
 牧場経営のために二人の使用人を雇ったルーズベルトは、最愛の妻アリスや母についての「思い」を脳裏から振り払おうとしてか、ハンター(狩人)にとって最も危険な動物である灰色グマ(グリズリーベアー)を求めて明治17年8月18日、隣のワイオミング州へと向かう。
 数頭の馬に4種類の銃、2000発の弾丸、食料、野営用具等を載せ、ルーズベルトは47日間、大自然の中で過ごしたという。このオオジカ(elk)と灰色グマ(grizzly bear)を主たる標的とする狩猟の旅によって、170点もの鳥や獣を仕留めたルーズベルトは、肉体的にはその半生で最大、極限の疲労を体験し、夜、ようやく眠れるようになったという。
 ニューヨーク有数の資産家(実業家)であった父親はセオドアがハーヴァード在学中に死去し、親の遺産の半分8万ドル(日本円にして16万円)を注ぎ込んだダコタ準州におけるルーズベルトの「ビジネスとしての放牧業」は、明治20年1月28日、アメリカ北西部を襲った歴史的大寒波による「牧牛3000頭の大量凍死」もあって、結局、失敗に終わった。
 当時日本の内閣総理大臣・伊藤博文の年俸9600円(月俸800円)に比べても、ルーズベルト個人としての経済的損失は小さいとは言えまい。
 だが、20代半ばからの2,3年に亘る悪地(Badlands)での家族抜きの暮らし(辺境での孤独と酷暑、酷寒の体験)をしながら、数千頭の牛を飼育することによって、金銭以外にルーズベルトが得たものは極めて大きく、後に世界的政治家として大成するには不可欠なものであった。
 幼少時は虚弱で、ハーヴァード在学中にはボクシングで鳴らしたとはいえ、どちらかと言えばスリムな体をしていたセオドア・ルーズベルト青年は、自分より貧しい人々、粗野な人々とも楽に意志の疎通ができる「大きな人間力」の持ち主となった上に、「自らが理想とする、がっちりした体格の(逞しい)男らしい(Manly)男」となって明治19年(28歳)、故郷ニューヨークに戻ってきた。そしてそこで思いがけず、出るつもりもない「ニューヨーク市長選挙」に担ぎ出される。
 当時(明治19年)、工業化が進展するアメリカ各地でストライキ(労働争議)が頻発する中で、アメリカ合衆国史上初めて「統一労働党」候補としてニューヨーク市長選挙に出馬した『進歩と貧困』の著者ヘンリー・ジョージ候補に対する警戒感(危機感)から、地元ニューヨーク共和党幹部らが、最愛の妻と母とを同日に失うという「大悲運」を克服した28歳のルーズベルトを担ぎだしたのである。
 300万部を超えるベストセラーとなった『進歩と貧困』の中で、「自由主義経済において築かれた不労所得の集中こそが貧困の主たる原因」との考えを示したヘリー・ジョージは、論旨明快な候補者であり、多くの人々の支持を得ていく。
 これに対して、5年前に共和党からニューヨーク州議会選挙に立候補し最年少で当選、政界での目覚ましい活躍によって注目される中で、同日に母と妻を病気で失うという大悲運に遭遇、その後ダコタ準州において親の遺産を元手に牧場経営に携わっていた億万長者セオドア・ルーズベルトを、「ダコタ・カウボーイ」というキャッチフレーズを以て「改革」を旗印に担ぎだしたのが、如何にもしたたかなニューヨーク共和党であった。
 一方、「統一労働党」候補ヘンリー・ジョージは、政府の仕事(存在理由?)は、何よりも人々の安心安全を保証することであり、選挙こそが社会の政治的、経済的不正を正す唯一の道であることを主張し、選挙中は、「産業奴隷制度(industrial slavery)の廃止」に取り掛かることをもスローガンにしていた。
 「カウボーイ候補」の前評判は悪くはなかったが、いざ投票となると、共和党員までもが 急進主義者(労働党)を恐れるあまり、製鉄所を経営して連邦下院議員を5期務めた非の打ち所がない経歴の「民主党候補」ヒューイット(64歳、コロンビア大学校友会長)に投票したという。
