「私の散歩道」は、会員の方ならどなたでもご登録できます。
あなたのお気に入りの場所を皆さんにご紹介しませんか?
日本を変えた出会い―英学者・何礼之(が のりゆき)と門弟・前島密、星亨、陸奥宗光

神戸の街が英仏米軍に占領された大事件の記念碑

西洋建築は往々「異人館」と呼ばれた

瀧善三郎の切腹を見守る6カ国検使と伊藤博文ら
2013年02月11日(月)
道場主 
[兵庫県]
神戸市中央区
[ 陸奥宗光の才腕

[―1卓抜した知性 

陸奥宗光の父は51歳まで紀州藩勘定奉行、寺社奉行、熊野三山寄付金江戸京坂和歌山貸付方総括、御仕入総括等々の重職に任ぜられた家禄五百石(後には八百石)の伊達宗弘であった。ところが嘉永5(1852)年12月、徳川御三家の一つである紀州藩の家老に次ぐ権勢を誇った父宗弘が藩内政治抗争に敗れて、田辺を領地とする家老安藤飛騨守に御預けの身となり、当時9歳の陸奥宗光(幼名 伊達小次郎)は伊達家の六男として、罪人となって田辺に護送されていく父親を見送るという、苛烈な体験をした。
その上、翌年1月には伊達家の後継者である義兄・伊達宗興に対しても「拾里外へ改易」という厳しい政治弾圧が加わり、一切の家禄を失った伊達家の人々は住み慣れた和歌山をはなれて、それから十里外の地に移住を余儀なくされた。いわゆる「流離」の生活に入った伊達宗興とその一族は、伊都郡の村々を転々として4年後、ようやく入郷村の庄屋・玉置左五兵衛方の一軒を借りて、小さいながらも自分たちの家を持つことができたという。
陸奥(14歳)は、その藁葺きのわびしい間取りの家で、母政子、家兄宗興(34歳)、その妻で陸奥の長姉の五百子とその子供、妹の美津穂と初穂、それに、妾腹の弟健吉などと暮らし、宗興は、農事のかたわら庄屋の玉置家や、弘法大師の縁戚にあたる岡家、それに近隣の農家の子弟らに漢籍の素読や習字を教えて家計の足しにしていた。そして少年陸奥宗光も農家の草刈りや牛追い、あるいは酒屋の手伝いなどをして家計を助けたという。
安政5(1858)年、元服を迎える年頃の15歳になった陸奥宗光は、ついに脱藩して江戸に向う。そして江戸に向かうにあたり、陸奥は「郷国を脱す」と題し、自らの生涯を示唆するかのような一篇の詩を残している。

朝踊暮吟十五年
飄身飄泊は飄船に似たり
他時争ひ得て鵬翼を生ぜば
一挙に雲を排して九天を翔けん

芝の二本榎にあった高野山の江戸出張所が寺男を求めており、前記入郷村において伊達家とは昵懇で高野山支配郷士であった岡家の斡旋によってか、江戸に出た陸奥は、高野山江戸出張所に寺男として住み込んだのを皮切りに、それから3年の間、処々を転々としながら学問とりわけ漢学の修行に励んだという。
3年後、18歳になった陸奥は江戸を出て、既に赦免された父宗弘が暮らしている京都粟田口に移り、その父を度々訪れる土佐脱藩浪人・坂本龍馬の知遇を得る。陸奥宗光の父・伊達宗弘は歌人・国学者として世に知られるばかりでなく、史論書『大勢三転考』の著者でもあり、当時第一級の文化人であった。
元治元(1864)年、勝海舟の尽力によって新設された神戸海軍操練所(あるいは勝塾?)の一員となった陸奥は同年10月、操練所の閉鎖によって一時坂本龍馬と共に薩摩藩大坂藩邸にかくまわれていた。翌慶応元(1865)年4月、薩摩に帰郷する西郷隆盛と小松帯刀に同行した陸奥と坂本は、共に鹿児島に赴き2週間ほど逗留する。
慶応元年5月16日、汽船「開聞丸」購入の藩命を受けて長崎に向う薩摩藩家老・小松帯刀(29歳)に同行した坂本(29歳)と陸奥(21歳)は、そのまま長崎に落ち着き、「亀山社中」を開設した。
長崎で陸奥は伊達陽之助、陸奥小次郎あるいは陸奥源二郎を名乗っていたが、長崎英学所(済美館の前身)学頭・何礼之(25歳)が運営する私塾には、前述したように薩摩藩士・錦戸広樹として登録し入塾している。
この頃の陸奥については、「外人宣教師の家にボーイとして住み込んで、その妻から英語を学び時間は短かったが相当の進歩をした」というような伝説も流布されている。当時、長崎の宣教師と言えば前述したフルベッキのことであろうが、筆者としてはそのような事実を確認することはできていない。しかしながら陸奥の英語学習は、そういう伝説が流布されるほど、長崎における2、3年の間に長足の進歩を遂げて高いレベルに達し、その高い英語力が、後述するように23歳の若さで伊藤博文らと共に明治新政府の外国事務局(外務省の前身)御用掛に登用される大きな要因となったのではないか。
話は飛ぶが、陸奥は40歳前後になって、ジェレミー・ベンサムの主著『An Introduction to the Principles of morals and Legislation(道徳および立法の諸原理)』を『利学正宗』と題して翻訳し、出版する。その翻訳に際して(明治14年)、後に「鹿鳴館の花」と称えられ美貌をもって知られた自らの妻・亮子にあてた手紙の中では、改めて慣れない英文(横文字)に立ち向かったようなことを陸奥本人が言っている。だが日本最先端の教育機関である沼津兵学校、大学南校等で若くして英語を学んだ島田三郎(第19代衆議院議長)がそうであったように、長崎における何礼之の英学塾門弟・陸奥宗光(薩摩藩士・錦戸広樹)の英語力は、20歳代で既に相当のレベルに到達していたことは間違いあるまい。
