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発想の転換、「無用の用」の極致―嘉納治五郎によるイノベーション |
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T、投げ技、固め技、当て技のうち、当て技(当身技)の取り扱い 柔道の技術的方面は明治20年前後に至り略々完成の域に達した、と断言した嘉納治五郎は柔道修行の目的として、体育面と修身面を強調すると共に勝負面をも重視して、明治22年、次のような説明を行った。 「柔道勝負法とは、人を殺そうと思えば殺すことが出来、 傷めようと思えば傷めることが出来、捕えようと思えば捕えることが出来る。 又相手がその様なことを仕掛けてきた時、自分は能く之を防ぐことの出来る術の練習である。 要約すると肉体上で人を制し、かつ人に制せられない術といえよう。 その方法は投、当、固の三種類である。 その中の当とは、柔術で当身とも称した。 自分の四肢なり頭なりの一部で相手の全身の中で害を受けやすい部分を酷く突くなり、打つなりして相手を苦しめるか、一時気絶させるか、全く殺すかをすることである。 方法は多数あるが、自分の拳で相手の両眼の間を突くか、 胸部を突くか、胸骨の少し下の所を突くか、 足先で相手の睾丸を蹴るかするのが、最も普通の仕方である。」 こう説明した嘉納はその重要な当技を「乱取(試合形式)」ではなく、 「形」の練習形式によって身につける方針をとり、今日に至っている。 昭和2(1927)年、嘉納は門人に対して、 「当技を含めた乱取や試合は追々工夫もし、深く考究すれば、 その方法は無いでもあるまいと思うが、 唯それは投げたり抑えたりすることの優劣をきめる程、たやすくはない」と、答えている。 講道館創設後しばらくは、当技を多く含む天神真楊流の形をそのまま使い、「当技」の練習は「形」によって行われたが、入門者も増加した明治20年頃、講道館の当技として「真剣勝負の形」十三本を選定し、乱取とは別に指導するようになった。 次いで明治39(1906)年、大日本武徳会の委嘱により、嘉納が委員長となって戸塚英美(戸塚派楊心流)、星野九門(四天流)という武徳会両範師とはかり、諸流の柔術家を委員として、全国的に行わしめる「形」を制定する委員会が開催された。 講道館で行っていた「真剣勝負の形」十三本に七本を加えて、 居取八本、立会十二本都合二十本の原案を嘉納が委員会に提出、 僅かの修正を加えて翌年成立した。 これが「極の形」で当時の粋が盛られていた。 以後、当技は「極の形」を中心とする「形」による稽古でその技と理は教えられたが、 大正時代以降、一般の柔道修行者は、「乱取」に興味を持ち熱中するの余り、 「形」を閑却し、軽視する傾向が強くなって今日に至り、 投げ技、固め技の練習は修行者にとっての「本音の修行」として、 当身技の練習は修行者にとって「建前の修行」の域に止まっている、 と言っても過言ではないと思います。 U、嘉納治五郎による「イノベーション(技術革新)」の眼目 明治15年、嘉納治五郎が講道館柔道を創始するまでの在来の柔術家は、「形」のみをやるか、あるいは「形」を主体とした稽古に終始していた。 それでも、嘉納が学んだ天神真楊流と起倒流は、柔術の中では乱取にも重きを置く流派であった。 そもそも乱取は、明治維新の少し前から「残り合い」ということから行われ、それが発達して今日の乱取が出来たと言われている。 「残り合い」とは、約束事として順序方法を定めて「形」を行う場合に、もしも相手の技が利かぬ時には、わざと掛からない。 利きもしない技に,お義理に倒れてやるかわりに、反対にこちらから技を掛けるようにする。 それに対して相手も臨機応変の技を返すという仕方がこうじて、遂に現に行われている乱取となったのである。 昭和5年、嘉納は雑誌『柔道』に、「乱取練習は臨機応変の力を養い、心身を鍛錬し、勝負の方法を身につけるためのものであるから、この目的を達する為に効果のある仕方を選ばなければならない」として、その実施方法について、次のように具体的に教示した。 (1) 基本の姿勢は、自然体の姿勢でなければならない。 