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『日本野球の父・安部磯雄の偉業―人生の岐路』

早大図書館構内(旧安部球場跡地)に立つ安部磯雄、飛田穂州胸像
2019年11月01日(金)
道場主 
[東京都]
新宿区西早稲田
V―V大きな感化力(指導力)の源泉


V−1 安部磯雄と飛田穂州の相互靴磨き

日本野球界において「一球入魂」という言葉で有名な飛田忠順(穂州)は、ここに言及した早大野球部第一回アメリカ遠征(明治38年)に刺激を受けたのか、明治40年、豪農で村長も務めていた父親の反対を押し切り、旧制水戸中学(水戸第一高等学校の前身)から早大法学部に進学、冒険小説家・押川春浪が保証人となって野球部に入部する。
二塁手として第五代主将にも選ばれた飛田は明治43年、来日したシカゴ大学チームに大差で6戦全敗した責任を取り、引退してコーチ役になった。ところが翌年、アメリカ遠征(第二回)を巡っての野球部内紛から早稲田をやめ明治大学へ転学する。その後、早稲田に復学して大正2年、結局6年かかって早稲田を卒業したという経歴の持ち主であった。

早大卒業後、押川春浪(日本初のスポーツ社交団体「天狗倶楽部」会長)が創設した武侠世界社に入社して雑誌『武侠世界』の編集者を勤め、その後、読売新聞社に入っていた飛田穂州は大正8(1919)年に至り、早大野球部の「専任コーチ」に立候補して任命される。「野球部監督」という言葉が稀な時代に、二児の父親として収入減による生活難を覚悟の上で、社会的地位は無いに等しい立場に敢えて身を置き、実質的には早大野球部初代監督に就任した飛田穂州であった。飛田から話を聞いた妻は「いい年をしてベースでもないでしょう」と言って監督就任に反対したという。

周知のように、「ベースボール」が日本に初めて伝わったのは明治5(1872)年のことであった。
明治5年、文部省布達によって「学制」が敷かれ、東京は第一大学区第一番中学のアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンが日本で初めて同校生徒にベースボールを伝えたが、翌明治6年、第一番中学は開成学校と校名が変わり、さらに明治10年に開成学校改め東京大学となった。
その神田一ッ橋の東京大学キャンパス一画のグランド(現・神田錦町)で「ベースボール」を楽しんだのが、東大入学と同時に猛烈に柔術に打ち込み始めた東大文学部第二期生(同期6名)嘉納治五郎であった。今その跡地である学士会館敷地内には、人目を引く格別大きな記念碑(野球ボールを握った手)が建っている。嘉納は自分がベースメン(内野手)やフィールダー(外野手)ではなく、ピチャー(投手)であったことを後年楽し気に回想している。
明治17年、同郷(松山)の秋山真之(後の「日本海大海戦」時の連合艦隊参謀)と共に東大予備門に入学して、夏目漱石、南方熊楠、山田美妙らと教室を共にした俳人・正岡子規が在学中、大いに励み、楽しんだのも「ベースボール」であり、「野球」ではなかった。ベースボール、そしてその略語としての「ベース」という言葉が飛田穂州が妻に相談した大正時代も普通に使われていたのであった。因みに、一高野球部のメンバーであった中馬庚が漸く明治27年に至り、テニスは庭でするので「庭球」、そしてベースボールは野原でするので「野球」と翻訳したという。

そして飛田が監督を務め、力を溜め始めた早大野球部は大正10(1921)年、4回目となる米国遠征に出発する。専任コーチ飛田穂州に心酔する野球部員の一人として、この遠征に加わっていた名捕手・久慈次郎は早大卒業後は会社員をしながら、そして後には小企業を経営しながら函館太洋倶楽部で野球を続けていた。そして昭和9(1934)年、ルー・ゲーリックやベーブ・ルースが加わったアメリカ大リーグ選抜を迎えて、久慈次郎(35歳)は日本代表チームの一員に捕手として選抜された。そこで、日本のエース沢村栄治投手とバッテリーを組んで活躍した久慈は、沢村や安部磯雄、橋戸信、押川清らと共に「第一回(昭和34年)野球殿堂入り」を果たしている。

早大野球部第四回米国遠征団の行程はハワイから始まり、アメリカ中西部から東部に移動するように組まれていて広大なアメリカ大陸を汽車で移動しながら連戦したが、旅程が進むにつれて疲労が重なり選手も監督もホテルに帰れば、とにかくベッドに潜り込むような状況となった。
そしてある日、疲労困憊した監督・飛田穂州(34歳)は自らの小さな悪癖を野球部入部以来の恩師・安部磯雄部長(56歳)にさりげなく矯正されてしまったのである。
飛田には長い時間、つま楊枝を口にくわえるという癖があったが、遠征先のオハイオ州クリーブランドのホテルで、疲労の為つま楊枝をくわえたまま寝込んでしまった飛田の口から、安部は気付かれないようにスーッとつま楊枝を抜き取った。うつらうつらしていて、それに気がついた飛田は、しかしながら、バツが悪いので狸寝入りを続けて一言の礼も言わなかったという。
恩師の無言の愛情を感じた飛田は、その日の夕方、安部が入浴中にベッドの下にあった安部の汚れた靴を磨き、先刻のつま楊枝一件のお礼のつもりで、きれいにしたその靴を安部のベッドの下に戻しておいた。風呂から出てきた安部は、ただ一言「ほう」と言ったきりで、その夜はいつものように師弟枕を並べて、いびきをたてて寝たという。翌朝、飛田が目をさますと安部はすでに起きていて、着替えた飛田が靴を履こうとすると、自分の日本製のぼろ靴が、きれいに磨かれているのに気付き、感激した飛田は、しばらくその靴を見つめていたという。