 民主、共和両党の票を集めたヒューイットが楽勝し、ルーズベルトはヘンリー・ジョージに次ぐ3位となって落選はしたが、落胆はせず、元々その気があったわけでもなく、投票日の4日後の明治19年11月6日、選挙に担ぎだされる前から手配しておいたイギリス行きの切符を手に、セオドアと姉バミー、そして結婚(再婚)相手のエディス・キャローとその母は、キューナード汽船のエルトリア号でニューヨークを出航する。
 明治19年12月2日、幼馴染であり、妹コーリンの無二の親友でもあるエデイス・キャローとロンドンの教会で結婚式を挙げ、その後イギリスからフランス、イタリアを巡って15週間の新婚旅行を楽しみ、幼馴染とはいえ二人の親密度は増した。エデイスとしては、義姉バミーが養育してきたアリス(2歳半)の養育が脳裏に浮かぶ時ではなかったか。
 生後2日にして母を失ったアリス・ルーズベルトが、その後ホワイトハウスにおいて、アメリカ合衆国史上最も盛大と形容された結婚式(明治39年、オハイオ州選出下院議員ロングワースとホワイトハウスで挙式)を挙げることは、神のみぞ知るところであった。
 ニューヨーク市長選挙や二人目の妻エデイスとのロンドンにおける結婚式、それに続くヨーロッパを巡る15週間の新婚旅行等を除いて、ルーズベルトが丸2年を過ごしたダコタ準州ルーズベルト牧場(「エルクホーン牧場」)の跡地は、現在「セオドア・ルーズベルト国立公園」の一部になっている。
 バイソン、ピューマ、コヨーテ、イヌワシ、プロングホーン、ビッグホーン、オジロジカ、シチメンチョウ、野生馬、ガラガラヘビ等々、100種類以上の野生動物が跳梁し、ヤマヨモギが一年中、心地よい香りを発してはいるが、夏は気温が35℃を下回らないこともあり、冬はー30℃以下のこともある、文字通りの悪地(Badlands)である。そしてこの悪地(Badlands)における「孤独」と「酷暑」「酷寒」の中での諸々の体験が、ルーズベルトのその後の人生における「最大の原動力」となったことを本人も認識している。
 ここに今 、誠に唐突ながら「人間力」に関して敢えて紹介したいのは、平成15年、市川伸一東大教授を座長とする「人間力戦略研究会」がまとめ、日本政府(内閣府)が発表した「人間力戦略研究会報告書」である。
 「若者に夢と目標を抱かせ、意欲を高める〜信頼と連携の社会システム〜」と題された同報告書によれば、人間力を構成するのは、「知的能力要素」、「対人関係力要素」、「自己制御的要素」の三つであるという。同書が指摘する「我が国教育の問題点」に関する次のような記述を記憶しておきたい。

 わが国の教育は現実の社会と乖離しがちであるという問題が指摘されており、「何のために学ぶのか」という目的意識を不明確にしたまま、一方では受験競争による外発的動機から、他方では知的好奇心や、教養といった教科の内在的価値から学習に向かわせようとしてきたことは否定できない。

 話をルーズベルトに戻すと、明治18年、「エルクホーン牧場」の牧場主として、ルーズベルト(27歳)は4000頭の牛を集める時、60人のカウボーイを雇ったが、雇ったカウボーイ以上に自らに厳しい労働を課し、自身が馬上で1日に百キロ以上移動することや、一晩中の馬上での夜警をもいとわなかった。
 早暁3時のせわしない朝食の後、すぐに仕事に出て5頭の馬を乗り換え(1頭では馬がつぶれてしまう)連続的に40時間以上、馬上にいることもあり、正にテレビ映画『ローハイド』のフェイバー隊長の世界にどっぷりと浸かった27歳前後のセオドア・ルーズベルトであった。そういうルーズベルトと付き合った多様な背景を持つ多くの人々が、この男と一緒ならば、どこまでも、例えその先に死が待っていようとも、ついて行きたいと思うような「大きな人間力」の持ち主となったセオドア・ルーズベルトである。
 初めのうち西部辺境のダコタ準州で暮らす人々は、ルーズベルトを「東部の優男(dude)」の一人と見ていたが、1,2年のうちに、優男(やさおとこ)どころか、「恐れを知らぬ野郎(fearless bugger)ルーズベルト」として、地元(Medoraの町周辺)名士の一人と認識するようになっていった。