この姿勢は、最も変化し易く又疲れない姿勢である。 乱取の時は、互いにこの姿勢を以て相対すべきである。 (2) 投勝負に重きを置くべきである。 投勝負は、投の種類が最も多く、変化も多い。 それが体育上からも、精神修養の上からも、価値のある所以である。 乱取は、体育としても、武術としても、その目的に適うように練習せねばならない。 乱取は本来投技ばかりでなく、固技も練習すべきである。 決して寝技を閑却してはならない。 しかし多年練習する機会のある専門家は、両方にわたり練習することは出来るが、 特に深く柔道を学ぶことの出来ないものには、 両方を不十分に学ぶよりは、一方を比較的十分に学ぶ方が望ましい。 その場合は投勝負に重きを置くのである。 (3) 乱取は攻防術の練習であるから、その目的の達せられるように心掛けなければならない。 先方が真剣勝負のつもりで何時如何なる攻撃をして来ても、 不意を取らない備えを忘れないことが肝要である。 (4) 技術習得の順序として最初立技をならって、後に寝技を練習すれば、 両方共に出来るようになる。最初寝技を学ぶと、遂に立技を覚える機会を失い易い。 明治15年、嘉納によって創始された講道館柔道が、その後僅か数年にして柔術諸流と角逐して、天下統一に成功した最大の要因は、上記のように乱取を練習の中心に据えたこと、即ち乱取中心の稽古体系を確立したことにあった。 その乱取の中では、寝技よりも立ち技を重んじたこと、 とりわけ決定的であるのは、当身技を「形」として伝統の練習法の中に残し、 その上、手首その他に対する関節技は禁止して、 あくまで「投げ勝負」を徹底的に追求したことにあると思います。 換言すれば、効果的な「投げ技乱取」の為に当身技や関節技を取捨したことが、講道館柔道最大の成功要因であった。 V、近代スポーツ発祥の国イギリスの事情 ところで、1863(文久3)年10月26日、ロンドンにおける一つの会合の結果、蹴球(フットボール)は、足だけでボールを処理するアソーシエイション・フットボール(俗称サッカー)と、ラグビーとに分かれて、新たな近代スポーツとして誕生したことを知る人は少ないようです。 既に世界の工場として、七つの海に君臨する世界帝国として、1851(嘉永4)年には第1回万国博を開催し、その実力を世界に顕示したイギリスでは、名門パブリック・スクールを中心に「道徳教育」の一環として蹴球が盛んに行われていた。 ところが、その蹴球なるものは、イートン、ハーロウ、シュルーズベリー、及びウィンチェスターの各校では、1チーム11人の構成であったがチャーターハウスやウェストミンスター校では1チーム20人の構成で、その上ボールを手に持っての揉み合い(乱闘)も試合中に行われていた。 共通のルールはなく、対校試合に先立っては、人数その他どちらのルールで試合を行うかを長時間に亘って論議するのが通例であった。 余談ながら、当コーナー(2007年4月15日付)で取り上げた最初の早慶ボートレースは日露戦争中、日本海海戦の20日前、明治38年5月8日に行われたが、レース開催に至るまで両校漕艇部(端艇部)の間で延々8回も交渉が行われ、ようやく折れ合って双方の代表が「契約書」に署名した。 それ以前、2回に亘る早稲田からの「挑戦状」には、慶応は早稲田を「格下」として相手にしてくれなかったのである。 本題に戻ると、1860年頃のイギリスには、産業革命の結果世界一豊かな国となった成果として、パブリック・スクール出身の紳士たちによって、各地に続々と蹴球クラブが創立された。 丁度、日本における高度経済成長の結果、クラブ・チームが多数誕生してJリーグが発足したのと同じ構図である。 1863年10月26日、ロンドンでの会合に集まった11のクラブの代表達は、 「道徳教育の一環」として行われていたパブリック・スクール式の蹴球を世界の隅々にまで普及させようなどという高邁な動機ではなく、 「蹴球競技を規正するための規則を確立することを目的として、蹴球協会を組織するのが至当である」という動機で集まったのである。 この会合はロンドン周辺クラブの地域的なもので、主要なパブリック・スクールや地方有力クラブの代表は参加していなかった一方、ラグビー校出身者が少数参加していた。 