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幻のナショナルプライド(民族的誇り)−尾崎行雄の忠告と嘉納治五郎遺訓

憲政記念館構内からのぞむ国会議事堂

記念館正面の尾崎行雄像

記念館裏庭の蘇鉄
2010年04月11日(日)
道場主 
[東京都]
千代田区
JR「有楽町」下車、桜田門から「憲政記念館」、半蔵門経由千鳥ヶ淵

朱色も鮮やか、珍しい蘇鉄の種子(ここでは40年ぶりとか)

尾崎の座右銘を汲んで高さが設定された時計塔
I.李秉喆と松下幸之助
「人材第一」の経営哲学を掲げて、「司法試験や外交官試験より難しい入社試験」をもって知られるグローバル企業サムスンは、サムスン電子を筆頭にグループ全体の売上高が09年度は11兆円、今や韓国GDPのおよそ2割弱を占める巨大な存在である。

特に半導体事業における世界シェアは第一位インテルの14.2%に次ぐ第二位の7.9%を誇り、第三位東芝は4.3%に止まっている。その上、発光ダイオード(LED)を採用したサムスンの高級液晶テレビは世界市場において日本勢を圧倒し、液晶テレビ全体としての同社の売り上げも昨年3000万台という大台に達した。

野村證券金融工学研究センターによると、世界の時価総額上位500社に入った日本企業は09年末で40社。この15年で3分の1以下に減った。

サムスンは49位で日本のソニーやパナソニック、東芝や日立を軒並み上回るという。収益面でも09年度営業利益率8%で日本各社を圧倒している。

今やグループの屋台骨を支えている半導体事業への進出を決めたのは、サムスン創業者李秉喆が七十歳を過ぎてからではあったが、昭和62(1987)年11月、李は激烈な七十七年の生涯を閉じ、息子たちにグループの未来を託した。

日韓併合によって国号が朝鮮と改められた明治43(1910)年2月、慶尚南道の比較的豊かな家の次男として生れた李秉喆は、昭和5年4月、早稲田大学専門部政治経済学部に入学したが、翌昭和6年9月、病気のため退学して帰郷する。

5年後の昭和11(1936)年、馬山で友人二人を加えた共同出資による協同精米所を創業し、日本人経営の日出自動車を買い取って運送業も創めた。
昭和18年には今日のサムスンの母体となった三星商会を大邱市に設立、満州との間で乾物、リンゴなどの取引を開始した。

その後、今日見られるような世界的コングロマリットを打ち立てるまで、李秉喆の事業人生は、

「カネの亡者」「カネのことしか分からない男」「親日買弁資本家」等々の非難や中傷ばかりでなく、不正蓄財等の嫌疑による投獄、二度にわたるガンとの闘い、破産、戦争による浪人など、まさに本人が形容したとおりの「千辛万苦」を乗り越えての栄光と屈辱、苦難にまみれた一生とも言えよう。

日本支配の植民地に生れ、同胞相討つ朝鮮戦争からオリンピック開催まで、祖国韓国の激動を象徴するような波乱の生涯であった。

その経営理念を「人材第一」、「合理追求」、「事業報国」とした李秉喆が、「事業報国」に託した願いは二つあり、一つは貿易や生産活動を通して国民を貧困から救い、国家経済の発展に寄与すること、 もう一つは、国民の「退嬰的な精神」に活を入れ、強い国家づくりを推進する「積極的な国民精神」を奮い立たせたい、ということであった。

昭和36年(1961年)、朴正熙少将の軍事クーデターが勃発、6月25日、海外出張から帰国した李は金浦空港から連行され、ソウル市内のホテルの一室に拘束、軟禁されて、李にとっては二度目の「不正蓄財」の容疑を受けた。

朴少将と折り合いがついたのか、間も無く釈放され、8月には韓国経済人協会の初代会長に就任した李は、10月には自ら経営する韓一銀行、商業銀行、朝興銀行を国家に献納した。

翌々昭和38(1963)年、五十三歳になった李は、日刊全国紙『韓国日報』に「豊かな暮らしへの道」と題して5回に亘って寄稿し、次のような「見解」を示して、韓国国民の「道義の退廃」を嘆いた。

1. 韓国は固有の文化を持つ文化先進国でありながら、極度の貧困に喘ぎ、対外的には事大主義に陥り、新文明と科学技術の導入を怠り、鎖国政策に終始した。

2.対内的には四色党派の内紛で明け暮れ、国民の利益など眼中にない政治で、三十六年間にわたる日本植民地の運命を引き込んだ。

3.我々は長い間の貧困によって、社会の規範や価値判断の基準を自らの貧困と結び付けようとする性癖に汚染された。

その結果、貧困を清貧と混同し、貧しいことをむしろ誇りとする過ちを犯した。

この風潮は他人に対する猜疑心を煽り、他人の努力や成功を妬み、阿諛、腹背の醜悪な風習を生んだ。

自国民に対して、このように「冷徹な分析と呵責なき批判」を加えた李秉喆は、李朝五百年の下で、韓国社会が強固な身分制度に固められ、人々が自分の属する身分、階級の利益を守ることに窮々としてきたこと、そしてその身分制度が派閥、門閥、血縁集団を生み、公より私の利益を優先して、一派、一族間の抗争を執拗に繰り返す「退廃の風土」を生んできたことを、改めて総括し、国民に厳しい反省を求めたのであった。

前述したように、熟慮に熟慮を重ねた李秉喆(Lee Byung Chull)が、今やサムスンの屋台骨を支えている半導体事業への進出を決断したのは、七十歳(昭和55年)を過ぎてからであった。

そういう決断を下して間も無く、昭和57年(1982年)4月26日号の雑誌『ニューズウィーク』において、同誌東京支局長キム・ウィレンソンの、

「近頃日本人のムードをどう評価するか」という質問に対し、李は、「生意気だ(insolent)、生意気と言う言葉が不穏当であれば、以前より尊大だと言うべきか。いずれにしても前より姿勢が高い」と答えている。

