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嘉納塾「元旦式」に見られる高邁な見識

2021年01月01日(金)
道場主 
[東京都]
文京区教育の森公園
明治15年、「講道館」設立と同時に併設された「嘉納塾(講道館柔道を必修とする寄宿制家塾)」の教育目的は、「よく艱難困苦に打ち勝ち、刻苦勉励、努力の習慣を養い、人のために潔く推譲するの精神を涵養する」ことにあった。
「人の為に潔く推譲するの精神」とは、一言で言えば「労苦は自らが引き受け、手柄は他人に譲る」ということである。 明治17年頃から毎年同塾で行われた「元旦式」がその精神を象徴するものであり、ここにその実況を紹介したい。
まず、最初に一つの杯をとって塾長・嘉納治五郎が屠蘇を注ぐ。嘉納はそれを飲むことなく塾の上席(年長者)の者に廻す。その者がさらに屠蘇を注いでやはり飲まずに次へ廻す。こうして順に廻して、嘉納の許へ返してくる。この間、注ぐばかりで、誰も少しも飲まない。今度はそれをまた、屠蘇も注がず、飲みもせずに、そのまま廻す。第三回になって、塾長嘉納は第一回に注いだ分量より少なく飲む。次々に廻して同様にする。こうして第三回目が一巡すると最後にまだいくらかの屠蘇が残ることになる。
「元旦式」と称するこの儀式において、まず最初に屠蘇を注ぐのは、「自ら働く」ことを意味する。次に飲まずに廻すのは、「人に譲るという心」であり、めいめい「他のために尽くして自分は取らない」ということになる。そして三度目は、自分の働いたのより少なく取り、余りは共同資本として貯えることになるのである。
これぞ正に、「公徳(公共奉仕の精神)の養成」を至上命題(己を完成させ、世を裨益する)とした天性の教育者・嘉納治五郎の真骨頂を示す、嘉納塾「元旦式」というセレモニーではないか。
顧みると明治5年、欧米先進国をお手本とした「明治新政府」は、「太政官布告第214号」を発令して全国を8つの大学区に分け、身分や男女に差別のない「国民皆学」を目指した。ところが、大多数の日本国民は2百数十年続いた身分制社会(封建制度)の中の「寺子屋」や「藩校」に泥み、新しい時代について行けず、新制度に反発して各地に「学校一揆(学校焼き討ち)」が発生するなど、明治維新により近代国家を目指して立ち上がりはしたが、依然として「低い民度」に止まる日本社会であった。
いわゆる「明治維新」という時代の変り目で、日本統治(支配)機構の変革(転覆)を目指す勢力(西日本主体)が、現状(封建制度)維持に固執する勢力(東日本主体)を、一応は打倒した。だが、徳川将軍に代わって明治天皇が頂点に立った当時の日本社会の民度(とりわけ人々の政治意識)は低いレベルで、「文明開化、旧物廃棄」の「掛け声(スローガン)のみ」の先行が実態であった。その変革なるものは 福沢諭吉が喝破したように、「幕府屋の看板を外して天朝屋の暖簾をかけた」という程度で、福沢が「親の仇」と唾棄する日本社会の封建的底流(イエムラ社会の心理的基盤?)にたいした変化はなく、依然として伝来の「権威主義」と「事大主義」とに支えられて、「由らしむべし、知らしむべからず」という日本統治(支配)システムの基調に揺らぎはなかった。そういう世相の中で明治10年2月、日本国最後の内戦(内乱)となった「西南戦争」が勃発した。
そして、この年4月、開校した開成学校(教授言語は英語)改め東京大学に文学部第2期生(同期6名、第一期生は岡倉天心ら8名)として入学した嘉納治五郎は、入学と同時に、柔術がすっかり廃れてしまった世相の中でようやく見つけた師匠について「天神真楊流柔術」の修行にのめり込む。
擦り傷が絶えず膏薬だらけの体で護寺院が原(現・神田錦町、学士会館所在地)の教室に通っていた嘉納は、毎日の稽古が終わって夜道を帰宅の際、疲労の為よろめいて、道端の塀に突き当たるほど激烈な修行であった。
そういう日々の中で天神眞楊流・老師二人の相次ぐ死によって新たに「起倒流」を修行した嘉納は、ついにその「起倒流免許皆伝」の域に到達する。ここに至り、嘉納治五郎は、そこまでの柔術修行によって得られた知見を基に「柔術から止揚(アウフヘーベン)した全く新しい格闘技のシステム」を、世界で初めて構築したのである。
