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『実り多き米国留学三年−秋山真之海軍大尉の気迫』 第1章 秋山への助言者マハン大佐が垣間見た日本社会の実態 |
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実り多き米国留学三年―秋山真之海軍大尉の気迫 第1章 秋山への助言者マハン大佐が垣間見た日本社会の実態 第1節 アメリカ留学への道―秋山の英語教師・高橋是清、そしてその師匠・宣教 医師へボン博士 明治30(1897)年6月26日、海軍大尉・秋山真之(海兵17期首席、29歳)は、「米国留学被仰付(おおせつけらる)」の辞令を受ける。 同時に、財部彪(たからべたけし、海兵15期首席、後に海軍大臣)はイギリスに、林三千雄(はやしみちお、海兵12期、旅順港閉塞作戦で戦死)はドイツに、村上格一(むらかみかくいち、海兵11期、後に海軍大臣)はフランスに、そして広瀬武夫(ひろせたけお、海兵15期、旅順港閉塞作戦で戦死)はロシアに夫々留学を命じられた。 国家財政逼迫を理由に中断されていた派遣留学生の制度が復活したのは、日清戦争で清国から獲得した当時日本の国家予算の4倍にも匹敵する「賠償金・銀2億両(テール)」が国庫に入ってきたせいであろうか。 言うまでもなく、このような国費を投入しての留学ばかりでなく、私費を含めて海外留学生の留学成果を決定づける第一の要因(基盤)は、留学生個々人の語学力(コミュニケーション能力)である。 容貌非凡、語学力(英語力)にも優れ、アメリカ留学を命じられた秋山真之大尉のその語学力(英語力)の基礎は、東京大学予備門そしてそこへ入学するための共立(きょうりゅう)学校(現・開成高校の前身)において身についたものであった。 明治16年、旧制松山中学を5年で中退し東京に出た秋山は東京大学(東京大学予備門)を目指し、そしてそこへ入る為の進学予備校「共立学校」へ入学した。幸運なことに、共立学校、大学予備門のどちらにおいても英語教師を勤めていたのが、仙台藩足軽の子として寺男から身を起こし、30歳にして初代特許庁長官に就任した高橋是清(たかはしこれきよ)であった。 東京大学予備門において秋山と机を並べ高橋是清の英語指導を受けていたのは、夏目金之助(漱石)、山田武太郎(美妙)や南方熊楠、松山中学以来の親友・正岡升(子規)らであった。 秋山家は家計に余裕がなく、真之は兄・秋山好古(陸軍騎兵中尉、陸軍士官学校騎兵科教官、陸軍大学第一期生)の下宿に転がり込んでいたが、学費のことを考えて東大を諦め、最終的には学費が不要で生活費も支給される海軍士官学校に入学する。 そういう秋山の英語を指導した高橋是清は明治元年アメリカから帰国して明治6年に至り文部省10等出仕からスタートして役人(官吏)となった。高橋は程なくして副業としての東京大学予備門の英語教師を勤める傍ら、共立学校その他予備校の英語教師を勤めるばかりでなく、明治17年には文部省から農商務省に転じて農商務省の外局である特許庁を整備し、30歳で初代特許庁長官に就任した人物である。当時日本の民度は低く、特許や商標という言葉を殆どの人々は知らず、商人(実業家)は、「のれん」と「商標」の意味する違いを理解していなかったようである。役人(公務員)でありながら、副業としての「英語教師」ばかりでなく、高額の報酬も得られる「諸官庁からの英文翻訳依頼」も多々あって、高橋是清は裕福な生活を送っていた。 だが才覚溢れる高橋は明治22年、初代特許庁長官としての役人(官僚)暮らしに飽き足らなくなったのか、実業(海外雄飛)を志して特許庁長官職を辞し、南米ペルーに赴き銀鉱山の経営に着手する。ところが廃坑を掴まされて見事に失敗、スッテンテンになって明治25年には帰国、日銀総裁川田小一郎に拾われて日銀の設備担当者(建築所事務主任、38歳)から人生再スタートとなった。 周知のようにその後、生来の才幹を発揮した高橋は、遂には日銀総裁、農商務大臣や大蔵大臣(6回)、第20代内閣総理大臣等を勤める。特筆すべきは明治37年、日露戦争勃発と同時に、当時の日銀副総裁高橋是清(52歳)が随行員・深井英吾(33歳、後に第13代日銀総裁に就任)と共にアメリカ商船サイベリア号に乗り込み、向かった先の米英両国において、何と当時日本政府歳入(4億円)の5倍(20億円)もの資金(外債)を調達するという、離れ業を演じたことである。 この頃アメリカでモルガン財閥とも競っていたクーン・ローブ商会(西半球で最も影響力のある国際銀行の一つと謳われた)トップのジェイコブ・シフとの掛け合い等、「外資調達交渉」において高橋が発揮したとてつもない才幹の根底には、10歳頃に入門した横浜の「へボン塾」以来、鍛え上げてきた「英語力」があったことは明白である。ユダヤ系アメリカ人シフは戦後の明治39年3月、来日して明治天皇から日本国の最高勲章である勲一等旭日大授章を授与され、高橋との交友関係は長く続いた。 今ここに改めて秋山真之の英語の師匠・高橋是清と高橋の師匠である宣教医師へボン(James Curtis Hepburn)博士について注目し、長崎英学を源流とする「日本英語教育史」の一環として記憶しておきたい。 徳川幕府御用絵師・川村庄右衛門が女中きん(当時16歳)を孕ませ、産後間もなく仙台藩足軽・高橋覚治の養子とされた是清(幼名・和喜次)は8歳頃、慈愛溢れ、教育熱心な養祖母の計らいで、寿昌寺(品川区東五反田3丁目、伊達政宗の正室・愛姫が創立)の寺小姓となった。 徳川時代の寺は富裕で、そこに住み込めば衣食に窮することなく存分の勉強が出来、成人して見込みのある者には寺が与力あるいは旗本の株を買ってくれる風習があって、志はあるが身分の低い者が立身出世する登竜門のような施設であった。寺小姓(寺男)から身を起こした他の典型的一例が、外相として「日清戦争」を主導、外務省で「カミソリ」と呼ばれ、今その構内に一般道路からも目立つ大きな銅像が立っている陸奥宗光のケースである。 