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『実り多き米国留学三年―秋山真之海軍大尉の気迫』 目次及び序章 |
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目次 序章(プロローグ) 第1章 秋山への助言者マハン大佐が垣間見た日本社会の実態 第1節 秋山真之の英語教師・高橋是清そしてその師匠・宣教医師へボン博士 第2節 秋山真之とアメリカ合衆国海軍大学元校長マハン大佐 第3節 タイクーン(将軍)徳川慶喜と出会ったマハン少佐(27歳) 第4節 大阪から逃げ帰った征夷大将軍と英傑・勝海舟 第5節 英傑・勝海舟の本領 第2章 二流海軍国から一流海軍国へ―マハン大佐を庇護したルーズベルト海軍次官 第1節 「ペンの人」マハン大佐 第2節 セオドア・ルーズベルト―生い立ちから最年少ニューヨーク州下院議員(23歳) 第3節 セオドア・ルーズベルト―「大悲運」の克服と「大きな人間力」の獲得(28歳) 第4節 セオドア・ルーズベルト―「連邦官吏制度改革(31歳)」と 「ニューヨーク市警察制度改革(37歳)」 第5節 セオドア・ルーズベルト―アメリカ合衆国海軍次官(39歳) 第3章 留学生・秋山真之海軍大尉と駐米特命全権公使・星亨 第1節 明治日本政界の偉才(異才?)星亨 第2節 政界の領袖・星亨の怒気と軍人・秋山真之の気迫(度胸) 第3節 ハワイ併合とキューバ問題 第4節 「米西'(アメリカ・スペイン)戦争」開始の背景と新聞業者 第4章 「米西(アメリカスペイン)戦争」キューバでの出来事 第1節 「極秘諜報第百十八号」―秋山が見たスペイン艦隊殲滅作戦 第2節 キューバ島陸上戦闘とセオドア・ルーズベルト陸軍大佐 第3節 セオドア・ルーズベルト―キューバ凱旋から大統領(42歳)への道 第5章 見事な国際人柴四郎・五郎兄弟と会津藩家老・山川家の奮闘 第6章 連合艦隊作戦主任参謀・秋山真之(37歳) 第1節 日本国民への忠告(警鐘?)―「連合艦隊解散之辞」 第2節 アメリカ北大西洋艦隊「司令部付士官」として6か月の修行 終章(エピローグ) 主要引用参考文献 序章(プロローグ) 明治30(1897)年6月、アメリカ留学を命じられた秋山真之(あきやまさねゆき)海軍大尉(29歳)は幸運であった。図らずも翌明治31年に勃発した「米西(アメリカスペイン)戦争」に、アメリカ海軍の計らいにより「観戦武官」の一人として、各国(英、仏、独、露)観戦武官やジャーナリストらと共に乗り込んだアメリカ海軍兵員輸送船「セグランサ」艦上から、秋山はつぶさに戦況を観察することができたのである。 そこでセオドア・ルーズベルト海軍次官(39歳)によって抜擢されたサムソン海軍少将麾下のアメリカ合衆国北大西洋艦隊が、セルベラ少将麾下のスペイン艦隊の停泊するキューバのサンチャーゴ港を封鎖し、作戦通り相手を殲滅する推移を秋山は目の前で観戦(戦況観察)したのであった。その経験は後に、秋山が東郷平八郎提督麾下の連合艦隊作戦主任参謀として参画した「日露戦争」における「旅順港閉塞作戦」の立案に寄与する貴重な体験となった。 千載一遇とでも言うべき貴重な体験直後の明治31年8月15日付けで、秋山は直前2か月の観戦(戦況観察)を基に、『サンチャーゴ・デ・クーパ之役』と題して、「緒言、本論、結語とからなる報告書」をワシントンから直属する日本海軍軍令部第三局諜報課に宛てて送付する。 後に「極秘諜報第百十八号」と銘うたれた、その報告書に盛り込まれた「秋山真之の見識」を、初代海軍卿・勝海舟、第2代海軍卿・榎本武揚らが目にすることがあったならば、どのような感懐を抱くであろうか。 勝は明治32年1月に、榎本は明治41年10月に没したが、「日本海軍創設」に関わったこの二人が、明治31年に日本海軍最精鋭の一人とでも称さるべき秋山真之大尉(30歳)の挙げた成果(知的レベル)を、どのように評価したであろうか。 とりわけ徳川幕府派遣留学生(15名)の一員として、ハーグの海軍兵学校やライデン大学等を中心にオランダに4年余り滞在した榎本武揚は、元治元(1864)年2月か3月、留学生仲間の赤松則良(後に海軍中将、横須賀造船所長、日本造船協会初代会長)と共に、第二次シュレースビッヒ=ホルシュタイン戦争を、日本人として初めて「観戦武官」として見学、クルップ砲の威力を目の当たりにした体験の持ち主であり、その上、黒田清隆が総指揮を執る明治新政府軍と箱館五稜郭で戦って降伏した「敗軍の将」でもあり、秋山の報告書「極秘諜報第百十八号」に対する榎本の忌憚ない意見を聞いてみたいところである。 