そして、奇しくも、このインタビュー記事が出た翌年の昭和58(1983)年11月11日から2日間に亘って、第二回『PHP京都シンポジウム』が「日米関係の再検討」というテーマで開催された。

注目すべきは、主催者である松下幸之助が、「日本を立て直す意志と勇気を」と題して、このシンポジウム開催にあたって行ったスピーチの内容である。

『韓国日報』紙上において、韓国国民に猛反省を求め、「退嬰的な精神」を捨てて、「積極的な国民精神」を身につけるよう国民を叱咤した「サムスン」の創業者李秉喆は、正に「進取の精神の権化」のような人物であった。

そういう李の、透徹して気魄に溢れた見識や意欲と比較すべく、戦後日本最大の事業家「パナソニック」創業者松下幸之助が、時を同じくして披瀝した「見識と憂国の至情」を、長くはなるが、今ここに敢えて紹介したい。

「……最近のわが国の実情は、皆様もご承知ようにきわめて混迷をいたしております。
日本の経済界はどうかといいますと、数年来、国内需要の停滞や貿易・技術摩擦の激化、さらには世界同時不況の影響といった難問に直面し、一部の業種を除いてはなかなか不況の状態から抜け出せないでいます。
政治は政治でこれまた大変な状態だという感じがいたします。国家財政は赤字が続き、本年も相当多額の赤字が出ると見込まれています。

一年前を考えてみますと、行政改革が大きな問題になっていました。行革で日本の政治財政をやり直さなければならないということで、土光さんが熱心にやられた。自民党もそれを受けて、行政改革をやろうということになりました。当時、新聞やテレビでもどんどん報道され、日本は行革をしない限り財政が破綻するということが常識のようになりました。われわれも国民の1人として大いに賛成したものです。

そして、行革はこうあるべきだという、いわゆる行革案なるものが土光さんの手でまとめられて政府に提案されました。政府はそれを受けて、これは政府の責任においてやりましょう、ということで進んできたのです。

ところが一年が経ってみると、国の負債は減るどころかさらに大きくなっている。“行革をやりましょう。その内容はこうこうだ”ということが臨調から提案されましたけれども、それは結構だ、それはいかん、これはちょっと厳しすぎる等々と議論をしている間に一年が過ぎてしまった。その間、行革の成果は一向にあがらず、負債額だけがどんどん増えていくという状態であります。

こんなことを繰り返していれば、今後も二年や三年はすぐに経って、ますます財政の状況は悪くなり、お手上げにもなりかねません。今日、日本の国家財政は文字通り破綻の危機に瀕していると言っても過言ではないでしょう。

そうした状況にもかかわらず、国会は田中元首相の問題をめぐって、一ヶ月も開店休業に等しい状態です。田中さんの問題は、もう相当前から十月に第一審の判決があることがわかっていたのですから、もしこういう場合にはこうしなければならないということが、あらかじめ十分考えられたはずです。にもかかわらず、その問題の取り扱いをめぐって与野党が対立し、こういう危急存亡ともいうべきときに、一ヶ月にもわたって議会の審議がストップし政務が停滞している。こうした事からも、今日の政治の混迷は相当なものだという気がするのです。

また、最近は、中学生の非行がだんだん増えてきて、ここ十年の間に非行の数が倍になっている。しかも、高校生よりも中学生非行の方が増加率が多いというような状態であります。

このように、今日の日本は、政治、経済、教育という基本的かつ重要な三つの分野で行きづまっている。私は今日まで六十五年間、事業に携わってまいりましたけれど、このような日本の国の混迷状態はこれまで無かったように思います。………」
敢えてここに長々と、27年前の松下幸之助のこういう話を引用しました。

目にした読者は、日本という国の将来に、改めて暗澹たる気持ちを持たれると思います。

松下はこの挨拶の最後に、

「繰り返しますが、今の日本は、政治にも、経済にも、また教育の分野にも問題がたくさんあります。

お互い、日本はこれでよいのか、ということをそれぞれに考えてみることが求められています。

そして、よりよい方法を見出して、断固としてその実現に向って進んでいかなければならないという感じがするのです。」と述べている。

同時に、こう結語するに至る手前で松下は、「日本国民に勇気がない」ことを慨嘆し、「要はいまの日本の政治、経済を立て直す方法はいくらでもあるということです。肝心なのは思い切って事を行おうという意志であり勇気です。

そういうことをやっていこうという勇気がないところに、私は今日の問題があると思います」と、正に日本の将来に対する「暗い予感」とでも言うべき言葉を吐いた。

翻って今、『韓国日報』紙上において韓国国民に猛反省を求めた上、李朝五百年の統治と鎖国によって齎された退嬰的な国民性を脱却するよう叱咤した李秉喆が、国民に志向すべきと説いた「積極的な国民精神」の意味するところを、韓国国民ならぬ昨今の日本国民は理解し、他山の石とすることが出来るであろうか。

それとも、李のメッセージに耳を貸すどころか、「国民精神のありよう」などには無関心のまま、衰退に身を任せて、自滅の道に陥ってしまうのか。

二十一世紀初頭、現下の日本において危惧されるのは、長期に亘る閉塞感に嫌気がさした日本国民の間に、幕末に流行したような「ええじゃないか」の復活とでもいうべき心理状態が芽生えてくることである。

鼠小僧次郎吉や大塩平八郎の名前で思い浮かぶように、天明、天保以来多くの国民が困窮のうちに「百姓一揆」も頻発して、幕末の「黒船騒動」を迎えたのであった。

「ヨイジャナイカ、エイジャナイカ、エイジャーナカト」と歌い踊っても、事態が一向に改善されないことはわかってはいるが、それでも踊り狂いたい心境の人々が、今、増えているのではないか。