徳川御三家の一つ紀州徳川藩において家老に次ぐ権勢を誇った父親・伊達宗弘が政争に敗れて罪人とされ、当時9歳前後の陸奥宗光(伊達家六男・伊達小次郎、幼名・牛麿)の境遇は激変した。母や姉夫婦とその子供、二人の妹(そのうちの一人は後に初代衆議院議長・中島信行に嫁ぐ)、妾腹の弟らと共に、和歌山は伊都郡の村々の間借りの家を転々とする苦境の中から、安政5(1858)年、15歳で脱藩した陸奥宗光が先ず江戸に向かい、芝二本榎にあった高野山江戸出張所(現・高輪警察署の隣)の寺男になったのも、志あり学問をした人物が出世しようとすれば、この順序を踏むのが一番の早道であることを意識していたからではないか。 高橋是清に話を戻すと、高橋少年が寺小姓をしているうちに仙台藩は時代の風向きを読んだか、自藩の若者に「漢学」「国学」以外に「英学」を学ばせる必要を感じたようである。その結果、生来の利発(生まれつき高い学習能力と意欲)を買われた高橋是清は、鈴木知雄と共に選抜されて10歳頃、横浜の「幕府直轄神奈川英学所」で学ぶことになったのである。 振り返ると万延元(1860)年、駐日弁理公使タウンゼント・ハリスと老中・安藤対馬守、同じく老中・脇坂中務大輔の三者会談が安藤邸で行われ、日本人青年への英語伝習について積極的姿勢を見せるハリスに対して日本側も受け入れる方向で検討を始めることになった。ちなみに1856年8月21日(安政3年7月21日)、伊豆半島下田に上陸した初代駐日アメリカ合衆国弁理公使タウンゼント・ハリスは、1846(弘化3)年にはニューヨーク市教育局長に任命され、翌年に高等教育機関「フリーアカデミー(現ニューヨーク市立大学の前身)」創設者の一人となった知性と経歴の持ち主である。 安藤邸における交渉時、ハリスの頭の中には前年(安政6年)44歳で妻を伴い来日した宣教医師へボン(Dr.James Curtis Hepburn)と宣教師サミュエル・ブラウンがあったという。程なくして文久2(1862)年には、横浜運上所(税関)の前(現在の神奈川県庁所在地)に「英学所」が設置され、へボンは長老派教会海外伝道協会に対する活動報告の中で「横浜英学所」について、「私たちが組織したばかりの学校」と記している。 元治元(1864)年には3クラス、生徒数は25名となり、開設当初から授業を担当していたブラウンは文法を、宣教師ジェームズ・バラはABC(初級クラス)を、宣教師デイヴィッド・トンプソンは算術を担当して、それぞれ毎日1時間ずつ授業を行っていたが、彼らにとって英学所での活動は「奉仕」であり、幕府からは中元や歳暮の時期に謝金が出る程度であった。教師はアメリカ人ばかりでなく、神奈川奉行手附翻訳方・石橋助十郎、太田源三郎が日本人英語教師であったが、彼らは幕府役人としての俸給を得ていたのであろう。 この25名の生徒の一人となったのが仙台藩から送り込まれた10歳前後の高橋是清と鈴木知男(9歳前後、後に日銀出納局長)であり、二人は長崎から転勤してきた通詞・太田源三郎の邸内に設置された粗末な別棟に起居し、宣教医師へボンの妻クララや、同じく宣教師バラの妻マーガレットから英語を学び始める。 ところがその2年後の慶応2(1866)年、「神奈川英学所」は港崎遊郭の西にあった豚肉料理屋から出火して遊女400人が焼死した「豚屋火事」と呼ばれる大火によって焼失し、以後再建されることはなかった。 余談ながら、明治7年1月、陸奥宗光に抜擢され25歳にして第4代横浜税関長に任命された星亨(ほしとおる)も、13歳頃から、まずこの横浜英学所で英語を学び始めたことを付言しておきたい。低い身分に生まれながら「英語教師」を以て世に出る道を歩み始めたことでは、星亨と高橋是清は酷似している。容貌魁偉、傲岸不遜、ワシントン駐在全権公使として、(英字)新聞を読みながら食事をし、人とも面会するという「人を食った人物」であった星亨と秋山真之大尉との関わりについては、第3章で言及したい。 その後、慶応3(1867)年、高橋是清(13歳)は前記鈴木知雄(12歳)と共に仙台藩から選抜され、仙台藩上級士族・富田鐡之助(当時32歳、後に第2代日銀総裁、東京府知事、貴族院議員)の従者として、和船とは全く異なりホテルのようなアメリカ商船に乗船してカリフォルニアに渡るという幸運を得たのであるが、そこでは辛い目(奴隷同然に扱われる)にもあった。 高橋らを引率した富田鐡之助の渡米目的は、勝海舟の長男・勝小鹿(かつころく 15歳)をアメリカ海軍兵学校(アナポリス)の入学試験に合格させるための勉強その他の監督をするためであった。富田は勝塾(赤坂にあった氷解塾)門弟の一人として、庄内藩士・高木三郎と共に選ばれてその任についたのであり、富田の渡航費用1千両は、初め仙台藩から出ている。坂本龍馬とほぼ同い年の仙台藩の俊英・富田鐡之助は、勝海舟の主催する「氷解塾」門弟の一人として坂本と面識があったか、どうか。 さて、横浜で高橋や鈴木を指導したへボンに目を転ずると、文久3(1863)年、一時帰国していた妻クララも戻ってきて新装なったへボン邸(横浜租界39番館、敷地面積646坪)で医療活動を行う宣教医師へボンの腕は非凡で、一度でも平文(へボン)先生に会った者は、その謙虚柔和で、しかも神々しいほど威厳のある人柄に打たれない者はなかったと言われている。 「へボンさんでも草津の湯でも恋の病はなおりゃせぬ」と横浜の俗謡に謡われた名医へボンの名声は江戸にまで轟き、へボン邸を訪れる日本人に対して、へボンは上下貧富の差別なく接し、とりわけ困窮者や下賤な者(娼婦?)には温かい心をもって接したという。 その横浜租界39番館においては、18年間に亘った医療活動ばかりでなく、「日本初の日曜学校」、「日本初の男女共学教育」が行われたことも記憶しておきたい。 高橋是清と同じくへボンの弟子となった俊英・林董(はやしただす、後に駐英公使として第一次日英同盟の締結に成功)や、三宅秀(みやけひいず、東京大学初の医学博士、初の名誉教授)、あるいは益田孝(ますだたかし、三井物産、三井財閥のドン、日本経済新聞の創設者)ら、いずれも10歳代でへボンの薫陶を受けたのであった。 