英語力と言えば、後年、明治政界において陸奥と決定的な関係を保持した伊藤博文の英語力(会話能力)も、明治元年の時点においては陸奥に劣らぬ高いレベルにあったのではないか。伊藤博文は武士ではなく、父伊藤十蔵が中間の養子となったので、中間の息子として士分の者の雑役を務めるようになり、安政2年春(14歳)、鎌倉、三浦方面の警備に当った長州藩にかり出されて雑役を務めている。伊藤の開運のきっかっけは、桂小五郎の義弟である来原良蔵(藩校明倫館助教兼兵学科総督、最後の内大臣木戸幸一の祖父)に使われたことであり、来原の切腹後、文久3(1863)年3月、桂は伊藤を自分の郎党に加え、伊藤はこの時から藩内で身分らしきものを得たという。その後イギリスへの密航留学をきっかけに培った外国人とのコミュニケーション能力によって、伊藤博文は「周旋家」として認められ、身分を越えて藩政治の最前線で活躍することになる。日本社会の混乱、長州藩の混迷の中で、奇兵隊をもって挙兵した高杉晋作のもとに、力士隊を率いて真っ先に駆けつけた伊藤の行動が示すように、桂の存在と桂の弟分の高杉晋作に目をかけられたことが、幕末紛擾における伊藤博文活躍の跳躍台となった。要するに、伊藤博文にとっても陸奥宗光にとっても、西洋文明と、それを伝えるコミュニケーション能力(英語力)が、立身出世のまたとない梃子となったのである。
本題に戻ると、慶応元年から翌慶応2年、そして慶応3(1867)年11月の坂本龍馬暗殺まで、陸奥は主として長崎は坂本龍馬の亀山社中・海援隊に所属して海運、商事に従事する。慶応3年4月には坂本の土佐藩脱藩が許されて「海援隊」が結成され、陸奥源二郎は沢村惣之丞と共にその測量官に任命される。「海援隊約規」には、「本藩を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志ある者、この隊に入る」とされ、海援隊の目的は、「運輸、射利、投機、開拓、本藩(土佐藩のこと―筆者注)の応援」となっている。間も無く海援隊測量官・陸奥源二郎は、慶応3年9月、「商法の愚案」と題する画期的な意見書を海援隊長・坂本龍馬に提出した。同意見書は、海援隊の商業活動、特に海運業の拡大を目指したものだが、それを「商船運送之事」、「取組商売之事」、「商船ヨリ船持ニ運上ヲ出サセシムル事」の三つの項目に分けて論ずる中で、陸奥は大胆かつ時代を先取りする先駆的な提案を行ったのであった。
第一の「商船運送之事」において、陸奥は西洋の方式を「店引負(ひきおい)」、日本の伝統的な慣行を「船為替」と呼んで議論を進め、陸奥は日本の方式をいちがいに否定してはいないが、海援隊の将来の発展を考えると、西洋の方式の採用が望ましいと結論している。
西洋の方式では、荷主は積み荷の価格に従って定額の運賃を支払うと、船主から難破等を原因とする「破船」の場合に備えた「引負ノ券書」(保険証券?)を受け取るから、万一「破船」がおきても、荷主は何の損傷も蒙らない。これは西洋で広く行われている方式であり、この方式を採用しないかぎり、今後増大が予想される外国人の荷物を輸送することは不可能である、と陸奥は結論する。
これに対して、日本の伝統的な慣行では、船主は「為替金」と呼ばれる資金を用意しておき、これを荷主の求めに応じて貸し付け、積み荷が先方に無事に届いた際に、荷主から運賃のほかに、「為替金」の元金と利子の双方の支払いを受けるという方式である。ただし、「破船」の場合、この「為替金」は船主の側の損失となる。
この日本の方式には、荷主が船主から貸し付けられる「為替金」を利用して、たとえば四、五百両の元手で仕入れたものを千両で売るという、うまみがないわけではないが、それは煩雑であるばかりでなく、船主は「為替金」を用立てるために、たえず一定の資金を用意しておかねばならず、現に海援隊の場合でも手持ちの船がありながら、この「為替金」の貯えがないために海上輸送の仕事が引き受けられないことがよくおこる。
既に海上保険が慣行となっていた西洋世界、そして今日の世界の商慣習から見ても、どちらが有利であるかは明白であり、陸奥はそれをきっちりと指摘したのである。
敢えて付言すれば、ヨーロッパにおいては早くも14世紀中頃から後半にかけて、ほぼ現代と同様の「海上保険」が成立し、1688(元禄元)年頃に、ロンドンはテムズ河畔でエドワード・ロイドが営業を始めたコーヒー・ハウスは、海運業者、貿易商、海上保険業者のたまり場となり、そこでは船舶や積み荷の売買、海上保険の取引が盛んに行われていたという。
エドワード・ロイドの死後、取引の場を失った保険業者らが資金を出し合って、新たにロイズ・コーヒー・ハウス(ロイドのコーヒー店)と名づけたコーヒー店を自分たちのために開かせ、時代と共にロイズ(Lloyd's)という名前はそのまま残り、ブローカー及びシンジケートを会員とするロイズ保険組合(Corporation of Lloyd's)の淵源となった。
