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日本を変えた出会い―英学者・何礼之(が のりゆき)と門弟・前島密、星亨、陸奥宗光―     

日本橋郵便局通用門の前島密像

ここ神田錦町(旧護寺院原)の幕府開成所が東京大学に

ここで日本で初めてベースボールが伝えられた
2012年06月01日(金)
道場主 
[東京都]
千代田区、中央区
神田錦町〜大手町〜日本橋
T フェートン号事件

1808年10月4日(文化五年八月十五日)、イギリス海軍のフリゲート・フェートン号がオランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎に入港した。
フェートン号艦長フリートウッド・ペリューの父エドワード・ペリューは、ナポレオン戦争時に勇気と指導力を兼ね備えた「イギリス海軍士官の模範」と賞賛され、海軍軍人としては最高位の連合王国海軍中将に昇進、初代エクスマス子爵にも叙された人物であるが、その次男であるフリートウッドは、部下に対して過酷に過ぎるところがあり、そういう性格を疎まれてか、長期間、海上勤務から外されることもあったという。
そのフリートウッド・ペリューが指揮するフェートン号を、オランダ船と誤認した出島のオランダ商館員ホーゼマンとスヒンメルの2人が、慣例に従い長崎奉行所の検使(積荷を監視する検閲官)2名、オランダ通詞1名らと共に出迎えのため小船に乗り、フェートン号に乗り着けようとした。
とこらが、フェートン号から降ろされたボート(短艇)に乗ったイギリス水兵によってオランダ人両名は身柄を拘束されてフェートン号に連れ込まれ、検使2人と通詞は船ごと追い返されてしまった。
フェートン号にはオランダ国旗に代わるイギリス国旗が掲げられ、さらに艦から降ろされたボート(短艇)は、拿捕すべきオランダ船を求めて長崎港内の捜索を始めるとともに、人質の一人を上陸させ薪水や食料(米、野菜、肉)の提供を要求した。
長崎奉行・松平康央は、湾内警備を担当する佐賀藩、福岡藩にフェートン号の焼き討ち、あるいは拿捕を命じ、大村藩などにも派兵を促したという。
ところが長崎警衛担当の佐賀藩が太平に慣れて、守備兵を通常なら1000人は配置すべきところをわずか150名程度に減らしていたことが判明する。
翌10月5日、イギリス側は残りの人質を釈放すると同時に欠乏食料の供給を求め、供給が無い場合は湾内の和船、唐船を焼き払うと通告した。
攻撃能力を持たない長崎奉行は、やむなく要求を受け入れて食料や飲料水を提供し、オランダ商館も豚と牛を贈ったという。
翌々10月6日、フェートン号は港外に去ったが、手持ちの兵力もなく侵入船の国禁を犯す不法な要求に応じざるを得なかった長崎奉行・松平康央は、切腹した。
同時に、勝手に兵力を減らしていた佐賀藩の責任者2人が切腹し、幕府は、長崎警備の任を怠ったとして佐賀藩主・鍋島斎直に100日間の閉門を命じた。
藩主閉門(閉塞)100日の間、佐賀藩全体の謹慎ぶりは徹底していた。
佐賀城下の家々は全て戸を閉め、人々はひげや月代を剃らず、領民全員が100日間、あたかも喪に服しているようであった。
謡、乱舞、鳴物、作事(建築)から油搾、綿打ち、鍛冶、桶屋、店売、触売等々、音や声を出す行為は全て禁止され、社寺の祭礼、法事等の集会も禁止となり、その上、佐賀領民の他国旅行のみならず、他藩の領民が佐賀藩内に入ることも禁止された。
触れ売り、店売り、市(市場)の禁止は商人たちを路頭に迷わせ、藩当局は補助金を交付して彼らを救済するところにまで追い込まれた。
こういう屈辱を味わった佐賀藩は、次代藩主・鍋島直正の下で近代化(西洋化)に注力し、幕末において最も近代化された藩の一つとなる。
長崎警備を共に担当していた福岡藩と共に、いち早く牛痘ワクチンを輸入した佐賀藩は、当時は不治の病とされていた天然痘を根絶する先駆けとなった。
1849(嘉永2)年、日本最初の製鉄所を完成させ、1852年には反射炉も稼動させた佐賀藩は、
1853(嘉永6)年、幕府が大船建造の禁を緩和するとオランダに軍艦を発注、領内に三重津海軍所を設置して、1865(慶応元)年には日本最初の実用蒸気船「凌風丸」を進水させるレベルにまで到達した。
藩主・鍋島直正(閑叟)を先頭に、佐野常民、島義勇、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信ら「佐賀の七賢人」と称される人々以外に、久米邦武、田中久重(福岡から招聘された天才的技術者)ら、明治日本の近代化に異彩を放った佐賀藩の人々であった。
第10代藩主・直正(閑叟)が率先して藩政改革や西洋技術の摂取に努めた佐賀藩は、大掛かりなリストラによって、役人を三分の一に削減することに成功したという。
更には農民の保護育成、陶器、茶、石炭などの産業育成や交易に力を注いだ結果、藩財政は潤って、佐賀藩は幕末雄藩の列に加わり、とりわけ明治新政府中枢において、近代的施策を担う高い見識と能力を持つ人材を、数多提供した。
優れた人材こそ財産であると考えていた藩主・鍋島直正は、藩校「弘道館」には藩士の全てを入学させ、儒学、武道のほか、選択科目として地理、物理、数学といった洋学を学ばせた。
しかも、その藩校を25歳までに卒業できない場合には、家禄の8割が没収され、お役目も取り上げられるという徹底した教育が行われたのである。
正に「禍を転じて福となす」智恵を生かした佐賀藩の姿を浮き彫りにした「フェートン号事件」であったが、このフェートン号事件以後、1817(文化14)年までおよそ10年、長崎にオランダ船の入港はなく、気の毒なことに出島のオランダ商館長ズーフに対して、オランダ東洋貿易の拠点バタヴィア(現在のジャカルタ)からは何の音信もなく、ズーフは7年間日本に放置されてしまった。
どうしてズーフはそんな目にあってしまったのか。