ニューヨークにおける高名な眼科医としての13年間の生活を捨て、キリスト教布教の念に燃えて、妻クララと共に来日したJames Curtis Hepburn(日本名へボンまたは平文)とその妻クララは、13歳で入門した林董をアメリカに残してきた息子同然に可愛がったという。蘭方医を志し自ら「長崎留学体験」もある林董の実父・佐藤泰然(順天堂大学の創設者)は、後に蘭方医・林家に養子に出す五男・董(幼時は薫三郎と呼ばれた)の教育をへボンに依頼したのであった。 医療活動以外にも慶應2(1866)年、あの岸田吟香(きしだぎんこう)を伴い、日本より出版技術が進んでいた上海において、日本語初の横組み出版物として宣教医師へボンが発行した『和英語林集成』は、明治30年頃まで他を寄せ付けない圧倒的影響力を誇る『英和(和英)辞典』であり、その印税収入は明治学院大学創立に大きく資する程であった。 明治政府トップの太政大臣三条実美の月俸が800円、右大臣岩倉具視のそれが600円、参議大久保利通の月俸500円の時代に、月俸600円で「大学南校教頭」として雇われ、「明治(日本)政府最高顧問」とも言うべき役割を十分に果たした宣教師フルベッキは明治31年、赤坂の自宅で心臓麻痺で死去したが、その遺骸は明治政府派遣の「儀仗兵」によって青山墓地に運ばれ埋葬された。そういうフルベッキと並んで、「日本社会の近代化」に残した宣教医師へボンの足跡は、永遠に残る巨大なものであると言えよう。 へボンの薫陶を受けた林董は、幕府開成所で行われた留学生試験に合格した12名の一人として、川路太郎(寛道)、中村正直に引率され慶應2(1866)年10月、横浜を出港してイギリスに向かう。林董(16歳)と共に「幕府派遣英国留学生」に選ばれた12名の中には、最年少11歳の菊池大鹿(きくちだいろく、後に東京帝国大学総長、文部大臣、貴族院議員、枢密顧問官、帝国学士院長)や、年長18歳の外山正一(とやままさかず、後に東京帝国大学総長、文部大臣、貴族院議員)らがいた。 ところが、その後間もなく「幕府瓦解」によって1868年8月、林ら留学生は帰国を余儀なくされた。そして林董は、榎本武揚(えのもとたけあき)、大鳥圭介(おおとりけいすけ)らと箱館五稜郭で明治新政府軍と戦って明治2年5月には降伏する。首謀者の榎本や大鳥は、明治5年まで辰之口軍務官糾問所(現・千代田区丸の内にあった)に繋がれたが、19歳という若年のせいか、津軽藩に投獄されていた林董は明治3年には釈放される。我が子同然に可愛がっていた林董が、津軽藩に収監されてから明治新政府の命令で釈放されるまで、へボン夫妻の心労は一方ならぬものであったという。 第2節 秋山真之とアメリカ合衆国海軍大学元校長マハン大佐 さて本題に戻ると、留学に当たって秋山真之は、「今までの海外留学の先輩は、その国の海軍技術を学んだけだ。自分はそれを突破して、外国のエッセンスを自主的に使いこなせる所までやりたい。それを戦略・戦術の面でやりたい。このためマハン大佐に学びたい」と考え、その意気込みを前記4人の海軍留学生にも力強く語っていたという。 後に詳述するように、「鳥羽伏見の戦い(1868年1月)」の際には大阪湾にいて、兵庫(神戸)や蝦夷地(北海道)にも滞留経験を有するアルフレッド・セイヤー・マハン(当時海軍少佐、27歳)は、明治5(1872)年に中佐に昇進、そして明治16年、発表した論文”The Gulf and Inland War”(「メキシコ湾と内戦」)が高く評価されて大佐に昇進する。翌明治17(1884)年10月6日、わずか4人の教授陣を擁して発足したアメリカ合衆国海軍大学(U.S Naval War College)の初代校長ステイーブン・ルース海軍少将は、その教授陣4人の一人であり自らと共に海軍大学設立に動いたアルフレッド・セイヤー・マハン大佐に対して、海上の権力(sea power)に関する著作を世に出すよう勧めた。 それに応えて、論文執筆に要する調査・研究が一段落したマハンは、明治19(1886)年6月22日、ルースの後継者として第2代海軍大学校長に就任し、明治22年1月12日まで勤める。 戦略、戦術の研究機関として「世界で初めての独創的な海軍大学」の創設と、その存続に尽力したマハンは、ここから「ペンの人」としての本領を発揮、海軍大学校での自らの講義録を基にして翌明治23(1890)年、『海上権力史論』(The Influence of Sea Power Upon History, 1660-1783)を出版する。 労作『海軍戦略家 マハン』(中公叢書、2013年刊)の著者・谷光太郎によると、一般読者にとってあまりに技術的、専門的として、出版を引き受けてくれる出版社が見つからず意気消沈していたマハンにリトル・ブラウン社を紹介してくれたのは、海軍大学で国際法担任のソーリ教授であったという。そして売れ行き見込みが立たない同書の出版に際して25枚の図版作成費用200ドルは、マハンが負担させられたとか。ところが予想に反して結果は上々、後述するように日本のみならず、同書はドイツ、フランスでも翻訳出版され、リトル・ブラウン社は大きな利益を手にしたことであろう。 「歴史は経験の記録に過ぎないが、入念に研究すれば、戦争に至らしめた全ての要素は、部分的に参考になるし、これを一つに総合すれば、諸君にとって最善の教師となるだろう」と、アメリカ合衆国海軍大学明治20年のクラスで述べたマハン大佐の企図は、歴史の研究から歴史に一貫して流れる基本的原理―海上戦略―を掘り出すことであった。 そしてそのマハンの著作が最もよく読まれたのが他ならぬ日本国である。これを「海上の権力に関する要素」として抄訳し西郷従道海軍大臣に送ったのが、あの金子堅太郎であり、この抄訳は明治26年7月号の「水校社記事」において「近来傑出ノ一大海軍書ニシテ、独リ米国海軍社会ノミナラズ、欧州各国ノ軍人政治家外交官ノ間ニ広ク敬迎セラルル珍書ナリ。我社員(水校社会員―筆者注)ニ必読ノ書」と紹介されていた。