「私の散歩道」は、会員の方ならどなたでもご登録できます。
あなたのお気に入りの場所を皆さんにご紹介しませんか?
『公徳(公共奉仕)の殿堂・講道館』起業の「高い精神」



2019年04月07日(日)
道場主 
[東京都]
千代田区、台東区
『公徳(公共奉仕)の殿堂・講道館』起業の「高い精神」


明治14(1881)年、嘉納治五郎は東京大学文学部第2期生(同期6名)の一人としてアーネスト・フェノロサ教授の指導による政治学、理財学(経済学)を専攻して卒業する。講義も試験も英語で行われたフェノロサ教授による授業の中で、主として用いられた教材は、政治学においてはジョン・スチュアート・ミルによる『自由論(On Liberty)』であり、経済学においては同じくミルによる『政治経済学原理(Principles of Political Economy)』であった。ハーヴァードでは専ら哲学を専攻した恩師フェノロサ(当時26,7歳)に少なからず傾倒した嘉納は、そのフェノロサの「哲学講義」を受けるために更に東大文学部哲学科に学士入学を果たす。同時に道義学及び審美学の選科にも入って翌明治15年(23歳)卒業した嘉納は、当時文部省ではなく宮内省所管の学習院に月給80円で採用された。巡査の初任月給が6円、小学校平教員のそれが5円の時代である。

今、我々が留意すべきは、東大入学前に嘉納が在籍した開成学校ばかりでなく、西南戦争勃発直後の明治10年4月に開校した東京大学に先立つこと半年、明治9年8月、賜暇休暇中(一年間)のマサチューセッツ農科大学長ウィリアム・クラーク博士を教頭(事実上の学長)として招聘し、「日本初の学士号授与機関」として発足した札幌農学校(Sapporo Agricultural College)においては、「教授言語は英語」と明記されていたことである。蛇足ながら付言すれば、クラーク博士は南北戦争に従軍し北軍の騎兵大佐に任ぜられた人物であり、クラーク大佐がその大要を策定した札幌農学校のカリキュラムには「軍事教練」も含まれ、ここで学んだ新渡戸稲造や内村鑑三ら農学校生徒は、年に一度、札幌の街を鉄砲を担いで行進し、市民に「軍事教練」の成果を披露したのであった。

さて明治15年、学習院奉職と同時に23歳の嘉納治五郎は「ジョン・スチュアート・ミルの思想」と、自らの創意工夫による「柔道(柔術ではない)」とをカリキュラムの中心に据えた英語学校「弘文館」の経営を始める。「柔術」、「やわら」、「体術」等の言葉には慣れている中で、「柔道」とは当時の人々には耳慣れない、どちらかと言えば珍しい言葉であったが、その後の嘉納の大成功に倣って、「撃剣」とか「剣術」とか称されていたものが「剣道」に改められたことを忘れてはなるまい。

刮目すべきは、このようなベンチャー起業と同時に、東大在学中には擦り傷が絶えず、万金膏ベタ張りの体で教室に現れるほど猛烈に修行した天神眞楊流柔術、起倒流柔術等を基に、嘉納治五郎が自らの創意工夫(世界的イノベーション)によって創設した「格闘技の全く新しいシステムとしての講道館柔道」を教え広めるため、同じく明治15年、下谷北稲荷町永昌寺に間借りの「講道館」を設立して自ら館長に就任したことである。発足当初の門弟は僅か9名であったという。

東大に入学して程なく嘉納が学び始め、のめり込んでいった天神眞楊流、あるいはその後、免許皆伝にまで到達した起倒流等、幕末には170以上存在したとされる柔術諸流においては、「形」の稽古に終始するところが殆どで、その「形」によって学ばれる「技(わざ)」も、護身術として捉えられていたせいか、関節技(固め技)や当身技が主流を占め、投げ技は、ほんの僅かであった。これにコペルニクス的転回を加えて、当身技や関節技の大部分を棚上げ(「形」として残す)し、初めから互いに接近して襟、袖を取り合う「投げ技主体」としたところが、嘉納治五郎の実に非凡な(当時としては奇抜な)着想であった。