実はフェートン号事件の直前、ヨーロッパではフランス革命戦争が勃発して、その結果蒙ったズーフの悲運であった。
1793年、ズーフの祖国オランダはフランスに占領され、盛名を誇ったオランダ東インド会社も1798(寛政10)年には解散し、1806(文化3)年、ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトがオランダ王国(ホラント王国)国王に就任した。
これに遡ることおよそ100年(1688年)、イギリスに侵攻して名誉革命を成し遂げ、イギリスとオランダを連合(合体)させたオランダ人ウィリアム3世に阻止され、達成できなかった太陽王ルイ14世のオランダに対する野望は、皮肉なことに、ナポレオンが指揮する「フランス革命軍」によって、この時ついに成就されたのである。
余談になるが、「戦争による領土拡張、国威発揚」を生きがいとして、「並び立つ者なし」を座右銘としたルイ14世は、「世界貿易を支配する小癪な商人(あきんど)の国オランダ」を征服するどころか、英蘭連合軍を率いた初代マールボロ公爵ジョン・チャーチルにより1704(宝永元)年8月13日、ドイツにおける「ブレナム(ブレンハイム)の戦い」において鉄槌を下され、逃げようとしてドナウ川で溺死した数千のフランス兵を含めてフランス・バヴァリア連合軍の死傷者は2万を超え、1万4千が捕虜となった。
ブレナムの敗報が届いた時、ルイ14世は曾孫の誕生祝の最中で、凶報をルイに伝える勇気ある者は彼の臣下にはいなかったという。
その上、フランス・バヴァリア連合軍司令官タラール元帥は捕虜となって、ヨーロッパ大陸の深奥400キロもの地点(ドナウ河畔)から、延々イギリスにまで連行されるという屈辱も味わった。
ヨーロッパに猛威を振るったルイ14世の鼻をへし折った「ブレナムの戦勝」は、英国史においてはかっての「百年戦争」におけるクレシー、ポアチェ、アジャンクールの戦勝に匹敵する栄光の地位を占めるとされ、狂喜したアン女王と議会によってジョン・チャーチルに与えられたブレナム宮殿は、「英国史上最高の恩賞」と称されている。
オックスフォードの北西12キロ、ウッドストックの地にある同宮殿は、部屋数200余り、とりわけそのお屋敷(敷地面積)は、東京23区最大の世田谷区を上回る広大さを誇り、分家の出であるウィンストン・チャーチル元首相はここで誕生した。
1987年に世界遺産に登録されたブレナム宮殿には今、世界中からの観光客が絶えることがない。
王弟ジェームズ(後の国王ジェームズ2世)の小姓から身を興したジョン・チャーチルが軍功によって初代マールボロ公爵にまで上り詰め、現在その子孫(第11代マールボロ公爵ジョン・スペンサー=チャーチル氏)が所有する世田谷区より広いお屋敷は、正に「世界帝国」イギリスならではの「世界遺産」である。
本題に戻ると、「ブレナムの戦い」からおよそ100年後のフランス革命戦争、ナポレオン戦争の結果、前述したようにナポレオンの弟がオランダ王位に就いて、世界各地のオランダ植民地は遂にフランスの支配下に置かれ、インドネシアのバタヴィア(現在のジャカルタ)も例外ではなく、そこの中国商人は、関係外のアメリカ船を雇うなどして交易を続けたという。
他方、自分の弟をオランダ国王に任命する前年、「フランス人民の皇帝」ナポレオンは、自らのイギリス上陸作戦を援護すべく、イギリス海軍によって行われているヨーロッパ海上封鎖の突破を自国海軍(司令官ピエール・ヴィルヌーヴ)に命じた。
無線電信が未だ発明されず、双方が敵主力艦隊の所在位置をめぐって神経を消耗する時代ではあったが、1805(文化2)年10月21日、イタリアに向けてカディス港を出港したフランス・スペイン連合艦隊27隻を追ったネルソン提督率いる英国艦隊33隻は、スペインのトラファルガー岬沖合いで開戦となった。
「英国は各員がその本分を尽くさんことを期待する」という有名になった信号旗を掲げ、ネルソンは自ら敵艦隊先鋒の進路をさえぎって、これを捕捉した。
戦闘の結果は、フランス・スペイン連合艦隊が20隻を拿捕され、1隻を爆破されたのに対し、英国艦隊は1隻も失わず、イギリス側の戦死400、負傷1200に対して、フランス側の戦死4000、捕虜7000という一方的なものであり、しかも捕虜7000のうちにはフランス・スペイン連合艦隊司令官ヴィルヌーヴ提督も含まれていた。
ヴィルヌーヴはイギリスに連行されたが、釈放され帰国した後に自殺したといわれている。
一方、周知のようにイギリス艦隊司令官としてのきらびやかな正装で旗艦ヴィクトリーに乗り込んでいたネルソンは、フランス艦隊旗艦からマスケット銃で狙撃され、背骨と肺を打ち砕かれて壮絶な死を遂げた。
勝敗が決してから3時間後に息を引き取ったというネルソンの遺体は、腐敗を防ぐためにラム酒に満たされた樽に入れられて、祖国に送られたという。
このトラファルガー海戦の圧倒的な勝利によって、以後100年、英国海軍は無敵の海軍として世界(七つの海)に君臨し、ネルソンの名前は英国で最も愛される名前(英国の歴史上最も人気の高い人物)となったのである。
こういう背景においてインドから東インドに進軍したイギリス軍は、1811年(文化8年)、オランダに代わりフランスが支配していたバタビア(ジャカルタ)を制圧した。
フェートン号事件以後オランダ船に代わり、上記のような経緯で七つの海を支配する制海権を握ったイギリス船が、その後頻繁(ほぼ毎年)に日本に接近するようになり、業を煮やした徳川幕府は、ついに文政8(1825)年、「異国船打払令」を発布するに至った。
その一方、フェートン号事件によって衝撃を受けた徳川幕府は、「満州語」と「英語」の必要性を痛感し、文化6(1809)年、長崎奉行所はヤン・ブロムホフを英語教師として選定、翌文化7年から当時英語の修習に従事していた16名の通詞の中から、岩瀬弥十郎ら5名を抜擢して専ら英語教育に当らせるようになったという。