松下幸之助が警告してから既に30年の歳月が経とうとしている。

不都合な事には目をつぶって、「問題先送り」、「何とかなるさ」の態度を持続しても、日本は何とかなるであろうか。


II.日本資本主義の父渋沢栄一の憂慮
つい最近、日本経済研究センターがまとめた2009年の世界50カ国・地域の潜在競争力ランキングによれば、1位香港(偏差値74.0)、2位シンガポール(偏差値72・0)、3位米国(偏差値65・6)となり、14位日本(偏差値57.8)、17位韓国(偏差値55.7)、35位中国(偏差値44.3)という順位となっている。

今後10年間にどれだけ一人当たり国内総生産(GDP)を増加させる素地があるかを測った指数がこの「潜在競争力」であり、科学技術、情報技術(IT)など8つの側面から評価するシステムである。

この一人当たり国内総生産(GDP)でも、日本が間も無く韓国に抜かれるのは十分予想し得るところである。

因みに、OECD(経済協力開発機構)が世界の15歳を対象に実施した学力調査の結果、「読解力」で韓国が1位、日本は15位であった。

こういう数字や、さまざまな統計が、日本衰退(没落)の兆候を続々と明示する中で、最近、イケア日本法人社長(欧州ビジネス協会会長)トミー・クルバーグ氏は日本の現状を憂慮して次のようにコメントしている。(日本経済新聞2010年1月26日付)

「……日本列島が世界地図から消えてしまった。欧州のレーダーには日本が映っていない。中国やインド、ブラジルの姿は見えているのに、日本での事業展開をあきらめる欧州企業が多い。これでは対日投資は伸びず、競争も活発化しない。
……日本への直接投資額は米国や欧州各国、中国より少なく、トルコと同水準だ。アジアの経済ブームで投資機会は豊富にある。日本は世界第2の経済大国であり、国民の所得も大きいのに、成長する市場とみなされていない。
……競争を恐れず、未来に投資すべき局面だ。外資を交えた企業競争が消費者に利益をもたらし、内需を拡大する。これまで日本は強力な企業社会を築き上げてきたが、過去に築いた構造をどう守るかという後ろ向きの発想に陥っていないか。」

日本経済に対するこういう観察、感想ばかりでなく、具体的根本的統計数字は空恐ろしい現実を提示してやまない。

昨年、新車販売が1364万台と世界最大市場となった中国では今年も2けた成長が確実視されているが、日本では乗用車8社の2009年度国内生産合計は前年比30.5%減の約767万台であった。

同じく昨年の世界造船受注量は、

中国が断トツの一位で2600万トン(シェア61.6%)

韓国が二位で1487万トン(シェア35.2%)

日本が三位で90万トン(シェア2.1%)である。

2010年現在、時速400キロという世界最高速の列車が走るのは、フランスや日本ではなく、中国である。

そしてついに昨年、工作機械生産額で日本は27年ぶりに世界首位から3位に転落し、しかもその生産額は首位中国の生産額の半分になってしまった。

「モノ造り志向」こそが日本の生きる道、などという話は絵空事ではないか。

既にいわゆる先進国のトップを切って、「人口減少老人国家」に転落した日本では、毎年労働人口30万人が失われ、間も無く2.5人に1人が65歳以上という人口構成では、製造業の発展など、あり得ないことである。

海運会社商船三井は2013年から16年までに液化天然ガス(LNG)輸送船を6隻建造し、6隻合計で年650万〜700万トンのLNGを輸送する計画であるという。その輸送先の6割が中国で、残りが日本と台湾向けであるが、既に商船三井は2隻を韓国の現代重工業に発注し、残り4隻は中国の造船会社に今後発注すると報道されている。(日本経済新聞2010年3月3日付)

これが個別の現実であり、総体的には、日本が1年で生み出す富、すなわち国内総生産が500兆円弱で約20年前と同水準のまま推移していることが、日本停滞(衰退)の何よりの証拠でもある。

ベルリンの壁が崩れ東西冷戦構造が終結した平成元(1989)年以降、この20年間、情報通信革命の進行と同時に、グローバル化の波が世界中に押し寄せ、大競争の時代になった。

ところが日本は昔の高度成長期の成功体験をひきずり、頭では何となく解っていても、国全体のシステムを変えるような、「大胆な変化」を求めて前には踏み出せない、というのが昨今の実情、実態ではないか。

「工場」として見る時、日本における月給20万円、あるいは30万円という高給(?)取りの工員に比べて、中国やインドには、正社員として月給2万円あるいは1万円でも喜んで働く優秀な工員が何千万人もいる。

イギリスの高級ブランド「バーバリー」ですら中国で生産し、それをイギリス人がいくら悲憤慷慨しても流れは止められない。

「市場」として見る時、可処分所得が減る一方の日本に比べて、中国やインドには日本の高級品を買える富裕層が年々増え続けている。両国共に国全体はさほど豊かではなくても、日本の10倍を超える人口の1割が豊かであれば、「日本市場」と同じレベル(購買力)の市場がアジアにもう一つ、あるいは二つ増えたことになるではないか。

グローバル化はもはや選択するかどうかの問題でないことは明白であり、前記クルバーグ氏が指摘するように、過去に築いた構造をどう守るかという、後ろ向きの発想では問題解決は不可能であること、疑いの余地はない。

このままでは衰退、自滅というプロセスを阻止できないことは、誰の目にも明らかでありながら、問題先送りの成り行き任せで、どうにもならないという現状を凝視する時、突き当たるのは、この国の「国民性」、あるいは「国民精神のありよう」である。

問題は政治家や政府当局の誰彼ではなく、国民一人ひとりの政治意識を含めた「文化のありよう」に尽きるのではないか。

何故、いつまでも高度成長期の成功体験をひきずるのか。

その原因の根底には、日本国民独特の精神構造に基づく日本特有の「国民性」が横たわっていることを、この際改めて指摘したい。

李秉喆は前述のように、「韓国国民の退嬰的な国民性」を糾弾し、それから脱却するよう韓国国民を叱咤激励した。

日本が「イエ、ムラ社会」を脱却し、「近代市民社会」として成長、成熟していく道を阻んでいるのは、「事大主義」「権威主義」を主柱とする精神構造に基づいた日本特有の「国民性」である。