余談ながら、オハイオ州クリーブランドのホテルにおける飛田穂州と安部磯雄の「相互靴磨き」という心温まる出来事があったその日、早大野球部アメリカ遠征団(第4回)はアメリカン・リーグ地元のクリーブランド・インディアンスとデトロイト・タイガースとの一戦を見物し、アメリカ一の大打者デトロイト・タイガースのタイ・カップと、クリーブランドのライオンとあだ名されるトリス・スピーカーの勇姿を目の当たりにするという僥倖を得た。
周知のように、大リーガーとして23年間のキャリアの中で、首位打者12回、通算打率.366(世界記録)、最高打率.420(1911年)、ホームスチール55回(世界記録)、打撃全タイトル(首位打者、本塁打王、打点王、最多安打、盗塁王)制覇(1909年、史上唯一)、あるいは1日に2本のランニングホームラン等々、到底人間とは思えず、作今の大リーガー(MLB選手)を含めて後世の誰も成し得ない桁外れの業績を山のように積み上げ、「野球殿堂入り第一号(1936年)」を果たしたのは「球聖」と呼ばれるタイ・カップである。その一方、「球聖タイ・カップ」は、「最高の技術と最悪の人格の持ち主」、あるいは「メジャーリーグ史上最も偉大かつ最も嫌われた選手」とも言われている。


V−2 イギリスにおける開明的体験

さて既述のように、「フェアプレーの精神」を鼓吹して止むことがなかった安部磯雄は、「知育中心のドイツの教育」には批判的で、「知識は学問から、人格はスポーツから」という言葉を吐き続けたことで知られている。こういう言葉の背景には、29歳の安部がイギリスで体験した生涯を決定づける二つの出来事があった。

前述のようにハートフォード神学校を卒業した安部は、ニューヨークからロンドン経由で次の留学目的地ベルリンに向かったが、明治27(1894)年7月初旬、ロンドンのホテルの一室で手にした新聞によって、その前日オックスフォード大学とアメリカのエール大学との間に陸上競技の試合があったことを知り、安部は少なからぬ衝撃を受けたという。
母国日本には何のスポーツ団体も存在せず、最先端を行くはずの大学運動部の間では挑戦状をやり取りしている実態から見れば、それはどこか異星人(宇宙人)による試合のような感じであったのではないか。試合結果はオックスフォードの大勝で、エール大学はハンマー投げに勝っただけであったが、試合結果よりも既にこの時代において、アメリカ合衆国と大英帝国との間に「スポーツの国際試合」が行われているという開明的、先進的事態に安部は驚愕、感嘆した。
そして熱くなった安部の胸中には、いつの日か祖国日本もその国際試合の輪の中に入り諸外国との親善を深めるべく、安部自らも力を尽くしたいという思いが溢れていたという。

そしてイギリスにおける安部の大きな体験の第二は、明治27年7月16日から2週間、オックスフォード大学の寄宿舎マンスフィールド館に滞在して体験した夏季学校である。そこで安部は、午前は学問を、午後は運動を、夜は社交や自習の為に費やす生活を実践し、「人格教育を第一に、学問を第二とするイギリスの教育」に大きな感銘を受けたのであった。

21世紀の今も、そのイギリスにおける「オックスブリッジ」と称されるオックスフォード大学やケンブリッジ大学で行われる教育は、日本の大学教育とは異次元の世界である、と言っても過言ではあるまい。普段、学生の多くと一部の教職員とが寝食を共にし、そのためのシェフがいて地下にはワインセラーを有するような生活は、殆どの日本人には体験できないものである。

現在オックスフォードには39のcollege(「学寮」と訳すべきか)が存在し、ケンブリッジには31のカレッジがあって、各カレッジの学長(学寮長)は、それぞれの教員の互選によって選ばれるが、ケンブリッジのトリニティ・カレッジ(Trinity College)とオックスフォードのクライストチャーチ(Christ Church、慣例上クライストチャーチ・カレッジとは決して呼ばない)の学長は、国王によって選任されるという慣習が今も続いている。
1546年、ヘンリー8世によって創設されたケンブリッジのトリニティ・カレッジは、2018年の時点でノーベル賞受賞者33人(ケンブリッジ全体では2016年時点で96人)を輩出していて、ここで教えたニュートン教授の故郷リンカーンシャーのリンゴの木の何代目かが、今も、その「ヨーロッパ一の広さ」を有する同カレッジ中庭の一隅(大門楼から見て右手に)に立っている。
芝生と小道を囲む、この壮麗なヨーロッパ髄一の中庭(グレート・コート)で1988年、中距離界のトップランナー(世界記録更新12回)セバスチャン・コーと、ステイーブ・クラムとのマッチレースが行われた。セバスチャン・コーは現役引退後の2000年、一代貴族(男爵)に列せられ 2005年には2012年開催予定のオリンピックをロンドンに誘致する誘致委員会委員長に選任されて活躍、2015年、国際陸上競技連盟(IAAF)会長に選出された。


V−3 ラグビー校々長トマス・アーノルドの事績に魅了されたクーベルタン男爵

さて今、そのオックスフォードやケンブリッジに至る以前の、イギリス以外には、そういう教育機関は存在しない中産階級以上の子弟を対象とする「パブリックスクール」という「教育の場」において、その教育理念や制度の確立に大きく貢献し、その業績ゆえに、近代オリンピックの創始者クーベルタン男爵(Pierre de Fredy, Baron de Coubertin)の魂を奪い、その生涯を決定づけた人物に注目したい。

1874(明治7)年、クーベルタン男爵フレデイ家の三男ピエール(11歳)は、パリに新たに開設されたイエズス会の中等学校(コレージュ)サン・チニャース通学学校の第1期生40人の一人として入学し、教師(イエズス会士)による指導監督を受ける半寄宿生(昼食のみを給される)となった。そこに教師を派遣するイエズス会の基本方針は、「道徳教育こそがキリスト教教育機関の第一の関心事とすべき」というものであった。