更に敢えて付言すると、「複式簿記」は既に15世紀末にはヨーロッパ全域に普及し、18世紀末にドイツはヴァイマール公国の宰相を務めた文豪ゲーテは、複式簿記の知識の重要性を認識して、同国における学校教育に簿記の授業を義務付けたという。
ところが日本では明治6(1873)年、福沢諭吉がアメリカのチェーンストア式簿記学校の教科書を翻訳して『帳合之法』として出版し、日本人はこの時始めて、「大福帳」に代わる「複式簿記」の存在を知ったのであった。鉄道や汽船等々インフラの後ればかりでなく、経済システムの根幹におけるこのような後れは、世界の辺境(絶東の小島)に300年近く孤立していた代償というべきであろう。だが、改善には百年単位の時間がかかる「日本国民のレベルの低い政治意識」とは異なり、損保や生保等のシステムは模倣して追いつくのに、さほどの時間はかからない。「複式簿記」」についても、前述したように何礼之が運営した「瓊江(けいこう)塾」の元塾生・豊川良平の斡旋で岩崎弥太郎の三菱に入社した荘田平五郎が明治10年には「郵便汽船三菱会社簿記法」を制定し、日本で初めて「複式簿記」を採用させている。
本題に戻ると、陸奥は第二の「取組商売之事」において、海援隊も西洋の「商社」のような組織を長崎に設立し、これに専属の隊士一名を配すること、任命された隊士は、諸国、特に大坂、兵庫、下関、敦賀、三国、新潟、箱館、松前などの要地にある既存の「問屋」などを頻繁に訪ね、それらといわば代理店契約を結び、取引先の拡大につとめるべきことを主張した。これもまた昨今の商社活動と異なるところはなく、陸奥の先見の明には驚かざるを得ない。さらに陸奥は、この件に関して予てからの坂本龍馬の持論と歩調を合わせて、次のように述べた。
「此ノ商事ニ預カル隊士ハ、商事ノ外、決テ他事ニ関係ス可カラズ。故ニ兵商ヲ両ツニ分チ、商事ヲ司ルモノハ兵事ニ関セズ、兵事ニ関スルモノハ商事ヲ司ル可カラズ。而シテ両様トモニ隊長ノ免許ヲ受ケ、隊長ノ指揮ニ随フ可シ」
続いて第三のテーマ、「商船ヨリ船持(船主)ニ運上ヲ出サシムル事」は、船主すなわち海援隊を率いる坂本龍馬が、政治活動のため長崎を留守にすることが多く、そのため海援隊に所属する船舶の商業活動に支障をきたす恐れがあることを考慮に入れた発言であった。そこで、商事に関する一切の権限を船長の自主的な裁量にまかせ、船長は海上輸送によって獲得した利益によって船員の給料等の必要経費を支出し、その余から一定額をまちがいなく海援隊長に納入する制度を採用したらどうかと、陸奥は主張した。以上が萩原延壽がその著『陸奥宗光』の中で概括した陸奥宗光の意見書「商法の愚案」の大要である。
そして、この意見書に陸奥は次のように付言した。

僕ハ測量士官ナレバ、其職ヲ勉励スレバ可然キ事ニ候得共、又窃ニ思フニ、軍艦ヲ使用スルニハ、軍略ニ長ジタル人ニ非レバ進退向背ノ術ヲ失シ、商船ヲ運送スルニ商法ニ明カナラザル時ハ、利損懸引ノ機ヲ誤リ可申ク候。然ル時ハ即チ我隊ヲ富シ、我隊ヲ強クスルモ亦此道ニヨラザルベカラズト奉存候。

かくして陸奥(23歳)は大胆にも、この意見書によって海援隊の商事部門は自分が担当すると宣言したことになるが、これに対して坂本龍馬は、慶応3年10月22日付の陸奥宛ての手紙において、「商法ノ事ハ陸奥ニ任シ存之候得バ」と書き送って、海援隊の商事部門を陸奥源二郎に統括させることにしている。
陸奥は この「商法の愚案」と題する意見書を閉じるにあたり、「陸奥源二郎宗光」と署名し、萩原延壽によると、これが文書の上で、「宗光」という名前を見る初めての機会であるという。
注目すべきは西洋の「商社」について、萩原によると陸奥が西洋の文献(訳書?)にも依拠して議論を進めたことであり、英国を代表するマジソン社(ジャーディン・マセッソン社)の代理人グラバーらと、頻繁に接触することができた国際都市長崎において、たとえ訳書とはいえ西洋の文献をも渉猟して論文をまとめた23歳の陸奥の広い視野と高い視点、それをまとめる学力には非凡なものがあったと言えよう。
ここに敢えて付言すると、陸奥宗光は後に西南戦争(明治10年)に際して土佐立志社に加担し、その結果、国事犯(反逆者)として5年の刑期を科された。
特赦により早めに刑期を終えて、明治16年1月4日に仙台監獄を出獄した陸奥宗光は、明治17年春、伊藤博文、井上馨、山縣有朋、渋沢栄一、古河市兵衛らの期待と信頼、そして経済的支援に後押しされ、単身41歳で英国に留学する。イギリスでの9ヶ月間、陸奥はマンツーマンで集中的かつ断続的に講義を受けたが、その相手はロンドンで弁護士を開業しケンブリッジで法律の講師をしているトーマス・ワラカーであった。注目すべきはケンブリッヂやロンドンにおける陸奥の9ヶ月に亘る集中的研修の目的が、ひとえに「議院内閣制(責任内閣制)」に関する考究にあったことである。渾身の考究を遂げた陸奥が持ち帰った研究ノートは、現在、神奈川県立金沢文庫に収蔵され、流麗な英文で記されたずっしりと手に重い数冊のノートは、陸奥宗光の研鑽と卓抜した知性を余すところなく示している。慶応3年、23歳の陸奥が発表した論文「商法の愚案」は、そういう陸奥宗光の傑出した資質を早くも窺わせる論文であると言えよう。