U 英学者何礼之(が のりゆき)と長崎英学の興隆


U−1 唐通事(からつうじ)・何礼之(が のりゆき)、英語独習から達人への道

1840(天保11)年、長崎西上町において、清国との貿易事務に当る家柄(唐通事)に生まれた何礼之(が のりゆき)は、天保15年には5歳で家督を継ぎ、以後10年、みっちり「唐話」を修習して安政元年(1854年)、14歳の頃には清国語をマスターしたという。
ところが、この頃既にロシア、フランス、イギリス、アメリカ等の軍艦が頻繁に日本に来航するようになり、時勢に敏というべきか、独学で英語の学習を志した何礼之は、唐人から取得した英華辞書、華英辞書によって発音、文法を独習した。
何礼之が拠り所としたのは、清国に渡来した最初のプロテスタント宣教師ロバート・モリソンによって編纂され、1815年から1826年にかけて3部6巻に分けて出版された『華英・英華辞典』であるという。
そうこうする内に安政5(1858)年12月、長崎奉行・岡部駿河守長常(後に軍艦奉行)は、何礼之(18歳)、平井義十郎(19歳)、太田源三郎(23歳)ら3名を含む5名の唐通事に、長崎新地前の「英人止宿所」に滞在する「英船乗組支那人」に就いて英語を学習することを命じた。
実は、この年7月、すなわち日米修好通商条約調印の翌月、長崎岩原屋敷内の奉行支配組頭・永持亨次郎役宅に「英語伝習所」が開設され、蘭通詞楢林栄左衛門、西吉十郎が頭取となって、幕臣、地役人子弟らの英語教育がはじまったのである。
「伝習所」には在長崎のオランダ人ウィッヘルス、同デ・フォーゲル、イギリス人フレッチェルなどが相ついで教授嘱託となり、英語学校としては充実して、この英語伝習所開設以降が長崎の「幕末英学」となるのであるが、その英語学習に多大な貢献をしたのが本編の主人公・何礼之である。
「唐話」の修行を積んだ何礼之や平井義十郎ら唐通事にとっては、イギリス船に乗組んでいる支那人船員から学ぶ英語は、なまじの英語知識を有する日本人和蘭(オランダ)通事から学ぶよりは、発音其の他、学習上の大きなメリットがあったのではないか。
因みに安政5年12月から1ヶ月以内に長崎に寄航したイギリス船は6隻あったという。
続いて安政6(1859)年正月2日、大通事・鄭幹輔に引率された5人の唐通事が、長崎に停泊しているアメリカ船を訪問、そこでアメリカ人宣教師(医師)マゴオンに面会した。
この日から2週間、マゴオンによるアルファベット、発音から始まる英語教育を受けた5人の中に、何礼之と、同じく唐通事で何礼之より1歳年上の前記平井義十郎が含まれていた。
その上、何礼之は、マゴオンが去った後、出島の居宅等で英語を教えていたアメリカ人ウォルス(ウォルシュ)とも親しくつきあって英語を学んだという。
何礼之が自ら記した「履歴」に出てくるウォルスという名前は、長崎に来航して貿易業務を営んでいたニューヨーク出身のウォルシュ兄弟の弟ジョン・G・ウォルシュではなかったか。
ジョン・ウォルシュは、始まったばかりの日米関係の中で、ビジネスを営みながら無給で初代アメリカ合衆国長崎領事を務めていた。
1859(安政6)年4月下旬、長崎を訪問した駐日総領事タウンゼント・ハリスによって、そのような措置が採られたのである。
そして、この安政6年は、何礼之が本格的に英語を学び、次第に通訳、読書が上達し、終には両方とも自由にできる「英語の達人」となるのに決定的な年となった。
まず、前述した正月のマゴオンによる2週間の教育の後、5月には上海からアメリカ人宣教師リギンズが渡来、7月には後に立教大学の創始者となる宣教師チャニング・ウィリアムズが来日して、何礼之の英語学習に大きな弾みをつけた。
大学を優秀な成績で卒業した後、バージニア神学校へ進んだウィリアムズは、同神学校の同級生でイギリス生まれのジョン・リギンズと共に、卒業後、清国への伝道派遣をアメリカ聖公会に申し出て受理される。
1855年11月30日、ニューヨークを出港、南米リオデジャネイロ、オーストラリアのシドニーを経て7ヵ月後の1856年6月26日、上海に到着する。
上海に到着して4日後から中国語の勉強を開始したウィリアムズは、1年半後には日常会話どころか、「説教」まで中国語で行うほどに上達したという。
安政6(1859)年、「日米修好通商条約」の発効を受けて、日本にも宣教師を派遣することを決定したアメリカ聖公会はウィリアムズとリギンスに日本に向うよう指示した。
マラリアの療養のために早めの5月に来日したリギンスの後を追って、安政6年7月にはウィリアムズ(32歳)が来日し、二人は長崎崇福寺の境内に滞在することになった。
出島という小さな窓は開いていても、依然としてキリスト教禁圧下の長崎において、両名はいきなり布教(伝道)活動を展開することは出来ず、とりあえず長崎奉行の要請に応えて、6ヶ月に亘り8名の通訳官に英語を教授することになったが、その8名の中に、何礼之と平井義十郎が入っていたのである。
ウィリアムズは何礼之や平井義十郎らに英語を教える一方、いつの日かキリスト教が解禁される時のために熱心に日本語を勉強し、聖書や聖歌、祈祷書を翻訳していたという。
何や平井らとの英語の授業が、ウィリアムズにとっては、きちんとした日本語に接するよい機会でもあったのではないか。
そして、この年安政6年11月7日夜、長崎に到着し、8日には上陸して崇福寺に住むリギンズ、ウィリアムズに迎えられたのが、国籍を持たずアメリカから来航した宣教師ギドー・フルベッキである。