秋山真之が渡米する前年の明治29年には、東邦協会から同会の会長・副島種臣と水校社の幹事・肝付兼行による序文が付いた『海上権力史論』として全訳が出版されるに至ったのである。 一方、当時30代のドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、ドイツの将来は海上発展にあるとの信念の下に、ドイツ海軍の全艦船とドイツ各地の公立図書館に、ドイツ語訳の『海上権力史論』を備えることを命じたという。 その「新興海軍国ドイツ」との「建艦競争」が、国家財政を圧迫して政治問題化し、大英帝国が絶頂期から傾き始めたイギリスでは、マハンのこの著作は海軍増強派にこの上ない理論的根拠を与えた。 マハンは、「大英帝国」の歴史家たちが肝心の海の事情に疎く、第二次ポエニ戦争でローマと17年間戦ったカルタゴの名将ハンニバル、或いは軍事的天才ナポレオンと長期に亘り戦ったイギリスのウェリントン将軍らを論じる中で、制海権がローマとイギリスにあったという顕著な類似点を見過ごして論述していることを鋭く指摘した。同時に、マハンの『海上権力史論』は、同書の中でマハンが展開した「イギリス海軍の史的研究」を通じてイギリス国民にも海上権力(シー・パワー)の意義と重要性とを目覚めさせたのであった。このsea powerという言葉を秋山は、「海上武力」と翻訳すべしと主張していたという。 世界的名著出版後のマハン大佐は、明治25年7月から明治26年5月まで二度目の海軍大学校長を勤め、秋山が渡米する直前の明治30年、『ネルソン伝』を出版するという生活の中で秋山の訪問を受けたのであった。 アメリカ滞在中、秋山は二度に亘ってマハンの自宅(ニューヨーク市内)を訪問してアドバイスを受けている。そしてそのマハンについての秋山真之の人物評は、ずばり本質を突いたもので、親しい先輩(海兵12期)の山屋他人少佐(後に連合艦隊司令長官・海軍大将)宛の手紙の中で、秋山はマハン大佐に関する所見を次のように述べている。 「小生一カラ十マデハ大佐ノ所説ニ敬服致サズ候得共、其ノ言行ニ依リテ察スルニ、大佐ハ哲学的頭脳ニ論理的思考ヲ加味シタル神経質ノ兵学者ニシテ、米国人ニハ真ニ珍シキ精神家ト見受申候。故ニ其所論往々過密多岐ニ亘ル弊アルコトハ、彼ノ権力史論ヲ読ミテモ知ラル如ク、併シ今日ノマハン大佐ハ、権力史世ニ出タル当時ノマハン氏ヨリ遥ニ見識モ理想モ高マリテ、其所説ノ見ルベキモノ不小(スクナカラズ)―兎ニ角、此人一定ノ用兵主義ト国家的大野望ヲ抱造シテ居レバ、中々以テ油断ノナラヌ老爺ト小生ハ看破致居候」 渡米当初、秋山は海軍大学への入校を希望したが、国家機密を扱うので外国人の入学は許されなかった。しかしながら秋山はマハン大佐以外に、海軍大学校長グッドリッチ大佐を筆頭にワシントンの海軍省や海軍文庫等に勤務する多くの懇切淡白なアメリカ合衆国海軍将校らとの交流を通じて研究を深めていく。竹下勇大尉(海兵15期、日露戦争時に米国駐在武官、後に連合艦隊司令長官、海軍大将)と気が合って仲が良かった秋山は、ワシントンを中心とする自らの研究状況を、その竹下勇先輩宛の書簡において次のように伝えている。 「如御存知此国は形式威儀至極簡単にて、内外の差別真に少なく、小生華府に入りて未だ半年不足(たらず)に得候共、海軍部内に知人を得る事、己に十数、大抵皆淡白懇切なる人士にして、小生修学上の助力を惜しまず、特に海軍文庫にも屡々出入りして、有数の著書記録等を借読するの便宜をも得、小生目的上の便益不過之(これにすぎず)と存居候。大佐マハン、大佐グードリッチの如き、当国有名の兵家にも容易に知近するを得、屡々戦術上の助言相受け居り、是亦小生の至幸と致す所に御座候。 ―マハン大佐の助言に依れば、戦略・戦術を研究せんと欲せば、海軍大学校僅々数個月の過程にて事足るるものにあらず、必ず、能く古今海陸の戦史を渉猟して、其成敗の因ってきたる所以を討究し以て―自家独特の本領を養成するを要すと― 誠に適切なる助言にて云々」 第3節 タイクーン(将軍)徳川慶喜と出会ったマハン少佐(27歳) ニューヨーク市内の自宅に二度に亘って秋山真之海軍大尉の訪問を受けたマハン大佐は、その事に言及したかどうか、実はマハンは若い頃(27歳、少佐)、アメリカ合衆国海軍フリゲート「イロコイ号」副(艦)長として、大阪湾内で徳川幕府第15代将軍徳川慶喜を迎えるという椿事を体験していたのである。 慶應4(1868)年1月元旦、大阪城に駐在する第15代将軍・徳川慶喜は、江戸においての放火その他、悪行を重ねる「薩摩藩の挑発」にたまりかねてか、ついに「討薩表」を発し、京阪に駐屯する薩摩藩兵の討伐を開始する。1月3日夕方、下鳥羽で薩摩藩兵と幕府歩兵隊との衝突が始まり、その銃声をきっかけに伏見でも戦闘が始まった。幕府側は鳥羽街道に幕府歩兵隊、伏見街道に会津藩、桑名藩、新選組(150名内外)を配置して、その総兵力は1万5千人、これに対し15歳の天皇を担いでいる新政府軍は薩摩藩兵を中心とする4500人であった。 前年10月14日には「大政奉還」が行われ、11月15日には坂本龍馬が暗殺され、12月9日には「王政復古」が決定されるというテンポで、政争(政治権力争奪戦)は頂点に達し、巷ではエエジャナイカの掛け声と共に踊り狂う人々があちこちに現れて、騒然たる世相の中での出来事であった。刀槍、弓矢に代わる銃砲主体の近代戦における双方の装備、兵の練度は似たようなものであったが、諸々の要因によって1月6日夕刻までの戦況は幕府軍の敗色濃厚であった。 戦闘開始から3日間、大阪城の奥に籠ったままの徳川慶喜は1月6日、敗報しきりの大阪城大広間に幕府首脳を集めた対策協議を開き、その最終場面において慶喜は、「未明に打立つべし。一同用意にかかれ」と言明したという。ところがその1月6日夜半、徳川慶喜は小姓に身をやつして大阪城から脱走する。付き従ったのは、会津藩主・松平容保、その弟である桑名藩主・松平定敬、老中首座・板倉勝静、若年寄・永井尚志、大目付・戸田忠愛、外国惣奉行・平山敬忠ら重臣と愛妾お芳(侠客・新門辰五郎の娘)である。