さて慶応3年9月、坂本龍馬は、土佐藩大監察・佐々木三四郎(高行)と相談の上、武力倒幕の必要がおこる場合に備えて、土佐藩のために、長崎のオランダ商人ハットマンから、ライフル銃千三百丁を買い入れた。その代金は一万八千八百七十五両であったが、坂本は薩摩藩の長崎邸吏から大坂為替金五千両の融資を受け、そのうち四千両を内金としてハットマンに納め、残りの千両を海援隊雑費や周旋料にあてることにした。代金完済の期限は、購入契約日の9月14日から90日以内、というものであったが、その保証人となった2名の長崎商人に、坂本は購入したライフル銃のうちの百丁を、抵当としてあずけるという配慮をした。特筆すべきは、「小銃買入ノ周旋ハ、陸奥陽之助ナリ」と佐々木が日記に書いているように、購入の実務を担当したのは何礼之塾門弟・薩摩藩士・錦戸広樹こと陸奥宗光であった。慶応元年5月、坂本と共に亀山社中を設立した陸奥は、1、2年のうちにイギリス人グラバーやオランダ人ハットマンら外国商人との交渉や契約業務をこなせる程の語学力を身につけていたことを示し、後年、外務大臣として「カミソリ」と呼ばれて畏れられた天稟を示す出来事であった。余談になるが、これだけの資金と才覚を用いて手に入れたライフル銃、とりわけ土佐藩に渡すライフル銃1000丁の値段は、どれほどになったのか興味あるところである。
次に、同じく9月14日、海援隊長坂本と丹後の田辺藩との間で、商取引の契約が結ばれたが、陸奥は同僚の海援隊士・管野覚兵衛(坂本龍馬の義弟)と共に、その実務に深く関与している。契約の内容は、田辺藩の物産の長崎での売り捌き、その長崎までの輸送、田辺藩が希望する外国製品の長崎での購入などを海援隊が受け持つというものだが、藩内の物産買い付けの資金として、当時長崎出張中の田辺藩士・松本検吾に、ひとまず五百両の借款が供与された。この五百両は、前述の薩摩藩から受けた融資のうち、坂本が海援隊雑費などに使用するため、残しておいた千両から捻出したものである。そしてこの田辺藩との契約書に署名したのは、海援隊長坂本龍馬ではなく陸奥源二郎であった。
薩摩藩あるいは土佐藩という金主(金融機関?)をバックに、まさに「総合商社」として射利即ち利益の追求を堂々と掲げてフル回転を始めた「海援隊」であったが、それは束の間のことであり、程なくして海援隊は悲劇的な最後を迎える。
慶応3年9月18日、坂本龍馬は、芸州広島藩の汽船震天丸を借用(リース)し、これにオランダ商人ハットマンから買い入れたライフル銃千二百丁を積み込み、長崎をあとにしたが、陸奥宗光、管野覚兵衛、田辺藩士・松本検吾も坂本に同行することになった。陸奥と管野には田辺藩との商談を仕上げる任務が与えられたが、さらに海援隊士・中島作太郎(信行)なども同船に乗り込んだという。最初は坂本も丹後・田辺藩まで出向くつもりでいたらしいが、9月20日に下関に寄航してみると、幕末紛糾の京都における切迫した情勢が痛いほど伝わってきた。
そもそも幕末紛擾のおおもとは、外交問題ではなく、天明、天保の時代から続発した飢饉その他の原因による「生活難」が国全体を覆って、展望が開けないところにあった。
そういう意味では、21世紀初頭、生活保護者が激増して、「生活難」が国全体を覆う現今の日本社会の状況に酷似している。全国的大飢饉の中で天保3(1832)年、武家屋敷に90回以上も忍び込み盗みを働いた鼠小僧次郎吉が捕縛され、市中引き回しの上、獄門となった。5年後の天保8年には幕府役人(大坂町奉行組与力)である大塩平八郎が、民衆と叛乱を起こすような状況も生じた。たった2年で失敗に終わり、群集に屋敷を取り囲まれて罵声を浴び、石を投げ込まれて終わった天保14(1843)年の水野忠邦の「天保の改革」なるものが、この国の当時の状況を象徴している。アウトローになる者も増えたようであるが、その代表格ともいえる国定忠治も、嘉永3(1850)年、捕えられ、磔(はりつけ)の刑に処されるという世相であった。
長い間(200年以上)の封建制度に泥み、大多数の日本人は、自分たちの政治システム(統治システム)を変革するような「恐れ多い事」を議論するよりは、「異人」を排斥、攻撃することに溜まった憤懣と閉塞感の絶好のはけ口を見つけた。ペルリ来航(1853年)は、閉塞感に覆われていた人々に格好の標的を与えたのである。以来10余年、紛糾は極まり、島津一門毛利一門連合と徳川一門とによる政治権力(統治システム)争奪戦は、いよいよ沸点に近いところに達していた。
そこで坂本は予定を変更し、坂本自身は震天丸で下関から土佐へ急行し、陸奥と管野にはライフル銃2百丁と旅費百五十両を渡し、別の便船で二人を大坂へ直行させることにした。
陸奥ら二人に託した武器は、緊急の場合に、京阪地方の同志の使用に供するためである。
9月20日、土佐へ向う坂本龍馬一行と下関で別れた陸奥と管野覚兵衛は、坂本から託されたライフル銃2百丁と百五十両の金子を携え、10月2日、大坂に到着した。