 ここで敢えて言い添えておきたいのは、(文明の果て)ダコタ準州における牧場主(Rancher)そして狩人(Hunter)として、時に50人を超える(多様な背景を持つ)カウボーイたちとのやりとり、或いは辺境に流れ込んで活躍する地元有力者たち(その一人は「侯爵」を名乗るフランス人実業家)との折衝、更には保安官補としての川舟泥棒一味の逮捕連行等において、極めて高い能力を十全に発揮し、ダコタ準州でその名を高めたルーズベルトは、作家(Writer)としても力量を発揮、明治19年にはミズーリ州選出上院議員トマス・ベントンを描いた『ベントン伝』をニューヨークの出版社から出版していたことである。
 奇しくもルーズベルトが生まれた年(1858年)に没したトマス・ベントンは、「アメリカで初めて5期も上院議員を務めた」ミズーリ州選出上院議員であり、「合衆国西進の断固たる推進者」として有名で、土地を耕す意志を持つ者には誰にでも土地を与えて開拓を奨励するという趣旨の「ホームステッド(Homestead)法」を最初に起草した人物である。
 「自営農地法」とも呼ばれる同法は、プランテーション農業に頼る南部諸州議員の反対によって成立には至らなかったが、1861年、南部諸州が合衆国(合州国)から脱退して1862年5月20日、エイブラハム・リンカーン大統領が署名して遂に成立した。
 申請時に21歳以上で、当該区画に3.6✕4.3メートル以上の大きさの住居を建てた上で、最低5年間は農業を営んだという実績を有する者に、公有地64.6ヘクタール(64.6町歩)が無償で与えられた。この制度(法律)を頼りにヨーロッパからの人々が「移民」として続々と西部に流入する。
 話をルーズベルトに戻すと、牧場主、狩人として肉体を酷使しながらも合間には本をむさぼり読んで、執筆活動にものめり込んだ27歳前後のセオドア・ルーズベルトであったが、西部辺境の地ダコタ準州から姉バミーが一人娘アリスを養育している故郷ニューヨークまで、5日間の鉄道利用で到達できるという当時の交通事情(鉄道の発達)が、ルーズベルトの壮大な営み(修行?)の助けになったことは疑いあるまい。
 内乱(南北戦争)が終わり、その傷もようやく癒えたか、工業化、都市化に拍車が懸かり始めたアメリカ合衆国(合州国)のGDPは、既にルーズベルトの少年時代(1872年)に大英帝国を追い抜き、世界1位の「経済大国」になりつつある頃の話である。


第4節 セオドア・ルーズベルト― 「連邦官吏制度改革(31歳)」と「ニューヨーク市
                  警察制度改革(37歳)」

 明治21年秋、故郷ニューヨーク(オイスター・ベイのサガモアヒルに前年、自邸を新築していた)に落ち着いたルーズベルト(30歳)は、二人目の妻エデイス、そして姉バミーの許しを得て引き取った娘アリス(4歳)と暮らす中で、大統領選挙の中のハリソン共和党候補の為にイリノイ、ミシガン、ミネソタへの「遊説」を依頼された。待ってましたとばかりに内陸への列車に乗って、群衆を前に得意の弁舌を振るったルーズベルトは1週間のうちに、この大統領選挙で「最も効果的な演説者(most effective speaker)の一人」という評価を得たのであった。
 その結果、親友ロッジ上院議員の口利きもあって、明治22(1889)年にはハリソン大統領によってルーズベルトは連邦官吏制度改革委員会委員長(Civil Service Comissioner)に任命され、不満足ながら年俸3500ドルで政府機関の一画にはまった。エデイスが心配する家計もやや安定して、ワシントンでの社交生活を楽しむ中で、ジョン・ヘイ(後に国務長官)や作家ヘンリー・アダムスのように知的レベルの高い人々との交流も深まっていく。