さて秋山が留学命令を受けた明治30(1897年)、アメリカにおいてはウィリアム・マッキンリー大統領がロッジ上院議員の口利きもあって、ニューヨーク市警察監査委員会(公安委員会)委員長の任期が切れたセオドア・ルーズベルト(39歳)を海軍次官に任命していた。アメリカ政界において後に「ロッジ・ルーズベルト共同商会」と揶揄された両者の緊密な関係が本格化する。 注目すべきは後述するように、若い政治家(行政官?)として、その仕事ぶりが「精力的、攻撃的、即断即決的」を以て知られた新進気鋭のセオドア・ルーズベルトが、海軍次官として着任早々、「合衆国海軍近代化(戦力強化)」、換言すれば「二流海軍国から一流海軍国への道」に豪腕を発揮し始め、後日アメリカ海軍が「ルーズベルト家の海軍」とも称されるに至る強い掌握力を、海軍部内や政界に築いたことである。 ルーズベルトが希求したように、アメリカ海軍の主力として「アメリカ合衆国北大西洋艦隊」は10年後の明治40年、「新造の戦艦16隻」を中心に、戦時色ならぬ平時色である白い塗装の大艦隊(Great White Fleet)として世界一周航海に成功する。全艦白色の戦艦16隻、乗員1万4千名からなる同艦隊は、14ケ月かけて総延長8万キロ、6つの大陸、世界20の港を巡って、「既にGDP断トツ世界1位の新興国アメリカ合衆国の力」を全世界に誇示した。途中マニラではコレラが流行、乗員の上陸が制限されるという困難もあった。 日本には明治40年10月、横浜に来航して「黒船」ならぬ「白船」として官民挙げての大歓迎を受ける。実は二期目の大統領セオドア・ルーズベルトの狙いの一つは、日露戦争に勝ったばかりの日本を威嚇することにあったが日本政府首脳はその肚を読み、歓迎の姿勢を崩さなかったのである。この時、桜木町周辺にはアメリカ海軍将兵を歓迎するために日本で初めての「イルミネーション」が設置され、提灯行列その他、8日間に亘る賑やかな歓迎行事に興奮した日本男児で横浜遊郭は賑わったという。 新進気鋭のセオドア・ルーズベルトが海軍次官として剛腕を振るい始めたアメリカ海軍勃興期に渡米した秋山海軍大尉の幸運には、さらに幸運が重なった。後述するように、「米西戦争」の翌年明治32年2月からおよそ6か月もの間、秋山海軍大尉はアメリカ合衆国海軍の中核とも言うべき北大西洋艦隊の「指令部付士官」として、旗艦「ニューヨーク」に乗艦を許され、サムソン提督麾下の幕僚と寝食を共にして6か月、同艦隊訓練航海の一部始終を体験したのである。 その5年後、秋山は「日露開戦」に際し東郷平八郎提督麾下の連合艦隊第一艦隊参謀(作戦主任参謀)として旗艦「三笠(英国ヴィッカーズ社建造)」に乗艦、世界戦史に画然たる「日本海(対馬沖)大海戦大勝」に貢献する。 明治38(1905)年5月「日本海(対馬沖)海戦」に臨んだ東郷平八郎連合艦隊司令長官は、「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」の意味を込めて「Z旗」を掲げさせたが、その文案を起草したのは秋山中佐である。更に、同艦隊出撃に際し秋山が送った報告電文「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」は名文として余りにも有名である。 世界戦史に画然たる大勝となった「日本海(対馬沖)海戦大勝」という結果を受けて「日露講和条約」が両国によって調印された戦後の明治38(1905)年12月20日、連合艦隊はその戦時編成を解き、翌21日の解散式において司令長官・東郷平八郎が「連合艦隊解散之辞」を述べて告別とした。 「二十閲月の征戦已に往事となり」という書き出しで始まり、「勝って兜の緒を締めよ」という言葉で締め括られた「連合艦隊解散之辞」は、近代日本名文の一つと称えられているが、それを起草したのも参謀・秋山真之中佐(37歳)である。 その「連合艦隊解散之辞」がアメリカ合衆国第26代大統領セオドア・ルーズベルト(47歳)の心の琴線に触れ、大きな感銘を受けた大統領は直ちに翻訳を命じる。自らその翻訳英文をじっくりとチェックしたうえで、「合衆国軍人ないし、軍人たらんと欲する者全てに対し、また不幸緩急の事態出来に至らば(戦争勃発のこと―筆者注)、アメリカの名誉にかけ、かく行動すべきと信ずる全ての者に余は上記演説を推薦するものである」と書き添えて、大統領はそれをアメリカ合衆国陸海軍事機関の全てに配布したのであった。 