「私の散歩道」は、会員の方ならどなたでもご登録できます。
あなたのお気に入りの場所を皆さんにご紹介しませんか?
守れるか「太平洋にかける橋」ー「渡米実業団」団長・渋沢栄一  V-V 高い知性と大きな人間力

2021年10月11日(月)
道場主 
[東京都]
千代田区常盤橋公園に立つ渋沢像
東京駅八重洲北口から徒歩
(下)



さてここで話は飛ぶが、明治44(1911)年6月1日、東京は麻布中学校において、同校創立者にして終生その校長を務めた敬虔なプロテスタント・江原素六の「古希祝賀会」が開催される。
麻布中学校長兼衆議院議員(衆議院当選7回、政友会協議員)江原素六が、この年4月2日に「貴族院議員」に勅選されたことを祝うもので、発起人は益田孝(三井合名理事長、日本経済新聞創立者)と、本編の主人公・渋沢栄一であった。

江原素六は、明治政界重鎮の一人であったが、文部大臣や衆議院議長というポストをも固辞して、死の直前まで聖書に基ずく訓話や授業、或いは遠足の付添等々、麻布中学校の校長としての活動を最優先に生きた人物である。

発起人・渋沢は祝辞の中で、「顔回(顔淵)は先生の如く政治界に雄飛しなかったが、先生は政治にたずさわり、政党員になりながら、なおよく顔回の徳業をならわれた。これが常人の企て及ばないところである」と江原を称賛した。

顔回(顔渕)とは、孔門十哲の一人であり、随一の秀才。名誉栄達を求めず、ひたすら孔子の教えを理解し実践することを求めた人物である。
その暮らしぶりは極めて質素で孔子からは後継者と見なされていて、顔回が早世した時の孔子の落胆は激しく、「ああ、天、予(われ)を喪(ほろ)ぼす」と慟哭したことで有名である。

孔子の説く『論語』或いは「老荘思想」、その他広く「漢籍」や「仏教」、とりわけ空海や道元のような偉大な宗教家の影響によるものか、明治10年代の日本には、一種高尚にして純潔、温雅な東洋的思想と生活があった。
その「梅の香りのような生活と精神」に感動したのが、東京大学文学部教授(哲学、政治学、経済学担任)アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Earnest Francisco Fenollosa)である。

「東洋的精神を欧米に伝えるのを以て、一生の事業として身を捧げよう」と決心するに至ったフェノロサの心の内にあったのは、顔回(顔淵)の清貧な暮らしぶりを示す「一簟の食、一瓢の飲で、悠々として天地を友とし、貧しきを厭わず、乏しきを嫌わず」という言葉であった。

フェノロサがそう決心し、東大文学部における教え子でもある岡倉天心(東大文学部第一期生、同期8名)らと共に、日本国史上初の「国宝(national treasure)」という概念を導入して、日本美術の発掘や保護に乗り出して以後の日本社会は、前述したように「富国強兵」「殖産興業」の波に押し流され、「立身出世主義」、「拝金主義」が支配的となり、フェノロサは落胆し嘆息した。

しかしながら今、改めてここに指摘しておきたいのは、日露開戦直後の 明治37(1904)年3月21日と1週間後の27日の2回に亘り、アメリカ合衆国ホワイトハウスにおいて、セオドア・ルーズベルト大統領とその知友を前に、東京大学文学部教授(哲学、政治、経済担任)、そしてボストン美術館東洋部長という経歴の持ち主アーネスト・フェノロサが、「日本に関する講演」を行う機会を与えられたことである。
それはルーズベルトの若い頃からの親友であり、「日本美術界の恩人」にして真言密教の探究者ウィリアム・スタージェス・ビゲローの存在あっての出来事に違いあるまい。

明治31年、「米西戦争」勃発に際して、海軍次官セオドア・ルーズベルト(39歳)は既述のように、政界、言論界大多数の惜しむ声、反対の声を無視、欣然として職を辞しキューバに出征したが、その行動に対して、直属の上司ロング海軍長官や、長年の親友ロッジ上院議員でさえもが、ルーズベルトが正気を失った(気が触れた)と考えたようである。
そのような時においてもなお、ルーズベルトが自らの心中を吐露する手紙を書いた相手は、若い頃からの親友ビゲローであった。