松下幸之助が慨嘆した「思い切って事を行おうという意志と勇気の欠如」という状況は、そういう「国民性」によって齎される当然の帰結と言えよう。

「日本資本主義の父」渋沢栄一は講演上手としても有名であったが、大正時代、低迷する日本社会に警鐘を鳴らし、その講話において、
「一般が保守退嬰の風に傾いておる際であるから、一層の奮励努力を要する」「明治維新の時代の人物の活動に比較して大いに猛省せねばならぬ」、
と聴衆の奮起を促したという。

明治初年、無知蒙昧な衆論に抗して、一橋大学の前身である商法講習所設立を主導した渋沢が、その後、政争も絡んで何度も存廃の危機に晒された商法講習所を支えきった辛苦については、当コーナー(2008年7月5日付)でも詳述した。

「進取の精神、敢為の精神の塊り」でもあった「雄気堂々」の渋沢は、27歳の時、将軍徳川慶喜の実弟である清水昭武に随行して、第二回パリ万博(42カ国参加、延べ1500万人が参観)に日本(徳川幕府)を代表して参加し、昭武と共にスイス、ベルギー、オランダ、イギリス、イタリア等へも旅行して、世界(ヨーロッパ)の実態を肌で知っていた。

決行寸前で取りやめたとはいえ、23歳のとき高崎城や横浜外人居留地(租界)襲撃を企てた渋沢栄一は、「退嬰的な国民性」が、李秉喆が糾弾した韓国の国民性であるばかりでなく、「日本の根深い国民性」の一つでもあることをとっくに見抜き、日本国の行く末を憂慮していたのではないか。

「治外法権」を認め「関税自主権」を放棄させられ、いわば半植民地の状態から出発した明治初年から日清戦争、日露戦争に至るまでの間、そして焼け野が原と化した東京に連合国軍(占領軍)最高司令官マッカーサー元帥をいただいて出発し、東京オリンピック、大阪万博に至るまでの間、一種の興奮状態(異常事態)にあった日本国民は、その後メッキが剥げて地が出たと形容すべきか、或は本来の姿(常態)に戻ったというべきか、いずれにしても自己満足の風が吹く中で保守退嬰に陥り、しかもそれを自覚しなかった。

国民自らがそのことを自覚し、その「体質改善」に乗り出さない限り、あるいは過去にあったように、「外圧」に対する恐怖から発狂状態になって突っ走らない限り、衰退、自滅のプロセスが止むことはないであろう。

変化は困難を伴う。

困難とは、これまでの習慣、秩序との衝突を意味し、

「和(やわらぎ)を以て尊しとする」お国柄の国家にとっては、「変化」こそ至困至難の大問題だからである。


III.英語教育の「徳川モデル」
さて、つい最近終わったばかりのバンクーバーオリンピックは多くの教訓を我々に与えた。競技そのものとは直接関係ない話ではあるが、金メダルを獲得した韓国のキム・ヨナ選手の、インタビューに答える流暢な英語に感心した方々が多かったのではないか。

ところが国際的な英語の試験では、日本は193の国と地域の中で180位であるとか。日本人の半分は中学高校で6年間、大学まで行く者は10年も英語を勉強して、この体たらくである。

最近(2010年2月22日)、日本経済新聞紙上において「英語教育の鎖国―5年以内に脱却を」と言う見出しで、新潟県立大学の猪口孝学長が日本人が英語が下手なのは日本の英語教育が「徳川モデル」を捨てきれていないからだと指摘して次のように述べている。

英語教育の徳川モデルとは何か。

第一に、鎖国だから、日本語以外の言葉は真剣に学ばない、学ばせないという暗黙の了解がある。

第二に、鎖国だから、日本社会だけに通ずることを大事にする。そのため、日本を離れた途端に、日本で学んだことは(医学であれ工学であれ)役に立たなくなる。

英語を苦にする日本人エリートは外国では、「普通語」も知らない「野蛮人」として相手にされなくなり、いずれ日本の生命線を握るさまざまな組織指導者にはなれなくなる、云々。

これに関連して、日本の中学校における英単語習得語数は1000語程度であるのに、中国や韓国では3000語を必修として、それ以上の語数を達成する生徒が非常に多いことも報道されている。

アメリカはメリーランド州ボルチモアを拠点とするジョンズ・ホプキンス大学は世界最高峰の医学分野をもって有名であるが、実業家ウィリアム・キャリー氏から約46億円の寄付を受け2007年、「キャリー経営大学院」を開校した。

全米で最も新しいビジネススクールであるジョンズ・ホプキンス大学キャリー経営大学院の初代学長ヤシュ・グプタ氏(インド・パンジャム州出身)が今年3月初旬に来日し、日本の大学を視察した際、「授業は日本語でいいのか」「日本語だと外国から学生が集まらない。日本人だけで話合っていても議論は広がらない。」と問題提起をしたという。(日本経済新聞2010年4月3日付)

問題は、ここで端的に指摘した英語教育に限らず、李朝五百年の統治と鎖国によって培われた韓国の国民性のマイナス面と同じく、徳川三百年の封建制度と鎖国とによって培われた日本の国民性のマイナス面、即ち「負の遺産」である。

「負の遺産」とは何か。それは、前述したように、「事大主義」と「権威主義」とに基づき、「夜郎自大」を最大の特徴とする、日本特有の「国民性」或は「国民意識」である。

明治から大正、昭和にかけて、その「日本の国民性の悪しき側面」に、些かの改善、変質も見られないことを的確且つ峻烈に批判し、厳しい警告を発した先人がいた。

今、東京永田町は国会議事堂の正面に道路一本を隔てて、議事堂と向きあって立つ「憲政記念館」に「憲政の神様」として祀られている尾崎行雄(咢堂)は、昭和8(1933)年、雑誌『改造』に「偉大なる国民性の養成」と題して、以下に紹介するような見解を発表した。