1859(安政6)年11月8日、長崎に上陸したフルベッキ(29歳)は、前述したリギンズとウィリアムズの出迎えを受けて日本についてのアドバイスを受け、住まいが見つかるまで彼らの崇福寺にある住居の一部を貸してもらい、毎日足を棒にして家を探し回ったという。
奉行所役人との厄介な交渉を乗り越えて、外人居留地からそう遠くないところに家を借りたフルベッキは、すぐに上海に待機している妻マリアに手紙を書き、1859年12月29日、家賃16ドルの家に妻を迎えることができた。
前年(1858年)4月18日、フルベッキはフィラデルフィアにおいてマリア・マニオンと結婚していた。
そして、キリスト教伝道の志に燃えるフルベッキ夫妻は、新婚旅行同然に1858年5月7日、同じく日本に向う宣教師S・R・ブラウンやD・B・シモンズらと共に商船サプライズ号でニューヨークを出港した。
サプライズ号は10月17日に上海に到着、そこでブラウン、シモンズは目的地である横浜に先行したのであった。
長崎の人々は外国人に親切で礼儀正しい上に、全く物怖じすることがなく、フルベッキ夫妻はこの家で近所の日本人とも自由に交際することができたという。
ニューヨークを出港以来、フルベッキは商船サプライズ号の船内で中国語と日本語の勉強を続け、長崎に到着してからも日本語教師を雇い日本語の勉強を続けたが、オランダ語、ドイツ語、フランス語、英語に堪能で語学の天才と言われていたフルベッキにとっても、異なる言語圏にある日本語の習得はそう簡単ではなかった。
前述のように年末押しつまって長崎の新居に落ち着いたばかりのフルベッキ夫妻であったが、程なくしてフルベッキは、先任のウィリアムズやリギンズのように、日本人武士を対象に英語を教え始める。
1860(万延元)年の春、8名来た受講希望者の中から、長崎奉行所の唐通事である何礼之と、同じく唐通事の平井義十郎、そして薩摩藩士であり西郷隆盛の従兄弟にあたる大山巌(後に元帥陸軍大将、元老)ら4名に限定して、フルベッキは自宅で英語の授業を始めた。
余談ながら、藩校造士館と演武館で文武に励み、槍術の奥義に達していた大山弥介(巌)は、この時(18歳前後)藩命によって長崎に遊学していた。
後に、その名をとって「弥介砲」と呼ばれる大砲を発明したように、大山は優れたエンジニアーでもあった。
この万延元年、フルベッキがニューヨークの長老派教会本部に送った報告書には、ムアヘッドの地理学14部、ウィリアムソンの植物学22部、代数学12部、代数幾何学12部、ムアヘッドの英国史2部、クリスチャン・アルマナック96部、上海通報34部、ハーシェルの天文学34部、ホブソンの医学書38部等々の書籍、パンフレットの大部分を武士階級に渡したと書き記されている。
これらの書物を買い求めにフルベッキの家にくる人々が数多いて、日本人の旺盛な知識欲、活字や情報への飢餓感をふまえ、フルベッキはニューヨークの本部に、英語で書かれた地理、地図、歴史書、さらに顕微鏡、地球儀、プラネタリウムなどを送付してくれるよう依頼し、その際、それらのものが、日本人と交際する場合に好都合であり、知識人を惹きつけ、自分たちが日本人に近ずくことも容易になることを強調していた。
来日して2年目となる1861年(文久元年)、フルベッキに英語を教わる者は、何礼之や平井義十郎ら前年から継続している長崎奉行所通詞3名以外に、諸藩の藩士として英学研究のために來崎した4名が新たに加わって7名となったという。
あらゆる機会を捉えての外人との活発な交流と、集中的な学習とによって、何礼之は持ち前の学才を遺憾なく発揮し、通訳、読書を自由にこなす若くして一人前の英学者となる道を突進していた。
そして、そういう進取の精神が運を呼び込んだというべきか、安政6(1859)年6月、19歳の唐通事・何礼之は、日米修好通商条約によって箱館、横浜と共に正式の通商開始港となった長崎港の税関業務に従事を命ぜられた。
天凜の資質と、苦労して唐人から前記辞書を手に入れてまで独習した「英語」が役立って挙用されたのである。
余談ながら、当時の長崎には唐通事と並んで和蘭(オランダ)通事がおり、和蘭通事の中には前述したように英語に通じる者もあったが、唐通事の家柄に生まれた何は、和蘭通事に師事することを潔しとせず、敢えて英華辞書、華英辞書を突破口とする独学の道を選んだのであった。
日本語より中国語の方が英語の発音には有利なように思うのは筆者の偏見かもしれないが、何礼之のそういう英語独習方針が、かえってネイティブに近い発音を身に付ける近道だったのではないか。
そして、この年ばかりでなく翌文久2年においても、フルベッキは何礼之ら7名に対して、漢文と英文の聖書を与え、それを読んで比較対照させるという指導法を採っている。
これは、元々唐通事としての修行をみっちり積み重ねてきた何礼之や平井義十郎にとっては、願ってもない学習法ではなかったか。
この文久元年からの2年間のフルベッキ流学習法によって最も大きな恩恵を受け、通訳として、英学者として、長足の進歩を遂げたのが何礼之と平井義十郎であったことは疑いあるまい。
後述するように翌文久3(1863)年7月、唐通事何礼之と同じく唐通事平井義十郎が揃って、洋学所(英語伝習所、英語所、英語稽古所の後身)学頭に任命されたことが、その証しと言えよう。