明治35年、恩師・桜井敬徳阿闍梨の13回忌出席のため2度目の来日をしたビゲローは、翌明治36年1月には日本を離れ、ヨーロッパを旅行してクリスマスの頃、ボストンに戻る。
そして明治37年からの4年間が、ビゲローの人生における最高潮と言える時期であり、アメリカ学術会議例会において、ビゲローが「修習止観座禅法要」、「仏教の詳細について」、「三昧(ざんまい)の通常意識に対する関係」と題して三回連続の講演を行ったのも、この時期であった。

おそらく天台密教の思想をアメリカ人としては初めて同胞に紹介したビゲローは、明治41(1908)年には、母校ハーヴァード大学における「インガソル記念講演(Robert G. Ingersollを記念する講演会)」の講演者として招聘され、「仏教と不滅」と題して講演する。

生涯独身で過ごし1926年10月6日、自邸で死去したビゲローの分骨(遺灰の半分)は、遺言によって故人が密教の祈祷に用いた法具と共に、生前親しかった美術商・山中定次郎によって日本に運ばれた。
墓碑落成を待って 昭和3(1928)年4月29日から3日間、円城寺(三井寺)において「フェノロサ・ビゲロー共同追悼会」が盛大に挙行された。
同じく桜井阿闍梨に師事して「諦心」という法号を受けていたフェノロサは、明治41年、ロンドン滞在中に心臓麻痺で急死、遺言により火葬された分骨が法明院に埋葬されていた。その墓もフェノロサの墓と並んでいるビゲロー(法号「月心」)の戒名は、「大慈院無際月心居士」となっている。

ところが、日米の友人知己による盛大な「フェノロサとビゲロー追悼会」が行われて以後の昭和初期日本社会は、「国風はみな善、改むべきものなし」といった言葉が臆面もなく飛び交う、浅はかで偏狭な社会(非寛容で知性に欠ける社会)に転落して行く。

内外の厳しい状況に対し、「国民に自国の文化に対する自覚と自尊心を喚起したい欲求」が発生し、それが高まることは至極当然、世界各国(古今東西)共通の社会現象である。
だが、現実に基づかず、頭の中だけで組み立てた考え、即ち「観念論」と、それに伴う「形式主義」とが横行する昭和初期日本のような社会は救いようがない社会であり、「自尊」というよりは「自傲」に陥った社会である。

小説『山本五十六』(新潮社文学賞受賞)及び小説『井上成美』(日本文学大賞受賞)の著者・阿川弘之は、「満州事変勃発」「国際連盟脱退」等々の出来事が起こった昭和初期から日米開戦に至るまでに日本社会が辿った道は、調べれば調べるほど、つくづく日本人であることがいやになると述べている。

岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文ら「日本政府中枢部の半分」が、明治4年から「1年半もの時間と莫大な国費」とを費消して国を留守にした「遣欧使節団」という「日本国史上未曾有の大事業」は、その所期の目的とした「日本国近代化方策の策定」が、日清、日露両戦争の勝利によって達成されたと言うべきか、あるいは中途半端に終わったと言うべきであろうか。

明治42年(1909)年1月、講道館長にして東京高等師範学校長・嘉納治五郎は駐日フランス大使ジェラールから突然会見を申し込まれ、早速1月16日に嘉納はジェラールと会見、そこでIOC委員就任を要請される。
クーベルタン男爵の友人であるジェラールの要請を快諾して、東洋人初のIOC委員に就任した嘉納の心底には、外には体育運動を通じて諸外国と厚誼を結び、内には国際オリンピック競技会において行われている各種スポーツを奨励して、日本国民の体力向上と共に、青少年の「品性の陶冶」を図るという、二つの大きな目的があった。

その生涯を通じて嘉納が最も腐心したのは、三育(徳育、体育、知育)の併進(バランス)であった。
「知識万能主義」が瀰漫する日本社会の将来に対する大きな危機感を抱き、「明治維新以来の日本の教育における知育偏重の歪みを正す」ために、「知育と同じ重みを持つ体育の普及発展」に邁進したのが、嘉納治五郎の生涯である。