 ルーズベルトのハーヴァード在学中からの親友ビゲロー(ボストンの医師にして大富豪、明治日本美術界の大恩人にして法号「月心」を有する真言密教探究者)が認めた紹介状を手にして、日本人金子堅太郎(枢密院議長秘書官、東京ハーヴァード俱楽部会長、36歳)が、初対面の挨拶に訪ねて来たのは、こういう境遇の中でのルーズベルト(31歳)であった。両者はその後、クリスマスカードや手紙による交流を15年間続けたところで「日露戦争」を迎える。
 そしてこの明治22(1889)年、ニューヨークの出版社パットナム(Putnum)から出版されたルーズベルトの「主著」ともいうべき『西部開拓史(”The Winning of  the West”)」は、初版が一か月で売り切れるというベストセラーとなって、イギリスでも評判の書となった。
 前述したように、ハーヴァード在学中に起筆、最初の妻アリスとの新婚生活の身で自宅から歩いて40分、コロンビア大学法科大学院に通いながら、ニューヨーク州下院議員に最年少で当選した直後の明治14年12月、脱稿し出版した『1812年戦争海戦史(The Naval War of 1812)』の大成功と、この『西部開拓史("The Winning of the West”)』(明治22年12月刊)の大成功とによって、セオドア・ルーズベルト(31歳)は、かって13歳でハーヴァードに入学、17歳でハーヴァード大学総長の勧めによりドイツ(ゲッチンゲン大学)に留学して19歳で博士号を授与されたジョージ・バンクロフトの「再来」と、評判される人物となったのである。
 この二著の成功によってか、既述のようにルーズベルトは明治44(19011)年、「アメリカ歴史学会(AHA)」会長に選出された。因みにジョージ・バンクロフトは明治15年に、そして前述したように、世界中の軍人とりわけ日本で最もよく読まれた『海上権力史論』の著者マハン大佐は明治35(1902)年に、それぞれAHA会長に選出される。敢えて付言すると日本出身者として入江昭ハーヴァード大学名誉教授が1988年、AHA会長に選出されている。
 さて明治22年3月から就任した「連邦官吏制度改革委員会」委員長としてのルーズベルトの仕事は、行政の効率化と腐敗防止を目的として、第7代大統領アンドリュー・ジャクソンの時から大々的に導入された所謂「スポイル・システム」の制度を打破することにあった。
 ジャクソン大統領以来、アメリカ合衆国政府の役職は、下は郵便局長の類に至るまで、与党や上院議員などの推薦によって選ばれた人物によって占められるようになったのである。一例としてリンカーン大統領は、この制度に則り、1639の公職中、1457の交代を行ったと言われている。
 ジャクソン以来続いた、この「スポイル・システム」と呼ばれる制度の結果、適材が採用されず腐敗が発生しやすいことを打破するために、ルーズベルトは、この改革の後にも全力投入した「ニュヨーク市警察改革」と同じく、「試験制度」を導入し、例によって既成勢力(既得権者?)による激しい抵抗を受けるが、「何者にも屈しない不屈の精神」によって成功に漕ぎつける。
 ハリソン大統領(共和党)は次の選挙で落選し、代わって登板した民主党のクリーブランド大統領(第22代及び第24代アメリカ合衆国大統領)は、「精力的、攻撃的、即断即決型」のルーズベルトの仕事ぶりを高く評価して、その職を全うさせた。余談ながら敢えて言及すると、ルーズベルトがニューヨーク州下院議員として活躍し始めた頃、ニューヨーク州知事を務めていたのが民主党のクリーブランドであった。反対党の二人はニューヨーク州議会における駆け引きの中で、互いの資質を認め合っていたようである。