そのサン・チニャース通学学校においてギリシャ・ラテンの古典文学を、ほぼ完璧に身に着け、抜きん出て聡明な生徒であったピエール・ド・クーベルタン男爵が、初めて12歳ごろ手にして愛読したのが、イギリスの作家トマス・ヒューズ作の小説『トム・ブラウンの学校生活』(Tom Brown's Schooldays 1857)という「パブリック・スクール小説」の草分け的な作品であった。
この物語はパブリックスクール改革を先導した人物として有名なトマス・アーノルドが校長であった時代に、ラグビー校に入学した田舎のジェントリー(郷紳)の息子トムが、学校生活の中で様々な経験を経ながら逞しい青年へと成長していく姿を描いた小説である。作者ヒューズの基本的な執筆動機が、イギリスの青年読者を啓蒙することにあったことから、強い教訓的色彩を特徴とする小説であるとされている。

ジェントルマンに必要とされる「真の男らしさ(true manliness)」の要件として、勇気、忍耐力、公正さ、友愛の精神といった「徳」を、主人公トムが歳月と共に獲得していく過程で、体験するクリケットやフットボールといった「スポーツ」、あるいは鳥の巣探しなどの屋外の遊び、さらには喧嘩の仕方(拳闘)をも含めて、ヒューズによって描かれている場面の一つひとつに、無心で感激しやすい少年期のクーベルタンは、のめり込んだのではないか。後述するように、この体験が彼の生涯を決定づけることになるとは、「天のみぞ知るところ」であった。

そして17歳になったピエール・ド・フレデイ、クーベルタン男爵は、サン・シールのフランス陸軍士官学校に入学する。ところが、ピエールは入学後数ヶ月でサンシール陸軍士官学校を中退した。長兄ポールは教皇領護衛隊員であり、次兄アルベールはサンシールを卒業しフランス正規軍の大佐に上ろうとしていた時である。聖職者となるか軍人になるか、どちらもフランス貴族の男子にとっては天職たるべきものであった。
フレデイ家の人々にとって、三男ピエールの士官学校中退は、しばし困惑の種であったかもしれないが、「行動と功名を求める」ピエールにとっては、士官学校を卒業しても、その後の単調な駐屯地勤務が目に見えている当時の社会情勢に、我慢する気がなかったのではないか。

トラファルガー海戦におけるフランス艦隊の壊滅によって大きく傷つき、ウェリントン公爵によるナポレオン軍撃破(ワーテルローの敗北)によってひび割れた「フランス国民の民族的自負心」は、セダンの戦い(明治3年)に象徴される普仏戦争惨敗によって、ついに木端微塵に打ち砕かれてしまった。そしてドイツに対する復讐心によるものか、フランスの学務当局が打ち出す政策は柔弱な青少年を鍛えるための学校体育の軍事教練化や、知識の詰め込みを強要するという路線であった。

注目すべきは、人生の目標を掴みかねていたピエールが20歳になった1883(明治16)年、イギリス教育制度の調査という目的を持ってイギリスに渡ったことである。
パブリックスクールや大学への訪問を彼がキッチリと日程の中に組み込んでいたことは、その目的があらかじめ考え抜かれていた証拠であり、クーベルタン(歴史家を志していたか?)が、イギリスの歴史学者イボリット・テーヌの『イギリス・ノート』(Notes on England 1876 )を読んで大きな影響を受けていたことは間違いないとされている。
テーヌはイギリスの教育において、特に「スポーツが重要な教育手段」として位置づけられている点を強調していた。
サン・チニャース通学学校第1期生の中で、抜きん出て聡明な生徒の一人であったピエールが、17歳で陸軍士官学校を中退した後、単に「自分探しの旅」の対象にイギリスを選んだとは思えない。

まず明治16(1883)年、クーベルタン(20歳)は数週間をかけてハロー校、イートン校、ラグビー校と回り、あわせてオックスフォードとケンブリッジにも立ち寄っている。
続いて1886(明治19)年夏、彼は再びイギリスを訪れ長期に滞在し翌年秋にもイギリスへ渡り、それ以後毎年渡英したという。明治19年の旅では、クーベルタンはアイルランドにまで足を伸ばし政治問題にも以前より大きな関心を抱くと共に、「主たる関心事である教育」に関しても「中産階級以上の子弟を対象とするパブリックスクール」とは全く異なる「庶民(Commons)の教育」や、様々な「カソリックの学校」にまで観察の範囲を広げていた。
しかしながら、クーベルタンの関心の焦点にあったのは、イギリス特有の「パブリックスクール」で
あり、その中でも彼を磁石のように引きつけたのは、やはりラグビー校と、40年前に死去したその校長トマス・アーノルドが自らの教育理念に基づいて敷いた先覚的教育路線であった。
クーベルタンの生涯に於て、イギリス視察旅行を企てる遥か前の12歳頃から繰り返し読んだ小説『トム・ブラウンの学校生活』との出会いが、彼の人生における岐路であったとも言えよう。


V−4 ラグビー校々長トマス・アーノルドの教育目標、そしてクーベルタンの展開

そこまでクーベルタンを魅了したトマス・アーノルドは、クーベルタンのイギリス訪問時から40年も昔の天保13(1843)年には既に没していたが、そのラグビー校々長としての最終目標は、

「イギリス国内にどのような驚天動地の事件が発生しようと、喜んでその渦中に飛び込み、勇気をもってその解決に当たり得る人物、精神界にどのような事件が発生しようと、言論により、英知によって解決し得る人物、信念ある人物を養成したい」

というところにあった。
その為の日々の学校運営においてアーノルド校長は次の三点を重点目標として掲げている。

1、宗教的、道徳的情操の高揚(First religious and moral principle.)
2、紳士的行動の実践(second gentlemanly conduct.)
3、知的能力の開発(third academic ability.)