同時に、「受け」と「取り」とを定めて「形」のみを繰り返し、その「わざ」の「力学的原理」にまで考えが及ばず、「説明は要らぬ、体で覚えよ」とか言われて、只ひたすら師匠や兄弟子の動きを真似るだけの「在来柔術の稽古法」に替えて、「乱取り(双方の自由意思による投げ合い)を主体とする稽古システム」に変更した(修練の中心に据えた)のが、「科学的根拠」という言葉を日常絶えず口にしていた嘉納治五郎である。これによって 嘉納は、さもなくば絶滅したかもしれない柔術の技を後世に残したばかりでなく、柔術から止揚(アウフヘーベン)された「講道館柔道」が、「原理」が明らかにされた世界的スポーツとなる道を拓いたのであった。

改めて総括すると、嘉納治五郎の創意工夫、即ち「武術の競技化(スポーツ化)という技術革新(イノベーション)」の中身は、当身技、蹴り技の全てと、手首、手指、あるいは足首等に対する関節技を排除して、あえて武術としての実用性を離れたことにあった。実戦を意識してのことか、既成の柔術家が捨てきれなかった当身技、関節技を思い切って棚上げしたこと、既往を振り捨てたことが嘉納の成功の核心であった。経済学者ヨーゼフ・シュンペーターが説いた「創造的破壊というプロセスを経たイノベーションの典型」とも称さるべき「講道館柔道」は、今や「普遍性を有する世界文明の一部」あるいは「地球文化の一端」を担うに至った。それをもたらした嘉納治五郎成功の核心は、物事の本質を捉え、そこから展開するに何のためらいもなく既往を振り捨て、新たな方向に超人的集中力を発揮したことにあると言えよう。

同時に見逃してならないことは大学出たて(23歳)で、自らの所信を実現して見せようという驚嘆すべき剛毅な気概と高い能力の持ち主であった嘉納治五郎の「講道館」には、嘉納がその人物を見込まれて親類や親しい知人の子弟(10歳代)を書生として預かり、「柔道を必修」とする「寄宿制」の私塾「嘉納塾」も併設されていたことである。創立当初は富田常次郎他3名の塾生であったが嘉納の情熱と人格とによって醸成された塾風は、次第に世間の支持同調を集め、講道館長兼高等師範学校長・嘉納治五郎が39歳、文部省普通学務局長をも兼務して多忙を極めていた明治31年頃の塾生は、嘉納塾史上最多の53名になったという。「手柄は他人に譲り、労苦は率先して自分が引き受けると」いう「推譲の精神」などという言葉は、もはや日本社会では「死語」となって久しい。だが嘉納塾の教育目的は、「よく艱難困苦に打ち勝ち、克巳、勤勉、努力の習慣を養い、ひとの為に潔く推譲の精神を涵養する」ことにあった。

そして何よりも偉人嘉納治五郎の生涯に関して我々が銘記すべきは、「講道館」が発足から12年間、「入門料(入学金)無料、月謝(学費)無料、只ひたすら柔道修練によって立派な人を育成する為の年中無休の教育機関」であった、ということである。

薩長土肥勢力が中心となった明治新政府において初代海軍卿に就任した前徳川幕府陸軍総裁・勝海舟との縁によって、草創期の日本海軍にテクノクラートの一人として参画していた嘉納治郎作(最終的には海軍省権大書記官)の末っ子(上に5人の姉、2人の兄)として、神戸は灘の「千帆閣」と呼ばれた豪壮な邸宅で誕生した嘉納治五郎は、10歳で母を病気で失ったが幼少時には母から常々、「世の中の役に立つ人になれ」と諭されていたという。

今日の高校野球名門校でもそこまでは出来ないと思うが、年中無休、元旦から大晦日まで講道館の稽古には一日の休みもなく、その稽古も時によっては数時間に及ぶこともあった。稽古時間中、嘉納は殆ど休憩を取らず、弟子の西郷四郎(小説『姿三四郎』のモデル)や、後年セオドア・ルーズベルト大統領にホワイトハウス特設道場で週に3回、足掛け2年に亘って稽古をつけた山下義韶(よしつぐ)、或は富田常次郎(小説『姿三四郎』の作者・富田常雄二段の父)らにも、自分と同じように休まず練習することを要求したという。暖房も冷房もない時代のことであるから、冬の朝など嘉納に稽古をつけてもらう西郷四郎の足の感覚が師匠嘉納よりも先に麻痺してしまうことも、しばしばであったという。