アメリカ合衆国大統領として、(仮想敵国)日本の連合艦隊司令長官が発した言葉(秋山真之起草の演説)に感服し、それを翻訳して自国の陸海軍事機関全てに伝えるという、「大胆不敵なリーダー」に率いられたアメリカ合衆国(合州国)国民は幸せであったと言うことが出来よう。 後に(第2章)詳述するが、セオドア・ルーズベルトがハーヴァード在学中に起筆、最初の妻アリスとの新婚生活の身で自宅から歩いて40分、コロンビア大学法科大学院に通いながらニューヨーク州下院議員に最年少(23歳)で当選した直後の明治14年12月、脱稿し出版した『1812年戦争海戦史"The Naval War of 1812"』は6年間で4版まで出版され、海軍大学その他いくつかの大学の教科書にも採用された上、明治19年にはアメリカ海軍艦船の全てに1冊ずつ配備される。 その上、博覧強記のセオドア・ルーズベルト(31歳)が明治22年ニューヨークで出版し、初版が1か月で売り切れるベストセラーとなってイギリスでも評判の書となった『西部開拓史”The Winning of the West”』の大成功によって、ルーズベルトは、かって13歳でハーヴァードに入学、17歳でハーヴァード大学総長の勧めによりドイツ(ゲッチンゲン大学)に留学し19歳で博士号を授与されたジョージ・バンクロフトの「再来」と、評判される人物となった。 さて、そういうルーズベルトの心の琴線に触れた「連合艦隊解散之辞」であったが、後にも詳述するように、グローバル化した21世紀の今を生きる日本国民は、あの名文を「永遠の戒め」と捉え、今後に生かすべきではないか。その末尾に「勝って兜の緒を締めよ」という文言を置いた起草者・秋山真之中佐の思い(願い)を、日本国民は自らに対する「忠告(順調な時に聞く警鐘?)」として未来永劫、忘れてはならない「警鐘」とすべきではないか。 その末尾の文言の前に、「更ニ将来ノ進歩ヲ図リテ時勢ノ発展ニ遅レザルヲ期セザルベカラズ」とまで踏み込んだ「秋山中佐の思い(願い)」ではあったが、当時日本の大多数の国民は秋山の思いを深くは受け止めず、むしろ「一勝ニ我ヲ忘レテ」、日本国内には「勝った、勝った」の驕慢の風が吹きまくった。 日露戦争に勝って一等国になったつもりの日本国民であったが、列強(英仏独米)は日本をそのようには遇せず、アメリカ(カリフォルニア)では日系移民排斥運動が益々盛り上がって、不満と不安でイライラしていたのが大正時代に入っての日本国民であった。 そこへ「日本海(対馬沖)海戦大勝」から10年後の大正3年、「第一次世界大戦」が勃発、「英仏側」に与した日本は大した損傷もなく、大正8年の「パリ講和会議」に「戦勝国の一員」として、若い頃10年近くパリで留学生活を送った元老・西園寺公望が率いる「大全権団」を派遣する。「ヴェルサイユ条約」発効後、大正10年発足した国際連盟(League of Nations)において、日本はイギリス、フランス、イタリアと並ぶ「常任理事国」となった。日本国民の「ナショナル・プライド」は一時的には回復して、「三等国から五大国の一つ」になったような国民的雰囲気が大勢となり、「維新」以来のフラストレーション、ヒステリーも解消した。 大戦が勃発した大正3年、44億1800万円であった日本の純国内生産高は戦争終結翌々年の大正9年には143億5千万円のピークに達するという、とてつもない伸び率(6年間に300%)を示した。その要因としての鉱工業生産高は、大正3年の9億5700万円から5年後の大正8年には、なんと37億5500万円という驚異的な伸びを示して、生糸輸出を主とする小さな農業国・日本はようやく、この時、工業国家としての地歩を固めたのである。 この30年間、21世紀も20年が過ぎ去り、GDPの数値も大した変わりがない(伸び率2%が目標?)咋今の日本社会から見れば、どこのお星様の話かと、耳を(目を)疑うような、「第一次世界大戦の戦争特需」で、おおわらわ、大繁盛の状況を呈した大正時代の日本経済である。 贅沢三昧の生活をする人々が激増し、新聞が態々そういう「戦争成金」に対して非難、忠告(警告)する「社説」を掲載するほどの、異様な事態である。 換言すると、この大正時代の「第一次世界大戦特需」による「日本経済の驚異的発展」こそが、昭和50年代に到達して平成2(1990)年の「バブル崩壊」まで続いた「太平洋戦争後の経済の高度成長(年率8〜10%程度)」などとは比較にならない、「日本史上、空前絶後の高度経済成長」であった。 