一方、国際社会の冷厳な一面と言うべきか、日露戦争の勝利、とりわけ「日本海(対馬沖)大海戦大勝」という世界戦史に画然たる事象を目にして、幕末以来、日本に不平等条約(半植民地的待遇)を押し付けて来た欧米諸国の対日認識は大いに改まり、公使館は続々と大使館になった。

IOC委員長クーベルタン男爵による要請と同様、明治43年、駐日スウェーデン公使からも明治45年スウェーデンの首都ストックホルムで開催される第五回国際オリンピック競技会に、日本が代表選手を派遣するよう要請があったという。
こういう背景において、嘉納は胸中オリンピック参加の意志を固めると共に、日本を代表すべき運動選手の選出母体の結成について思いを巡らせ、最初は自らが局長を務めたことがある文部省の協力援助を求めた。

ところが当時の日本社会は、日露戦争の勝利、とりわけ「日本海(対馬沖)海戦大勝」に酔いしれており、聞いたこともないオリンピックとか何とか、「たかが西洋の運動会」に、日露戦争に勝った日本国(上等な国?)が、わざわざ行ってやる必要はない、という何とも陋劣な雰囲気に汚染されていたのである。
世間知らずと言うべきか、こういう傾向(国民性)は21世紀の今も大して変わっていない。

だが、それは無理もないことで、幕末における列強とのいさかい(薩英戦争、下関戦争)で惨敗した屈辱感、或いはその後の「文明開化」のプロセスの中で味わった劣等感の反動と見れば、うなずけないことではない。
惨敗した下関戦争の相手4か国(英仏米蘭)に対する巨額賠償金を、長州藩ではなく明治新政府が、明治7年まで「年賦」で払い続けたのである。
まして、日露戦争の10年前、日清戦争勝利の暁に、列強による「三国干渉(遼東還付)」という煮え湯を飲まされ、悲憤の涙の中で「臥薪嘗胆」等のスローガンを叫んだ挙句に到達した「戦勝」であってみれば、日本国民が、ふんぞり返りたくなるのは、無理も無いことであるとも言えよう。

2000万を超える人口を以て200年以上も対外戦争が無かった(世界に例を見ない)国が、「眠れる獅子」と畏敬する清国や、「世界最大の武国」と畏怖するロシアを、たて続けに破ったのであるから、日本国民の得意は当然のことである。
世界戦史に画然たる「日本海(対馬沖)海戦圧勝」は、幕末以来、半世紀に亘って不平等条約(半植民地的待遇)に呻吟してきた日本国民にとっては、体格、体力、知力のいずれも勝ると見なされている「異人さん」を、見返す絶好の時が来たと思うのは無理もない。

なにしろ、横浜、神戸等、大港湾都市の主要部には「租界」が設けられ、特に横浜の山手地区(元町界隈)には、野蛮な日本人から西洋人(異人さん)を保護するために英仏海兵隊員300人前後が明治8年まで駐屯していたのが実態であった。

その後、第一次世界大戦に大した犠牲を払わず「戦勝国」側に与した日本は、ヴェルサイユ講和会議に、長期のフランス留学歴を有する元老・西園寺公望(70歳)を団長とする大「代表団」を送り込んだ。
「日清戦争」勝利(1885年)から僅か33年後の出来事であり、蛇足ながら西園寺が率いた日本代表団の中に、若き日の近衛文麿(27歳)や少壮外交官・松岡洋右(38歳)が含まれていたことは記憶しておきたい。

そこで発足し、アメリカやロシア(ソ連)そして敗戦国ドイツも加入しない「国際連盟」で、英仏伊と並ぶ常任理事国となったあたりから、日本国民の間に自信回復というよりは、自信過剰(自尊というよりは自傲)の雰囲気が瀰漫していく。