設立されたばかりの協会(Football Association)は、会合を重ねて正式のルールを制定しようと努めたが、当初は、ラグビー派とサッカー派に分かれ、 ラグビー校出身者はボールを持って走ることばかりか、チャージング、ホールデイング、トリッピング、ハッキングをも認めよと主張し、他の人々はこれに反対した。 表決の結果はラグビー派の完敗に終り、彼らは蹴球協会(FA)を去って1871年にラグビー・フットボール協会(Union)を設立した。 1863年12月8日、FAによって最初のルールが決定され、1871(明治3)年、初めて全英選手権大会(FA Cup)が開催されたが、参加した15のクラブのうち14までがロンドン地区の紳士のクラブであった。 その後地方のクラブやイングランド以外の協会との接触を通じて、徐々にルールの修正、標準化が行われた。 因みに1873〜74年のシーズンに、反則に対するフリー・キックの規定が組み入れられたが、この時までは、「紳士は反則を犯さないという前提」で競技が行われていたという。 イギリスにおける蹴球の歴史は長く、既にエドワード3世の治世(1327〜1377年)を通じて農夫、職人、徒弟の間で蹴球に熱中する者が著しく増えたという。 正式なグランドなどは存在せず、街中で行われる蹴球では、羊の腸を膨らませたボールを追って敵味方の一団が、妊婦の寝ている部屋を駆け抜けていくような状況があちこちに見られた。 その結果、スコットランドその他との数々の戦争において、イングランドに名誉と、国王に優位をもたらした「イングランドご自慢の長弓(太弓)」の修練は怠り勝ちになり、 国防上の理由から、蹴球はその後何度も国王によって抑圧されることが多くなった。 フランスとの百年戦争における、英国史においての栄光の地位を占めるクレシーの大勝利、ポワティエの大勝利に、文字通り獅子奮迅の働きをしたのはエドワード3世の長男エドワード黒太子であったが、イングランド軍最強の兵器は、ご自慢の「長弓(太弓)」であった。 1555年、オックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジの学則の中に蹴球は、はっきりと名指しで「禁じられた競技(pila pedlic)」として現れ、1580年、オックスフォードの副総長と学寮長は、 「以後、各自の学寮(カレッジ−筆者注)の構内を除いては、いかなる場所、いかなる時においても蹴球をなすべからず、またいかなる部外者または他の学寮の学生を相手としてあるいは彼らと共に他の場所において競技をなすべからざること」という通達を出し、 1584年には、第三犯は除籍処分とされることになった。 そういうことになった理由は、一例を挙げれば、教会のポーチ等に棍棒を隠しておき、試合の最中に喧嘩を吹っかけ、隠しておいた棍棒を取り出して相手を殴るような、粗暴、野蛮、時には死者も出るような出来事が珍しくなかったからである。 試合後の飲食においての乱暴狼藉は蹴球には付き物のようなものであった。 あの「清教徒革命」の主人公オリバー・クロムウェルは、当サイト卓話室Uでも言及したように、 一年ほど在学したケンブリッジ大学シドニー・サセックス・カレッジにおいて、 蹴球、棍棒術、その他粗暴なスポーツや競技の主だった準備係および競技者の一人であったという。クロムウェルの棍棒術は、夢想権之助の杖術に比肩し得るレベルであったかどうか、想像するのは楽しいことである。 話を本題に戻すと、1863年10月26日から行われたFA即ちフットボール・アソーシエイション(蹴球協会)における論議は、ボールを手に持ち運んでよいかどうか、 一言にしていえば、手を使う型の競技を採るべきか手を使わない型の競技を採るべきかという点、 そしてまた、トリッピング、チャージング(相手に体当たりすること)およびハッキング(ボールを持っている相手の腕をたたいたり、脛を蹴ったりすること)を認めるべきかどうかという点を中心になされたのであった。 それらのことが認められないという規則は、ラグビー式競技の支持者にとっては余りに思い切ったものであり、受け入れられなかった。 