U−2 ロシア軍艦対馬占領事件

何礼之がこのような経緯で一人前の英語通訳になる道を着実に歩みつつあった1861年3月1日午後4時頃、ロシア帝国海軍中尉ビリリョフを艦長とする汽走(蒸気)艦ポサドニック(乗員360名)が対馬に来航し、尾崎浦に投錨するという重大事件が発生した。
第一報はその日の夜には府中対馬藩邸に届き、夜分にかかわらず重役一同はただちに駆けつけて対策を講じたという。
翌3月2日、様子見の斥候を派遣するとともに、現地住民との衝突などの混乱を防ぐために警護隊19人を向わせた。
この日夕刻、ポサドニック号乗員は上陸し、郡奉行の宿所に「船が破損したため修理したい」と申し出たという。
3月3日、藩邸から派遣された大目付戸田某はポサドニック号に乗り込み、艦長室でビリリョフ艦長らとの最初の会談に臨んだ。
日本側は当初、漢文による筆談で問いかけたが、ポサドニック号には日本語を話す通訳アレクサンドル・ユガノフが乗船していて、ロシア側は船体修理のためしばらく対馬にとどまりたいという希望を正式に伝えた。
余談になるが敢えて付言すると、この時点で、ユガノフ以外にマレンドラ、カルリオニンというロシア人日本語通訳が既にプチャーチンの指示により、箱館ロシア領事館には配置されていたのである。
対馬藩首脳部は、翌3月4日ポサドニックの船体修理を許可すると決定して藩内に通達を出すと共に、江戸幕府に最初の報告を送ったが、それが江戸に着いたのは3月28日のことであった。
ところが藩内の攘夷論者から「藩の運命を賭してロシア人と断固戦うべきである」との突き上げがあって、対馬藩の方針はその後二転三転する。
この危機に、過去の政変に絡んで家老職を追われ、二十数年にわたって蟄居謹慎中だった仁位孫一郎(にい まごいちろう)が3月7日、家老職への復帰を命じられ、対馬藩の命運を担うことになった。
そうこうする内に3月27日、もう一隻のロシアの汽走軍艦ナイェーズドニク号(170人乗組み)が対馬に現れたが、同艦に乗り込んでいたのが、この対馬占領計画の首謀者であるロシア東洋艦隊司令官リハチョフ提督であった。
リハチョフは日本側に対してポサドニック号に食料を補給し見舞うために来たと告げ、翌日早々に退去したが、直後の3月30日、尾崎に停泊していたポサドニック号は錨を上げて浅茅湾の中をあちこち航行し、最奥の西の漕手に停泊した。
対馬藩は警衛の船を付けて監視させたところ、ポサドニック号は水鉄砲で汚水(屎尿?)を放ってこれを牽制したという。
翌31日朝、ポサドニック号から70人余りのロシア人乗組員が上陸し、日本側の制止を突破して杉や松14本を伐採して船に積み込み、4月4日、ビリリョフ艦長は談判に来た対馬藩の交渉役(問情使)に対して、大工12人と、船体修理に使う木材の供給を要求した。
要求が受け入れられれば、賃金や代金を払った上で、1ヶ月ほどで対馬から退去するとも言ったビリリョフの言葉を対馬藩は受け入れ、ロシア側も対価として50両を支払った。
ところが間もなく、ロシア側は芋崎に船をつけて作業場を作り、見張り所や船着場を造ったり、畑を開き、井戸を掘ったりし始めた。
4月20日、二度目の訪問にポサドニック号に乗り込んだ家老・仁位孫一郎に対して、ビリリョフ艦長は、「英国が対馬を攻撃して占領するとの噂があり、ロシアは日本を支援して英国の野望を阻止するため対馬にとどまりたいので芋崎を租借したい」と言明した。
とうとう尻尾を出したと言うべきか、対馬藩が「世界第一の国」と恐れるロシア(オロシャ)が、真の狙いを明らかにしたのである。
対馬藩は混乱状況に陥り、追い詰められた上層部には、以前からくすぶっていた移封論が台頭した。
対馬の領地を幕府に返上し、九州の他の領地をもらって移ろうという主張であり、領地・領民を投げ捨てての「逃げの一手」が、4月25日の評議で基本的に採択されてしまった。
そこに、そういう対馬藩内の混乱、紛擾に追い討ちをかけるような事変が発生する。
5月21日、ポサドニック号のロシア人乗組員18人が乗った短艇が大船越瀬戸の垣の仕切りを強引に通過しようとしたため、百姓らが石や薪などを投げて阻止しようとしたところ、ロシア側はこれに対して発砲し、百姓・松村安五郎が射殺された。
この時ロシア側に捕らえれた役人吉野数之助と、それを取り返そうとした実弟も拘束されポサドニック号に連行された。
これまで穏便な交渉によって、露艦の退去を勝ち取ることを第一義としてきた藩当局の希望を一挙に粉砕するような大船越の事変であり、藩内は騒然となり全面戦争の機運が高まる。
翌5月22日、藩論はついに決戦ということに決したが、火に油を注ぐように、この日の朝、ロシアの短艇3隻が大船越番所前に乗り付け、番所に入って役人3人を搦め捕り短艇に乗せ、同番所にあった鉄砲などを残らず奪い取り、その後民家に押し入って牛7頭を奪いポサドニック号に帰っていった。
その後、拘束、連行された者(捕虜)は加えられる陵辱に耐えられず、前記吉野数之助は舌を噛み切って自決したが死に至らなかった。
これに驚いたのか、ロシア側はすぐに捕虜返還の段取りにかかり、昼ヶ浦村駐在の役人に不意の出来事を口実としてポサドニック号に即刻乗船するよう強要し、脅迫されてやむを得ずポサドニック号に乗り込んだ津島藩役人の前に、足かせをした捕虜を連れ出し、悪罵を浴びせ髪を掴んで殴りつける等の暴行を加えた上で引き渡した。
非道な捕虜引渡しに対して、対馬藩役人は大事の前の小事と無念を呑み、恥を忍んでともかくも捕虜の引渡しを受けた。
怒って反発すれば、それを口実に兵站を開くロシア側の底意をありありと感じたからである。
こういう事態に激昂し、いつ暴発するか知れない藩内情勢に対して、藩主・宋義和は、家老、諸役の者、組備の頭から隠居に至るまで呼び出して、「忍びがたきを忍び、幕府から指図があるまでくれぐれも自重し、兵站を開かざるよう」と直喩し、同時に対馬藩は長崎奉行へ使者派遣を要請することになった。
長崎奉行の使者をしてビリリョフと交渉させ、一刻も早くポサドニック号の退去をかちとろうとしたのである。
長崎奉行・岡部駿河守長常は、藩主からしばしば使者または書面でロシア軍艦停泊の状況報告を受けており、しかも先に奉行の名でビリリョフ艦長に宛てて退去勧告の書簡を送ったにもかかわらず効果がなかったこともあり、ついに与頭・永持亨次郎、支配定役・兼松亀次郎らに対馬出張を命じた。
1861年6月8日、永持亨次郎以下奉行所吏員11人、家来6人、小者13人という構成の一行が幕府軍艦・観光丸で対馬藩庁所在地・府中に到着した。
この一行11人の中に4人の通詞が含まれ、その一人が本編の主人公・何礼之であった。
永持亨次郎一行は6月10日、12日、14日の3回にわたり、ポサドニック号にビリリョフ艦長を訪ねて談判を重ねたというが、既述のように、ロシア側には水兵上がりの日本語通訳ユガノフが乗り込んでおり、会談の進行は実際どのようであったのか、興味深いところである。
一方、徳川幕府は報告を受けて驚き、箱館奉行・村垣範正に命じてロシア総領事ヨシフ・ゴシケービッチにポサドニック号退去を要求させ、同時に外国奉行・小栗豊後守忠順を咸臨丸で対馬に急派して事態の収拾に当らせることになった。