尾崎も言うように、どこの国民でも、自己の短所欠点を指摘されるのは、普通好まないが、敢えてここに尾崎が指摘するところを紹介したい。

「国民性」であるから当然のこととも言えようが、尾崎が批判した明治から昭和にかけての日本の国民性は二十一世紀の今日に至ってもそのまま継承され、その「マイナス面」はさらに深化している、とも感じられる。

「 ……個人に就いて考へるに、知識や手腕も必要だが、其の性格は更に一層必要だ。性格が良くなければ、折角の知識や手腕も偶々以て悪事を働く道具となる事が多い。彼の強窃盗や詐欺者等の内には、其の度胸才気知識等が常人より優れたものもあるが、ただその性格が下劣なるため、折角の智勇も之を悪用して遂に罪人となる。

故に偉大なる人物とならんと欲するものは、其の知識手腕度胸等も磨かなければならないが、その性格を練磨する事は一層必要だ。

国民もその通りで、如何に知識に富み戦争に強くとも、国民性が陋劣では到底偉大なる国家を建設することは出来ない。

ところで、「我が大和民族の性格は如何」と自己検証をなさねばならぬ。

而して個人にとっても自己検討は極めて困難だが、国民にとっては尚更困難だ。

特に身を政界に置く者は、声望を得んがための必要上、民衆に諂い易い。

その短所欠点を指摘しなければ之を改易して向上進歩させることは出来ないが、自己の短所欠点を指摘されるのは、どこの国民でも普通は之を好まない。

故に衆望を収めて多数の投票を獲得せんと欲する政治家は、虚偽と知りつつも、国民を称揚する。

かくて自己欺瞞は民衆政治の特徴となり、遂に自負高慢底止するところを知らざるにいたるのだ。

さうなっては個人としても向上進歩する事はできないが、国民としても亦同様だ。

而して、現在の大和民族は、自己自身を如何に見ているか。日常耳目に触れる所の言説に

曰く、日本人は偉い。

曰く、戦争にかけては世界第一だ。

曰く、度胸がすわっている。

曰く、敏捷だ。

曰く、礼儀正しい。

曰く、愛国心が強い。

曰く、正義観念が多い。

曰く、清潔だ。

曰く、忠義心に富んでいる。

曰く、友愛心も厚い。

凡そ天地間優秀の性質は、大和民族が、悉く之を具備しているような言を述べている。……」

今や、「戦争にかけては世界第一だ」と思っている日本人は、いないと思うが、「経済にかけては世界一、二だ」と思い込んでいる日本人は、つい先日まで、或は今日もまだ大勢いるのではないか。

さらに尾崎行雄は、上記のような前置きをした上で、明治天皇の御製である「よきを採り悪しきを捨てゝ外国に 劣らぬ国となすよしもがな」を引用して、次のように喝破した。

「……神武建国以来、我が日本は、明治年間ほど、内外各方面に向って発展したことはないが、其の発展の最大原因は、明治大帝が右に掲げた御製の御精神を以て挙国官民を指導し賜えるにある。

また挙国官民がよく聖旨を奉戴し、自国の短所欠点を認識し、他国の長所優点を採って之を補填し、日夜汲々として他の先進国に追求せんと努力したのにある。

更に言い換へれば、謙遜中に抱負を寓し、二者相ひ俟って、始めて明治の功業を奏し得たのである。

決して現代人の如く自負驕慢の心を以て、此の成功をかち得たのではない。

明治以後、日本が各方面に於て衰退の色を示したのは、明治年代の成功に満足逆上して驕慢に流れ、抱負を失へるによる。

たまたま大抱負に類似した言行をなすものあるも、それは逆上自負の結果、誇大妄想狂の病に罹ったためであって真誠の抱負ではない。

故に其の実行に着手すれば、シベリア出兵の如く、また再度の山東出兵の如く、また今回の満州事件の如く、必ず失敗に終わるのである。

大抱負は謙徳を待って初めて成功し得べきものである事を忘れてはならぬ。

……現代人が、明治初頭の日本は独立国の権利すら持たなかった事実を忘れず、また現在五大強国の一に列しても、それは、兵力だけの事で、他の点に於てはなほ大いに遜色あることを忘れないならば、驕慢に流れて父祖の偉業を失墜する患いはない。

其の上、大帝御製の御趣旨を奉戴して、国家の百般の事業に於て、世界一流の邦国に劣らざらんと熱望する大抱負を懐くなら、逆上驕慢以て自己満足に陶酔する事の代わりに、日夜精励して其の抱負を実現すべき道を求むるであろう。

いやしくもかくの如くなれば、ただに明治の偉業を失墜する患いがないのみならず、必ず明治以上の日本帝国を建設することを得べし。

ビスマークが建設したドイツ帝国は三代目に滅亡し、カヴールが統一したイタリアも、三代目で瀕死の窮態に陥った。

たまたまムッソリーニが出て一時之を救ったが、将来どうなるかまだわからない。

家でも国でも三代目は創業に次ぐところの最も大切な時代であるが、我が日本も常例に違はず、政治的にも、経済的にも、思想的にも、将た又軍事的にも、外交的にも、非常な窮地に陥っている。

然るに全国大多数の官民は、ただ救回の道を求めざるのみならず、却ってお祭り気分で死地に陥るべき道を突進しつゝある。

大破綻は遠からず財政経済の方面より現はれて来さうだが、それでもなほ豁然悔悟しなければ、川柳氏の警句の如く、我が国も売家と唐様で書かなければならないようになるかも知れない。