重点目標序列第二位の紳士的行動として、勇気、礼節、公明正大な態度、公共奉仕の精神、他人に苦痛を与えない、中傷ゴシップに耳を貸さない、自己弁護をせず、すべてを善意に解釈する等々の具体的目標を挙げ、「冷静な精神的態度の習得」を最終目標としていた。

そして、こういう目標を達成するための「教育改革」として、アーノルド校長は次のような手段を講じた。

第1に、古典(Classics)に新たな教育的価値を与え、その徹底に思い切った「個人指導教師 (チ
     ユーター(Tutor)」を採用した。
第2に、生徒に責任を持たせるために、自治活動を大幅に取り入れた。
第3に、寮生活に大改善を施した。
第4に、礼拝堂を学校の中心として礼拝堂行事を重視し、そこにおける説教に自ら骨身を削り、説
     教の原稿はそのまま公刊する自信をもって書き下ろした。
第5に、スポーツを特に重視して組織的に取り入れ、余暇は、春夏秋冬、それぞれの季節的スポ
     ーツに熱中させ、校外で悪戯にふけるエネルギーの全部を運動場に発散させるよう特に
     工夫をこらした。留意すべきは、アーノルド校長が実際にフットボールやクリケット等ス
     ポーツの審判や技術指導をしていたわけではないことである。
     
このような教育改革の実践者トマス・アーノルド校長に対する熱い思いと、綿密な視察を基にクーベルタンは、ついに明治20(1887)年、フランスの雑誌『社会改革(La Reforme Sociale)』に「イギリスの教育」という論文を、翌明治21(1888)年には「イギリスにおける教育」という、いずれも画期的な論文を掲載するに至った。
当時25歳の若者クーベルタンは、この二つの論文によって「フランスの教育システムに欠けていた理念」をイギリスの教育の中に発見したこと、そしてその「イギリスの教育理念」に付随する機能についても学ぶべきものがあることを主張したのであった。
このクーベルタンの行動は百年戦争以来、数百年間繰り返してきた「親英」、「嫌英」、「反英」等々の「イギリスに対するフランス国民の感情のうねり」と、「国家(民族)の枠」を乗り越えての、正に世界史に燦然たる卓抜した行動であると言えよう。

「百年戦争」以来、イギリス国民にも「親仏」、「嫌仏」、「反仏」等、「国民感情のうねり」が存在したはずであり、下世話な話になるが「コンドーム」のことをフランス人は「イギリス人の帽子」と呼び、イギリス人は「フランス人の手紙」と呼んでいるとか。
どちらも、相手が「自分たちよりアタマがワルイ(感度が鈍い?)」ことを言いたいのであろうが、そういう「国民感情のうねり」を乗り越えてのクーベルタンの快挙であり、彼が創設した「近代オリンピック」こそは人類史に輝く快挙である。

「国民(民族)感情のうねり」という現象の一面には、「低劣な世論の充満」により「愚劣な国民感情が噴出」して、戦争(狂乱)状態に陥り、懸崖から転落する羊の群れのように、自らが破滅する事態を招く危険性があり、正に人類(感情の動物)特有の「疫病」と言えよう。
そういう現象の典型的一例として、クーベルタンが7歳の頃、「セダンの戦い」で皇帝ナポレオン三世が捕虜になるという、フランス人にとっての決定的屈辱を招いた「普仏戦争」が挙げられる。

古ぼけ、煤けてしまった「ナポレオンの栄光」に寄りかかり、フランス文化を世界文明の中心(世界一)と自負して、その「民族的優越心(一流国意識)」にいつまでも浸っていたいフランス国民は、用意周到なビスマルクの戦略(挑発)に乗せられ、目下に見ていた国プロシャに対し、すっかり感情的になってしまった。
マスコミ(新聞)が煽り、煽られて気持ちが昂った国民の歓心を買って部数を伸ばそうとする新聞が更に輪をかけて煽る、という図式の中で戦争などは望んでいなかったフランス皇帝ナポレオン三世は、「興奮した国民の熱気」によって戦争に引きずり込まれてしまった。「マスコミは国民を映す鏡である」とは、蓋し至言ではないか。

更にクーベルタンは、「パブリックスクールにおいてスポーツが果たしている役割」に関して、身体諸器官に強さや機敏さを獲得させるという効用と共に、身体的素質の発達が「徳性」の領域にも望ましい結果をもたらすことに注目して次のように述べた。

 スポーツは道徳に影響を及ぼし、さらに勇気を奮い立たせる。
 若者達が、スポーツ愛好家達の味わっている心地よい疲労には飽き足らず、ハードなトレーニン
 グをしていることは注目に値する。
 これはエネルギーのコンクールである。
 魂を鍛えるものは他にはない。(以下略)

教育の中にスポーツの役割を強調したこういう主張の中で、スポーツを「自ら努力すること(l'effort libre)」と定義したクーベルタンは、その論文「イギリスの教育」(1887年)の冒頭において、フランスの高僧オルレアン司教フェリックス・デユパンル―(アカデミー・フランセーズ会員40人の一人)の、次のような言葉を引用していた。

 教授(instruction)は知識を与え、精神を満たし、物知りを作る。
 教育(education)は資質を発展させ、魂を高め、人間を作る。

フランスではこの二つの言葉が混同され、教授ばかりで教育が皆無であると指摘したクーベルタンは、かくして弱冠25歳にしてスポーツを中心とする身体活動を重要な手段とする教育の普及に「自らの貴族としての使命」の対象を見いだし、生涯をそれに賭け、「(若者の)魂を鍛えるものは他には(スポーツ以外には)ない」ということを、世界の人々に最も効果的に提言したのである。