他方、持参したライフル銃千丁を無事土佐藩に引き渡した坂本は、10月9日に京都に入り、定宿の河原町三条下ル車道の材木商酢屋(すや)嘉兵衛方に身をひそめ、その後坂本は河原町通りを隔てて土佐藩邸の真向かいにある近江屋(醤油屋)に隠れ家を移したが、慶応3年11月15日夜、そこで中岡慎太郎と共に暗殺された。陸奥は、当時有力な左幕論者であった紀州藩公用人・三浦休太郎が、大垣藩士らと共謀して京都で不穏な動きをしていたこと、坂本龍馬、中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件)の黒幕が、紀州藩所属「明光丸」と衝突した海援隊運用の「いろは丸」沈没の際に、多額の弁償金を龍馬に支払わされた恨みを持つ紀州藩であるとの話を聞き、三浦を討つことを海援隊士・陸援隊士らと計画する。
危機を感じた紀州藩は会津藩を通して新撰組に三浦の警護を依頼し、新撰組の斉藤一、大石鍬次郎ら7名が三浦の護衛について油小路天満屋の二階で酒宴を開いていた慶応3年12月7日夜、海援隊・陸援隊士15,6名が襲撃した。灯火が消され暗闇の中での斬り合いとなり、変を聞きつけた新撰組、紀州藩が応援に駆けつけた時には陸奥らは既に引き払っていた。この事件で襲撃側は中井某が死亡、2,3名が負傷、一方の新撰組は宮川某、船津某の二人が死亡、他に重傷1名、負傷者3名を出し、紀州藩士は2名が軽傷、狙われた三浦休太郎は顔に傷を負っただけであった。
さて、坂本龍馬の暗殺(慶応3年11月15日)と、それに続く復讐戦(天満屋事件、同年12月7日)をすませてから陸奥は海援隊や陸援隊の同志と行動を共にせず、慶応3年12月23日に至って、陸奥宗光が姿を現わしたのは何と大坂のイギリス公使館であった。
当時、兵庫の開港と大坂の開市に立ち会うために大坂に移動してきていたイギリス公使館で、陸奥は日本語書記官アーネスト・サトウと会見し、「新政府の承認」という問題を巡って意見を交わしたのである。
大坂のイギリス公使館には、旧幕府系、倒幕派双方から多くの来訪者があったが、「新政府の承認」という問題を話題にしたのは、陸奥宗光以前には誰もいなかったという。
長い間の鎖国と封建制という陋習に泥み、陸奥のような視野、視点を持ち得なかったのが大多数の日本人であり、日本随一の先端都市、洋学のメッカ長崎で薩摩藩士数十名と共に何礼之の私塾に入門して研鑽を積んだ、陸奥陽之助の高い教養が生きた行動と言うべきであろう。
余談ながら、幕末二度に亘って幕府使節団の一員(通訳)としてヨーロッパを訪問した福沢諭吉は、イギリスにおいて、議会(Parliament)という言葉を理解するのに苦労をした。結局、「議員とは役人の一種」という、封建制度の中で暮らして外の世界を知らない幕府使節団員の理解と、そう遠くないところに止まらざるを得ない元豊前国中津藩士・福沢諭吉であった。しかしながら、著書『学問のすゝめ』、『文明論之概略』等々を通じて、声を大にして「衆心発達論」を唱え、「日本国民の封建的メンタリティー排除」の啓蒙活動に大車輪の生涯を送ったのが維新後の福沢諭吉である。
話を本題に戻すと、陸奥に対してサトウは、外国の公使による御門(天皇)の政府(明治新政府)承認の問題について、次のように説明したという。
「承認のきっかけをつくるのは、われわれの側の仕事ではない。現在われわれは、今後もひきつづき国政を担当するという確約を大君(将軍慶喜)から得ているが、他方京都からはなんの連絡も受けていない。そこで、われわれはひきつづき大君との関係を維持しているわけである。もし京都政権が国政の指揮をとるつもりなら、まず、外交関係の責任を担当することを、外国公使に通告する旨、「幕府」に伝え、つぎに、外国公使を京都へ招くべきである。この最後の行為は、全世界に御門(みかど)の地位を闡明(せんめい)することになるだろう。」
これに対して陸奥は、自分は後藤(象二郎)の使者ではなく、自分の意見を述べるに過ぎないと前置きして、次のように語った。「宮様(皇族)のひとりが大坂に下り、大坂城内で外国公使と会見し、そのさい徳川(慶喜)も同席して外交の担当を辞任する旨を明らかにし、つづいて「宮様」が御門の布告(王政復古の布告)を宣言する、という具合に事をはこぶべきである。もちろん「宮様」は諸藩の兵に守られて大坂に下ることになるだろう。」
サトウはこの案に全く賛成であったが、陸奥の依頼でこれを誰にも漏らさぬと約束した。
これが、幕末紛糾がいよいよ極まって鳥羽伏見の戦いの約10日前、日本国の主がタイクーン(徳川将軍)なのかミカド(天皇)なのか、政権交代の過渡期で物情騒然たる無政府状態の中での、アーネスト・サトウと陸奥陽之助の会話であった。
後藤象二郎は、発足したばかりの新政府の骨格を形成する総裁、議定、参与の三職のうち、薩摩の西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)などと並んで、福岡藤次(孝弟)と共に土佐を代表する参与のひとりに任命されていて、坂本龍馬亡き後、紀州脱藩浪人陸奥陽之助は、さしあたり後藤象二郎を後ろ盾として、己の才覚を世に示す道を選んでいたのである。
陸奥は、このサトウとの会見にもとづく一篇の意見書を起草して、議定・岩倉具視のもとに提出し、それがきっかけとなって岩倉の推挙により、陸奥陽之助は新政府の外国事務局御用掛に任命されることになったという。
