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ジミー田中(Jim Tanaka)氏のこと―70歳誕生日のバンジージャンプ

バンジージャンプ発祥の地ニュージーランドのカワラウ橋で

全米高校チャンピオンとしての鉄棒

全米大学チャンピオンとしての吊り輪
2015年08月28日(金)
道場主 
[**秘密**]
東京オリンピックが行われた昭和39(1964)年、恩師富木謙治先生に合気道の指導を願い出たのは、来日したアメリカ合衆国空軍大尉ジミー・タナカさんでした。

幼時に病没した厳父に代わって、ジミー・タナカの将来を慮った御母堂の配慮で、彼は8歳から柔道を始めました。
太平洋戦争が終わってフィラデルフィアの中学校に通い始めたジミーは、御母堂が案じたとおり、憎らしい敵であったジャップをどうしても殴りたいという何十人もの生徒たちと、喧嘩の予約を手帳に書き付ける毎日でしたが、何人めかに、その学校で一番大きな生徒をセオイナゲでぶん投げた結果、その後の喧嘩予約は取り消されたそうです。
極めて高い身体能力を有するジミー・タナカは、器械体操で高校全米チャンピオンとなった結果、奨学金を得てフロリダ州立大学に進学、そこでも「全米大学チャンピオン」になりました。

在学中に軍事教練コースを履修して、卒業後はアメリカ空軍将校としての道を進み、その後、空挺部隊中隊長という経歴をも積んで、来日前にはコロラドスプリングスのアメリカ空軍士官学校で「柔道と器械体操の教官」をしていました。
タナカ大尉が日本に来たのは、在日米軍事援助顧問団(MAAG Japan)団長副官としての任務遂行の為で、当時、防衛庁のMAAG対応窓口は、浦・空将補であったと記憶しています。

そのタナカ大尉は幼い頃、太平洋戦争の勃発によりアーカンソー州の日系アメリカ人強制収容所で御母堂、姉、妹と共に過ごし、親子ほど歳の離れた兄は、442部隊に志願してイタリア戦線に従軍、帰国後はペンシルバニアの大学で化学の教授として暮らしたそうです。
いわゆる2世として、血は百パーセント日本人でありながら日本語が全く話せない、こういう経歴の人物を、日本に対する軍事援助顧問団のリエイゾン・オフィサー(団長副官)に任命する「アメリカ合衆国という国の懐の深さ」に、小生は舌を巻いたものでした。

昭和39年の時点で柔道三段、空手二段の同氏とその後2年間、小生は恩師に代わって早大道場において週に一回(主として木曜日の夜)1時間、富木合気道17本の基本技を反復しました。
富木先生は高齢を理由に、当時早大大学院経済学研究科に在学中の小生にその役割を振ってきましたが、合気道を教えるどころか、大兵をも投げ落とす実力の持ち主と体をぶつけ合い、結局この体験は小生を鍛えるための措置であったと、今も、つくずく恩師富木先生に感謝しています。
お陰で、柔道家としても上り坂にあるタナカ三段(アメリカ空軍士官学校柔道教官)の得意技である「大外刈り」、「体落し」、「上四方固め」、「袈裟固め」等々をたっぷりと味わうことができました。

稽古の後、独身のタナカさんが運転する日本では見たことがないスポーツカー「過給器付きシボレー・カマロ」に同乗して、赤坂の山王ホテル内の「将校クラブ」、あるいは六本木のスターズ・アンド・ストライプス・ビル内の「下士官クラブ(NCO Club」)で、アメリカ食をたっぷり堪能させてもらいました。
そこでは女子学生を含む多くの日本人女性がウェイトレスとして働いており、いくらアメリカ軍将校の友人であるといっても、料理のオーダーを英語でしながら一学生として、健気に働く彼女らに対して、何か申し訳ないような気がしたことを思い出します。