その後、普仏戦争の痛手から回復したばかりでなく、国家として勢いを取り戻したたフランスは明治22(1889)年に至り、フランス革命の発端となった「記念すべきバスチーユ監獄襲撃100周年」を祝って、パリとしては「4回目の万国博」を開催した。
その当時のフランス国民の話題は専ら、この万博に合わせて建設されたエッフェル塔と、学校における学業過労(surmenage)即ち「詰め込み教育の弊害」であったとか。このようなフランス社会に対してクーベルタンも、前述した画期的論文「イギリスにおける教育」(1888年)において次のような苦言を呈した。

「彼らは知識を詰め込まれ、生き字引にされて疲れ果て、その知性ばかりを太らされ、体力(force physique)と精神的エネルギー(e'nergie morale)は奪われている。」

クーベルタンは、心身両面の教育の重要性と、それに関わる運動競技の必要性を強調し、長い間捨て去られている「肉体と精神のバランス」を生徒たちの中に確立してやることが必要であることを強調したのである。

要約すると、普仏戦争惨敗後ドイツへの復讐を意識して柔弱なフランス青少年を鍛えるためか、「学校体育の軍事教練化」や「詰め込み教育」に揺れる祖国フランスであったが、「フランスの教育理念に欠けていたものをイギリスの教育理念の中に発見」して、フランスにおける「スポーツを中心とする身体活動を重要な手段とする教育の普及」に「貴族としての使命」を見いだしたのが、弱冠25歳のピエール・ド・フレデイ、ド・クーベルタンであった。
換言すると、終生、教育を最大の関心事として、イギリス教育改革の先覚者トマス・アーノルドに傾倒した結果、明治20年頃から体育(physical education)に着目し、学校教育(schooling)におけるスポーツ(sport)の役割を大きく浮上させたのが近代オリンピックの創始者クーベルタン男爵である。


V−5 安部磯雄がスポーツに求めたもの―「修養」

ここで話を安部磯雄に戻すと、クーベルタン男爵が魂を奪われたトマス・アーノルドの事績に象徴される「イギリスの教育理念」、あるいは「スポーツが重要な教育手段として位置づけられているイギリスの教育」が、「知育中心のドイツの教育」には批判的であった安部磯雄の生涯を案内する羅針盤のようなものであった。

そういう安部が昭和11年、『青年と理想』(岡倉書房刊)を刊行した。
この年2月には「2.26事件」が起こり、斎藤実内閣総理大臣、高橋是清大蔵大臣が軍人らに射ち殺された。メーデーは禁止され、浅間山が爆発し、巷には「別れのブルース」や「ああそれなのに」のような唄が流行っていた。翌年には日中戦争が始まって日本は、戦時経済体制強化と国民生活破綻への道を転がり始める。こういう時代背景において出版された『青年と理想』の中で、安部は「スポーツから何を得べきか」という一文において、まず第一に「健康」、第二に「健全なる娯楽」を挙げたのに続いて、次のように主張した。

スポーツによる第三の収穫は修養である。
私は三十年前からこれを唱えて来たのであるが最近になって我国の教育界も漸次これを認めて来たやうに思ふ。
英国の有名某教育家はかって英国の中学校に於ける徳育が主として運動場に於て行われると公言したのであるが、これは決して誇張の言ではない。
スポーツは一種の平和的闘争である。敵味方と分かれて兩々相争ふ時其処に野蛮性の露出が免れ難い。
斯る場合に於て尚ほ節制を守り人間としての品性を保つべしといふのがスポーツの私共に命ずる所である。
如何に平静なる人でも競技の時に興奮すれば忽ち其理性を失うことになる。然しスポーツは私共を訓練して敵味方となって争ふ場合にも尚ほ紳士的態度を維持することを教えて呉れる。
故に運動場に於てよく野獣性を欲止得る者は如何なる社会的位地に在りても容易に同一の態度を維持することが出来る。
換言すれば道徳性の発揮は運動場に於て最も困難であるが故にスポーツによりて修養を行ふことが適当の順序でもあるし、且つ最も有効なる方法であるといふのが私の主張である。

こういう信念の持ち主として、安部は常に次のように説き続けた。
スポーツマンは勝敗などを眼中に置く必要がないこと、全力を尽くして遂に敗れるということは、結局自分の実力が足りないのであって何ら恨むべき所はない。強い者が勝ち、弱い者が負けるということは人生の原則であって、当然のことである。
負けた者は更に一層の努力をすればよろしいのであって、スポーツマンはあくまで自分が強くなることを考えて、少しでも相手の弱くなることを希望するような卑怯な心を起こしてはならない。
弱くなった相手に勝つことは当然のことであって、自ら強くなって相手を倒すことがスポーツマンの本懐であるのみならず、公平な競技の精神、即ち「フェアプレーの精神」もそこにある。

既述のように、安部が早大野球部の指導に於て最も注力したのは、「スポーツマンシップの涵養」ということであり、「スポーツマンシップとは、日本における武士道のことなり」、「武士道の要諦は人の弱みに付け込まないことである」と喝破した安部は、「知識は学問から、人格はスポーツから」と言い続け、「フェアープレイの精神」を鼓吹して止むことがなかったのである。