どうかして、さうならないようにしたいのが、世に背き時に戻って此の文を草する所以である。

……吾れ豈弁を好まんや、蓋しやむを得ざればなり…………」

こう警告した尾崎行雄は、また次のようにも述べて「夜郎自大」の日本国民に強く反省を求めた。

「……僅かに五大強国の一に加はっただけで得意満面、恰も既に世界第一の国家にでもなりすましたるが如く振舞ふ所の現代人は、日夕此の御製(明治天皇の和歌―筆者注)を三復して其の驕慢心を抑制すべきである。
現代人は頻りに自国の強大を誇負するが、如何にも人口と兵力だけでは大国の列に加はることも出来るが、産業貿易等の点に於てはまだまだ大国の仲間入りは出来ない。
我が国が小国として軽蔑するベルギー、オランダなどと伯仲の間にあるのだ。
況んや他の文化事業に於てをや。……」

自らは現職の衆議院議員でありながら、「世に背いて(世論に逆らって)」、敢えて揚言した尾崎の願いは空しいものとなった。

当時の「世の中」は、尾崎の警告などに聞く耳を持たず、「低劣な世論」が尾崎をも押し流し呑み込んでしまって「愚劣な国民感情」となってほとばしり、間も無く日中戦争という「泥沼」に突入する。

「大和民族は東亜の救世主たるべき運命を有せり(加藤寛治)」のような、国民を煽るための幻影的大理想に大多数の日本国民が酔っていたのは、日露戦争や第一次世界大戦の結果による「逆上驕慢」のせいであった。

「弱さを紛らせるための空威張りのナショナリズムの下品な大言壮語」に大多数の国民が酔いしれ、「幼児的強がり」が世間を覆って、挙句に、フライ級か、せいぜいフェザー級ボクサーが、ヘビー級ボクサーに喧嘩を吹っかけるような浅はかな仕儀となって、徹底敗北(無条件降伏)を喫してしまった。

蛇足ながら付言すれば1912年、東京市長(官選)であった尾崎行雄はタフト大統領の夫人に3000本の櫻の苗木を寄贈した。今ワシントンDCポトマック河畔に咲き誇り、何十万人ものアメリカ人を惹きつける櫻は、日米親善を願って尾崎が送った櫻である。

そしてその返礼として贈られてきたのが、当コーナー(2007年4月12日付)で言及した「アメリカ花みずき」であった。


IV.バンクーバーオリンピックの教訓
テレビを通じて、先ごろ行われたバンクーバーオリンピックを見た人々は、前述した尾崎行雄の言に肯いて、頭を垂れざるを得ないのではないか。

「百聞は一見に如かず」、とは蓋し名言である。

テレビの画面から看て取れる競技の実像には、民衆政治の特徴であり、尾崎が糾弾した「自己欺瞞」や「自負驕慢」等々、

「民族的虚栄心や虚勢」の入る余地は些かもなく、画面を通じて、選手個々人の長所優点、短所欠点は世界中の人々にストレートに伝わった。

事後のニュース番組等における「気休め」のための日本のアナウンサーらの軽佻浮薄な言葉の羅列には愛想が尽きる思いである。

こういう国家的(?)「気休め」に対して、丁度200年前のドイツ国民を厳しく叱咤したのは、ベルリン大学初代総長ヨハン・ゴッドリーブ・フィヒテであった。

「国民は今や自己の心眼をもって自己の現在的地位を洞察することを必要とする。そこに存するものをありのまゝに眺め、自己の目に写るものをそのまゝに認識するところの勇気を持たねばならない。安易なる気休めのために事実の真実を掩いかくして、ただ主観的に忍び易い形象を描き出すようなことがあってはならない。自己の不幸を直視せず、或は直視したものを告白しさへしなければ何かその苦痛を軽減することが出来、その不幸を緩和し得るかのように考えてはならない。むしろ不幸を正視して、その由って生じた諸原因を明白に認識するの勇気を持たねばならぬ。……」

後述するように、フランス皇帝ナポレオンに蹂躙され、屈辱的な講和を押し付けられたプロイセン(ドイツ)の、「興起」を念願として設立されたベルリン大学であったが、フィヒテはドイツ民族の無残な敗北は、その宿弊の「利己心」の結果であり、その利己心が「被治者階級」ばかりでなく、「治者階級」にも瀰漫した結果であると確信していた。

話をバンクーバーオリンピックに戻すと、中継のテレビ画面を通して伝わった冷厳な現実として、身長190センチ、体重100キロの選手が勢ぞろいして肉弾相打つアイスホッケーのような競技の決勝に、日本人その他東洋人の出る幕は、少なくともこの先何十年間はないことも改めてはっきりした。

「希望的観測」と「客観的事実」とを混同するという、いつもの悪い癖はイベントを盛り上げるためのご愛嬌と解釈すれば、腹も立つまい。

日本のメダル獲得順位は金メダルなしの20位。

5位の韓国は、選手の数は日本選手団の半分という少人数で、金メダル6個、銀メダル6個、銅メダル2個を獲得した。

その領土が九州よりはやや大きく、北海道よりは小さなオランダは、金メダル4個、銀メダル1個、銅メダル3個を獲得して10位である。

7位スェーデン王国(金5、銀2、銅5)の人口は、920万人で大阪府を少し上回る程度、4位ノルウェー王国(金9、銀8、銅6)の人口は480万人で、福岡県よりも少ない。

腕力で叶わなくとも、頭では負けないとでも言うつもりか、近頃日本人はノーベル賞の受賞者が多いことを誇っているが、平和賞、文学賞以外の受賞者13名のうち4名の方々はアメリカの大学や研究機関に在籍中に受賞したものであり、その他にもアメリカ留学の経験者が何名かおられる。

単に研究の先端がアメリカにあるばかりでなく、江崎玲於奈博士が喝破したように、個人の能力を最大限に発揮できる社会風土は日本にはなく、アメリカにあるからである。

蛇足ながら付言すると、過去のノーベル賞受賞者数は、アメリカ286人、イギリス104人、ドイツ77人、フランス50人という具合である。

前回のトリノオリンピックでは、たった1個の金メダルを取った荒川静香選手のことで半年以上、テレビを先頭に、鬼の首でも取ったようなカラ騒ぎに明け暮れていた。

いじましいとも何とも、形容しようがない。

絶海の孤島に永らく暮らしてきた日本国民の、「夜郎自大」という国民性が、いよいよ顕在化して、背後に見え隠れしていた「傷つきやすく脆い精神構造」、即ち「内向きで、ひ弱な精神構造」まで露呈して来たのである。