新門辰五郎らの手引きによって天満八軒家から川船に乗った慶喜一行が大阪湾天保山沖に漕ぎ出した時には、真っ暗な深夜で目指す徳川幕府最新鋭軍艦・オランダ渡来の「開陽」は、どこに停泊しているか見当がつかず、一行は、やむを得ず目の前のアメリカ軍艦イロコイ号に乗せてもらった、と言われている。 この時、大阪湾には兵庫から大阪にかけて英、米、蘭、仏等、併せて18隻の外国船が遊弋あるいは投錨し、そのうち商船は一隻のみで他は全て軍艦であり、風雲急を告げる京阪神の情勢に対応して、万一の場合に自国民(欧米人)を救出するための備えであった。一方、幕府最新鋭の「開陽」を初め薩摩藩その他諸藩の軍艦も同じく18隻、同海域を遊弋するという状況であった。 長さ60メートル、1488トン、13門の大砲を擁し1859年に進水したアメリカ合衆国軍艦イロコイ号には、艦長のアール・イングリッシュ中佐以下約270名の将兵が乗艦しており、そのうちの58人がアメリカ人、次にドイツ人、フランス人が続いて、その他ヨーロッパ各国人、黒人、アジア人や混血もいるという、当時のアメリカ海軍艦船では普通の人員構成であった。士官は艦長イングリッシュ中佐、副(艦)長マハン少佐を含めて10人であったが、30才を超えている者は3人しかおらず、既述のようにマハン少佐は、この時27歳であった。そのイロコイ号副長マハン少佐は1868年2月20日付けの母親に宛てた手紙において次のように書き送っている。 「タイクーンと反乱を起こしたダイミョーとのあいだにいくさがあり、タイクーンの旗色が悪く、タイクーンは逃げ出さざるをえなくなりました。タイクーンは自らいくさをすることなく、不名誉なことに、オーサカからエドに、自軍のフリゲートで逃げようとしたのです。自分の艦が見つけられないので、アメリカ領事によるイロコイ号乗船許可の書状を持参してイロコイ号にやってきました。われわれはタイクーンを迎えるという名誉を持ったわけです。 午前3時に、お忍び姿のタイクーンが乗艦、アメリカ領事の書状には、彼等は、極めて高い地位にある将校と書かれておりました。艦長は彼らを手厚くもてなさなければなりませんでした。 その日の朝7時半、彼らはイロコイ号を離れました。この日は風が強く、ボートは木の葉のように揺れ、うすら寒い朝のぬれた甲板に集まった彼らほど哀れそうな人々を今までに見たことがありません。酒を大分飲んでいたようで、(艦長から酒食のもてなしをうけた)、サンダルは冷え切っており、ガタガタふるえておりました。 刀を二本差し、ピストルを持った彼らがボートに乗り移るとき、イロコイ号の水兵が彼らを子供のようにかかえてボートに乗せましたが、その状況は哀れでもあり、こっけいでもありました。 日本人は大変小さな人種で、ヒゲもほとんどなく、少年たちが兵隊ごっこをしているように見えます。強風のため、二十四時間、アメリカ領事との連絡がつかず、反乱の頭のチョーシン(チョーシュー―筆者注)とサツマの軍隊はまだオーサカにきていないようです。……(以下略)……」 こういう状況で「開陽」に移乗した慶喜一行であったが、「開陽」艦長・榎本武揚は鳥羽伏見の戦況調査のために上陸して不在であり、副長・澤太郎左衛門は、艦長不在のままでは出港できないことを主張する。だが将軍・慶喜は強引に出港させ、軍艦「開陽」は真冬の太平洋を北上、途中暴風雨にも会い、八丈島の近くにまで流されるが、1月10日に浦賀港に入り、11日深夜、品川沖に投錨した。 第4節 大阪から逃げ帰った征夷大将軍と英傑・勝海舟 慶應4年1月12日未明、赤坂氷川町の邸で寝ていた勝海舟のもとに使いが来て、馬に乗った勝は自分の前職場「幕府海軍所(現在の浜離宮庭園内にあった)」に勤務時間前の出勤をする。未明の呼び出しは、大阪城を脱走し幕府最新鋭軍艦「開陽」に乗って逃れてきた将軍・慶喜の「勝安房を呼べ」という下知によるものであった。 この時、慶喜はフランス皇帝ナポレオン三世から贈られたフランス式軍装をして、刀は背中に掛けていたという。前年(1867年)1月13日、来日したシャノワン大佐(日本から帰国後に陸軍大臣に就任)に率いられた15名の「フランス軍事顧問団」によって幕府中核の「伝習隊」ではフランス式軍事教練が実施され、号令もフランス語が用いられて、「撃て」はフー(few)、「気をつけ」はアタシオン、「前へ進め」はアン・ナヴァン・マルシェ等々、フランス語が徳川幕府演習場で叫ばれている御時世であった。 さて、慶應4年1月12日朝、呼びつけられ徳川将軍の前に現れた勝海舟(44歳)は、刀を杖のようにして突っ立ったまま、お辞儀もせず、会津藩主、桑名藩主兄弟に対して、事(鳥羽伏見の不始末)の仔細を尋ねたが誰もはっきりとした言葉を出せる者はいなかったという。もはや事態は、「英邁」だとか、「強情公」とか評されていた徳川慶喜(30歳)の知力、胆力あるいは権力の及ぶところではなかった。 一方、勝自身は、わずか20日たらず前の慶應3年12月23日、危機に臨んで勝を薩長の回し者扱いする陋劣な幕閣の対応に憤激して退職を願い出たばかりであり、海舟流に言えば「勤めをしくじった身」であった。 振り返ると、この話の4年前の文久3(1863)年、軍艦奉行勝海舟の提案(建言)によって幕府は神戸海軍操練所を設置したが、その近くの「海軍塾(勝塾)」には坂本龍馬や陸奥宗光あるいは後に日清戦争における初代連合艦隊司令長官として清国北洋艦隊を撃滅した薩摩藩の伊東祐亨ら多様多彩かつ有能な人材が集まっていた。これが徳川幕府幹部(幕閣)を警戒させ、その他幕閣の気に入らないことがあって元治元(1864)年11月、勝は解職され、旗本寄合席となって家に籠った。日本国にとってなんとも幸運なことには、御役御免(免職)になる直前の1864年9月11日、勝は初めて西郷隆盛と会っていたのである。この会見について西郷は大久保利通に次のような手紙を送った。 「勝氏へ初めて面会仕り候ところ、実に驚き入り候ふ人物にて、最初うち明け話にて、差し越し候ところ、トンと頭を下げ申し候。どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候。まず英雄肌合ひの人にて、佐久間(象山)より事の出来候ふ儀は、一層も超え候はん。