最盛期には日本各地に170余も存在したとされる柔術諸流においては、護身術として捉えられていたせいか、打突や蹴りに関節技や数少ない投げ技を加えた一連の動作を「形」として、「受け」と「取り」とを決めて反復する(繰り返す)ことが、稽古(練習)の主体であった。
ところが嘉納は、「形を繰り返すという古めかしい慣習」を一気に捨て去り、何百年も続いてきた打突蹴と関節技の一部を除外して「始めから互いに襟袖を取り合っての投げ技の応酬(攻防)を練習の中心に据える」という「画期的イノベーション(天才的創意工夫)」によって、「格闘技の全く新しいシステム(投げ技を探究する乱取り中心の稽古体系)」を創始した。
換言すると、嘉納は当身技や関節技、固め技が中心であった古流柔術を研究し尽くした結果、突いたり蹴ったり殴ったりする行為と関節技の一部を禁止して、初めから互いに近寄り、襟、袖を取り合って、「相手の体を倒すか、落とすか、打ちつけるか」する「投げ技を主体とする全く新しい格闘技のシステム」を構築したのである。
嘉納治五郎によるこのような営為は経済学者ヨーゼフ・シュンペーターが説いた「創造的破壊を含むイノベーションの典型」と言うべきものであり、「講道館柔道の創設」こそは、正に日本が世界に誇る一大ベンチャーであった。
嘉納の成功の核心は、「物事の本質を捉え、そこから展開、転換するに何のためらいもなく既往を振り捨て、新たな方向に超人的な集中力を発揮した」ことにあると言えよう。
新たに誕生した「講道館柔道」によって、例えば「浮き腰」を防ごうとする相手に対して「払い腰」という技が生まれ、更にそれを防ごうとする相手に対して「釣り込み腰」が誕生したように、「投げ技」の数(種類)は飛躍的に増大する。
そしてその切れ味(威力あるいは決定力)が在来柔術に比べては、 いや増しに増し、元々あった投げ技も従前とは比較にならない「スピード、パワーと巧緻性を有するハイレベルの投げ技」に変貌した。
その結果と言うべきか、「格闘技の全く新しいシステム」によって鍛え上げられた西郷四郎や山下義韶ら嘉納治五郎の門弟たちが、警視庁主催の柔術試合において既存の他流を圧倒する戦績をもたらしたのである。
明治18年から毎年、西南戦争で斃れた警視庁巡査(抜刀隊に加わった旧薩摩藩士を含む陸軍別働第三旅団警視隊員)の慰霊、という名目で開催された警視庁(警視総監)主催の武術大会に於ける嘉納の門弟たちの優勢が伝播されてか、「講道館」への入門者が19年には98人、20年には292人、21年には378人、22年には605人という状況となった。
「受け」と「取り」とを決めての「形の反復練習」で仕上がってきた選手と、投げ技の応酬(乱取り稽古)によって錬成してきた選手との間には、技のスピード、パワーそして巧緻性(仕掛けるタイミングや間合い、連続技等の工夫を含む)という「各要素」において、大きな差があったのではないか。
しかしながら、嘉納がそれを「講道館柔道」と名付け明治15年、東大卒業と同時に下谷永昌寺(地下鉄銀座線「稲荷町」駅直近)の一隅を借りて道場を創立した時の門人は、僅か9名であった。銃砲を主武器とする「戊辰戦争」や、その後の内乱も終結した世相(時代の流れ)の中で、剣術道場は衰微し、柔術は廃れ切っていた。
巡査の月給が6円、小学校平教員のそれが5円の時代に、皇族、華族の子弟(男子のみ)が無料で学ぶ学習院の教員として月給80円で採用されたエリート(学士様?)嘉納治五郎(23歳)であったが、「文明開化、旧物廃棄」という時代の流れの中で、「柔術」ではなく、聞きなれない「柔道」という名称が用いられたその道場への入門者も少なかったのである。
嘉納塾最盛期(明治31年頃、当時39歳の東京高等師範学校長・嘉納治五郎が文部省局長をも兼務した時)には最大53名に達した塾生の数も、草創期(明治17年頃)においては嘉納の親戚や知り合いの子弟で10代前半の少年達を主とする塾生は僅か数名であった。
だがその元旦式には、やや年長の西郷四郎(16歳、小説『姿三四郎』のモデル)や、19歳の富田常次郎(『姿三四郎』の作者・富田常雄の父)らも加わっていた。富田常次郎は周知のように日本最初の黒帯取得者である。それまでの「目録」、「切紙」あるいは「奥伝」、「免許皆伝」等々の言葉に代えて、日本武術界で初めて数字を用いての修行の場格「段位制」を考案したのは革新者・嘉納治五郎であり、その延長線上での「黒帯」を考案したのも嘉納である。
