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守れるか「太平洋にかける橋」ー「渡米実業団」団長・渋沢栄一 V-V 高い知性と大きな人間力

2021年10月11日(月)
道場主 
[東京都]
北区王子 飛鳥山公園
京浜東北線王子駅直近
(上)



前述したように渋沢栄一に率いられた「渡米実業団」一行が、アメリカ各地の見学や商工業者との親善活動に加えて合衆国有力者との面会、交流を怠らなかったことに改めて注目したい。
渋沢らはタフト大統領、ノックス国務長官、発明王トーマス・エジソン、石油王ロックフェラーと会見した。
そして日露戦争に際し高橋是清の要請に応えて莫大な戦費調達(当時日本の国家予算9年分にも匹敵する)に協力し、明治天皇から勲二等旭日重光章を贈られ、外国民間人としては初の明治天皇との謁見をしたクーン・ローブ商会(銀行)頭取ジェイコブ・シフにも会見した。

その上、ペリー提督、初代駐日公使タウンゼント・ハリス、グラント将軍(元大統領)、ヘイ国務長官それぞれの墓に参拝するなど、一行にとって周到にして盛りだくさんのスケジュールがつまった記念すべき大旅行であった。
そして、第27代アメリカ合衆国大統領ウィリアム・タフトと渋沢は、既に顔なじみであった。
今、ここに敢えてその間の事情について言及したい。

世界戦史に画然たる「対馬沖海戦大勝」から程なく、アメリカの仲裁によって「日露講和会議」の開催が決まり、明治38(1905)年7月3日、アメリカにおけるロシアとの「講和会議」の全権委員として外相・小村寿太郎と駐米全権公使・高平小五郎が任命され、小村全権一行は7月8日午後4時、アメリカ商船ミネソタ号で盛大な見送りを受けて横浜を出港した。
しかしながら新橋駅や横浜港で小村一行を見送る元老や閣僚その他多くの人々にとっても、見送られる小村にとっても、重苦しく、苦難が予想される苦渋の旅立ちであった。

日露両軍の満州の野における戦力差を公表すれば、講和会議においてロシアは日本を威嚇する態度に出ることは明白であり、一方日本国内では、勝ったつもりの大多数の日本国民が無邪気にも過大な講和条件を要求し、新聞は特別論説等によってそれを煽っていたからである。
ルーズベルト大統領による「講和勧告」に応じたロシアの「講和会議開催」承諾は、休戦を条件にしたものではなく、敗残兵を後方に下げて新任のリネウィッチ司令官率いる新鋭のヨーロッパ軍団を中心に、満州におけるロシア陸軍の増強は愈々盛んであった。
一方、矢玉が尽きた状態の日本陸軍としても和平交渉を有利に進めるべく、2個旅団が樺太(サハリン)に上陸して7月8日、大した抵抗もなくロシアの拠点コルサコフを占領していた。

小村が乗ったミネソタ号は7月20日シアトルに入港、グレートノーザン鉄道を利用した小村一行は広大な北米大陸を横断して7月25日午前9時25分、ニューヨーク市の対岸ニュージャージー州の駅(ニュアーク?)に到着した。
ここで高平駐米公使、公使館付武官・竹下勇海軍中佐、埴原正直・三等書記官、内田定槌ニューヨーク総領事らに出迎えられフェリーでハドソン川を渡った小村一行は、自動車で宿舎ウォードーフ・アストリア・ホテルに入る。

日本国内では、8月10日からアメリカで開催される「日露講和会議」に対する期待と不安が交錯して、なんとも言えない微妙な雰囲気のこの時、何と、ニューヨーク到着の小村と日時を同じくして、「アメリカ合衆国の特使」が横浜に上陸したのであった。

電話(国際電話)が無い時代のことであったが、既に十分に発達した無線電信を活用してのアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの深謀遠慮によって、タフト陸軍長官(Secretary of War)に率いられ大統領令嬢アリス・ルーズベルト(21歳)が随伴する「アメリカ合衆国フィリピン訪問団」一行が、小村外相のニューヨーク到着に合わせて、明治38年7月25日午前10時56分、新橋駅に到着して熱狂的に歓迎する大群衆に出迎えられる。