学問と見識においては、佐久間抜群のことに御座候へども、現事に候ふて、この勝先生とひどく惚れ申し候……」 勝海舟の妹・順子は佐久間象山の妻であり、学問と見識において抜群と西郷隆盛が称える佐久間象山の義兄でもある勝先生は、いわゆる旗本寄合席となって1年半閉門蟄居していたが、1866(慶應2)年5月、再度の「軍艦奉行」に任命され、日本の支配権を幕府に代わって握ろうとする長州藩、薩摩藩との折衝の矢面に立たされた。 そうこうするうちに、京阪神の政治状況は前節で言及したように推移していくが、その最中の慶應3年12月22日、大阪湾にある徳川幕府最新鋭軍艦、オランダ渡来のあの「開陽」艦長・榎本武揚から勝に密書が届き、京都朝廷における倒幕密勅の動き、「大政奉還」した将軍慶喜に辞官納地を命ずる策謀等について知らせてきた。 周知のように、勝はオランダ海軍将校の指導の下で足掛け5年間、長崎海軍伝習所第1期生として長崎で暮らし、榎本は第2期生として共に長崎で過ごし、後に明治新政府の下、日本海軍創設を巡って長時間にわたり互いの主張をぶつけ合ったように、深い仲の二人であった。 その長崎海軍伝習所で勝が榎本を迎えるまでの勝の歩み(努力)に触れておくと、後述するように 直心影流剣術の恩師島田虎之助の許しも得て蘭学修行を志した勝麟太郎にとって、焦眉の急は『ドゥ―フ・ハルマ(Doeff-Halma )』蘭和辞典を手に入れることであった。当時、同辞典は高額の珍書であり、福沢諭吉が蘭学修行に集中した大阪の緒方洪庵の「適塾」においては、特別に設けた一室に同辞典だけを置いて、塾生はその部屋の利用を巡って競ったと伝わるように、貧窮の身の勝麟太郎には購入できる辞典ではなかった。 購入ではなく借用の道を求めた勝は、幾たびもの交渉の末、同書の持ち主の一人である蘭方医・赤城玄意から年10両で借用することが出来た。だが「持ち出し禁止」という厳しい条件をつけられた25歳の勝は、連日、赤城邸に通って、にじまないインクや鳥の羽根を削ったペンを自ら工夫しながら、遂に同書全58巻3000ページを1年がかりで写本、2部を製作したのであった。 島田虎之助道場一番弟子としての剣術修行同様、こういう超人的、伝説的刻苦勉励によって、オランダ語に造詣を深めた勝麟太郎義邦は、長崎海軍伝習所第1期生代表というよりは、始めから同所「学生監督」即ち「学監」或いは「教監」という立場に置かれて、20名を超えるオランダ人教官たちと伝習生との間の「連絡役」をも務めたのである。 幕臣ばかりでなく、薩摩藩からの川村純義、五代友厚、佐賀藩からの佐野常民、中牟田倉之助、田中久重、或いは短期間ながら長州藩からの伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)等々、間もなく「明治期日本社会の指導者」として大働きをする人々が数多在籍した長崎海軍伝習所で、「教監」として足掛け5年、30代前半をそういう俊英達と共に過ごした勝は多くの事を学んだのではないか。 伝習生は航海に必要な数学(サイン、コサイン等三角法)や、帆走ばかりでなく蒸気船操縦を目指して蒸気機関に関する実技も学んでいた。その学生の中には士族としての見栄か、或いは上級士族としての沽券にかかわるとでも思ってか、ロープ(帆掛け)作業や蒸気機関の手入れ等の、「身体作業(肉体労働?)」を忌避する傾向の持ち主が多かったという。 ところが榎本は違った。榎本武揚は煤と石炭で真っ黒になりながら蒸気機関に馴染んで、カッテンデイーケ海軍中佐(長崎海軍伝習所長、母国オランダに帰国後は外務大臣に就任)は、そういう榎本を高く評価していたという。 箱館で降伏し、大鳥圭介らと共に辰ノ口軍務官糾問所に収監されていた榎本は、周知のように箱館戦争において明治新政府軍の総指揮をとった黒田清隆が剃髪しての助命嘆願によって明治5年釈放されて後、駐露全権公使として樺太千島交換条約を締結する。その後、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使など、出来たばかりの明治新政府(古めかしい太政官制)に重用され、内閣制度発足(明治18年12月)後は、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任した人物である。 慶應3(1867)年12月22日、その榎本からの密書を手にした軍艦奉行・勝海舟は翌日、登城して上司である海軍総裁・稲葉兵部大輔に進言したところ、勝は幕閣の多くから「薩長の回し者」と白眼視され、徳川幕府役人の多くが勝の辞職を望んでいることを知る。 さすがの勝もこれで堪忍袋の緒が切れて、退職を願い出ると共にここに紹介する「墳言上書」に「海舟狂夫」と署名して提出した。それまでの生涯において、目的を達するためには超人的、伝説的な努力と忍耐力(根)を発揮してきた勝は、一面では癇癪もちでもあり、ついに勝は癇癪玉を破裂させたのである。 憤激の余り提出した「墳言上書」において本音を吐露した勝海舟は、政権(政治権力)を私(わたくし)せず、自ら三選を断った「アメリカ合衆国建国の父ジョージ・ワシントン氏(華盛氏)」を引き合いに出して次のように畳みかけた。 「……それ政府は、全国を鎮撫し、下民を撫育し、全国を富饒にし、奸を押さえ、賢を挙げ、国民その向かうところを知り、海外に信を失わず、民を水火の中に救うをもって真の政府と称すべし。たとえば華盛氏の国を建つるがごとく、天下に大功あって、その職を私せず、静撫よろしきを失わざる、誠に羨望に堪えたり。威令の行われざるは、私あるを以てなり。奸邪を責むる能わざるは己、正ならざればなり。あにただ兵の多寡と貧富に因らむや。この故に言う、天下の大権は一正にきすべしと。