因みに早大サッカー部の正式名称は、「早稲田大学ア式蹴球部」であり、ラグビー部のそれは、「早稲田大学ラ式蹴球部」となっている。 W、戦闘技術の競技化(スポーツ化)―嘉納治五郎の創意工夫(創造的破壊)と英断 前述したように嘉納治五郎は明治15年、講道館柔道を創始し、在来の柔術諸流の技術を取捨選択した上に、独自の新たな工夫を加えて、僅か数年の間に輝かしい技術革新(イノベーション)を達成した。 当サイト卓話室Tでも言及したが、その技術革新の成果を引っさげて明治21年、 警視庁武道大会における古流柔術最強の戸塚派楊心流との対決において圧倒的に勝利し、 全国に覇を唱えるに至ったのである。 明治15年以前の柔術諸流では、意外なことに、技は殆ど固め技、当身技に限られていた。 投げ技では僅かに千葉の戸塚派楊心流が大外刈、足払い等をよくするに止まり、 天神真楊流の巴投げ、起倒流の横捨身などがその流派の唯一の投げ技といってよい状況であったという。 嘉納はこれらの技は無論のこと、広く各流に渉って研究し、よい技は悉く採用した。 当時の主な流派としては、起倒流、天神真楊流、戸塚派楊心流、関口流、渋川流、竹内流、扱心流、良移心頭流などがあげられる。 嘉納が採用した古流の大外刈、大外落、足払、背負投、巴投、掬投、横分、朽木倒、帯落、釣腰などの技は、講道館において練成、洗練されて、後述するように各々の技のスピードと巧緻性が飛躍的に向上し、在来の技に比べて遥かに強力な(決定力のある)投げ技として生まれ変わった。 それらに加えて講道館独自の工夫による技が併せて発展し、古流諸派から「講道館の足」と呼ばれ恐れられた、「精妙な投げ技」が、数多く生み出され発展したのである。 写真に見るように講道館草創期の入門帳に最初に署名したのは、平民、山田(後に富田)常次郎、二番めは華族、樋口誠康(後に貴族院議員)、三番めは華族、有馬純文(外様大名ながら幕末老中を努めた越前丸岡藩主有馬道純の長男)であり、四番めは平民、中嶌玉吉、五番めは平民、松岡寅男麿、六番めは士族、有馬純臣、そして七番めが士族、志田(後に西郷)四郎であった。 東大を卒業したばかりの嘉納の学習院平教員としての月給80円と、翻訳その他、 嘉納が夜なべをして得るアルバイト料等を原資として、 入門料や月謝等を一切徴収せず、あくまで無料指導を原則として、 ただひたすら、「立派な人をつくる」ことを目的として、設立された講道館であった。 元日から大晦日まで1日の休みもなく、毎日数時間の稽古が行われた講道館では、 嘉納は自ら休むことをせず、数少ない高弟にも同じことを要求して、 厳しく集中的な練磨が嘉納を中心に数年間行われた。 この時代の門下生には、西郷四郎、山下義韶、富田常次郎、横山作次郎、戸張滝三郎、佐藤法賢、肝付宗次等々の面々、そして非専門家ながら嘉納塾塾生として、宗像逸郎、本田増次郎、湯浅竹次郎、田村克和、小田勝太郎、嘉納徳三郎、大島栄助らが高いレベルの柔道を探求し、外から講道館に通って来た者の中に広瀬武夫、川合慶次郎のような強豪がいた。 因みに、当時日本一と認められていた戸塚門との試合を制した講道館の選手の用いた技は、 殆どが足払、小内刈、膝車、大内刈、返し技などの小技であったという。 小技ではあっても、技のスピードと巧緻性において講道館は古流を凌駕し、「精妙な投げ技」が練成されていた結果であったと思います。 最近当コーナー(2010年7月10日付)で言及したように、 ここに名を上げた湯浅竹次郎、広瀬武夫は、共に日露戦争における旅順港閉塞作戦において壮烈な戦死を遂げた海軍士官であった。 明治23年秋の講道館紅白試合に出場した当時22歳の広瀬武夫は、そこで華々しい五人抜きを演じ、六人目と引き分けて終わった。 この試合で広瀬が功を奏した技は、小外刈、大腰、小内刈、内股、背負投、後腰、俵返、上四方固であったという。 前年8月に初段になったばかりの広瀬を、嘉納治五郎館長は直ちに二段に昇段させたが、これも、講道館の「実力主義」を象徴する出来事であった。 その「実力主義(具体的に参段、五段等、数字で表す)」によって、明治から大正昭和にかけて、磯貝一、飯塚国三郎、永岡秀一、三船久蔵ら数多の精鋭が輩出し、 その精鋭(トップグループ)が、京都その他全国主要の地に配置されて、 講道館の発展に大きく貢献したことを忘れてはならないと思います。 