1861年6月14日、目付・溝口八十五郎などを率いて対馬に到着した小栗忠順一行は長崎奉行所永持亨次郎一行と鉢合わせすることになり、以後の交渉を永持一行から引き継いだ。
電話はおろか無線電信もない時代で、江戸と対馬との連絡は最短で18日かかるという通信交通事情の下では、対馬藩と幕府、長崎奉行所間の連絡の行き違いはやむをえないことであった。
6月18日、小栗は艦長ビリリョフと会見したが、この第一回会談において、ロシア側は贈品謝礼を口実として藩主・宋義和への謁見を強く求め、小栗は謁見を許可する旨を回答し、6月21日の第二回の会談において、小栗はロシア兵の無断上陸を条約違反であるとして抗議したという。
小栗が指摘したように、既に日露両国の間には1855年2月7日、伊豆の下田長楽寺において、日露和親条約(日本国魯西亜国通好条約)が締結されていたからである。
その時の日本(徳川幕府)側全権は大目付格・筒井政憲と勘定奉行・川路聖謨であり、ロシア側全権はロシア帝国海軍中将エフィム・プチャーチンであった。
条約交渉はオランダ語で行われ、オランダ語・ロシア語条文から日本語・中国語条文が翻訳されたという。
本題に戻ると、対馬において1861年6月25日行われた第三回会談では、藩主謁見の実現を何度も求めるビリリョフに対して、小栗は約束を破ることになったら自分を射殺しても構わないとまで言い切ったが、翌々6月27日には対馬を離れて、上司(老中)との協議のためか江戸へ向った。
わずか14日間の滞在であわただしく対馬を離れ、ポサドニック号退去については何の成果も得ず、独断でビリリョフに対馬藩々主への対面を許した小栗は、7月27日には江戸に帰った。
そして小栗は間もなく病気を理由に対露交渉の役目を辞任し、ついで9月2日には外国奉行をも解任された。
小栗が江戸に戻り、再びロシア側の圧力の前面に立たされた対馬藩は、交渉に行き詰まり、ついに7月3日、ビリリョフ艦長との藩主謁見に応ずることになった。
ビリリョフはポサドニック号を府内に回航して部下を従え藩主・宋義和に謁見し、長滞留に対する謝礼として、短銃、望遠鏡、火薬および家禽数種を献上したという。
同時にロシア側は、この藩主謁見の後に改めて、芋崎から昼ヶ浦までの土地の永久租借を要求し、別の機会には、見返りとして大砲50門の進呈と軍備協力などを提案した。
軍備協力とは、この島を狙っている英仏海軍に対抗することを意味している。
これに対し対馬藩側は、その件は幕府に直接交渉して欲しいと回答して要求をかわした。
こういう騒ぎの中で8月2日と3日、駐日イギリス公使オールコックとイギリス海軍中将ホープが、幕府老中・安藤信正を自邸に訪ね、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去の提案をしてきた。
そのイギリスとロシアは、このロシア海軍対馬占領事件の直前に、バルカン半島においてクリミア戦争を戦ったばかりの緊張関係にあり、講和(パリ条約)はしたが、時間的にも双方未だ怨念も冷め遣らない関係にあった。
1853(嘉永6)年9月、まずブカレスト郊外のロシア前哨拠点をオスマン・トルコ軍が攻撃してロシア帝国とオスマン帝国が開戦した。
すぐに戦線は膠着状態となったが、11月に至り、黒海沿岸シノープにおいてオスマン海軍はロシア海軍によって壊滅的敗北を喫した。
ここで、これに関連し余談にはなるが、この時代(1850年前後)の軍艦を含めての世界の海運事情を一瞥しておきたい。
中国とヨーロッパの貿易を東インド会社が独占していた時代には、イギリスの「国民的飲み物である紅茶」は、製造、梱包されてから18ヶ月ないし24ヶ月かけてロンドンまで運ばれていた。
そういう時代には、最初に届けられたその年の「一番茶」は高値で取引され、それを運んだ船主や船長は莫大な利益と名誉を得ていたという。
ところが1840年の「アヘン戦争」を経て貿易事情も大きく変わり、1850年12月3日、アメリカの新鋭船「オリエンタル号」が、この年製造された1500トンの「新茶」を積み込んでロンドンに入港し、船価の3分の2に及ぶ莫大な運賃を一航海で稼ぎ出して、そのニュースはイギリス人に大きな衝撃を与えた。
そして、運送時間の短縮をめざす紅茶輸送のための快速船・ティークリッパーが、その後多数建造され、そのブームの終わりごろ建造されたのが今もロンドン近郊グリニッジに保存展示されている「カッティーサーク号」である。
蛇足ながら、アメリカで最も知られているスコッチ・ウィスキーの銘柄の一つが「カッティーサーク」であり、ラベルに見る如何にも高速が出そうな船型は印象的である。
外洋で高速が出せるよう、通常の帆船に比べて前後に細長い形状をしているティークリッパーは、港湾内では小回りが利かないはずであるが、それを可能にしたのが蒸気機関を備えたタグボートの普及であった。
そういう流れの中で、フランス海軍は1850(嘉永3)年に汽走90門戦列艦「ナポレオン」を、イギリス海軍は1852年に汽走91門戦列艦「アガメムノン」を、それぞれ就役させて、英仏を中心に蒸気機関を用いた汽走軍艦の広範な建艦競争が始まった。
本題に戻ると、1853年11月30日、ロシア海軍ナヒーモフ提督は、ロシア黒海艦隊を率いてシノープに停泊するオスマン艦隊を奇襲する。
戦闘態勢を取ることも無く、シノープの港に停泊していたオスマン艦隊は木造帆船で構成されており、蒸気艦(汽走艦)を中心とする黒海艦隊の攻撃にひとたまりも無かった。
この頃既に新聞が発達していた英仏両国においては、この戦闘は「シノープの虐殺」として報道され、世論が沸騰したイギリスはフランスと共にオスマン・トルコと同盟してクリミア戦争参戦を決意するに至った。
1854年3月28日、イギリス(アバディーン首相)とフランス(ナポレオン3世)はオスマン・トルコと同盟を結び、ロシアに対して宣戦布告をした。
イギリス陸軍は、ナポレオン戦争以来、第1次世界大戦に至るまでの100年間において、最初にして最後となる25万という大規模な大陸遠征軍を編成する。
因みに現在日本の陸上自衛隊員総数は16万弱である。
戦争の細かい推移を省略すると、ロシア軍最後の拠点となったセバストポーリ要塞に対して、英仏連合軍は塹壕を掘って包囲戦を展開する以外に手が無く、予想外の長期化により、戦死者よりも病死者が上回るという状況に、戦争を主導したイギリス国内にも厭戦ムードが漂いはじめる。
ロシア軍は英仏艦隊から直接セバストポーリ要塞を砲撃(艦砲射撃)されないよう、敵艦の射程距離外(港口)に黒海艦隊を自沈させ、陸上に設けた防塁には揚陸した艦載砲を設置していた。
前記シノープの海戦でトルコ艦隊を殲滅したパーヴェル・ナヒーモフ提督は、自ら指揮した同艦隊を自沈させた後、上陸してセバストポーリ要塞の司令官となっていた。
1802年生まれのナヒーモフは、サンクトペテルブルグの海軍幼年学校を卒業後バルチック艦隊に勤務、1822(文政5)年から3年をかけたフリゲート・クルーイセル号の世界一周航海にも青年士官の一人として乗り組んでいた。
海軍士官として順調に昇進し、前記「シノープの海戦」においてオスマン・トルコ海軍を殲滅した後、1854年、前任のウラジミール・コルニーロフ提督から引き継いで黒海艦隊司令長官に就任した。