今や、「イッポン、ワザアリ」「ハジメ、マテ」等の日本語と共に、嘉納が創始した世界的イノベーションによる「日本発(初)世界標準」として、ラグビーやサッカーあるいはボクシングやレスリングと同じく、「地球文明の一翼」、「普遍性を有する世界文化の一端」とも称さるべき存在となった「日本伝講道館柔道」の根底には、嘉納塾「元旦式」に象徴される嘉納治五郎の高邁な見識があったことを忘れてはなるまい。
「昔柔術という名称で攻撃防御の方法が教えられて居た頃は原理の応用としてではなく個々の先生の工夫としてであった」 これに対して嘉納は、「嘉納治五郎は自分の工夫を教えたのではなくて誰でも自身にそれに基いて工夫し得る根本原理を教えたのだから未来永劫滅びることはない」と述べている。
嘉納が在学中の東京大学法学部においては英語で英米法が講じられるのみで、政治、経済は文学部で教えられていて、文学部第2期生(同期6名)として嘉納が専攻した政治学、経済学(理財学)は、ハーヴァードでは専ら哲学を専攻したフェノロサ教授(当時26,7歳)が担当していた。
講義も試験も英語で行ったフェノロサ教授が主として用いた教材は、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論(On Liberty)』と『政治経済学原理( Principles of political economy)』の2著であり、19世紀の代表的碩学ジョン・スチュアート・ミルが論じる「自由とは何か」という命題に、若き日の嘉納治五郎は魂を揺さぶられたのではないか。
並外れた能力(偉才)を有する人物と認められてか、明治18年、嘉納は26歳の若さで、第二代学習院長・谷干城によって学習院幹事兼教授に抜擢され、最晩年の父・嘉納治郎作(海軍省権大書記官)を喜ばせ、谷が去った翌年、教授兼教頭に任命される。
西南戦争の際、熊本鎮台司令長官(参謀長は旧薩摩藩士・樺山資記、参謀には同じく旧薩摩藩士・川上操六と旧長州藩士・児玉源太郎)として押し寄せる薩摩西郷軍を跳ね返し、結局52日間に亘って熊本城を死守した谷干城(旧土佐藩士)は、戦後その功績により多くの要職を歴任した。
陸軍士官学校長を皮切りに第二代学習院長に就任した谷は明治18年12月、古めかしい「太政官制」から漸く「内閣制」に移行した第一次伊藤博文内閣の初代農商務大臣として転出する。
代わって第三代学習院長に就任した大鳥圭介と嘉納治五郎はウマが合い、教頭として教員の選定をも含めて多くの事を任された。蛇足ながら大鳥圭介は、幕臣として榎本武揚や土方歳三らと共に箱館五稜郭において「新政府軍」と戦って降参、戦後5年間、榎本と共に辰口糾問所に収監され牢獄生活を送った人物である。
特筆すべきは嘉納塾と同じく、講道館開設と同時に、嘉納治五郎が「英語学校弘文館」の経営を初めたことである。そのカリキュラムの中心は「英語」と共に「講道館柔道」と「ジョン・スチュアート・ミルの思想」であり、明治22年(30歳)に欧州視察を命じられるまでの7年間、雇った教員の誰よりも多くの授業を担当したのは、校主(校長)嘉納であった。
元日から大晦日まで、年中無休の講道館長として自らの体を以て西郷四郎や富田常次郎、山下義韶らを育て、学習院での職責を全うしながら、更に「英語学校弘文館」を経営した嘉納治五郎の剛毅な気迫には、只々驚嘆するばかりである。
「柔道を通じて立派な人(士)を造る」ことを目的として、大学卒業と同時の設立から12年間、入門料(入学金)無料、月謝(授業料)無料、一切無料の教育機関「講道館」を維持するために、世間一般に比べては超高給取り(月給80円)の自らの給料だけでは足らず、嘉納は翻訳等、時に夜なべのアルバイトをして資金を捻出したとも伝えられている。起業から12年間、間借りの道場を転々とする間、一切無料であったということは、その間の「講道館」は「極めて純粋な公共教育機関」であったと言うことができよう。
学習院教頭、その後の文部省参事官そして五高、一高の校長の後、24年に亘っての東京高師(筑波大学の前身)校長(一時は文部省局長兼務)として常に教育現場の最前線に立ち続け、更に上記ベンチャーを敢行した年中無休、昼夜兼行の革新者・嘉納治五郎こそ、正に「日本国近代化の申し子」と称さるべき人物ではないか。(了)    
国難に 冴える投げ技 嘉納かな