広瀬が二段に昇段した当時、講道館では富田常次郎がただ一人最高位の五段、山下義韶と横山作次郎が四段という状況であった。 明治32年4月には四段に昇段して、海軍将校広瀬武夫は講道館トップグループの一員になった。 翻って、このような成功をもたらした「精妙な投げ技」、とりわけ講道館独自のそれは、どのようにして生み出されたものであろうか。 講道館長嘉納治五郎の「浮腰」は、 針先で突いた位の接触を感じると、もう投げられている位に利いたと言われている。 西郷四郎は、この浮腰に対応する方法を工夫し、嘉納が浮腰を掛けると、 前に飛んで逃げるようになった。 そこで嘉納は、その逃げる脚を払いながら、喰い止めて、投げを利かせた。 これが「払腰」である。 しかし、門弟は更に工夫を凝らして、嘉納が払腰を掛けようとする瞬間に、前へ飛び越すことを止め、体を後ろに反りかえして避ける方法を考えた。 その反りかえる場合に、嘉納は腰を下げて体を低くし、 自分の腰の上に相手の体を釣り上げて載せ、 大きく前に回転させて投げる「釣込腰」を考案、開発したのであった。 嘉納治五郎による目覚しいイノベーションの核心は、 前述したように、「投げ勝負の徹底的追及」、即ち当身技や手首等に対する関節技を禁止して、 互いに自然体で立って襟、袖をつかむことで始まる、あくまで「投げ勝負を探求する乱取中心の稽古体系」の確立にあった。 当身技や関節技を全く気にすることなく、投げ技のみの思い切った応酬の結果、「技そのもののスピードと巧緻性」が飛躍的に向上したのである。 「形」による一方的な練習とは全く異なり、「乱取」練習においては、互いの攻撃や防御に対する反応時間は、おそらく十分の1秒台、あるいは百分の1秒台であると思います。 この短い時間内に反応し、対応する訓練が出来るところに、 「乱取」練習最大のメリットがあり、それを稽古体系(システム)の中心に据えたところに、 嘉納治五郎の卓抜さが窺えます。 明治15年講道館を創始してからも、嘉納館長は起倒流師範である飯久保恒年を道場に招いて、 「起倒流」の「形」と「乱取」の出張指導を仰いだという。 50歳を過ぎていた飯久保に対して、乱取では未だ及ばなかった嘉納は、 明治18年頃になって、それまでずいぶん投げられていた飯久保には一本もとられず、 逆に嘉納の技が、まことによくきく、という境地に到達し、 遂に26歳にして、嘉納治五郎は「起倒流免許皆伝」となり、その「免状」は現在、講道館資料室に展示されている。 互いに襟、袖を取り合って投げ技のみを応酬する百分の一秒台の瞬間的反応の中での攻防に、「乱取稽古の真髄」があり、 「生きた技を短期間で習得する」道も、 更にその先の、「より高いレベルの技に到達する」道も、 「乱取稽古」の中にこそあることを、嘉納治五郎は感得したと思います。 そして嘉納は更に、そういう「乱取稽古」を最も効果的たらしめる「組み方」をも徹底的に探求した。 明治初期における古流の稽古姿勢は、一般に自護体で、自然体は稀であり、一方の手を相手の腋の下に差しいれて組むという仕方であったという。 乱取に最も長じていた起倒流竹中派だけは、自然体の姿勢と組み方をしていて、 嘉納は熱心に修行の末、敏速自在に進退動作が出来、技の変化もより多くさせるこの自然体こそ、乱取の目的を果たすに最適のものであると結論した。 かくして、自然体で立って、襟、袖を互いに掴み合う「投げ勝負」主体の「講道館柔道」は確立され、 このような創意工夫をこらす嘉納の下に、館員は総力を傾注して投げ技を探求、練成し、数年のうちに講道館を代表する選手の投げ技は、冴えに冴えて柔術諸豪を圧倒し、その威力によって遂に諸流を統一し得たのである。 投げ技(立ち技)主体であった為、一時、寝技で他流に苦しめられた時期もあったが、講道館持ち前の「師弟挙げての熱心な研究」によって、短期間でその課題も解決された。 日清戦争終結直後の明治28年4月、京都において結成された大日本武徳会は、 明治32年、「武徳会柔術試合審判規定」を作成することを決定した。 