……」 イギリスからの独立を目指す13の州から集まった建国の父(Founding Fathers of the United States・アメリカ合衆国憲法制定会議代議員)」55名の総意によってアメリカ合衆国(合州国)初代大統領に就任したジョージ・ワシントンが自ら三選を断ったこと、即ち大統領職(政治権力)を私(わたくし)しなかった例を引き合いに出して、「公(public)の概念」、「社会正義の概念」を堂々と打ち出した「墳言上書」の内容(精神)は、「坂本龍馬の師匠・勝海舟」の面目躍如と言うべきか、あの時代ばかりでなく、21世紀日本社会に於いても新鮮な響きを有する「卓説」ではないか。 独立戦争(イギリス国王に対する謀反)の中で、まだイギリス軍がニューヨークに駐屯していた1783(天明3)年、勝が引き合いに出したジョージ・ワシントン植民地軍(「大陸会議」が創設した「大陸軍」)大佐は、現在のニューヨーク州ダッチェス郡ビーコンで開かれた晩餐会の席上、発足した「シンシナティ協会」の初代会長に就任する。 32歳の若さで建国の父の一員となり、合衆国憲法草案をも起草したアレクサンダー・ハミルトン植民地軍中佐が主催したその晩餐会で発足した「シンシナティ協会」という聞きなれない名称の由来は、紀元前の共和制ローマにおいて、執政官から短期間の「独裁官(ディクタトゥーレ)」となって、「緊急事態(戦争)」に対応するために法にかなった専制を行った伝説的人物キンキナトゥス(Cincinatus)に因むものであった。 そのモットーとして「Omnia relinquit servare rempublicam(彼の全てを投げうって共和国に仕えた)」を掲げ、アメリカ合衆国歴代大統領の多くがその会員となった「シンシナティ協会( The Society of Cincinnati)」本部は、現在ワシントンD.C.マサチューセッツ通り2118番地の「アンダーソン・ハウス」(「国定登録史跡」及び「国定歴史的建造物」)に置かれ、そこには展示室、図書館も併設され、アメリカ合衆国(合州国)建国時代(建国事情)に興味を有する幅広い層の 見学者を迎えている。因みにマサチューセッツ通りは各国大使館が並び立つ首都ワシントン目抜き通りの一つである。 余談ながらオハイオ州シンシナティ(Cincinnati、大リーグ中部地区「シンシナティ・レッズ」の本拠地)や、アイオワ州アパヌース郡シンシナティという「地名」は、「元老院」が多くの決定権を有する紀元前458年の共和制ローマにおいて、「独裁官」として軍の指揮を執り、緊急事態(戦争)終息後、直ちに農園経営(土を耕す人)に戻った伝説的人物キンキナトゥス(Cincinatus)に由来するものである。 第5節 英傑・勝海舟の本領 勝海舟は、父親・勝小吉の実家である男谷精一郎信友邸で誕生した。現在そこは本所警察署の裏手、両国公園という小さな公園になっており、西側には墨田区立両国小学校を挟んで吉良上野介の邸跡がある。 周知のように、男谷精一郎信友は幕府講武所剣術指南役、同講武所奉行(禄高3000石)に任命され、第14代将軍家茂上洛の際は旗奉行を勤めた人物であった。海舟の父である勝小吉の境遇は、幕臣の最下級(小普請組40俵扶持)というもので、それはある試算によれば、現在の月収7万円程度の境遇であり、当然、内職をしなければ成り立たない生活状況にあったが、内職に身を入れれば士風を吹かすことは叶わない。そういう境遇で懸命に生きた勝親子の周辺は子母澤寛の名作『父子鷹』に活写されている。 13,4歳で男谷精一郎信友門下として剣術修行を始めた勝麟太郎義邦は、起倒流柔術鈴木清兵衛の道場では島田虎之助と相弟子であったが、男谷道場の内弟子となっていた島田が短期間で直心影流免許皆伝となり、独立して浅草新堀に道場を構えたのをきっかけに、勝はその島田道場の最初の内弟子として、薪水の労をとりながら本格的に剣術に取り組んだ。その時15,6歳であった勝は18歳頃に至って牛島の弘福寺に通い、禅の修行をも並行して進め、超人的な努力と天性の剣才とによって21歳の時、直心影流免許皆伝に達し、師匠島田虎之助の代稽古を勤めるようになった。 禅の修行も島田の勧めによるものであったが、勝はこの頃には開明的な島田の許しを得て蘭学の修行も始めていた。ところがその蘭学修行が世間の受け入れるところでなく、「洋夷の匂いがする」とか言われて、勝は大名屋敷への出張稽古を断られるようになった。「俗は俊異を悪(にく)み、世は奇才を忌む」という典型的事態である。 200年以上続いた鎖国と封建制(門閥制度)という因習に泥み、「夜郎自大」、「頑迷固陋」、「因循姑息」に陥っていた日本社会に勝麟太郎は悪(にく)まれたのである。 普通の人間ならば落ち込むところであるが、数年に亘る薪水の労を取りながらの島田虎之助道場での厳しく激しい剣術修行と、18歳頃から並行して進めた禅の修行とによって、勝は、そんなことを弾き飛ばす強靭な心身を既に鍛え上げてあった。 万延元(1860)年、「咸臨丸」船将(軍艦操練所教授方頭取)としてアメリカに渡り、帰路は外国(軍)人の力を借りることなく、無事に「日本人初の太平洋横断航海」に成功した勝麟太郎義邦(37歳)は、その7年前の1853(嘉永6)年7月、小普請組松平美作守支配の微禄の身分ながら「海防意見書」を幕府に差し出した。同年6月来航して国交を要求したペリー提督に対する処置に困った幕府が、諸大名や幕臣、博徒の親分に至るまで広く「意見書」を提出するよう求めたからである。その(徳川将軍に宛てた)意見書の中で、勝(30歳)は最重要事項として次のように提言した。 「(前略)就中、御政事に携わり候お役人は、別して厳重に御人選遊ばされ、廉直にして其の志、正大優偉の者を以て 任ぜられ候様つかまつりたく存じ奉り候。且つ又御役人ども時に御前へ召しいだされ、天下の御政事、外寇の御所置など闘論考究仰せつけられ候らはば、自然と良籌善作湧出つかまつり、これによっておのずから言路も開け申すべくと存じ奉り候。泰平の通弊は尊卑隔絶つかまつり、下情上に達せず、自然と言路ふさがり候に御座候。故に何程の良将賢相御座候とも、下情に通達いたさず候ては、万民悦服致し候様なる御所置は相成り難き儀と存じ奉り候。故に右の所へ御注意遊ばされ、言路益々相開け候様仕りたく存じ奉り候。