 都合6年、「連邦官吏制度改革委員会委員長」として精力的に活動したセオドア・ルーズベルトは明治28(1895)年、故郷ニューヨークへ戻り、政治家として新たな道を歩み始める。この年、ニューヨーク市長に当選した実業家ウィリアム・ストロング(共和党)は、ルーズベルト(37歳)をニューヨーク市警察監査委員会(公安委員会)の委員に任命し、数人の委員の互選によって、ルーズベルトがニューヨーク市警察の最高執行機関の長(President of the New York City Police Board)に就任する。
 当時のニューヨーク市警察は、金と政治で動かされていると言われていたが、ルーズベルトは警察官の採用試験に初めて筆記試験を導入し、その2年の在任中1600人の警察官を採用して読み書きできない警察官をなくし、人事制度を能力主義に改めた。その上、30年以上に亘ってニューヨーク市警を牛耳ってきたバーンズ警察本部長や関連監督官ら、ルーズベルトの改革に反対する人々を更迭するという剛腕を振るった。
 積極果敢なルーズベルト(37歳)は、甘言や脅し、或いは買収が全く効かない恐れを知らぬ人物として、徹底的な調査、不眠不休の活動(時に40時間連続でパトロールの警察官に同行した)を継続した結果、長年に亘り汚職にまみれ腐敗していたニューヨーク市警察組織の浄化という、目の覚めるような大仕事を果たす。


第5節 セオドア・ルーズベルト―アメリカ合衆国海軍次官(39歳)

 ニューヨーク市公安委員会委員長の任期が切れた明治30(1897)年、ウィリアム・マッキンリー大統領は、ルーズベルトの生涯の親友であるヘンリー・キャボット・ロッジ上院議員の勧めに従い、あの名著『1812年戦争海戦史』の著者でもあるセオドア・ルーズベルト(39歳)を、アメリカ合衆国海軍次官に任命した。アメリカ政界において後々まで、「ルーズベルト・ロッジ共同商会」と揶揄された二人の密接な関係は、このあたりからいよいよ本格化していく。
 丁度10年前の明治20年、『1812年戦争海戦史』の著者として、マハンが校長を務める海軍大学校で講演を行ったルーズベルトは明治30年、今度は海軍関係者(新任の海軍次官、マハンにとっては上司)として海軍大学に赴き、次のような弁舌を振るったという。

1,戦争に対する備えこそが、平和への最も効果的方法だ。
2,みごとであっぱれな民族は全て、戦う民族だった。(ルーズベルトにとって、直前
  に清国を打ち破った日本人は、この美徳を持っている賞賛すべき民族であった)
3,臆病は、民族においても、個人においても許されざる罪だ。
4,戦争への備えのし過ぎからくる何千もの過失は、圧政の悲惨に対する、冷血で  
  無関心からの過ちや、侮辱へのいくじない屈服から生じる誤りよりも、ずっとよい。
5、どんな平和時の勝利も戦争の勝利ほど偉大ではない。将来、ある民族において、
  戦いの必要性が消えるかもしれないが、これは遠い将来のことだ。どんな国家で
  も武力で防衛する備えなくして、自国を全うさせることや、価値ある行動は不可能
  だ。
6,ジェファーソン大統領が攻撃用戦艦ではなく、小型の防衛用砲艦で米国を防衛
  しようとしたのは間違いだった。攻撃用戦艦艦隊があれば、1812年戦争は未然
  に防げたかもしれない。
7,兵員は何週間かで整えられるが、海軍関連技術は複雑で、戦艦建造には2年以
  上を要す。巡洋艦も同様、水雷艇のような小型艦でも3か月かかる。
8,外交はバックに武力がなければ全く無用のものとなる。外交は戦士の主人では
  なく、使用人だ。

 こういう思想信条(好戦的言辞)を披瀝した海軍次官を新聞業者が見逃すはずがなく、ルーズベルトは新聞に叩かれたばかりでなく、上司であるロング海軍長官からきついお叱りを受けたという。だが、不屈の精神の持ち主ルーズベルトは、そのような事には些かも怯むことなく、海軍省の戦時体制(近代化、強力化)を整えるべく辣腕を発揮していく。
 まず新進気鋭のセオドア・ルーズベルト海軍次官は、「連邦官吏制度改革」や「ニューヨーク市警察改革」と同様、短時日の間に、「合衆国海軍の改革と士気の向上」に全力を傾注、後々アメリカ合衆国海軍が「ルーズベルト家の海軍」と呼ばれるにふさわしい素地を固め始める。