この日の夜から27日夜まで、未婚21歳のアリスはアメリカ公使館(この時はまだ大使館になっていない)に宿泊して、駐日公使グリスカム夫人エリザベスにかしずかれ、タフト陸軍長官以下訪問団一行は「芝離宮」を「旅館」とした。

翌7月26日正午、公使グリスカムとその夫人に伴われてタフトとアリス、そしてその随員、上下両院議員やその夫人、駐日アメリカ公使館員ら総勢54名は明治天皇に謁見する。
アメリカからの賓客に対する熱狂的とも言える期待と歓迎の雰囲気が溢れる宮中に於て、意外にも明治天皇が「フィリピン訪問団」一行に対して発した言葉は、極めて抑制的であった。
日露講和の労を取るルーズベルト大統領に対する感謝の言葉は、抑制された用心深い物言いに終始し、「日露講和会議」を目前にしての慎重な態度がにじみ出ていたという。

それは、満州の野における連戦連敗や「対馬沖海戦大敗」のロシアの感情を刺激しない配慮と、「日露開戦当初からアメリカの仲裁を望んでいた日本政府の懸命の要請」に応えて、敢えて「人類愛と文明の為の平和回復」を大義名分として、日露の仲裁に乗り出したルーズベルト大統領を慮ってのことであった。

周知のように前年3月から金子堅太郎がルーズベルト大統領とホワイトハウスにおいて「二人だけの会談」を十回余も続けていたが、明治38年5月31日(「対馬沖海戦」の4日後)には駐米公使・高平小五郎がルーズベルトに面会し、「日露講和の斡旋を希望する日本政府の意向」を正式に「文書」を以て伝えていた。

ロシアは満州の野で連戦連敗、バルチック艦隊は全滅したが、すべて領土外のことであり、ロシアの領土は1メートルも失われていない。皇帝自らが日本人を「サル」と呼んで「極東(絶東)の小国日本」を見下しているロシアの自尊心を破壊して、「講和会議談判破裂」など、 展開次第ではルーズベルト大統領が「火中の栗を拾う」ことになることも、想定外ではなかった。

「大きな棍棒を持って小さな声で話せ、そうすれば遠くまで行ける」という西アフリカの格言を常々口にして、パナマ運河開設の際に見せたように「棍棒外交」の推進者でもあったセオドア・ルーズベルトは、ボクシングやテニスそして「講道館柔道」にも素養があるばかりでなく、馬術及び射撃術(Marksmanship)は一流で、熊狩りを趣味として決断力に富み、生涯に38冊の本を著すなど精力絶倫、同時に細心周到な人物であった。
そういうルーズベルトが、「フィリピン訪問団」が芝離宮を「旅館」とすることに対して懸念を表したという。

日露講和の仲介人として、あくまで「厳正中立」、「人道と文明の為の平和回復」を建前とするルーズベルトは、自国の「フィリピン訪問団」がホテルではなく宮内省所管の芝離宮のような所に宿泊することは「特別扱い」を意味し、それが敗者として神経質になっているロシアを刺激することを恐れたのである。

このルーズベルトの懸念を予期していたかのように、日本政府(外務省)には格好の材料、即ち2年前の明治36年、ロシア皇帝の勅命によって極東視察の為に来日したクロパトキン陸軍大臣が、「国賓」として芝離宮を「旅館」としたという事実があった。
その事実を伝えた日本政府(外務省)の回答に安心して、ルーズベルトは「アメリカ合衆国フィリピン訪問団」が芝離宮を「旅館」とすることを了承したという。

日露開戦直後の明治37年3月から、ホワイトハウスの書斎を改造して70畳敷きの柔道場としたルーズベルトは、週に三回、2年間に亘って家族(子息)と共に、山下義韶から(時にワシントン公使館付駐在武官竹下勇海軍中佐が参加)、「講道館柔道」の指導を受けたことは周知である。