それから2年後のアメリカ遊学中、早大柔道部卒業後ブリジストンを一時休職してニューヨークで柔道を指導していた本井文昭さん(当時四段か五段)の得意技である「支え釣り込み足」、あるいは静岡県立富士高校の2年先輩で国士舘大学柔道部副将を務めた後、ニューヨークのブディスト・アカデミーで柔道を教えていた松村洋一郎さん(当時四段か五段)の得意技としての「大外刈り」に、ほんの少し触れさせて頂き(1,2回軽く投げていただいた)、大学柔道界一流の域に到達したお二人を通じて、嘉納治五郎が創始した世紀を跨ぐ「世界的イノベーションとしての講道館柔道」の、「驚嘆すべき投げ技の切れ味(決定力あるいは威力)」を、改めて深く認識し体感できたことは、我が人生最大の収穫の一つであったと思います。

話は変わりますが、小生が早大大学院1年目の秋、挙行された東京オリンピックに参加する日本柔道チームの直前調整が早大柔道場で行われ、早大柔道部員を相手にする神永さん、猪熊さん、コーチとしての曽根さんらの豪快にして切れ味抜群の「体落し」、あるいは「背負い投げ」を目の前で見て興奮を禁じ得ませんでした。
丁度同じ頃、同じく直前調整のために早大柔道場を訪れた「ソ連(現ロシア)柔道チーム」の相手をした早大柔道部主将の長井さん(長井敦子全日本女子柔道監督の父君)や日大柔道部の鳥海さんらが軽量級選手として、練習相手のロシアのステパノフ選手を、何度も濡れ雑巾を叩きつけるように投げつける姿は圧巻でした。
しかしながら、ただ超一流選手の技を見ただけでなく、タナカさん、本井さん、松村さんら少年時代から10年以上、柔道を継続して練磨し、何十万人という競技人口の中のトップレベルに達した方々の、カミソリのような切れ味の技(精妙な技)を体で認識できた事が、格闘技に関心を持ち続ける小生最大の財産であると思います。
「一を聞いて十を知る」、「百聞は一見に如かず」等々の諺がありますが、「百聞、百見も一行(いっこう)に如かず」と言うことができるのではないでしょうか。

高校時代に既に全国的レベルにあった部員数十人を擁して、明大、日大、東京教育大学、中大等と並ぶ当時大学柔道界強豪の一つ早大柔道部にあって、吉村剛太郎主将(後に福岡県選出参議院議員)、板橋元昭主務(後に福岡県議会議長)と同期で、早大柔道部レギュラー五人の一人であった2歳年上(昭和37年卒)の本井さんは、小生を弟のように可愛がってくれました。
ニューヨーク大学経営大学院(ニューヨーク証券取引所直近の窓のない校舎)在学の2年間、毎週のように金曜日の晩、本井さんのアパートで小生がうどんを茹で、本井さんがつゆを作り共に食べた後、アメリカ合衆国や世界の歴史その他に関して、しゃべりまくる小生に深夜まで真摯につきあってくださいました。本井さんは間も無くブリジストンを退社し地元の短期大学を出た後、改めて4年制大学を卒業してジョンソン&ジョンソンの経理部門に就職、その後CPAの資格を得て五番街の近くで会計事務所を経営しています。

一方、早大大学院修士課程(経済理論)を修了してアメリカに向った小生と相前後して、ジミー・タナカさんは軍人としての本望というべきか、ヴェトナムに出征しました。
世界一の巨大飛行機ギャラクシーの機長としてヴェトナム戦争末期のエバキュエイションに従事、ある時、彼の隣に座っていた副機長が滑走路の端の藪の中からヴェトコンが発射したライフル弾に当たって戦死し、以後タナカ機長はヴェトナムで離陸、着陸の際には、ヘルメットを頭からはずして尻に被るようにしたそうです。

羽田を出てアメリカに向った小生はキャリフォルニア経由で真っ直ぐシカゴに向かい、タナカさんの姉メアリー、妹のジューンが共に暮らす家で1週間、御世話になりました。
その後、ガソリンスタンドで燃料を満タンにすると同時に、タイヤ4本を新品に換えたタナカ姉妹が交代で運転する車で、ニューヨークまで1000キロ、一晩で到着しました。