結局1854年9月28日から始まったセバストポーリ攻囲戦は、1年近くも続いたが、最終的には、サルディニア王国が派遣した精鋭1万5千が英仏軍に加わり、3日間の総攻撃によって、1855年9月11日に要塞は陥落した。
そしてここで注目すべきは、日本からは遥か彼方のクリミア半島における戦闘が、絶東の小島である日本の運命に直接かかわっていたという、「国際社会の厳しい現実」である。
当時イギリス東インド艦隊司令官スターリング中将は、日本に接近を繰り返す前記プチャーチンの動向を監視し、1854((安政1)年5月、クリミア戦争の宣戦布告を知ると、自国の植民地であるインドと、清国、オーストラリアを繋ぐ商業線(交易ルート)をロシア艦隊の攻撃から守るために清国各地に分散していた自国艦隊を集結させるという措置をとった。
「シーレーンの防衛」は、21世紀の今日も忽せにできない国家の一大事であることに変わりはく、つい最近アフガン戦争に伴うアメリカ海軍によるインド洋のシーレーン確保に、日本は献身的貢献(給油活動)をしたばかりである。
クリミア戦争当時のイギリス東インド艦隊と太平洋艦隊は25隻の艦船を保有し、そのうち6隻は帆船ではなく蒸気機関を用いる汽走艦であったが、対するこの方面のロシア艦隊はわずか6隻、そのうち1隻は故障していたという。
一方この頃、イギリス太平洋艦隊とフランス太平洋艦隊は、共に南米ペルーのカヤオ港に停泊していたが、南米で名高い港湾都市であったカヤオには、ロシア海軍のオーロラ号も停泊し、イギリスからの長旅による損傷箇所の補修に追われていた。
1854年4月の時点で、 前年11月にロシア黒海艦隊がオスマン海軍を殲滅した「シノープの海戦」の事実は、各国海軍関係者には広く知られていたはずであるが、無線電信のない時代であるから、直前3月28日に英仏がロシアに発した宣戦布告のことを誰も知らず、カヤオ港内においてはロシアと英仏の間に敵対行動はなく、表面的には敵対的雰囲気すらなく、艦長相互による表敬訪問なども行われていた。
ところが1854年4月14日、オーロラ号が突然、英仏艦隊を出し抜くようにして出港したことを知ったイギリス太平洋艦隊司令官プライス少将は、同じくカヤオに寄港していたフランス太平洋艦隊司令官デポアント少将と共に、オーロラ号を追尾すべく出港した。
オーロラ号は一目散にペトロパブロフスク・カムチャッキーに向っていたが、プライス少将指揮下の旗艦プレジデント以下4隻と、デポアント少将指揮下のフランス軍艦4隻は、追尾するオーロラ号がカムチャッカではなく、アラスカへ向っているものと思い込み、しかもカムチャッカやサハリン(樺太)周辺の地理に関して全く情報を持たず、カムチャッカ半島におけるロシアの拠点ペトロパヴロフスクの名前すら知らなかったという。
蛇足ながら付言すると、この頃アラスカはロシアの領土であり、今アメリカ合衆国最大の面積を占めるアラスカ州は、南北戦争後の1867年3月30日、ロシアから買い取られたものである。
更に付言するとクリミア戦争の時代、イギリス海軍もサハリン(樺太)が島であることを知らず、半島であると認識している程度で、日本を含めてこの地域は、言わば世界の辺境であった。
他方、ペトロパヴロフスク守備軍司令官サヴォイコ中将は5月の末には、アメリカ駐在ロシア総領事からクリミア戦争宣戦布告の情報を入手し、すぐに指揮下に7個大隊を配置、自然の要害を利用して港の防御体制を整え始めた。
これに対してイギリス・フランス連合艦隊は、追尾するオーロラ号の艦影を見失い、時間を空費してサヴォイコ中将に時間を与えてしまった。
一方ロシア海軍フリゲート・オーロラ号は、カヤオ港における大わらわの修理の甲斐あってか、66日かけて太平洋を無事に帆走、6月のうちに戦闘準備に追われているペトロパブロフスクに入港した。
同艦の将卒300名と44門の大砲は、防御体制を整えるロシア守備隊にとって大きな力になったという。
8月30日、英仏艦隊は防御準備が整ったペトロパヴロフスクに攻撃を開始したが、プライス提督が突然艦長室で自殺したため攻撃は中止され、翌日デポアント提督が艦隊司令官として海兵隊(海軍陸戦隊)と水兵によって上陸戦を試みたが、反撃されて失敗した。
再度9月4日、700名の兵力で上陸作戦を敢行した英仏軍は、ロシア軍の巧妙な防御作戦によって200名を失い、海上に撤退した。
日本とは大きく異なり、とうの昔から言論の自由と新聞とが発達していたロンドンとパリでは、ペトロパブロフスク戦闘の報道に、人々は軍の無能を怒り、ペテルスブルグでは歓喜をもって迎えられたという。
翌1855(安政2)年5月、兵力を増強したブラウン提督指揮下の英仏太平洋艦隊が同要塞を再度攻撃した時、ロシア守備隊は4月のうちに雪の中を脱出していて、要塞は、もぬけの殻であった。
ナポレオンに対しても、あるいは後のヒトラーに対しても、ロシアには「冬将軍」という強烈な味方がいたのである。
カムチャッカ半島を巡るロシア軍対英仏連合軍の、こういう戦闘から6年後に発生した「ロシア海軍対馬占領事件」に対して、イギリスが黙っているわけがなかった。
対馬では5月以来、連日のように「異船出来」の警報が藩庁に入り、英艦、露艦がいりみだれて対馬沿岸を遊弋するという状況であった。
そしてついに、前述した1861年8月2日と3日に亘る駐日公使オールコックとイギリス海軍中将ホープによる申し入れを、徳川幕府は受諾したのである。
早速8月15日には、イギリス東インド・中国艦隊の軍艦エンカウンターとリングダヴ2隻を率いたホープ中将が長崎奉行所通詞・品川藤十郎を伴い対馬に到着し、ビリリョフ艦長に質問状を突きつけ対馬における軍事行動に対する厳重抗議を行う一方、老中安藤信正は再度、箱館奉行・村垣範正に命じて江戸に来ているロシア総領事ゴシケービッチに抗議を行わせた。
ロシア総領事ゴシケービッチは、イギリスの干渉を見て形成不利と判断し、ロシア東洋艦隊司令官リハチョフ提督に書簡を送った。
リハチョフは自らの企図(野望)が挫折したことを悟り、軍艦ヲフルチニックが対馬に急派されてポサドニック艦長ビリリョフを説得、1861年9月19日、軍艦ポサドニックはついに対馬から退去した。
「百、千の外交文書より一発の弾丸」という言葉があるが、対馬に回航したイギリス軍艦2隻が、問題を一挙に解決したことになる。
文久元(1861)年10月、小栗の後任である外国奉行・野々山兼寛らは対馬に渡航し、箱館談判の決議にもとづいてロシア海軍の造営物を破壊し、そこに使われた資機材を長崎に保管した。
以上、こと細かくロシア軍艦による対馬占領事件の推移を述べたのは、そこに今日の日本が直面する国際問題と共通する諸々の要素が、典型的に網羅されているからである。
この事変によって対馬士民は、対馬藩の無力、とりわけ徳川幕府の無力を思い知ったのではないか。
そして敢えて付言すれば、七つの海を支配する大英帝国の初代駐日公使オールコックやホープ海軍中将が徳川幕府を助けたのは、当然のことながら、「正義人道」のためではなく、対馬士民を哀れんでのことではなかった。
ラザフォード・オールコックは、その日記において次のように述べている。
 