V−6 天皇賜杯と野球部選手合宿所(安部寮)の建設

そういう安部磯雄の指導の下、早大野球部は発展して、安部の念願であった夏季練習用のグランドと宿舎とが建設される運びとなった。大正4(1915)年、軽井沢の離山の麓に大隈重信の別荘が建てられた後、大阪の富豪・鴻池家と、その番頭・原田三郎が御大典記念として軽井沢の土地2万坪を早稲田大学に寄付したことによる。
早大軽井沢グランド開場式は大正7(1918)年8月10日、軽井沢避暑外人チームを迎えて大隈重信が始球式を行い、外相在任中(明治22年)左足をテロリストの爆弾で失っていた大隈は、人力車の上からボールを投げたという。
折から軽井沢の別荘で避暑中であった加藤高明(東大法科を首席で卒業、岩崎彌太郎の娘・春路と結婚、その後、陸奥宗光の慫慂により三菱から外務省に転出、駐英大使、外相等を歴任、この時は憲政会総裁、後に第24代内閣総理大臣に就任)とその家族、尾崎行雄、島田三郎(第19代衆議院議長、第6代早大総長・島田孝一の父)ら政治家、そして田中穂積(後に第4代早大総長)らが出席して開場式を盛り上げたという。日本近代化の巨星・大隈重信は大正11年1月、満83歳で没する。その葬儀は「国葬」とはならず「国民葬」ということになったが、「国民葬」が行われた日比谷公園には、その国民的人気を反映してか5万余の人々が会葬し、葬列の通る沿道(文京区護国寺への道)では30万人が見送ったと言われている。

そしてその翌大正12(1923)年8月24日午後1時30分、避暑のため滞在していた大隈邸(軽井沢別荘)を出て徒歩で早大グランドに向かったのは、当時22歳の摂政宮(後の昭和天皇)であった。三塁側の席に着いた摂政宮、賀陽宮その他若手皇族や供奉の者数人の前で、早大野球部によるベースランニング、フリーバッティング、守備練習、紅白試合が行われた。
安部磯雄部長、飛田穂州専任コーチに率いられた早大野球部には、事前に西園寺八郎(西園寺公望の娘婿)式部次長より「いつも通りの練習をせよ」との指示があったという。
早大チームのプレーを見て、若き日の昭和天皇は大いに満足、視察終了後はレフトグランド奥の草を踏み分けて大隈邸に戻り、程なくして宮内省にも野球チームが出来たという。蛇足ながら、当時宮内省に勤めていた泉谷祐勝(いずみたに すけかつ、早大野球部第一回米国遠征チームの一塁手)も宮内省野球部の一員となる。

「ベースボール」というスポーツの歴史において、1846(弘化3)年、ニュージャージー州ホーボケンに於て最初の試合が行われ、その3年後1849(嘉永2)年に至り、初めて、青色長ズボン、白ポロシャツ、麦わら帽子という「ユニフォーム」を着用したのが、「ニッカボッカー」というチームであったという。
ニッカボッカー(knickerbockers)とは、ニューヨーク周辺のオランダ系移民を意味し、アメリカ合衆国第26代大統領セオドア・ルーズベルトは、自らがイギリス系、フランス系あるいはドイツ系ではなく、オランダ移民の子孫であることを自慢し、それを吹聴するばかりでなく「ニッカズボン」を愛用したことで有名である。ニュー・ヨークは元々ニュー・アムステルダムというオランダの植民地であった。

ハーバード在学中はボクシングに熱中(ライト級学内2位)、テニス、馬術に優れ、とりわけ射撃(marksmanship)が一流の域にあったセオドア・ルーズベルトは、20代半ばからハンターとしての経験を重ね、明治天皇に対し日露戦勝の祝い品として、自らが仕留めた身の丈2メートルを優に超える大熊の毛皮を贈った。これに対する返礼として、明治天皇は緋縅鎧(ひおどしのよろい)を贈ったという。
大統領在任中、ホワイトハウスの書斎を改造した柔道場(畳70畳敷)で週に3回、足かけ2年間、家族と共に柔道家・山下義韶による講道館柔道の指導を受けたセオドア・ルーズベルトは、「世界史に残る活発な大統領」であり、大きな決断力(胆力)の持ち主であった。
急所をはずせば自分に向かって突進してくる巨大なヒグマに、ひるむことなく銃弾を撃ち込む「胆力」の持ち主セオドア・ルーズベルトは、狩猟の際には前後左右に動きやすい「ニッカズボン」を活用したのではないか。
ニューヨーク有数の事業家の長男としてハーバード在学中のルーズベルトは、下宿にライトフット(Lightfoot)と名付けた馬を一頭飼って、通学その他外出の為の移動手段として一頭立ての軽装馬車(buggy)を操縦していた。彼は大学卒業と同時に評判の美人と結婚したが、結婚相手のアリス(Alice Hathaway Lee)は、学内ボクシング大会で鼻血を出しながら健闘する(拳闘する)ルーズベルトに魅了されたのではないか。

「南北戦争」の中で、滞陣中の将兵の無聊を慰めるには格好のスポーツであったベースボールは、戦後、復員軍人によって全米に爆発的に広まった。
1872(明治5)年、既述のように日本に初めて紹介されたベースボールが、明治27年には「野球」と翻訳されて益々盛んになり、大正14年頃には「日本の国民的スポーツ」と言うべき存在となった。そして早大、慶大、明大、一高OBらが発起人となって建設を陳情した明治神宮球場が、大正15(1926)年秋には完成し、10月23日、摂政宮が来臨して奉献試合が行われる。
試合後、摂政宮から東京六大学野球連盟会長の安部磯雄に対し、リーグの優勝チームには優勝カップを下賜する旨の御沙汰があったという。
皇太子の下賜による摂政宮賜杯、日本スポーツ界における「天皇賜杯」の歴史は、「大相撲」と共に「東京六大学野球」から始まったのである。

さて幸運には幸運が重なる話であるが、明治神宮球場開設の前年大正14(1925)年の春、戸塚球場から歩いて5分の地に、当時としては珍しい鉄筋コンクリート二階建ての早大野球部選手合宿所(後に「安部寮」と命名される)が建設された。
安部磯雄の考えに基づいて、選手の部屋は全て個室(四畳半)、外来者はむろんのこと、選手同士も互いの部屋に出入りすることは禁止され、来客用には応接室が、選手同士の談話には食堂や会議室が使われることが「規則」であった。
出来上がった当初、安部の意向で室内の床はコルク張りであったが、選手たちには不評で、3年後には畳敷に改められる。
浴室は全てシャワー付き、当時としては珍しくトイレは和洋両式があって、その全部が水洗であり、田舎から来た選手は水音に驚き、洋式便所を反対向きに腰掛ける者がいたという。昭和20年5月25日のアメリカ軍による大空襲で早稲田の校舎が被害を受けた時、安部寮近くにも焼夷弾の火の手がまわったが、鉄筋コンクリート造りのお陰で火災から免れたという。