不平等条約(半植民地的待遇)の桎梏の中で「洋行帰り」とか呼ばれた人々が巾を利かせ、逆に「対外硬」などという言葉が時に過大にもてはやされた時代は終わりに近づき、その反動が大き過ぎたのか、今度は安直で軽薄、島国根性丸出しの浅はかな愛国主義に押し流されて、「夜郎自大」に陥ってしまったのが、昭和初期日本社会であった。

そこでは、旧制中学に於ける「英語教育」の縮小(廃止?)を主張する「低劣な世論」が支配的となり、「国風はみな善、改むべきもの無し」というような言葉が恥ずかしげもなく使われ、感情的(感傷的と言うべきか)、情緒的国家主義、或いは国粋主義全盛の御時世となる。

「愚劣な世論」を背景とするこういう動きを抑止するために、市川三喜や石川林四郎ら著名な英語学者が相談の上でのことか 、前東京高等師範学校長にして講道館長・嘉納治五郎貴族院議員が、「日本英語協会会長」という役目を担うような、とんでもない世相となってしまったのである。
勅撰議員(貴族院議員)の嘉納治五郎が会長ならば、不当な圧力をかわすことが出来ると判断したのであろうか。

昭和8年2月、国際連盟総会投票によって、満州における日本の権益に関し「42(イギリス、フランス、イタリア等々の諸外国)対1(日本)」という票決を喰らった日本は、常任理事国でありながら国連を脱退し、そこで見えを切った外務大臣・松岡洋右に対して日本国民は拍手喝采した。

元老・西園寺公望は、この時、「以後、日本人は畳の上では死ねない」ことを予感したという。
世界史を顧みる時、「歴史は繰り返す」という言葉は如何にも重い。だが、何があっても、再びあの轍を踏んではならないという思いは、筆者ばかりではないのではないか。

さて今、我々の心を和ませてくれるのは、既述のように「日本美術界に歴史的貢献」をしたフェノロサとビゲローを、「日本美術(文化)」を介して結びつけた張本人であるエドワード・モースが大正12(1923)年9月1日の「関東大震災」に際して取った行動である。

東京の惨状を知ったモースは、マサチューセッツ州セイレムの自宅に息子と娘を呼び寄せ、二人の同意を得て遺言書を書き換え、自らの蔵書の全てを震災で壊滅した東京帝国大学図書館に寄贈することに決したという。
2年後、自宅で脳溢血の発作を起こして4日後に眠るようにして89歳の天寿を全うしたモースの死後、遺言どおり彼の全蔵書1万2000冊は、大きなケース69箱に詰められて船積みされ東京に送られてきた。
この行動が象徴するように、モースは日本と日本人を強く愛していた。

13歳にして科学に興味を示し、度々教室を抜け出して(学校をサボり)、陸貝の研究と分類に熱中して10代を過ごしたエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse)は、鉄道会社の製図工をしていた21歳の時、ハーヴァード大学教授アガシ―(スイスからの帰化人でアメリカ動物学の元祖と呼ばれる)に助手として採用され、その研究を助ける傍ら研鑽を積んで同大学講師に昇格し、動物学と比較解剖学の講義を担当するようになった。
アガシ―教授の下での3年間の契約が切れると、モースは講演旅行の傍ら、いくつかの大学でも正規に講義を担当し、ボードウィン大学では33歳にして動物学教授に任命された。

こういう経歴で、どこの大学を卒業したわけでもないモースは、腕足類(原始的な貝類)の研究のためにアメリカ西海岸から私費で日本に向い、明治10(1877)年6月17日、横浜に上陸して翌日には5年前に開通したばかりの鉄道に乗って東京に向った。
上京の目的は、明治初期(黎明期)日本文教政策のメイン・アドバイザーたる「文部省学監・アメリカ人マレー(David Murray)」に会うためであった。
その途中で大森村の線路際に車窓から発見したのが大森貝塚である。

田原坂の激戦の後も戦闘が続く西南戦争最中のこの夏、神奈川県江の島の民家を研究室として、採集と研究に没頭していたモースを訪ねて来たのが、アメリカ帰り(ミシガン大学卒)の東京大学文学部教授・外山正一(後に東京帝大総長、文部大臣)であった。
その結果モース(39歳)は、この年4月発足したばかりの東京大学医学部において明治10年新学期9月から、破格の待遇(月給が外山の2倍の300円)を以て動物学教授に就任することになった。
巡査の月給が6円、小学校平教員のそれが5円の時代である。