敢えてここに、「脆い」、「ひ弱」という言葉を選んだのは、外国人(西洋人)に対するインフィアリアーコンプレックス(劣等感)が、日本の外交政策に陰に陽に絡んで、外交当局者にとっての大きな陥穽となっているからであるが、その問題は改めて別の機会にお話したい。

「外国学ぶに足らず」、「国風はみな善、改むべきものなし」というような言動が横行する昭和の初めの日本人を憂えて、尾崎行雄は次のようにも述べて忠告した。

「敗れて屈せず、勝って驕らざるは、偉大な国民の性格であるが、不幸にして我が同胞は、勝って大いに驕った。敗れたら大いに屈しはしまいか。
日清戦争までは、あれほど尊敬した支那人を、現在の如く軽蔑する我が同胞の性格は、残念ながら偉大な性格ではない。
この性格は外交上に於ても、又個人に於ても国家の大害を生ずる。
……世間多少の成金者流が元の身分を忘れて跋扈跳梁するがため、他人に嫌悪せられる所以も亦ここにあるのだ。
大和民族にしていやしくも前途大いに発展せんと欲せば、必ず先ず右の成金的性格を芟除改善しなければならぬ。……」

常に暗殺を覚悟していた政治家尾崎行雄の言葉には、単なる「集票事業家」にはない、肺腑を貫く重いものがある。

いささか気も重い話とはなったが、ここで話を元に戻して、前述の李秉喆と松下幸之助の見識をかみしめると同時に、

日本人が国民として追い求めてきた「ナショナルプライド」、即ち「民族的誇り」、「国民精神のありよう」について見つめ直してみたい。

オイルショックを乗り切ってから、あの時点(昭和57,8年頃)までの日本国民は、「経済大国」、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」あるいは「イコールパートナー」等の言葉に酔っていた。巷には「ジュリアナ現象」とか呼ばれて、夜明けまでディスコで踊り狂う男女が闊歩し、化粧品業界や乗用車業界にあっては、高い値段の商品の方がよく売れて、日産自動車が売り出した高級車「シーマ」に因む「シーマ現象」という言葉が生れたほどであった。

「近頃日本人のムードをどう評価するか。」

というニューズウィーク誌キム・ウィレンソンの問いかけに、一言「生意気だ(insolent)」と答えたのは、いわゆる「高度成長」に浮かれて「夜郎自大」に陥りつつある日本人に警告を発したのではないか。

そう答えた韓国経済界のドン、サムスンの創業者李秉喆は、前述のように昭和5年、早稲田大学に留学して昭和の初めの日本の雰囲気を熟知し、昭和30年代以降、実業家として頻繁に来日して日本人をきっちり観察していた。

一方、あの頃の日本国の実情(実態)は、松下幸之助が慨嘆し、焦慮したとおりであった。

松下が嘆いたように、「思い切って事を行う意志と勇気に欠ける」日本国民は、その一方で明治以来、「三等国から五大国の一つ」、その後の「帝国海軍あるいは戦艦大和」、そして「経済大国」、「G7の一つ」、最近に至っては「先進国」等の言葉を頻繁に持ち出して、自らの「ナショナルプライド」としてきた。

しかしながら、その「ナショナルプライド(民族の誇り)」なるものは、
国民の政治意識を含む「文化のありよう」は低レベルのまま、
得意とするほんの一面を誇張して自己イメージを膨らませた、
独りよがりの日本国民の自負驕慢の結果の自己陶酔、
換言すれば「幻のナショナルプライド」とでも、
呼ばれるようなものではなかったか。

国際連盟脱退後、「世界の孤児」となっても、あんなに日本国民が頼りにし、誇りにしていた巨大戦艦「大和」や「武蔵」は、航空戦力主体の時代に乗り遅れて、単なる「無用の長物の典型」として終わってしまった。

余談ながら、次に大きな戦争があるとすれば、その主戦場は「宇宙空間」であり、主体となる戦力は「精密誘導技術」と、相手ミサイルの発射から2分以内にそれを打ち落とす「メガワット級の高出力レーザー砲」のような火力であろうが、戦略核弾頭一発でも撃墜しそこなえば、地球人にとって悲惨な結末となることも明らかである。

本題に戻って、松下幸之助が慨嘆した「思い切った事を行う意志と勇気に欠ける」日本国民が、目前の「平成メガ不況(大停滞)」とでも呼ぶべき事態を含めて、この国の閉塞的状況を打開するには、「黒船襲来」や「マッカーサー元帥による占領」のような、いわゆる「外圧」の恐怖によって発狂状態に陥るまで、待たなくてはならないのか。

打つ手があるとすれば「外圧」がきっかけ、今もそう考えている方が多いのではないか。

明治以来の「立憲政治」が、事実上破綻したことに関して、尾崎行雄は次のように結論した。

「……多年の経験上、世界最善の政治様式と認定せられてゐる英国流の政党政治は、なぜ日本に於て大失敗を招いたか。正直に且つ簡単に云へば、我が国人の政治的智徳が足らないためである。
立憲政治は申すまでもなく、多数弱者の力を以て少数な強者の横暴を制御するために工夫せられた政治法である。
決して少数強者の横暴を助成するための機関ではない。
故に一般選挙人は、どちらかと云へば、ある程度まで時の権力者に対抗する精神を有し、且つ之を投票に現さなければならない。
然るに我が国人は最近七百年間、武断政治の下に生存したゝめ、常に時の権力者に服従する習慣性を生じた。