同じく明治37年3月、第1章で述べた経緯によりルーズベルトと交流を続けていた金子堅太郎は、日本政府の密命(ルーズベルトに日露戦争の仲裁を依頼すること、アメリカ世論の対日友好親善化を図ること)を帯びて渡米し、以後ホワイトハウスに於て1年半に亘りルーズベルトと時に深夜、二人だけの会談を十数回続けたことも今や周知である。

当時のロシア(キリスト教国)は、缶詰や小麦粉等アメリカ商品の大市場であり、アメリカ上流階級(成金?)とロシア貴族との婚姻関係も増え続け、ロシア・シンパが多いアメリカ合衆国であったが、日本(非キリスト教国)とアメリカとの貿易量は、羽二重等絹織物を主とする僅少なものであった。

そういう時代背景の中で、金子堅太郎の「知略と弁舌(英語力)」は、渡米第二の目的である「アメリカ世論の対日友好親善化」にも見事に成功、その働きは、正に「三軍の将」にも匹敵するものであった。
その金子堅太郎の活躍を受け止める一方、日露講和会議の帰趨(賠償金獲得等、日本優位を顕示或いは誇示するような条件)によっては、ロシアとその同盟国フランスに加えて、黄禍論の主唱者とも言われる皇帝を戴くドイツばかりでなく日本の同盟国イギリスをも含めて、「列強」の側に、新たにサラセンならぬ日本に対して「十字軍的感情」が芽生えることを顧慮(憂慮?)していたのが、セオドア・ルーズベルトである。

幼少時は近眼で喘息持ち、絶えず動き回るが、どちらかと言えば神経質で虚弱な少年であったセオドア・ルーズベルトに対して、ニューヨーク有数の資産家(大実業家)であり、慈善事業にも熱心でリンカーン大統領とも交際のあった父親は、次の当主となるセオドアの為に、10代に2回も、長期に亘るヨーロッパへの家族旅行に付き添ってくれたばかりでなく、自宅の二階に運動場を設け、そこでセオドアは三才年上の姉バミーや近所の友達とレスリングに励んだ。

明治2年5月、10歳になったセオドア(テッドあるいはテディと呼ばれる)は、父が引率する家族旅行でニューヨークを出航した。
イギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ、スイス、イタリア、オーストリア、再びドイツからパリ、そしてリヴィエラを経てクリスマスはローマで過ごし、パリ経由でイギリスに戻る。
翌明治3年5月帰国の途に就き、377日かけて「ヨーロッパ文明を体感する大旅行」を終え、故郷ニューヨークに戻った セオドアは11歳になっていた。
時に持病の喘息の発作に苦しめられながらも、父母(特に父親)の手厚い看護もあって、スイスではアルプス登山の体験もした。

更に、明治5年10月、14歳のセオドアは、翌年開催される「ウィーン万国博覧会」の「アメリカ合衆国コミッショナー」に任命された父セオドア・ルーズベルト・シニアに引率された家族旅行で、先ずエジプトに向かい、ナイル観光を楽しんだ後、エジプトと並ぶ「古代文明の跡地」レバノンやギリシャから、1000年の長きにわたり東ローマ帝国が支配したコンスタンティノープルを経て、明治6年4月にはウィーンに到着する。

「万博」コミッショナーとしての仕事もある父の配慮と、ドレスデン駐在アメリカ領事の斡旋で、セオドアは「エルベのフロレンス」と呼ばれるドイツの文化都市ドレスデンの中流家庭に、弟エリオット妹コーリンと共に寄宿し、ドイツ語フランス語の学習を主体に夏を過ごして、明治6年10月末に帰国するという得難い体験もした。