V−7 デモクラシー精神横溢の家庭生活

注目すべきは早大野球部において、25年に亘って上記のような部風(指導方針)を貫徹した安部磯雄の家庭生活が、あの時代の日本人標準家庭とは全く異なり、individualism(個性尊重主義?)を徹底していたことである。
まず安部は2歳年下の妻・駒尾を「駒尾さん」と「さん」付けで呼び、家族間においても年上の者が、弟や妹を「さん」付けで呼ぶという慣わしで、普通の家庭ではあり得ない人間関係であった。
その上、雇っている女中に対しても「さん」付けで呼び、子供たちにも自分で出来ることを女中に押し付けるようなことをさせず、同じく「さん」付けで呼ばせた。
その家族を紹介すると、長女・富士(9歳で夭折)、次女・京、三女・静香、長男・民雄、次男・道雄、四女・愛、五女・節、六女・夏、という大家族であり、どの人々も立派に成人して、キラ星のように輝く安部一家であった。
そういう安部家において安部磯雄は自身の外食の機会を極力避け、家族と共に食事をすることを優先し家族揃って週に一度は、「家で御馳走」を楽しむように努めたという。
年上の者が年下の者を「さん」付けで呼ぶ安部家において、父親の安部磯雄が子供たちに強制することは殆どなかったが、夕方の散歩(家の周辺数キロ)だけは、ほぼ強制的に行われた。とりわけ休祭日には、親子揃って20〜30キロの遠足が通例であったという。
それだけ「栄養や運動の習慣」に注力した安部家においては、噂話をしないこと、人の悪口を言わないことが暗黙の裡に守られていたという。


V−8 肝胆相照らした安部磯雄と嘉納治五郎

ところで前々回言及したように明治42(1909)年1月、東京高等師範学校長・嘉納治五郎はクーベルタン男爵の友人である駐日フランス大使ジェラールの来訪を受け、アジア人初のIOC委員就任を要請される。要請を快諾した嘉納治五郎は、オリンピック参加を視野に、日本を代表すべき運動選手の選出母体について思いをめぐらせ、文部省を始め各方面の協力援助を求めた。ところが当時日本の世相は、日露戦勝に酔い痴れたまま既述のように、「たかが外国(西洋)の運動会に(日露戦争に勝った)日本(上等な国?)が、わざわざ行ってやる必要はない」という陋劣な雰囲気に覆われていた。
嘉納は私立日本体育会の会長である加納久宜子爵に相談したが、嘉納治五郎の求める理想と、加納久宜の主宰する日本体育会の理想とは異なることを理由に拒絶された。ここにおいて嘉納治五郎は、従来の団体に頼ることを断念し全く別個に新規の団体を創立し、その目的を達成しようと決心するに至ったのである。
明治43(1910)年、嘉納は早稲田大学々長・高田早苗(後に文部大臣、早大総長)、慶應義塾々長・鎌田榮吉そして東京帝国大学総長・浜尾新(後に文部大臣、枢密院議長)に呼び掛けて体育団体結成に協力を求めた。
その結果、東大からは当時の書記官(現代の副総長に匹敵する地位)中村恭平、嘉納が校長を務める高等師範から体育部主任・永井道明及び可児徳(かに いさお)の2名、そして早大からは野球部長(初代体育部長)安部磯雄が、神田一ツ橋の旧学士会館に集まり、翌明治44年春までに体育団体を結成すべく第一回会合を開いた。
次の第二回会合には慶應義塾より飯塚国三郎(後に講道館十段)が参加し、漸次会合を重ねる間に参加学校およびその出席者の人数も増え、後にはアメリカで体育を専攻してきた大森兵蔵、明治大学の佐竹官二、第一高等学校の谷山初七郎らも加わるようになった。
かくして会合を重ねること数回、会合場所は主として東京高師校長応接室であったが、ようやく新たに結成すべき体育団体の輪郭、ビジョンが明確になり、ついに明治44(1911)年7月、大日本体育協会と言う名称で、我が国最初の(純民間)体育団体が誕生する運びとなり、規約により、会長・嘉納治五郎、総務理事・大森兵蔵、同・永井道明、同・安部磯雄の4人が「体協」の運営を任されることになったのである。

講道館長・嘉納治五郎は非職(職務停止)の期間を除いて23年と4か月、東京高等師範学校(筑波大学の前身)の校長を務め、「高師の嘉納か、嘉納の高師か」と謳われて、正に「天下御免の東京高等師範学校長」であったが、その嘉納が生涯を通じて最も腐心したのは、三育(徳育、体育、知育)の併進(バランス)であった。
日清戦争勝利の暁には列強による「三国干渉(遼東還付)」という煮え湯を飲まされ、「臥薪嘗胆」等のスローガンが叫ばれる屈辱的10年を経て「日露戦争講和」に至るまで、明治時代の大半は、幕末以来押し付けられてきた「不平等条約」という「半植民地的境遇」を脱するのに懸命の日本国であった。
だが、そういう渦の中で、「知識万能主義が瀰漫する日本社会」の将来に大きな危機感を抱いていたのが嘉納治五郎であり、「明治維新以来の日本の教育における知育偏重の歪みを正す」ために、「知育と同じ重みを持つ体育の普及発展」に邁進したのが嘉納治五郎の生涯であった。
結局、講道館長・嘉納治五郎と、スポーツを「自ら努力すること(l'effort libre)」と定義していた3歳年下のクーベルタン男爵とは、洋の東西を隔て何の連絡も無くして、同じ土俵の上に立っていたことになる。即ち両者共に、世界を視野に夫々の国で、「スポーツを重要な教育手段として位置づける」ことに邁進していたのである。