(後略)」 人材を厳選し、廉直にして正大雄偉な人物を選び(能力主義と高い倫理観の徹底)、言路(君主や上役などに対して意見を述べる方法・手段)を開けて、下情(社会の実態、実情)を十分認識した者が政策遂行の任に当たるよう提言した30歳の勝は、日本国が抱える問題の所在をきっちりと認識していた。 当然の事ながら、時勢は変転(進展)し、時流は変化する。この「意見書」提出の9年後、幕臣として最下級の身分・御目見え以下・小普請組40俵扶持(月収7万円程度の境遇)から大抜擢を受けた勝麟太郎義邦が、1千俵扶持の「軍艦奉行」として将軍の前に座るほど、徳川幕府の危機感は高まってはいた。 文久2(1862)年8月、江戸城において第14代将軍家茂の御前で陸海御備向(おんそなえむき)取調御用の会議が開かれ、22名の担当部局の者以外に、老中、若年寄、大目付、目付、御勘定奉行、講武所奉行、軍艦奉行らが出席した。軍制改革の一環として、順次軍艦三百数十を備え、幕臣を以てこの操練に従事させ、東西南北の海に軍隊を置くという方策が発表され、この策を全うするにはおよそ幾年を要するか、と筆頭老中・水野和泉守(出羽山形城主)が列席者にたずねた。席中誰一人声を発する者がなく、ついに末席にいた軍艦奉行勝海舟(39歳)が指名されると、将軍が「それへ」と声を発した。 声に応じて勝は立ち上がって前に進み、平伏してから「申し上げ奉る。五百年の後にあらざれば、軍艦三百数十の全備はなりませぬ。五百年でござりまする。如何にも軍艦は幾年を出でずして整いますでござりましょう。しかし、その従事の人数は決してその幾年の間には出来ぬのでござります。いや、ただ人の数だけは出来も致しましょう。その習熟、その鉄石の魂、これがどうしてその数年の間にできましょう。かの英国さえ三百年の歳月を費やして、漸く今日に至りしもの。……」等々と陳述した。勝のこれらの言葉に誰も反駁する者がなく沈黙が続いて、とうとう将軍は席を立ってしまったという。 そしてこの直後に勝は大目付らに別室に呼びつけられ、大目玉を喰った。勝の陳述に対する政策的あるいは技術的反論は一切なく、問題は将軍が「それへ」と声をかけた時には匍匐膝行蠢動してから発言するのが「柳営の慣例」であり、立ち上がって席を移した勝は慣例無視の無礼者ということであった。これでは大目付主催の単なる「いじめ」ではないか。 その余力を次第に東洋の果てに伸ばして来る帝国主義列強に対する情報収集、情報分析の能力もなく、封建領主(大名)や旗本が、大目付だの目付だのと親の身分を承継して幕閣に名を連ね、しかも情報収集、情報分析の中心機関を「蛮書調所(ばんしょしらべどころ)」とか命名する低劣な認識(島国根性丸出し)の持ち主が大多数であった。これが小普請組40俵扶持から大抜擢の1000俵を頂く軍艦奉行勝海舟を取り巻く当時の世の中(俗)であった。 勝はこの2年前、咸臨丸を指揮してアメリカへ渡り、サンフランシスコ周辺に20日余り滞在してアメリカ合衆国を体感、体験しており、日本社会を支配しているこのような「権威主義」、「事大主義」には臍が茶を沸かす(ちゃんチャラおかしい)思いがしたのではないか。勝が咸臨丸でアメリカへ渡る10年前、既に英仏海峡には海底電線が敷設されていた。 「五百年」と言ったのは、世界情勢を知らず、危機に対応するには日本全体の人材(全日本体制)を以てしても危うい時代に、「幕府海軍」とか「徳川幕藩体制」にこだわる幕閣の愚かさに怒った、勝一流のハッタリでもあったのではないか。 辞書を引くと、「権威主義」とは「権威をたてにとって思考行動したり権威に対して盲目的に服従したりする態度」とある。「事大主義」を引くと、「自分の信念を持たず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度」となっている。 慶應4(1868)年1月12日、浜御殿からフランス式軍装に身を固め、駕籠ではなく馬に乗り、将軍としては初めて江戸城に入った徳川慶喜を前に喧々諤々の議論が行われたが、結局1月15日、主戦派の勘定奉行・小栗忠純が罷免され、勝海舟が1月17日には海軍奉行に、更に1月23日に至り徳川幕府最高位の陸軍総裁に任命された。嘉永6(1853)年のペルリ来航以来、15年に亘る紛糾、紛擾を今こそ収束させる時が来たのである。 父親である勝左衛門太郎(小吉)惟寅ゆずりの「無類の度胸と根性」の持ち主には、長崎海軍伝習所における外洋航海訓練等々で培われた「大きな人間力」も加わり、幾多の曲折を経て最高位・徳川幕府陸軍総裁に任ぜられた勝海舟(44歳)には、この時、国家の命運を担って縦横に腕を振るう覚悟(胆力)と、政策形成能力、政策遂行能力とが備わっていた。 慶應4年1月23日深夜、慶喜と会見した勝は、鼻っ柱が強く、人を利用して突如ハシゴを外すような性癖の持ち主に対し、慶喜自身の「恭順」の意志の再々確認と、一筋縄ではいかない薩長の策謀に対して、一々慶喜の承諾を頂くことなく、勝が独断で事を進めることを承認させたのである。 義弟・佐久間象山(12歳年上)の学問は評価しても、あまり相性は良くない冷徹犀利な実戦家であった驍将・勝海舟は、「危機に際会して逃れられぬ場合と見たら、先ず身命を捨ててかかる」ことを常道として、手ぐすねを引き殺気充満の敵陣・薩摩藩蔵屋敷(現・港区芝5丁目33−8)まで、江戸城から護衛もなく、 馬から降りて歩いて談判に出かけるという離れ業を演じた。 アジア初のIOC委員 ・講道館長にして東京高等師範学校(筑波大学の前身)校長を24年余り勤めた嘉納治五郎が、いみじくも形容したように、「機略縦横、死生の境を行くこと平地の如く」行動して、世界的大都市・江戸の市民が塗炭に墜ちるのを防いだ勝海舟である。 徳川幕府陸軍総裁という最高位に就いて、敵将(大総督府参謀・西郷隆盛)との談判を成功させた勝海舟最大の強みは、その生い立ちから半生を通じて、とことん下情に通じていたところにあり、外国を含めての社会の実態、実情を肌で熟知しての政策形成能力、政策遂行能力を十全に発揮したところにあった。 |
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