余談の余談になるが、寄宿したミンクヴィッツ家には15歳を頭に三人の姉妹と、その上に大学生二人の兄弟がいて、通じても通じなくても、同家家族全員とアメリカ人との会話は全てドイツ語であり、15歳の長女は連日飽くことのない辛抱強さを以て、ドイツ語とフランス語文法をルーズベルト兄弟と妹コニーに指導してくれた。
とりわけセオドアが気に入っていたのは、凄みのある顔をした同家の大学生兄弟であり、兄は決闘による切り傷が顔にあって、弟は決闘によって切り落とされた鼻を縫合した顔の持ち主であり、セオドアは、「決闘が盛んなドイツ学生界の尚武の気風」を良しとしていたようである。

富裕層の子弟として珍しくないことであったが、公立の学校には行かず優れた家庭教師による教育を受けていたセオドアは、喘息の発作頻度も下がり次第に健康になってハーヴァードに入学する。
ハーヴァード大学在学中は、厩のある下宿に「ライトフット(Light foot)」と名付けた少年時代からの愛馬を飼い、ボストン周辺での通学その他外出にはバギー(buggy)と呼ばれる「一頭立て軽装馬車」を操縦(運転)するのがセオドアの日常であった。
自動車が普及するのはずっと先のことで、セオドアは大学生活の中では何よりもボクシングに熱中して、ライト級(当時はヘビー級とライト級の2階級?)で学内2位にランクされるところまで精進した。

少年時には友達と小動物の剥製を作るなど、セオドアは成人しても動物学、博物学に深い専門的な興味を示していたが、大学卒業前には政治志向となり、卒論のタイトルを「男女同権の実行可能性(Practicability of Giving Men and Women Equal Rights)」として、優等な成績(magna cum laude)で、ファイ・ベータ・カッパ(Phi Beta Kappa)の一員にも選ばれ、明治13年6月卒業した。
セオドア・ルーズベルトの卒業成績は177人中21位てある。

ハーヴァード卒業直後(22歳の誕生日、明治13年10月27日)に、ルーズベルトは評判の美人アリス・ハサウェイ・リーと結婚するが、ボストン郊外チェストナット・ヒルのリー家に明治11年11月2日、2度目の訪問をした時からアリスを結婚相手とすることを堅く決意したように、アリスの飛び抜けた美貌と、その人柄に魅了されたハーヴァード大学2年生セオドア・ルーズベルトであった。

結婚の翌年、新婚家庭からからコロンビア大学法科大学院に歩いて通う生活の中で、共和党の地元支部から推されて立候補したルーズベルトは、最年少(23歳)でニューヨーク州下院議員に当選する。
ところが、好事魔多し。
明治17年2月14日、ルーズベルトは朝方に母(48歳)を、昼には一粒種アリスを二日前に出産したばかりの妻アリス(22歳)を、いずれも病気によって失うという大きな不幸に見舞われた。

その悲しみを乗り越えるべく、ルーズベルト(25歳)は母を失った一人娘アリス・リー・ルーズベルトの養育を姉バミー(29歳)の手に委ね、辺境酷寒の地ダコタ準州に向かった。
文明の果てダコタでルーズベルトはバッファロー狩りを楽しみにしていたが、すでにこの時点でスー族等先住民が政府の許可を得て一度に数千頭ものバッファロー狩りを終了していて、ルーズベルトが予期したようなバッファローの大群はどこにもいなかった。

親の遺産の半分8万ドル(日本円にして16万円)を注ぎ込んだダコタ準州におけるルーズベルトのビジネスとしての放牧業は、歴史的大寒波による牧牛3000頭の大量凍死もあって、結局、失敗に終わった。
当時日本の内閣総理大臣・伊藤博文の年俸9600円(月給800円)に比べても、個人としての経済的損失は小さいとは言えまい。
だが、20代半ばからの3,4年に亘る悪地(Badlands)での暮らし(辺境での孤独と酷寒)の中で、数千頭の牛を飼育することによって、金銭以外でルーズベルトが得たものは極めて大きく、後に世界的政治家として大成するには不可欠なものであった。