 西洋諸国、とくにわれわれ(イギリス)は、東洋に大きな権益をもっており、日本はその東洋の前哨地である。われわれには維持すべき威信と帝国があり、さらに巨大な通商を営んでいる。日本がこの通商の額を増大するために貢献できる程度は、大して考慮するにあたいしないであろう。しかしながらいったん日本と条約を結びながら、それ以上のいっさいの関係をやめて後退する―それも暴力と脅迫に屈して後退する―ようなことができるかどうかは、不幸にも、日本だけのことを考えて決定しうる問題ではない。対日貿易などはなくてもよいであろう。・・・・・
(オールコック著、山口光朔訳『大君の都―幕末日本滞在記―』岩波文庫、1962年)

鬼才バーナード・ショウ(『マイ・フェア・レディー』の原作者)は、その著書『運命と人』の中でナポレオンの口を借りて、「英国人は自己の欲望を表すに当たり、道徳的宗教的感情を以ってする事に妙を得たり。しかも自己の野心を神聖化して発表したる上は、何処までもその目的を貫徹するの決断力を有す。強盗略奪を敢えてしながら、いかなる場合にもその道徳的な口実を失わず、自由と独立を宣伝しながら、植民地の名の下に天下の半を割いてその利益を壟断しつつあり」と、イギリス人の一面を衝いている。
かくしてロシア軍艦対馬占領事件は一応落着したが、一件落着して長崎に帰った何礼之は、金三両の褒賞を受けたばかりでなく、外国人について通訳、読書が自由という、その「英語力」を珍重され、2年後の文久3(1863)年7月6日には、長崎奉行支配役格として正式に幕臣(長崎奉行所吏員)に登用された。
万延元年以来の恩師フルベッキの3年に亘る指導が実って、何礼之の学力(英語力)は飛躍的に向上し、抜擢されたのであろう。
しかも何は、同時に(7月11日)、同役の平井義十郎と共に英語稽古所の学頭(奉行所支配定役格として英語稽古所の事務並びに授業の担当官)に任命され、23歳にして英学者としての独立を果たした。
この年(文久3年)10月、英語稽古所改め洋学所において直試が行われ、受験者名簿には47名の名が挙がっていて、その中に薩摩藩士・上野景範の名も見出されるという。
上野景範は明治6年から明治12年まで特命全権公使としてロンドンに駐在した。



U−3 何礼之英学塾の設立

さて、この年も押しつまった文久3(1863)年11月中旬、何礼之は江戸幕府から思わぬ召命を受けた。
勢いを増した攘夷論の渦中で、幕府はいったん開港した横浜港を閉じるという苦し紛れの方策を打ち出し、そのための交渉に当時27歳の池田筑後守長発一行を欧州に派遣することになった。
若くして有能な池田長発は、既に火付盗賊改、京都町奉行を歴任し、この時外国奉行に抜擢されたばかりであった。
余談ながら、「鬼平」こと長谷川平蔵が火付盗賊改を勤めたのは、1787(天明7)年から1795(寛政7年)年までの8年間である。
若さ故の貧乏くじを引かされたような感じの、この正使・池田長発(ながおき)が率いる34名からなる第二回遣欧使節団、またの名を横浜鎖港談判使節団の一行に「通訳として随行」の命が、ほかならぬ本編の主人公・何礼之に下ったのであった。
23歳の何(が)のずば抜けた学力(英語力)が、長崎奉行を通じてか、幕閣にも届いていたと見える。
ところが運悪く、江戸へ赴く便船としての福岡藩のコロンビア号が機関の漏水等の故障を頻発して延着したため、使節団一行の横浜出港に間に合わず、何礼之は海外渡航の絶好の機会を失って、翌年(元治元年)早々むなしく長崎に戻ることになってしまった。
しかしながら、この事に関しても何は運が良かったというべきであろうか。
1863年12月、フランス軍艦モンジュに乗船して日本を出た池田長発一行は、上海、インドを経由してスエズから陸路カイロに向かい、ピラミッド等を見物しながら1864年3月マルセイユに入港した。
マルセーユのホテルではエレベーターが使用され、電信も普及している文明国の姿に、一行の中には同じ人間でどうしてこうも違うのかと、泣き出す者もいたという。
池田らはパリで皇帝ナポレオン3世に謁見し、その結果、徳川将軍に対してアラビア馬26頭が贈られ、幕府陸軍を訓練するためにシャノワン大佐(後年フランス陸軍大臣に就任)以下、フランス陸軍尉官級将校数名を派遣してもらえることにはなったが、横浜鎖港の要求は、にべもなく撥ね付けられ、使節団一行はイギリス等他の国に寄ることを断念して帰国の途につき、元冶元年(1864年)7月には江戸に戻るという顛末となったからである。
余談ながら付言すれば、実は池田長発一行がヨーロッパに向けて出立する5ヶ月前の1863(文久3)年7月2日、フランス軍艦セミラミス号において幕府と英仏の秘密会談が行われ、英仏軍隊の横浜進駐が決定していた。
前年9月に発生した「生麦事件」の結果と解釈することができよう。
決定に従い1863(文久3)年7月11日、フランス軍艦モンジュに乗ったフランス陸軍アフリカ大隊の2中隊が上海から横浜に到着、谷戸橋際の崖の斜面に、既に来日していた海兵隊(海軍陸戦隊)と共に駐屯した。
そして忘れてならないのは、「横浜租界」居留民保護のための英仏進駐軍が日本から出て行ったのは、明治8年のことである。
1875(明治8)年3月1日、リチャーズ大佐率いるイギリス海兵隊270名は、谷戸橋を渡り海岸通りをイギリス波止場へと居留民歓呼の中を行進し軍艦アドベンチャー号に乗船、次の任地南アフリカへ向った。
イギリス軍の後をフランス海兵隊100名が谷戸橋を渡って行進し、商船タナイ号に乗ってサイゴン経由で帰国の途につき、この日をもって12年に及ぶ横浜租界における英仏進駐軍の歴史に幕が下ろされたのである。
1945(昭和20)年8月、アメリカ進駐軍(占領軍)を率いたダグラス・マッカーサー将軍が、日本で最初の一夜を過ごしたのも横浜のホテルであった。
横浜・元町界隈で今、買い物や飲食を楽しむ人々は、こういう事を知っているであろうか。
さて、池田長発一行の通訳官を命ぜられながら、思わざる便船の事故によってむなしく長崎に戻ってきた何礼之は、長崎奉行所の事務や長崎洋学所(英語稽古所の後身)の学頭としての任務に従事しながらも、元冶元年(文久4年、1864年)春には、新たに英語教習のための「私塾」を自宅に開設するに至り、24歳の英学者・何礼之の名声を慕って短期間のうちに塾生は300余名に達したという。
ところが、江戸における福沢諭吉の「慶応義塾」に匹敵するとも評される何礼之のこの英学塾には、名前がない。
責任者(学校長?)何礼之が、その後3年で江戸幕府に招請されて幕府開成所教授並に就任し、長崎に居なくなってしまったことによると思われるが、もう一つの理由は、私塾とはいえ、この施設が准官立即ち准奉行所立でもあったせいではないか。
「慶応義塾」とか「適塾」あるいは「適々斎塾」とかいう名前はなくとも、何礼之の私塾には、優秀塾生が多数集まり、奉行所当局からも好評をはくして、翌慶応元年には長崎奉行・服部長門守常純(後に海軍奉行並、若年寄)から多額の財政的支援を受ける程になった。
塾舎 が手狭になった為、何礼之が自邸内の空地に新校舎を建設すべく、奉行・服部常純から得た援助(借用金)は、10ヵ年年賦で99両という大金であり、それによって慶応元年4月23日、私塾の新校舎は棟上げの運びとなったという。
驚くべきは、設立早々塾生300余の大塾となった何礼之の「私塾」に集まった人々が、高い能力を備えていた上に、ここで更にそれに磨きをかけ、多種多様な分野で、明治期日本社会の発展に決定的役割を果たす人々となったことである。
それらの人々については章を改めて言及したい。


                                         <続く>


郵便も 汽車も卸した フルベッキ