そしてその為に、嘉納治五郎が委員長となって原案を作り、委員の評議にかける作業が行われることになった。 そこには、講道館から山下義韶・横山作次郎・磯貝一と、 大東流の半田弥太郎・四天流の星野九門・楊心流の戸塚英美・良移心頭流の上原庄吉・起倒流の近藤守太郎・竹内三統流の佐村正明・関口流と楊心流とを兼ねた鈴木孫八郎、という顔ぶれの人々が参集したのである。 改めて総括すれば、このような壮挙を成し遂げた嘉納治五郎の創意工夫、即ち「武術の競技化(スポーツ化)」という技術革新(イノベーション)の中身は、関節技、当身技を取捨(排除)して、敢えて武術としての実用性を離れたことにあった。 実戦を意識してのことか、既成の柔術家が捨て切れなかった当身技、関節技を思い切って棚上げしたこと、既往を振り捨てたことが、嘉納の成功の核心であった。 一子相伝あるいは家元制を伝統とする古流柔術各派にとっては、投げ勝負の乱取を稽古体系(システム)の中心に据えることには、ためらいがあったのかも知れません。 「乱取」練習の場においては、優劣、強弱は誰の目にも明らかで、「形」による練習の場と違って、指導者が権威主義を押し通せる余地は全く無く、「実力」以外は通用しないからです。 嘉納によるイノベーションの成果は絶大で、古流柔術の投げ技自体も、講道館システムによる「練成と洗練」の結果、明治以前とは比較にならない「スピードと巧緻性を有するハイレベルの投げ技」に変貌し、そこで育成された柔道家に既存の柔術諸豪は圧倒されてしまった。 技術的な創意工夫に止まらず、日本で始めて、修行の場格として二段、参段等の数字を用いたのも嘉納治五郎であり、それまでは、表、裏格、伴頭等々の古めかしい言葉が使われていた。 また嘉納の成功に習って、撃剣とか剣術とか称されていたものが、「剣道」に統一されたのである。 仮に、嘉納が在来の柔術に拘って乱取の中に当身技や関節技を僅かでも含めたとすれば、 結果は全く異なっていたことは明らかである。 前述の浮腰から釣込腰に発展伸張するプロセスを考えてみよう。 もし、それらの投げ技の最中に、相手の顔面に対する当身や頭突き、あるいは下腹部に対する膝蹴りや、手首をねじるような動作が許されれば、 到底、投げ技の探求、練成は不可能となること、火を見るよりも明らかではないか。 サッカーの場合においても同じで、チャージング、ハッキング等々の粗暴、乱暴な動作の禁止なしには、今日見られるようなハイレベルのプレーは到底出現し得なかったと思います。 中世以来の、「大衆にとっての憂さ晴らしの場」に過ぎない程度の、レベルの低い粗暴、粗略な技の応酬で終わったことでしょう。 日本風に言えば、「鎮守の祭りの恒例行事」程度の、原始的な技術水準というところです。 陸上競技の槍投げやハンマー投げ、走り幅跳びや、棒高跳び等々、 戦闘技術と直結している運動ばかりでなく、殆どの運動が実用を離れて、「無用の用」として競技化(スポーツ化)された結果、広く深く探求され洗練されたのです。 その結果、スピードや巧緻性を増し、 在来の技術を遥かに超越する高い水準の技術が生まれました。 「古流泳法」という実用性を離れた現代水泳競技における圧倒的なスピードの向上が、 その典型的な一例です。 とは言っても、濁流や大波とは無縁の静水プールならではのスピード記録ではあります。 そういう意味で講道館柔道は、実用を離れた「無用の用」の極致、とでも称さるべき世界的存在であると思います。 昨今、いわゆる異種格闘競技が行われ、多くの人々(とりわけ女性)の人気を得ていることは、大晦日夜のテレビ放送等で明らかです。 そこでは、レスリング、ボクシング、柔道、相撲等々、既存の格闘技において一流の域に達した選手が、他の格闘技を専門とする選手と勝負するところが、人々の興味と関心を呼び、惹きつけているのです。 しかしながら、そこにおける試合(興行)のルールにも一定のタガがはまっていて、何をしてもよいわけではありません。 昔、プロレスラー力道山が得意としたような、いわゆる空手チョップ(手刀)を相手の胸ではなく、後ろから頚椎に直角に打ち込んだりすれば、たちまち相手は昏倒してしまいます。 足首や手首を一気にねじったりすれば試合(興行)続行は不可能です。 