東京大学医学部初代動物学教授モースは、該博な学殖、柔らかい人当り、巧みな弁舌とによって東大当局者の大きな信頼を得ることになり、物理学と哲学を担当する教授の斡旋を依頼される。
依頼に応えるべく、明治10年11月、5か月の賜暇を得てアメリカに帰国したモースの斡旋によって、物理学担当教授にはトーマス・メンデンホールが、哲学担当教授にはアーネスト・フェノロサが、これまた破格の待遇で招聘されたのである。

同時に、5か月間のアメリカ滞在中にモースが集めて来た2500冊の書籍や小冊子は、出来たばかりの東大図書館の核となるものであった。
蛇足ながら、この頃の東大文学部における「教授言語」は、前年開校した「日本初の学士号授与機関」である札幌農学校(Sapporo Agricultural College)と同じく、「日本語」ではなく「英語」である。

3度目の来日を終え明治16年2月、帰国したモースは明治19年アメリカ科学振興協会の会長に任命され、どこの大学も卒業していないモースに対して明治25年、ハーヴァード大学がマスター・オブ・アーツを、大正7年にはエール大学がドクター・オブ・サイエンスを、大正11年にはタフツ大学がドクター・オブ・ヒューマン・レターズを授与し、大学を卒業していないモースは異例破格の処遇を受けたのであった。

第1章で言及したように、明治15年夏、モース(44歳)、フェノロサ(29歳)、ビゲロー(32歳)の3人は連れだって関西方面に出掛けて刀剣を含めて美術品を蒐集した。
その頃、彼らが出会った多くの日本人ばかりでなく、日本社会一般に、彼ら3人が認識し、時に感動した「日本文化(社会)に占める東洋的美点(美風)」は、その後、富国強兵を目指して列強と同じ道を慌ただしく駆け出した日本社会には、時の経過と共に跡形も無くなっていく。
それを落胆したフェノロサ、あるいはフェノロサ以上に、モースはそのことを感じ取っていたのではないか。

それでもモースは、関東大震災に際して、上記のような挙に出たのであった。
モースは、外国人は「日本人にすべてを教える気で日本にやってくるが、数か月もいれば、残念ながら教えることは何もない。自分の国で人道の名に於て道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を日本人は生まれながらに持っているらしい」と気づいたという。

モースの弟子・石川千代松は明治15年、東大医学部動物学科助教授となり、宗教界の人々(キリスト教徒)がダーウィンの進化論に猛烈に反発する時代に、日本で初めてダーウィンを紹介した恩師モースの講義を筆記した『動物進化論』を出版する。
そしてその息子・石川欣一(日本ライオンズクラブ初代ガバナー)は、大正7(1918)年、東大英文科からプリンストン大学に留学(そして卒業)した際、父の恩師モースをボストン近郊セイレムの自宅に訪問した。

孫が来たように喜んだモースは、方々を案内し、欣一を引き回しながら徐々に日本語を思い出し、「ドウモ、ドウモ、石川センセイ」と言ったり、電車の中で遂に謡曲「鞍馬天狗」を唸りだして、車中の人々を驚かせたという。
浅草に住む著名な能の師匠・梅若について、アメリカでは体験したこともない「正座」をして謡曲を習ったように、茶の湯を含めて、「日本人の見解から多くの事を知ろう」としたモースならではの行動であった。 

繰り返しになるが、そのモースの斡旋によって東大文学部教授に就任し、教え子でもある岡倉天心(東大文学部第一期生、同期8名)らと共に、日本国史上初の「国宝(national treasure)」という概念を導入して、日本美術の発掘や保護に乗り出したフェノロサは、明治10年代前半の日本文化に触れて魂を揺さぶられ、「東洋的精神を欧米に伝える」のを以て「一生の事業として身を捧げる」ことを決心した。 
日本及び日本人に惚れ込み、日本に強く期待したフェノロサは、その上で、「日本人の歴史的使命」として、「東西文明を融合して、より高い文明を創造する」という、言うは易く、実現は極めて困難な命題を高々と掲げた。
だが、既述のように自らが深く感銘を受けた日本人の「高尚優美な性質」や「誠実剛毅な精神」が、その後の殖産興業、富国強兵の波に押し流されて跡形もなくなり、「拝金主義」、「立身出世主義」に覆われていく日本社会にフェノロサは落胆し、嘆息する。