「尊皇攘夷」を旗印として、「攘夷」のスローガンを降ろしかねている明治新政府に対して、「攘夷は不可」と言い切って、「開国進取」を主張する陸奥の意見書の結論は次のようなものであった。
「維新の急務は、到底開国進取の政策を執らるゝの外他策なし。而して其第一着は、先ず当時大坂にある所の各国公使に王政復古の実を告げ、維新経綸の主義を明らかにし、以て大に外交を修むることを務むるに在り。」
明けて慶応4年1月11日、陸奥は長州出身の伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)、薩摩出身の寺島陶蔵(宗則)、五代才助(友厚)、中井弘蔵(弘)らと共に明治新政府の外国事務局(外国官そして外務省の前身)御用掛に任命された。肥前出身の大隈八太郎(重信)がそこに加わるのは、それから3ヵ月後である。
伊藤、井上、寺島、五代、中井いずれも既に密出国等による「海外生活の体験者」であり、陸奥陽之助だけが、未だに外国を知らず、しかも実質的には「薩長土肥」のいずれにも属さない「外国事務局御用掛(外務省課長?)」であった。
この時、同僚の寺島は35歳、井上と五代が32歳、中井と大隈が29歳、伊藤が26歳であったが 天保15年7月7日(1844年8月20日)生まれの陸奥は、満23歳で最年少である。辞令書には一応土州・陸奥陽之助と書かれていて、表面的には土佐藩をバックにしていた陸奥は、「是れ明治元年正月十一日の事にして、余が生来始めて身を責任ある地に置き、国家の公務に与るの第一歩なりとす」と、後年述べている。
間もなく慶応4年(明治元年)正月15日、明治新政府は、「外国交際之儀は宇内の公法を以て取扱可有之候間、此段相心得可申候事」と、国内向けの布告を発した。
そして、その同じ日に、勅使・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)が、神戸運上所(税関)において六カ国(フランス、イギリス、アメリカ、プロシャ、オランダ、イタリア)の代表(公使)と会見し、王政復古布告の国書を交付したのである。
今後、「攘夷鎖国」の立場を排し「開国和親」の政策を堅持することを国の内外に向って鮮明にした六カ国代表との会見の場に、最年少23歳の陸奥陽之助は、岩下佐次右衛門(方平)、伊藤俊輔(博文)、寺島陶蔵(宗則)、吉井幸輔(友実)、片野十郎と共に、勅使・東久世通禧配下の外国事務局有司(外務官僚)として列席している。
陸奥が岩倉に提出した意見書の趣旨に沿った正に日本国にとっての「歴史的会見」であったが、それはまた、政権交代期の無政府状態の中で、「神戸事件」という突如降りかかってきた国難(外交問題)を処理するため、外国事務局(外務省の前身)を窓口として、せっぱつまった明治新政府が必死の覚悟で臨んだ会談でもあった。

[―2 神戸事件

京都において陸奥宗光や伊藤博文が明治新政府によって「外国事務局御用掛」に任命された慶応4(明治元)年1月11日の午後1時過ぎ、神戸において備前藩家老・日置帯刀を警護して進む備前藩兵の隊列が三宮神社近くに差し掛かった時、付近の建物から出てきたフランス人水兵2人が列を横切ろうとした。これは武家諸法度に定められた「供割(ともわり)」と呼ばれる非常に無礼な行為で、これを見た砲術隊長・瀧善三郎正信が槍を持って制止に入った。ところが言葉が通じず、強引に隊列を横切ろうとする水兵に対し、瀧が槍で突きかかり軽傷を負わせた。一旦民家に退いたフランス水兵数人がピストルを取り出し、それを見た瀧が「鉄砲、鉄砲」と叫んだのを発砲命令と受け取った備前藩兵が発砲し、銃撃が始まる。そしてこの西国街道沿いの小競り合いが、あいにく隣接する兵庫外人居留地(租界)に予定されている土地の実況検分に来ていた英国公使パークスその他各国公使の頭上に、銃弾が乱れ飛ぶという大事件に発展した。備前藩兵による水兵射撃とされる銃撃によって、負傷した外交官あるいはフランス兵その他外国人は一人も無く、居留地の奥の旧幕府の兵庫運上所(神戸税関)屋上にはためいていた欧米列国(フランス、イギリス、アメリカ、オランダ、イタリア、プロシャ)の国旗が、銃弾によって穴だらけになっただけであった。
しかしながら現場に居合わせた英国公使パークスは激怒し、折りしも兵庫港に集結していた各国艦船に非常事態を通告、アメリカ海兵隊、イギリス警備隊、フランス水兵が備前藩兵を追撃して現在のフラワーロード周辺で撃ち合いとなったが、すぐに備前藩家老・日置帯刀が射撃中止、撤退を命じて、双方に死者もなく、負傷者もほとんど無かった。ところが神戸に領事館を持つ列強は、この日のうちに居留地(租界)防衛を名目として神戸中心部を占領し、二箇所に砲台を築いて武士及び佩刀者の通行を禁止、兵庫港に停泊する諸藩の船舶6隻を拿捕し、略奪した。