さて44歳になった頃(昭和60年頃)のある夜、後楽園スポーツ・ジムで「ノーチラス」その他のマシンを使ってトレーニングをしていた小生は、ジム入り口付近からこちらを見ている、どこかで見たような人物に気がつき、網タイツの女子トレーナーを呼んで、入り口付近に立っている人物にその名前がジミー・タナカであるか確認してくれるよう頼みました。
往時のクルーカットにアメリカ合衆国空軍大尉の制服姿とは全く異なるイメージの、長髪そしてサファリルックのジミー・タナカと、こういう偶然で再会した小生は数日後、彼を静岡の実家に案内し、翌朝早く車で40分の富士山5合目から登山を開始、途中で山小屋(7合目の室)の主人に見咎められ警告を受ける程の猛スピードで登頂して昼には5合目駐車場まで下山し、母親の作ってくれた大きなおにぎりを二人してほおばりました。
アメリカ空軍に入隊して20年過ぎたことを機に、退役して気軽なサファリ・ルックで世界旅行の途次立ち寄った日本で、タナカさんは軍用機の機長としては何度もその上空を飛んだ富士山に初めて登ったこと、そのとき食べたおにぎりの味が一生忘れられないことを今も時折、メールで言及しています。

余談ながら付言すると、当時アメリカ空軍に20年以上勤務した軍人には、退役後は何時でも軍用機を利用してタダで何度でも、世界中を旅行できる「恩典」が付いていたのです。
カリフォルニア州トラビス空軍基地から横田基地、嘉手納基地等々、更にはドイツにまでアメリカ空軍の基地があり、キャンセル待ちの形で軍用連絡便に乗って来日したタナカさんは、以前お世話になった小谷澄之十段に挨拶するために講道館を訪れ、帰途その横の後楽園スポーツジムを覗いて、何年も連絡が途絶えていた小生を偶然見付けたのです。

平成15年、小生が自ら経営する会社が破綻して品川から埼玉に引っ越し、境遇が変わって1,2年経った平成17年頃、70歳の誕生日を、新たに迎えた妻と共に祝うべく世界旅行に出かけたジミー・タナカ氏は、バンジー・ジャンプ発祥の地ニュージーランドのカワラウ橋で70歳を記念するジャンプを(新妻の目の前で?)行い、その後日本に立ち寄りました。
再び旧交を温めるべく、共に一日鎌倉に遊び食事を共にして、タナカさんにとっては懐かしい「講道館大道場」の夕方の稽古を見物人として楽しみ、改めて「良い時」を共有することができました。

現在アメリカ合衆国柔道連盟八段(最高位)にあるタナカ氏は、昨秋出版された拙著『嘉納治五郎と安部磯雄―近代スポーツと教育の先駆者』が、アマゾンから「五つ星(Five Star)」を貰った事を我が事のように喜び、小生をアメリカへ招待してくれました。しかしながら静岡の妹の家に世話になっている母(間も無く98歳)の健康状態が気がかりで、折角のお招きを辞退しています。

彼はアメリカ空軍退役後はサンフランシスコ近郊に住み、余暇を利用して私立の飛行訓練学校の教官等をする一方、20年以上継続してソラノ短期大学の柔道部を指導した結果、同校柔道部はUCLAその他多数の名門校が参加するカリフォルニアの大学対抗戦において常に上位を占め、今年は同柔道部卒業生の一人(刑務官)が、イギリスで行われる国際・警察官刑務官柔道大会での100キロ超級金メダルを目指しているとのことです。

蛇足ながら付言すると、空軍将校退役後の余暇を利用して、タナカさんは「生理学」の博士号(Ph.D.)をも取得していたようです。
50代になっても元空挺部隊中隊長という経歴を生かして、スカイ・ダイヴィング、スキューバ・ダイヴィングのコーチもしていたタナカさんは、70歳を過ぎても夏にはサンフランシスコ湾で10人あるいは12人もの人々を一隻に乗り込ませて、大型ヨットの操縦訓練航海の船長(インストラクター)を務めるなど、陸海空で活躍する彼から見れば、74歳の小生の身体活動などは、「洟垂れ小僧」の運動に過ぎないのかもしれません。