幼少時は虚弱で、ハーヴァード在学中にはボクシングで鳴らしたとはいえ、ヤセ気味の体をしていたセオドア・ルーズベルト青年は、 自分より貧しい人々、粗野な人々とも楽に意志の疎通ができる「大きな人間力」の持ち主となった上に、自らが理想とする「がっちりした(逞しい)男らしい男」となって明治19年(28歳)、故郷ニューヨークに戻って来た。
そしてそこで思いがけず、出るつもりもないニューヨーク市長選挙に担ぎ出される。

アメリカ各地でストライキ(労働争議)が頻発するなかで、アメリカ合衆国史上初めて、「統一労働党」候補として「ニューヨーク市長選挙」に出馬した『進歩と貧困』の著者ヘンリー・ジョージ候補に対する警戒感(危機感)から、地元「共和党」幹部らが28歳のルーズベルトを担ぎ出したのである。

300万部を超えるベストセラーとなった『進歩と貧困』の中で、「自由主義経済において築かれた不労所得の集中こそが貧困の主たる原因」との考えを示したヘンリー・ジョージは、論旨明快な候補者であり、多くの人々の支持を得ていく。

これに対して、5年前に共和党から最年少でニューヨーク州議会議員に当選し、政界での目覚ましい活躍によって注目される中で、同日に母と妻を病気で失うという大悲運に遭遇、その後ダコタ準州において親の遺産を元手に牧場経営に携わっていた億万長者セオドア・ルーズベルト(28歳)を、「ダコタ・カウボーイ」というキャッチフレーズを以て「改革」を旗印に担ぎ出したのが、したたかなニューヨーク共和党であった。

一方、「統一労働党」候補ヘンリー・ジョージは、政府の仕事(目的)は、何よりも人々の安心安全を保証することであり、選挙こそが社会の政治的、経済的不正を正す唯一の道であることを主張し、選挙中は、「産業奴隷制度(industrial slavery)の廃止」にとりかかることをもスローガンにしていた。

「カウボーイ候補」の前評判は悪くはなかったが、いざ投票となると急進主義者(労働党)を恐れるあまり、共和党員までもが、製鉄所を経営して連邦(合衆国)下院議員を5期務めた非の打ちどころのない育ちの民主党候補ヒューイット(64歳、コロンビア大学校友会長)に投票した。
民主、共和両党の票を集めたヒューイットが楽勝し、ルーズベルトはヘンリー・ジョージに次ぐ3位となって落選はしたが落胆せず、元々その気があったわけでもなく投票日の4日後の明治19年11月6日、選挙に担ぎ出される前から手配しておいたイギリス行きの切符を手に、セオドアと姉バミー、そして結婚(再婚)相手エディス・キャローとその母は、キューナード汽船の「エルトリア」号でニューヨークを出航する。

明治19年12月2日、幼馴染であり妹コーリンの無二の親友でもあるエディス・キャローと、ロンドンの教会で結婚式を挙げ、その後イギリスからフランス、イタリアを巡る15週間の新婚旅行を楽しみ、幼馴染とはいえ二人の親密度は増した。
エディスとしては、義姉バミーが養育してきたアリス(2歳半)の養育が脳裏に浮かぶ時ではなかったか。
生後2日にして母と死別したアリス・ルーズベルト・ロングワースが、その後ホワイトハウスに於て、アメリカ合衆国史上最も盛大と形容された結婚式を挙げることは、神のみぞ知るところであった。

ニューヨーク市長選挙や二人目の妻エディスとのロンドンにおける結婚式、それに続くヨーロッパを巡る15週間の新婚旅行等を除いて、ルーズベルトが丸2年を過ごしたダコタ準州ルーズベルト牧場(エルクホーン牧場)の跡地は、現在「セオドア・ルーズベルト国立公園」の一部になっており、バイソン、ピューマ、コヨーテ、イヌワシ、プロングホ―ン、ビッグホーン、オジロジカ、シチメンチョウ、野生馬、ガラガラヘビ等々、100種類以上の野生動物が跳梁し、ヤマヨモギが一年中、心地よい香りを発してはいるが、夏は気温が35℃を下回らないこともあり、冬は−30℃以下のこともある、文字通りの悪地(Badlands)である。