これは明らかに、前任地清国における「アロー号事件(アロー戦争)」で辣腕を振るったハリー・パークスお得意の「砲艦外交」の展開であり、すでに薩英戦争、下関(馬関)戦争で西洋列強の軍事的威力を目の当たりにしている薩長を中心とする新政府指導者が、この神戸における強圧の前に周章狼狽して震え上がったのは当然である。明治新政府は早速、伊藤、陸奥、寺島らに各国公使の意向を探らせ事態の収拾に懸命の努力をする破目に陥り、激怒しているパークスを旧知の伊藤がなだめにかかったが、パークスは、維新政府が幕府から政権を奪取したといっても、その政権交代の挨拶さえ受けていないと言ったという。
事態の収拾を図るべくその後1月15日に開催された勅使・東久世通禧とそれに随う伊藤や陸奥ら外国事務局有司と、6カ国公使らとの会談の様子を知る前に、なぜこんなに手際よく、列国が事件発生のその日のうちに、神戸を占領し諸藩の艦船6隻を拿捕、略奪するに至ったのか、その背景を一瞥しておきたい。
直前、慶応4年1月3日始まった「鳥羽伏見の戦い」は、幕府軍の敗色濃厚で、小姓に身をやつした徳川慶喜と会津藩主松平容保、その弟である桑名藩主松平定敬、老中板倉勝重ら一行は、前述したように1月6日夜半大坂城を脱走、天満八軒家から新門辰五郎らの手引きによって川舟に乗り大阪湾天保山沖に漕ぎ出した。
このとき大阪湾には兵庫から大坂にかけて英米仏蘭等併せて18隻の外国船が遊弋あるいは投錨しており、そのうち商船は1隻のみで、他は全て軍艦であり、その中の1隻がアルフレッド・セイヤー・マハン少佐(27歳)が副(艦)長を務める前記アメリカ軍艦イロコイ号であった。前章(第六章)で述べたように、18隻もの軍艦の配備は言うまでも無く、風雲急な京阪神の情勢に対応して、万一の場合に自国民(欧米人)を救出するためである。
一方、オランダ渡来の徳川幕府最新鋭軍艦「開陽(榎本武揚艦長)」を初め、薩摩藩その他諸藩の軍艦も同じく18隻、同海域に遊弋するという状況であった。余談ながら、1月7日早朝、イロコイ号水兵によって短艇に乗せられた徳川慶喜一行が幕府軍艦・開陽に送り届けられた時、開陽艦長・榎本武揚は、鳥羽伏見の戦況視察に上陸していて不在であった。艦長不在では出港できないと同艦副長・澤太郎左衛門は主張したが、必死に逃げてきた将軍一行に威圧的に押し切られて江戸へ向ったのである。
本題に戻ると、弾に当りはしなかったが、自分たちの頭上に銃弾が飛んできたことに激怒した英国公使パークスが、早まって(あるいは意図的に?)前もって打ち合わせ済みの信号を英国領事館から発し、これを受けたイギリス海軍クーパー中将(英国極東艦隊司令官)が神戸在港軍艦(英、米、仏、蘭)に出動命令を出した結果の、極めて迅速な「神戸占領」という事態であった。記憶すべきは、前述したロシア海軍対馬占領事件(第2章第2節)において自ら対馬に赴き、ロシア軍艦ポサドニック艦長ビリリョフを面と向って糾弾し、対馬から退却させたのもこのクーパー中将である。
1月11日に事件が発生してから、12,13,14の3日間、神戸の街を占領され、諸藩の艦船6隻も拿捕されている非常事態に、維新政府は鳩首対策に腐心し、前述した1月15日の神戸税関における勅使・東久世通禧と6カ国公使との歴史的初会見となったのである。
この会見において、各国公使は直前の神戸事件を再三に亘って追求し、「備前乱妨ノ事ニ及テハ、談スルモ怒ニ堪サル次第ナリ、況ヤ、各国公使ニ対シ砲発ノ事情等、全ク文明ノ国ニ於テ有ル可ラサルコトナリ」と憤慨したが、これに対して勅使・東久世は、「此処置ハ各国ノ公論ニ任セ、且ツ 天皇ノ親裁ヲモ受ク可シ」と、外国の要求を受け入れ、天皇が自らこれを親裁すると答えたのであった。
威圧的、高圧的な態度の外国側はこれでは満足せず、備前藩の所業は下賎の者の仕業ではなく、家老たる身分の者の所業であり、今、各国が神戸警衛の兵を解散した後、日本政府(維新政府)が守ることになっても同じような事が起こる心配はないのか、と追求した。これに対して東久世は「今日当所警衛ノ事、薩、長両国ニ命ス」と答えた。各国公使は更に、「それでは今後、如何なる事が起ころうとも天皇の政府が引き受けていただけるか」とたたみかけた。東久世が「もちろん」と答えると、各国公使は、「以後もし違約等の事が起これば、貴国の一大事となろう」と圧力をかけたという。これに対して東久世が、諸藩の蒸気船拿捕のことはいったいどういうわけか、と聞くと、公使は神戸事件が起きたときは明治政府の布告もまだ出ていなかったから抑留したが、しかし、今日より万事新政府がお引き受けとなれば、早速返却すべしと答えたという。
かくして列国は、徳川幕府ではなく明治新政府が今回の事件で責任をとることを確認し、外国人の安全を保障することを条件として、神戸の占領軍を撤退し、抑留している諸藩の船舶6隻を返却することにした。
一方、「神戸占領」という非常事態に直面している維新政府は、なんとか事態を切り抜けるために列国に全面謝罪し、1月16日に列国側が文書を以て要求したとおりに、発砲命令を下した責任者を遅滞無く死罪に処し、これに列国側を立ち会わすことを容認するという方向に向う。