 後の第32代大統領フランクリン・ルーズベルト(その妻エレノアはセオドア・ルーズベルトの姪)に至っては、時に憚りなく「私の海軍(My Navy)という言い方をしたことでも知られているが、そこまで行くについては、海軍省内部の人事を十分に掌握した上で、巨額の金がかかる軍艦建造等に要する予算獲得を遅滞なく実行せねばならず、そのためには議員との密接な関係構築が不可欠である。日本では殆ど知られていないが、予算ばかりでなく海軍省8局の局長(任期4年)人事は、議会上院の承認を必要としていたことを忘れてはならない。
 名著『アメリカにおける秋山真之』の著者・島田謹二東大名誉教授がいみじくも喝破したように、時勢は変転し(進展し)、時流は変化する。大英帝国ネルソン提督座乗の「ビクトリー号」や、1812年の「米英戦争」でイギリス海軍を向こうに回して大活躍した合衆国海軍「コンステイチューション号」のような「大型帆船(帆掛け船)」の時代はとうに終わっていた。
 そして石炭を燃料とする大規模機械工場のようになった戦艦や巡洋艦等を主力とする海軍(艦隊)を保持運用するには、「兵科将校」と「機関科将校」の摩擦があってはならず、その為に気鋭のルーズベルト海軍次官は、自らイニシアティブをとって両者の代表を網羅した「改革委員会」を設置し海軍の近代化を促進するという、着眼の良さと実行力を発揮した。
 その上、海軍省内のあらゆる情報を入手したルーズベルトは、いざという時(戦時)、指導者として誰が適任なのか、それとなく調べるばかりでなく、「ペンの人・マハン大佐」を庇護したように、サムソン大佐に白羽の矢を立て、「北大西洋艦隊首席将校」に抜擢したのであった。
 新戦艦「アイオア」の艦長ウィリアム・サムソン(William T Sampson)は、海軍兵学校を首席で卒業し、長い間、兵学校で物理や化学の教官をして水雷、大砲、装甲板に造詣が深いばかりでなく、海軍省兵器開発局長時代には無煙火薬を開発させ、射撃装置を科学的に整備させて合衆国海軍の近代化、強力化に大きな力を発揮する一方、海軍部内では、「大局を見る目を有する立派な人物」と見做されていた。
 更に、ルーズベルト次官は上院議員を利用した手の込んだ策を弄して、海軍省装備局長ジョージ・デユーイ大佐の合衆国アジア艦隊司令長官への抜擢、任命に成功する。この二つの人事によって、慧眼のセオドア・ルーズベルトがその本領を発揮し、海軍省全将官の中で「将に将たる器の持ち主」を見出した、と言いうことが出来よう。
 そしてそのデユーイ代将(Acting Rear Admiral George Dewey)は、間もなく開戦した「米西戦争」初っ端の明治31年5月1日、マニラ湾内のスペイン東洋艦隊を鮮やかに殲滅した。これに対して合衆国議会は、わざわざ「合衆国アジア艦隊に対する感謝の決議」を行い、マッキンリー大統領はデユーイ代将を海軍少将心得に昇格させる。だが、アメリカ合衆国アジア艦隊司令長官デユーイ代将(60歳、前海軍省装備局長)を何よりも喜ばせたのは、「アメリカ国民ハ、ミナ貴下ノ恩恵ヲウクルモノナルコトヲ承認ス ルーズベルト」という簡単な電文であった。
 40歳を目前にして、「政策形成能力」のみならず「政策遂行能力」においても、いよいよ充実してきた「合衆国海軍近代化の中心人物・セオドア・ルーズベルト」であった。
 前述の海軍大学における好戦的演説から1年後の明治31(1898)年4月末、アメリカ合衆国がいよいよスペイン帝国と国交断絶から宣戦布告をするという事態の推移に合わせて、ルーズベルトは明治31年5月6日、欣然として海軍次官を辞職し、キューバに赴いた。キューバにおいては、後述(第4章第2節)するように義勇騎兵隊、別名・荒馬騎馬隊(Rough Riders)の第一連隊長(中佐、後に大佐)として大活躍をしたルーズベルトは、夏にはニューヨークに帰還して一躍、「アメリカ合衆国の国民的英雄」となったのである。