「孤独」と「酷寒」の中での、「悪地(Badlands)における諸々の経験」が、ルーズベルトのその後の人生における活躍の「最大の原動力」となったことを、本人も認識している。

「人間力」に関して、ここに今、誠に唐突ながら敢えて紹介すると、平成15年、日本政府(内閣府)が発表した「人間力戦略研究会報告書」によれば、「人間力」を構成するのは、「知的能力要素」、「対人関係力要素」、「自己制御的要素」の三つであるという。

市川伸一東大教授を座長とする「人間力戦略研究会」が平成15年4月10日発表し、「若者に夢と目標を抱かせ、意欲を高める〜信頼と連携の社会システム〜」と題された同報告書の中に、次のような記述があることを紹介しておきたい。

わが国の教育は現実の社会と乖離しがちであるという問題が指摘されており、「何のために学ぶのか」という目的意識を不明確にしたまま、一方では受験競争による外発的動機から、他方では知的好奇心や、教養といった教科の内在的価値から学習に向わせようとしてきたということは否定できない。

話をルーズベルトに戻すと、ルーズベルトは牧場主として4000頭の牛を集める時は60人のカウボーイを雇ったが、雇ったカウボーイ以上に自らに厳しい労働を課し、自身が馬上で一日に百数十キロ移動することや、一晩中の馬上での夜警をも、いとわなかった。
早暁3時のせわしない朝食の後、すぐに仕事に出て5頭の馬を乗り換え(1頭では馬がつぶれてしまう)連続的に40時間以上馬上にいることもあり、正にテレビ映画『ローハイド』のフェイバー隊長の世界にどっぷりと浸かった27歳前後のセオドア・ルーズベルトであった。

そういうルーズベルトと付き合った多様な背景を持つ多くの人々が、この男と一緒ならば、どこまでも、例えその先に死が待っていようとも、ついて行きたいと思うような「大きな人間力」の持ち主となったルーズベルトである。

明治21年秋、故郷ニューヨーク(オイスターベイのサガモアヒルに前年、自邸を新築)に落ち着いたルーズベルト(30歳)は、二人目の妻エディス、そして姉バミーの了解を得て引き取った娘アリス(4歳)と暮らす中で、大統領選の中のハリソン共和党候補のためにイリノイ、ミシガン、ミネソタへの遊説を依頼された。
待ってましたとばかりに内陸への列車に乗って、群衆を前に得意の弁舌を振るったルーズベルトは、1週間のうちに、この大統領選挙で「最も効果的な演説者(most effective speaker)の一人」という評価を得ていく。

その結果,第T章(V―T)で言及したように親友ロッジ上院議員の口利きもあって、ルーズベルトは連邦公務員制度改革委員会委員長(Civil Service Commissioner)として年俸3500ドルで政府機関の一画にはまった。
エディスが心配する家計もやや安定してワシントンでの社交生活を楽しむ中で、ジョン・ヘイ(後に国務長官)や作家のヘンリー・アダムズのように知的レベルの高い人々との交際も深まる。
親友ビゲローの紹介状を手にした日本人金子堅太郎男爵(東京ハーヴァード倶楽部会長)が初対面の挨拶に訪ねて来たのは、こういう境遇の中でのルーズベルト(30歳)であった。

そして翌明治22(1889)年、ニューヨークの出版社パットナム(Putnam's)から出版されたルーズベルトの主著ともいうべき『西部開拓史(The Winning of the West )』は、初版が一か月で売り切れるベストセラーとなって、イギリスでも評判の書となる。

第T章でも言及したが、ハーヴァード在学中に起筆、最初の妻アリスとの新婚生活の身でコロンビア大学法科大学院に歩いて通いながら、ニューヨーク州下院議員に最年少で当選した直後の明治14年12月、脱稿し出版した『1812年戦争海戦史(The Naval War of 1812)』の大成功と、この『The Winning of the West』(明治22年12月刊)の大成功とによって、セオドア・ルーズベルト(31歳)は、かって13歳でハーヴァードに入学、17歳でハーヴァード大学総長の勧めによりドイツ(ゲッチンゲン大学)に留学して19歳で博士号を授与されたジョージ・バンクロフトの「再来」と評判される人物となった。