「理屈はいらぬ体で覚えよ」というような指導方針が圧倒的であった「古めかしい古流柔術」に、東大入学と同時に熱中した嘉納は、その中から「世界的イノベーション」を成し遂げて「講道館柔道」を創設し、今や「講道館柔道」は「日本発(初)世界標準」として、ラグビーやサッカーと同じく「普遍性を有する世界文化」、「地球文化の一端」となっている。
しかも当コラム(2019年4月7日付)で詳述したように設立から12年間、「講道館」は入門料(入学金)無料、月謝(授業料)無料、一切無料の教育機関であり、「講道館」こそ正に「公徳(公共奉仕の精神)の殿堂」と称さるべき存在であった。

「格闘技の全く新しいシステム」として、殴り合い、蹴り合いを禁止して、初めから襟と袖とを取り合っての「投げ技(立ち技)の切れ味」と、「腕ひしぎ十字固め」のような「固め技」あるいは「送り襟締め」のような「締め技」との「組み合わせの妙」は、未来永劫、世界の人々を魅了し続けるであろう。
嘉納の成功の核心は、物事の本質を捉え、そこから発展するに何のためらいもなく既往を振り捨て、新たな方向に向かって超人的集中力を発揮したことにあった。

そういう嘉納と5歳年下の安部磯雄とは日本人としては抜群の「語学力(英語力)」の持ち主であり、しかも当時の知識階級の殆どと同じく、両者の教養の根幹には「漢籍(中国清代以前に漢文で書かれた書籍)」があったことでも共通している。
明治12年3月、福岡師範付属小学校を卒業した磯雄は、「廃藩置県という革命」によって一気に窮乏化した典型的な没落士族・岡本家の次男という経済的事情から上の学校に進学することは頭になかった。3年前に祖父が死ぬ時、臨終の床で父に向って祖父は、「磯雄は県庁の給仕にでも出したらどうか」と言い置いて逝ったという。
だが、父・岡本権之丞の配慮で、磯雄(14歳前後)は父の友人が運営する月謝無料の漢学塾「知足堂」で学ぶことが出来、僅か3か月間で、「十八史略」「唐宋八家文」「論語」「孟子」その他を読了した。
その後、磯雄が同志社英学校に進んだのは、同志社に入って海軍軍人を目指す姉の夫が磯雄に、海軍軍人になるためには英語の習得が有利であることを示唆し、同時に学資援助も申し出たことがきっかけであった。
義兄の学資援助はすぐに中断したが、同志社英学校の校長・新島襄の偉大な(巨大な)人格に傾倒した磯雄(18歳)が、明治15年2月5日、新島による「洗礼」を受けたことが人生の岐路となる。

一方の嘉納治五郎は、神戸は灘の「千帆閣」と呼ばれた豪壮な邸宅で嘉納家の三男(上に5人の姉と2人の兄)として生まれたが10歳で母を病気で失い、上京して11歳頃から海軍のテクノクラートとなっている父・嘉納治郎作が住む日本橋蛎殻町から本所深川の生方桂堂の塾に通って漢学、習字等を学ぶ境遇となった。
余談ながら、父は近江坂本の日吉大社(全国2千余の日吉・日枝神社の総本宮、比叡山延暦寺の守護神)の神官・生源寺稀烈の次男・生源寺稀芝として諸国漫遊中に、神戸は灘の素封家(酒造家)嘉納治作に請われてその婿養子となり、嘉納治郎作と改名した。徳川幕府軍艦奉行・勝海舟の命により和田岬砲台を築造、勝はその後、明治新政府初代海軍卿に就任、嘉納治郎作も最終的には海軍省権大書記官として退官した。
生方桂堂は嘉納少年の凡庸ならざる資質を見抜いて、友人・箕作秋坪の「三叉学舎」で治五郎が英語の修行も並行して進めるよう取り計らってくれたという。

だがその前に治五郎(幼名・伸之介)は郷里・神戸は灘において、四書(「論語」「孟子」「大学」「中庸」)及び五経(「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」)等の素読を終えていた。
嘉納が明治42年に刊行した『青年修養訓』においては、儒者・佐藤一斎の『言志四録』のみならず、文豪ゲーテや19世紀イギリスの碩学ジョン・スチュアート・ミルも座右の書としたローマ皇帝マルクス・アウレリウスの『自省録』からも引用されている。

周知のように、私立育英義塾(教授言語は英語?)あるいは官立開成学校等において、身体的に劣る嘉納少年は、体格、体力に恵まれた生徒たちから「イジメ」を受け、それをきっかけとして柔術師範を探し、東大入学と同時に猛烈に柔術修行に打ち込んだことが彼の人生の岐路となった。

「肝胆相照らす仲」であったと伝えられる嘉納、安部の両者が草創期「体協」のトップとして向き合ったことは、日本国にとって正に「天の配剤」というべきであろうか。
明治44(1911)年10月7日、「日本体育協会の創立とストックホルムオリンピック大会予選会開催に関する趣意書」が嘉納治五郎によって発表された。今ここに、その冒頭部分を紹介してこの小論を終えたい。

「国家の盛衰は国民精神の消長に因り 国民精神の消長は国民体力の強弱に関係し 国民体力の強弱は其国民たる個人及び団体が特に体育に留意すると否とによりて岐るることは世の善く知る所に候
(中略)
顧みて我国を思ふに維新以来欧米の文物を採用するに汲々たりしに拘らず独り国民体育の事に至りては殆んど具案的な施設なく 体育の事と言えば僅かに学校体育の一部たる体操科及び課業外に秩序なき運動あるに過ぎず候(以下略)」
                                        (了)