ところが、相手方を殺傷していないのに、こちらは死罪ということには当然異論が出て、1月17日から明治新政府(朝廷)あげての議論が3日間繰り広げられたが結論は出ず、もはやこの上は主上(天皇)の御英断のほかはない、ということになった。そしてついに1月20日、備前藩に対して明治新政府は、「神戸事件ハ公法ヲ以テ」処置し、責任者を処罰する旨を通告したが、備前藩は非が外国側にあることを知っているだけに、容易に説得に応じなかった。そもそも備前藩にとって、神戸における突発事件(フランス水兵による挑発)は、鳥羽伏見の戦いに徳川方に味方した尼崎藩を牽制するために、明治新政府(朝廷)に命じられて摂津西宮(現西宮市)の警備に赴く途中の出来事であった。責任者とされた砲術隊長・瀧善三郎は、彼の制止によって一旦引き下がったフランス水兵がピストルを持ち出して来たのを見て、「鉄砲、鉄砲」と叫んだだけであった。その瀧が事件の全ての責任を負って割腹するという流れになってきたのである。
このような動きの中で岩倉具視は、備前藩主・池田茂政に対して手紙を送ったが、その中で岩倉は、先帝(孝明天皇)の攘夷思想を遵奉していたため今回の挙となった、と一応感心するふりをする。だが続いて岩倉は、その後形勢が一変し、当今は万国並立し外夷の国も九州四国と同じくなったから、瀧が外国のために死ぬのはいかにも残念であるが、やむなく公法によって処断されることになったと述べ、結局、朝廷のため、国のため、備前のため、日置のためを思って怨まずに瀧が死んでくれるよう諭した。更に岩倉は如何にも苦し紛れに言い足して、いはば、これは馬上の討ち死に、忠臣といわれるべき者の死であると思って、瀧に責任者として死ぬことを要望している。
議定と参与を兼務する明治新政府の中心人物の一人である岩倉具視からの備前(岡山)藩主・池田茂政への要請は、家老・日置帯刀に伝えられ、瀧の兄・源六郎と篠岡八郎(瀧の出征中の同室者)を含む7名が、瀧善三郎に対して、発砲命令を下した者として責任をとり割腹するよう説諭することを託されたという。当時32歳の瀧善三郎正信は、小野派一刀流の剣と槍を修得、砲術にも通じ、和歌を好む人物であった。結局、瀧は慶応4年2月9日夜11時30分、神戸の永福寺において内外の検証者の目前で、立派な最後を遂げた。
外国側検証人はクリートン(米)、ミットフォード(英)、サトウ(英)、ハンデルフォー(仏)、クレントジース(蘭)、サベース(伊)、ハール(プロシャ)の7名、明治新政府側検証人は、伊藤俊輔、中島作太郎と宇和島公(議定・外国事務総督・伊達宗城)代理人の3名であり、外に薩摩藩から2名、長州藩から2名が立会い、前記篠岡八郎が介錯した。
その凄絶な情景は、明治33(1900)年フィラデルフィアで出版され、間も無くドイツ、ポーランド、ボヘミア、ロシア、イタリア、スウェーデン、ノルウェー、インドなどの諸国で次々と出版されて世界的ベストセラーとなった新渡戸稲造の歴史的名著『BUSHIDO:The Soul of Japan』の中でも紹介されて世界中の人々に克明に伝えられた。忘れてならないのは、瀧善三郎は単に主君に忠義を尽くすという個人の倫理や勇気を示したばかりでなく、王政復古による情勢一変を知らなかったことを自認した上で、割腹したことである。
瀧善三郎の壮烈な死を見事な英語で世界の人々に知らしめた新渡戸稲造は、大正9(1920)年、東京女子大学初代学長の座にあったが、第一次大戦後発足した国際連盟の事務次長6名の一人に任命され、妻メアリーを伴いスイスのジュネーブに赴任し、洗練された英語で見事な活躍をした。足かけ7年の間ジュネーブに滞在した新渡戸が、公務の合間にヨーロッパの著名な新聞や雑誌に寄稿した英文評論は、その論旨の高遠と筆致の巧妙とによって、新渡戸稲造をヨーロッパ論壇における大家の一人に押し上げた。ノーベル文学賞受賞者は現われたが、「彼らの言葉」で、このような活躍をした日本人は、その後見当たらない。10歳代から心理学、農学、経済学あるいは数学や化学、土木工学も全て英語で伝授された「札幌農学校4年間の教育」が、その世界レベルの活躍の原動力となったのではないか。蛇足ながら付言すれば、明治9年8月14日、日本政府に招聘されて来日したマサチューセッツ農科大学学長ウィリアム・クラーク博士を教頭(副校長)に迎えて、校長・調所広丈(開拓使小判官)の下に開校式を行った開拓使付属札幌農学校は、修行年限4年、卒業後は北海道内に居住して5年間開拓使に奉職することを条件に全額官費で、生活費も支給される学校であった。学長としての1年間の休暇(賜暇)を利用して来日したクラークは、教頭兼農場長として8ヶ月間、自らの専門である植物学や聖書について講義を行い、学務を取り仕切って、明治10年5月アメリカに戻った。日本は西南戦争の最中であったが、クラークの後任の教頭にはクラークに伴われて来日したウィリアム・ホイーラー(27歳前後)が就任し、第2期生として入学した新渡戸稲造(15歳)は廣井勇、内村鑑三、宮部金吾らと共に明治12年末までホイーラー教頭(数学、土木、英語担任)の薫陶を受けたのである。その熱い師弟関係は、同じ頃、東京大学文学部第2期生(同期6名)として、政治学、理財学(経済学)を専攻して卒業した講道館柔道創始者・嘉納治五郎とその指導教官アーネスト・フェノロサ教授との関係を想起させるものであった。<続く>