組み際に相手の顔面を狙った頭突きや、裏拳(手の甲)による打撃も危険であり、とりわけ危険なのは、相手の肋骨を狙っての「ひじ打ち」です。 人の肋骨は折れ易く、折れた肋骨が肺に刺されば死を招きかねません。 前述したように、もっぱら「形」による稽古を主流とした古流柔術の多くの部分は、 そういう技で構成されていたのです。 競技化(スポーツ化)をするということは、 無限定(何でもあり)からルール化するということであり、 ルールの付けようによっては、原初の運動からは想像もつかない発展(巧緻性やスピードの飛躍的向上)あるいは、本質的逸脱(存在価値の喪失)をもたらします。 ルールの付け方に適正を欠き、あるいは発想が貧しく、その為に低迷し、参加(競技)人口が増えないスポーツは少なくない、と思います。 仮に、テニスやバレー・ボールのコートの大きさをそのままにして、 ネットの高さを現行よりもう3メートル高くしたら、どうなるでしょうか。 更には、野球のピッチャース・マウンドと本塁ベースとの距離はそのままにして、 本塁ベースと一塁ベースや三塁ベースとの距離(塁間距離)をあと10メートル伸ばしたら、 どんな感じになるでしょう。 こういう連想の中で、ここで改めて近代的格闘技としては世界で最も洗練され、厚い伝統を誇るボクシング(拳闘)の歴史を振り返ってみたいと思います。 1718(享保3)年、ロンドンに「ボクシング・アカデミー」を設立して貴族などにボクシングを教え始めたジェームズ・フィグは、髪の毛を掴れないように頭を剃って、腕自慢たちを次々に倒して賞金を稼ぎ、その技は護身術としても評価され、イギリス初のボクシング・チャンピオンとされています。 この時代のボクシングは、素手(ベア・ナックル)で行われ、蹴りや投げ、締め、噛み付き、目つぶしが当然の技術(?)として使われていました。 死人が出たり、八百長が行われて一時禁止された時期もありましたが、 1814(文化11)年にはルールが改正され、素手での闘いはそのままで、蹴り技、頭突き、目玉えぐりが禁止となりました。 そしてついに1867(慶応3)年、ルール保証人のクイーンズベリー侯爵の名を冠した「クイーンズベリー・ルール」が発表され、3分1ラウンド、間に1分の休憩、そして何よりも重要な、グローブの着用が決まったのです。 世界最初の公認ヘビー級タイトルマッチは、1892(明治25)年9月7日、ジョン・ローレンス・サリバンとジェームズ・J・コーベット(カリフォルニア生まれの元銀行員)の間で行われ、サリバンを21回でKOしたコーベットが勝ちましたが、当時の「スタンド・アンド・ファイト」のスタイルを採らず、相手から距離をとってパンチをかわし、左の軽いジャブを当てるところから展開するコーベットの戦法は当時の人々の御気に召さず、「卑怯者の戦法」と言われました。 このような長い歴史を経て発達したボクシングは、相手の上半身と側面のみを攻撃対象として、体重別に、プロが17種類、アマチュアが14種類の階級に分かれる近代スポーツ、敢えて言えば、「最先端の格闘技」として定着し、今日に至りました。 さて、講道館柔道についても「いわゆる歩合稽古」や、試合とりわけ団体戦において負けない為の(引き分けねらい)駆け引き、試合術が本来の技術の発展伸張を妨げたり、問題は色々あります。 しかしながら、当身技や関節技を排除して(棚上げして)、 投げ技(立ち勝負)を中心に据えた乱取練習という、 在来の柔術家が既往に囚われて到底展開し得なかった稽古体系を確立したところに、 嘉納治五郎の非凡さ、偉大さがあります。 嘉納の創意工夫と英断とによって講道館柔道が今日、「地球文化」の一端を担い、世界199の国や地域に、900万人もの柔道人口がもたらされたのです。 ホワイトハウスの書斎を改造した70畳敷の柔道場で週に3回、 山下義韶の指導を受けたアメリカ合衆国第26代大統領セオドア・ルーズベルトは、 どちらかと言えばひ弱な少年時代に、大金持ちの父親の配慮でレスリング、乗馬、射撃に励み、ハーバード大学在学中はボクシングに熱中しました。 山下と対した頃のルーズベルトは体重百キロの偉丈夫であり、長年の格闘技の修練によって、格闘技の攻防、技の理合いのわかった人物として、講道館柔道の「精妙な投げ技」に魅了されたのです。 