草創期の「講道館」に通ってくる弟子は少なく、弟子を引き留めるために様々な苦労をして、嘉納は自ら茶菓子を買ってくるような配慮もした。更には下谷北稲荷町永昌寺から、今川小路、上二番町、富士見町、本郷真砂町へと「間借り(賃貸)」の活動拠点を移していく12年間の歳月の中で、茶菓子を与える弟子に対して一銭の入門料も月謝(授業料)も要求しない嘉納は、金銭的に相当な苦労をした。一説によると貸金業者による「差し押さえ」を受けたことがあるとも言われているが、筆者としては確認できていない。27歳の若さで学習院教授兼教頭に栄達した嘉納治五郎であったが、エリートとしての月給80円でも足らず、夜なべに翻訳等のアルバイトで得た金をも注ぎ込んで「講道館」の運営に腐心したのであった。「講道館」設立の目的が「柔道の修練を通じて立派な人を養成する」ことにあったからであり、「営利」を目的とする起業ではなかった。

講道館長、嘉納塾塾長、学習院教授兼教頭、五高そして一高校長、東京高等師範学校長、文部省普通学務局長、清国官費留学生受け入れ機関としての「宏文学院」院長、「日本体育協会」初代会長、「日本英語協会」会長、アジア初のIOC委員等々、二足どころか三足、四足の草鞋を履いて苦も無く世界を股に縦横の活躍をした貴族院議員・嘉納治五郎の、明治から大正、昭和にかけての人脈は只々広く、そして深い。一例として挙げると、三度に亘って内閣総理大臣を務めた公爵・近衛文麿が、一高通学中に見初めた「華族女学校一の美人」と評判の毛利千代子と、京都帝国大学法科在学中に所謂「学生結婚」をした際、京都宗忠神社で挙げられた結婚式の媒酌人を務めたのは嘉納治五郎夫妻である。

嘉納は非職(職務停止)の期間を除き23年と4か月、東京高等師範学校(筑波大学の前身)の校長を務め、「高師の嘉納か、嘉納の高師か」と謳われて、正に「天下御免の東京高等師範学校長」であったが、その嘉納が生涯を通じて最も腐心したのは、三育(徳育、体育、知育)の併進(バランス)であった。日清戦争勝利の暁に列強による「三国干渉(遼東還付)」という仕打ちを喰らい、「臥薪嘗胆」等のスローガンが叫ばれる屈辱的10年を経て「日露戦争講和」に至るまで、明治時代の大半は、幕末以来押し付けられてきた「不平等条約」という「半植民地的境遇」を脱するのに懸命の日本国であった。だが、そういう渦の中で、知識万能主義が瀰漫する日本社会の将来に対する大きな危機感を抱いていたのが嘉納治五郎であり、「明治維新以来の日本の教育における知育偏重の歪みを正す」ために、「知育と同じ重みを持つ体育の普及発展」に邁進したのが嘉納治五郎の生涯であった。

明治42(1909)年1月、嘉納はクーベルタン男爵の友人であるジェラール駐日フランス大使の訪問を受けIOC委員就任を要請される。要請を快諾し、オリンピック参加を決意した嘉納の心底には体育運動を通じての諸外国との厚誼だけではなく、蹴球その他、日本人が知らない各種のスポーツを奨励して日本国民の体力の増進、とりわけ「品性の陶冶」を図ろうという決心があった。

推譲の精神(手柄は他人に譲り、労苦は率先して自分が引き受ける)を涵養するという嘉納塾の「教育目的」は、「教育の要諦は公徳(Civil VirtueあるいはPublic Spirit)の養成にあり」という天性の教育家・嘉納治五郎の「基本精神」と共に、21世紀の今に生きる我々にとっても、忘れてはならない事柄ではないか。