一方、東大文学部第2期生(同期6名)としてフェノロサの薫陶を受け、政治学、経済学ばかりでなく、わざわざ学士入学を果たしてフェノロサの哲学講義を受けたように、少なからずフェノロサに傾倒した嘉納治五郎は、天性の資質に磨きがかかり、ジョン・スチュワート・ミルが理想とした多面的で恐れを知らず、自由でしかも合理的なバックボーンの持ち主となる。

そういう精神的支柱を支えに、東大卒業後数年間の昼夜を分かたぬ奮闘の結果、嘉納は「古流柔術」を基に「講道館柔道という世界的イノベーション(技術革新)」の達成に成功し、日本発(初)グローバルスタンダード(世界標準)の構築者となった。
世界のスポーツ史(文化史)に永遠に残る業績をあげた嘉納治五郎成功の核心は、「物事の本質を捉え、そこから展開、転換するに、何のためらいもなく既往を振り捨て、新たな方向に超人的な集中力を発揮した」ことにある。

つい最近、開催された2020東京オリパラ大会において見事に展開された柔道競技は、「講道館柔道」が、今や「地球文明の一翼」、「世界文化の一端」であることを如実に示していた。
同時に、ボクシングやレスリング或いはテニスやバスケットボールと並ぶ「スポーツにおけるグローバルスタンダード(世界標準)」の一つとして嘉納治五郎が創始した「講道館柔道」が 、日本を支える「大きなソフトパワー」の一つであることも、今回開催の東京オリパラが明白に示した。

ボクシングや陸上競技、あるいはテニス等々、オリンピック大会で展開される多くのスポーツは、既に第一次産業革命が終わった1851(嘉永4)年の時点で「ロンドン(第一回)万国博覧会」をも開催した19世紀イギリスにおいて、確立(ルール化)されたものであることを記憶しておきたい。

ところで、東京パラオリ柔道試合の開始に先立ち外国人審判員が示した、ややぎこちない「お辞儀(立礼)」は、微笑ましいものであった。
そこに象徴される勝負を超えての柔道修行におけるメンタル面の充実(強調)は、柔道の始祖・嘉納治五郎の教育者としての願いである「青少年の品性の陶冶」に通じる道であることを期待させるものではないか。

同時に、入門料無料、月謝無料等、一切無料の「公共教育機関としての講道館」を12年間継続運営した嘉納治五郎の、教育者としての主張である「三育(徳育、体育、知育)の併進(バランス)」を、更に多くの人々が理解することを願うのは、筆者ばかりではあるまい。

「講道館」入門者は引きも切らず、既述のように、ついに明治42年5月3日、法人化した「講道館」の監事に就任した本編の主人公・渋沢栄一は、20代で幕末の有為転変(動乱)を体験(体感)した中で、農民でありながら剣術修行をも体験し、「知行合一」を説く陽明学その他漢籍、とりわけ論語に造詣が深く、「講道館・監事」として、天性の教育家・嘉納治五郎が推進する「知育と同じ重みを持つ体育の振興」を強く支援したかったのではないか。    
                            
(了)


主要参考文献

“Soul of Meiji : Edward Sylvester Morse, his day by day with kindhearted people,”
Written and edited by Junichi Kobayashi (Vice Director; Tokyo Metropolitan Edo Tokyo Museum)
and Shuko Koyama(Curator,Tokyo Metropolitan Edo Tokyo Museum), published by Yoko Yasuda 2013

“Earnest Fenollosa: published writing in English Volume 1, 2”
edited and introduced by Seiichi Yamaguchi Edition Synaps 2009

山口静一著『三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語』官帯出版2012年
福沢が バトンを渡す 渋沢だ