しばしばアポなしでホワイトハウスに参上した、ワシントン駐在日本公使館付き武官竹下勇海軍中佐が、日本の海軍官舎で留守を守る妻への手紙の中で、 「大統領はコロコロと投げられて手を打って喜んでいる」と報告したのは、 格闘技の素養十分なルーズベルトが、講道館柔道の真髄をきっちりと捉えていることを喜んでのことでしょう。 レスリング、ボクシングに素養のある大統領は、山下の繰り出す大外刈や、小内刈、足払い等のカミソリのような鋭い切れ味に驚嘆したと思います。 そして山下は、慶応義塾柔道部OB柴田一能二段のアメリカ留学送別会において、 「自分も出来れば海外に出たい。日本の優れた文化を世界に知らしめたい。自分としては、世界に誇るに足る講道館柔道を、アメリカに広めることに努めたい」と熱く語った夢を、 数年後、見事に実現して見せました。 「柔道技術と人格見識を兼ね備えた最もバランスのとれた柔道家」と評されている山下義韶は、 嘉納治五郎のもたらした技術革新(講道館柔道)の本質と可能性を最も深く理解していたのです。 一方的に「形」を繰り返し練習し、「説明は要らぬ、体で覚えよ」式の在来の柔術に比べて、 生きた技を短期間に身につけることが出来る「講道館柔道というシステム」は、当サイト卓話室T(シリーズ14,15)でも詳述したように、実に「画期的なイノベーション」であり、しかも嘉納はそれを東京大学卒業後の数年間で成し遂げました。 蛇足ながら付言すれば、明治18年、前述した「起倒流免許皆伝」となった頃、嘉納(26歳)は本職とする学習院においても幹事兼教授に任命され、翌年には教頭に昇格、「日本教育界の巨星」となるべき「天性の教育家」としての本領を発揮し始めた。 他方、明治13年、当コーナー(2008年5月10日付)で言及したように、日本で始めて専門教育課程としての「経済科」と「法律科」を併設し、 しかも日本で始めて「日本語で法律を教える」学校として、 専修学校(専修大学の前身)を設立した目賀田種太郎ら四人は、 驚くべきことに、いずれも二十代の若者でした。 「民法」のない日本において、英語でイギリス法が、司法省法学校では仏語でフランス法が教えられていた時代の出来事です。 嘉納が東大で学んだ政治学、経済学も講義やテストは当然、御雇い外人教授によって英語で行われていました。 嘉納治五郎を含めて、これらの人々の「高邁な見識と剛毅な気迫」には驚嘆の念を禁じ得ません。 そこに溢れていた精神は、「内向きでひ弱な島国根性」、或いは、 「他者(外国人等)が自分たちより優れていることを認め(信じ)たがらない脆い精神構造」、 とは全く無縁の、「自由闊達かつ雄渾な精神」であったことを忘れてはならないと思います。 一言で言えば、物事の本質を捉え、そこから展開、転換するに、何のためらいもなく既往を振り捨て、新たな方向に超人的に力を集中した方々の「成功」と言えましょう。 講道館柔道が全国に覇を唱えた明治22(1889)年、当時30歳の嘉納は、 文部大臣榎本武揚、駐日イタリア公使ら多数の紳士顕官を前に、 「柔道一班並に其教育上の価値」と題して講演し、併せて実演を行う機会を与えられた。 その時、投げとは、「相手の体を倒すか、落とすか、打ちつけるかのどれかをすることである」と定義しました。 世界の人々が納得する原理(物理学で言う偶力)を明らかにした上で、崩し、作り、掛け等の理合が確立された講道館柔道は、世界中の人々に「倒すか、落とすか、打ち付ける」かの練習、練成に夢中になる道を開いたのです。 参考文献 F・P マグン,Jr著 忍足欣四郎訳 『フットボールの社会史』1985年岩波新書 嘉納先生伝記編纂会編 『嘉納治五郎』1977年講道館刊 嘉納治五郎著 『嘉納治五郎−私の生涯と柔道』1977年日本図書センター刊 参照 フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia);ボクシング 写真 当コーナーに掲載された写真は全て講道館の許可を得て筆者が撮影したものです。 |
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