この二著の成功によってかルーズベルトは明治44年、「アメリカ歴史学会(AHA)」会長に選出される。因みにジョージ・バンクロフトは明治15年に、そして世界中の軍人、とりわけ日本で最もよく読まれた『海上権力史論』の著者アルフレッド・セイヤー・マハン大佐(草創期アメリカ海軍大学校長)は明治35年に、それぞれAHA会長に選出された。余談ながら、日本出身者として入江昭ハーヴァード大学名誉教授が1988年、AHA会長に選出されている。

その後ルーズベルトは明治28(1895)年、ニューヨーク市長によって警察監査委員会(公安委員会)委員に任命され、数人の委員の互選によってニューヨーク市警察監査委員会(公安委員会)委員長(President of the New York City Police Board )に就任する。
積極果敢なルーズベルト(37歳)は、甘言や脅し、或いは買収が全く効かない恐れを知らぬ人物として、徹底的な調査、不眠不休の活動(時に40時間連続でパトロールの警察官に同行した)を敢行した結果、長年に亘り、汚職にまみれ腐敗していたニューヨーク市警察組織の浄化という、目の覚めるような大仕事を果たす。

その上、第U章(V−U)で詳述したように明治31年、「米西戦争」勃発に際して、欣然として海軍次官の職を辞し、義勇軍「荒馬騎馬隊(Rough Riders)」第一連隊長として、鬼神のような働きをして一躍「国民的英雄」となったルーズベルトは、同年11月行われたニューヨーク州知事選挙に立候補して見事に当選、Boy Governor(少年知事?)という言葉が生まれるほど新鮮な出来事ではあったが、長年の「しがらみや利権が渦巻くニューヨーク政界」においては煙たい存在でもあった。

「俗は俊畏を悪(にく)み、世は奇才を忌む」という諺があるが、ニューヨーク政界(俗世?)は前述したように、「全米的名声を得たルーズベルト(アメリカで最も有名な人物)、39歳」を煙たがり、1900(明治33)年の大統領選における共和党大統領候補マッキンリーの下の副大統領候補に押し上げて(棚上げして)しまう。

当初、ニューヨーク州知事として再選を望んでいたルーズベルトは、明治32年6月フィラデルフィアで開催された「共和党全国大会」に、ニューヨーク州代表団の一員として出席した。
そこでの事態はルーズベルトが予期しない展開となり、ニューヨーク州選出プラット上院議員や全米的影響力を有する共和党大物たちの、舞台裏を含めての熾烈な駆け引き(政争)に引きずり込まれ、ルーズベルトが遂に副大統領候補として「指名受託演説」を行う局面に至る。
副大統領候補となったルーズベルトは、アメリカ史に残るほどの遊説実績(距離と頻度)を重ね、明治33年11月行われた大統領選挙では、マッキンリー・ルーズベルト コンビが民主党コンビに圧勝した。

ところが、当選したマッキンリー大統領が翌明治34(1901)年9月暗殺されて、セオドア・ルーズベルトは史上最年少(42歳と10か月)で、第26代アメリカ合衆国大統領に就任したのであった。

その後、明治38年春行われた大統領選挙に当選して、二期目の大統領として余裕があったか、コロラドの山中に馬で4週間分け入りテント生活をしたルーズベルト大統領は、6頭の大熊(体長2メートルを優に超えるグリズリーベアー)を自らの銃で仕留めた。
その中の最大の熊(体長3メートル)の毛皮を日露の戦勝を祝して明治天皇に贈呈し、返礼に明治天皇は緋縅鎧(ひおどしのよろい)を贈ったという。
体長2メートルを超えるようなヒグマを狙うとき、急所を外せば自分に向かって突進してくる大熊に、ひるむことなく第二弾の引き金を引く、決断力に富んだセオドア・ルーズベルトであった。

デジタル化 励め急げと 渋沢が