ところが間もなく大正13(1924)年7月1日、アメリカで施行されたImmigration Act of 1924或いはJohnson- Reed Act と呼ばれるアジア系移民排除を目的とする法律を、「排日移民法」と捉えた日本国民はプライドを深く傷つけられ、憤激の余りアメリカ大使館横の井上子爵邸の庭で割腹自殺をする男も現れ、商店は軒並み「アメリカ製品を販売いたしません」という看板を出したという。 そういう動きの根底には、「明治維新」以来30年近く、列強に押し付けられるままに、「関税自主権」を奪われ、「領事裁判権」を認めざるを得ないという、「屈辱的な半植民地状態(3等国扱い?)」が続いたことに対する怨念、あるいは「文明開化」の過程で味わった劣等感の反動、更には「夜郎自大」という国民性(本性)の作用もあったのではないか。 「国風はみな善」、或いは「外国から学ぶものなし」という言葉を発する日本国民が増え、「国粋主義的、軍国主義的風潮」が日本社会の精神的底流となって、学校(旧制中学等)における「英語教育の縮小(削減)」を声高に要求する大学教授も出現する。 そういう世相の中で昭和8年3月27日、日本は「国際連盟」を脱退(国際社会から孤立)した。これに先立つ昭和8年2月24日の「国際連盟総会」において、満州における中国の統治権を承認し日本軍(関東軍)の撤退を求める議案は、賛成42,反対1(日本)、棄権1(タイ)という結果となり、日本は「満州問題」に関する「外交戦」に惨敗したのである。 ところが、国連の場における日本全権代表・松岡洋右外相の振る舞い(国連脱退表明)に日本国民は拍手喝采をしたように、日本中が「夜郎自大」に起因する「一億総外交音痴」の様相を呈する。 その後、「独ソ不可侵条約締結(昭和14年)」程度の出来事に驚愕して(腰を抜かして)「内閣総辞職」に至るという事態に象徴されるような、日本国にとっては「誤算」が重なり、昭和20(1945)年8月、遂に「一億総懺悔」という結果を招いてしまった。 不幸なことに、「日本海(対馬沖)大海戦大勝」から僅か40年、「無条件降伏」という破局に到達しようとは、誰も思っていなかったのではないか。「勝った、勝った」のああいう「空気」の中では、あくまでも冷徹であった山縣有朋のような人物を別にして、秋山真之海軍中佐(37歳)が「連合艦隊解散之辞」に込めた折角の忠告を、深く受け止める人物がどれほどいたであろうか。 名著『アメリカにおける秋山真之』の著者島田謹二東大名誉教授が、いみじくも喝破したように、「時勢は変転(進展)し、時流は変化する」 エジソンやフォードの時代、あるいはそれ以前、「高速度鋼」を発明し200件もの特許を取得したフレデリック・テイラーが「科学的管理法(Scientific management)」を発案した頃(1900年・明治33年前後)には、既に「GDP断トツ世界一」のアメリカ合衆国であったが、2020年代の今、マグニフィセント・セブンと呼ばれるアルファベット(グーグルの親会社)、アップル、メタ(旧フェイスブック)、アマゾン、マイクロソフト、テスラ、エヌビディアのような企業が、「世界に君臨」している。 ノーベル賞自然科学3賞(化学賞・物理学賞・生理学医学賞)の受賞者数において、アメリカ合衆国は日本の約10倍の200名余りを輩出して世界を圧倒、学術研究機関が充実していることにおいて「唯一無二の国」である。一方、20代、30代の若者が続々と起業する中から、あっという間に世界市場を席巻する企業が続出し、国家として140年以上、GDP世界一(長い期間、「断トツ世界一」)を支え続ける力の「根源」は、国土や人口、天然資源にあるのではなく、秋山中佐が示唆する「時勢ノ発展ニ遅レザルヲ期セラズベカラズ」という「人々の心構え」、即ち、「変転(進展)する時勢、変化する時流」を逃さない開拓者精神(Frontier Spirit)というアメリカ合衆国(合州国)特有の「剛健な精神風土」にあるのではないか。 *写真は、渡米直前の明治30年7月、秋山が小学校時代から松山中学、東大予備門を通じての親友・正岡子規に送ったものであり、後(第6章)に掲示するが、裏面には墨痕鮮やかな秋山真之のサインが記されている。 |
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