北条でも、足利でも、豊臣でも、徳川でも誰でも構わない、政権さへ掌握すれば全国挙って之に服従した。

さうして云った、「長いものには捲かれよ」、「強いものには降参せよ」と、此の思想習慣は、立憲政体とは到底両立し得べからざるものである。

立憲政体の下に於ては、ただに強者に屈服する必要がないのみならず、投票の入れ方に依ては、却って強者を屈服せしめる事が出来る。

これが憲政の妙所巧用であるのに、我が国人の多数は、未だ之を悟るだけの知識を持たない。

其の上、徳義心が不足で、投票を売るものが多いから、選挙は常に権力者の勝利に帰し、議会は却って政府の横暴を助ける機関となる。

一般人民の智徳の欠乏すること既にかくの如くなる以上は、其の内から選挙されて議員となるものゝ智徳も亦勢ひ欠乏せざるを得ない。

従って議会の決議は、是非曲直若しくは国家的利害得失によってなされず、多くは党派的見地によってなされる事になる。

又内閣は、其の党の私利私益を計らなければ、党員離反して長く其の地位を保つことが出来ないから、何れの政党首領も政権さへ得れば、必ず先ず党利党益を図ることになる。

これが英国式政党政治が日本に於て失敗した最大原因であって、つまるところ、全国多数人の智徳の欠乏に帰着する。

而して群小政治家は此の智徳の欠乏に乗じ、各種の腐敗手段を施して一般公衆を誘惑するから、愈々憲政の堕落を助長し国家を危殆に陥れる。……

……失敗の原因が智徳の欠乏、即ち文化の不足にある以上は、順当な救正法は、国民の智徳を開進するより外にない。

然し、それは国家百年の業であって、目前の間に合はないから、他に応急手段を求めねばならぬ。……」

こう喝破した尾崎は、応急手段なるものを提言するが、そんなことでは問題解決にならないことは、2010年の今、愈々明らかである。

我々の課題はただ一つ、国家百年の大業たる「国民教育」に正面から向き合うことであり、封建制度や鎖国によって形成され、二十一世紀まで引きずってきた特有の国民性のマイナス面を直視し、「事大主義」、「権威主義」を底流とするレベルの低い「国民精神」、即ち「文化のありよう」について、猛反省と改善を図ることである。

全ては、「国民精神のありよう」、「文化のありよう」に起因することを自覚することが出発点である。

そして「全国多数人の智徳の欠乏」即ち「文化の不足」を改善、改正する道は当然、「偏狭なナショナリズム」などとは無縁の、「世界に通用する理念に基づいた国民教育」でなければなるまい。
尾崎行雄が生涯をかけて忠告したように、自国の短所欠点を常に認識し、他国の長所優点を採って補填するためには、謙遜の中に、世界の一流国に劣らないことを熱望する大きな抱負(理想)を懐いた教育、即ち「雄勁闊達な国民精神」、李秉喆のいう「積極的な国民精神」を目指す教育を求めるべきではないか。

少しばかりの事に自負驕慢に陥り、自己満足に陶酔する代わりに、日夜精励してその抱負(理想)を実現すべき道を歩む教育を求めるべきである。

周知のように、福澤諭吉は「日本国民の意識改革」を目的として、委曲を尽くし、口をすっぱくして(蝶々喃々数千言、噛んでくくめるように言って)、懸命の「啓蒙活動」に一生を費やした。

だが、100年経っても日本国民の(政治)意識に顕著な変化は顕れなかった。

福澤が説いた「独立自尊」即ち「一身独立して一国独立す」という言葉の意味を国民が自覚、自得するまで、日本は「近代市民社会」とは見做されない国家と言うことが出来よう。

『福澤諭吉のすゝめ』の著者大島仁氏の言葉をお借りすると、

「己を尊敬し、自らの伝統を尊敬すること。しかも、その伝統に対して自己独立を保ち、主体的に伝統に対すること。すべてはそこから始まるのではないだろうか。
他者を崇拝し自らを卑下する、あるいはやたらに他者を見下して尊大になる。
日本人はこの二つのどちらかしか知らないと、福澤は嘆いた。
独立自尊とは魂の尊厳の自覚、つまりは精神性の覚醒のことだ。世間とか社会とかいったものよりもはるかに価値のあるものが人間ひとりひとりの中に眠っているということを悟らないかぎり、独立自尊という言葉の真意は伝わるまい。」ということになろう。

福沢は明治政府には仕えず、爵位も勲章ももらわず、自らを「私立(独立)の人」、「翻訳の職人」として学問も商売も同じであり、「学者も一種の職人に過ぎない」という立場を貫いた。政府(権力)に近ずいて「空威張り」に威張るような、人としての品格のない所業をとりわけ忌み嫌ったことを、我々は忘れてはなるまい。そうでなければ福沢諭吉があまりに「可哀相」ではないか。


V.毛沢東「体育の研究」と嘉納治五郎
ところで、ロシアのプーチン氏は既に大統領としての任期を終え、今度は首相となって、ロシアの遅れた政治システムの中とはいえ今や同国の最高実力者として、ロシア史に燦然と輝くピョ―トル大帝をも連想させる強大な権力を握っている。

オランダ語の新聞を読むことを日課としていたピョートル大帝が、ロシア近代化に果した役割については当サイト『卓話室Uシリーズ10、11』でも言及したが、それは一種の喜劇とも言えた。

国民の政治意識、文化の程度が遅れているロシアでは21世紀の今日も一般国民は政治には無関心で、BBCが伝えるところによると、ロシア国会下院議事堂の前を通るロシア人は、そこは、議員がプーチン氏の「意向を承る場所」であると認識しているとか。

そのプーチン氏に関して過日、当コーナーにおいて(2008年5月26日付)「嘉納治五郎門下、露国首相プーチン氏の柔道」と題してお話した。その中でも触れたように、現在講道館柔道六段の同氏は、自宅の一室にブロンズ製の嘉納治五郎の坐像を安置し、毎朝拝んでいるという。

2008年5月25日朝のNHK(BS)ニュースは、ロシアで開催された柔道の国際大会において演説したプーチン氏が、「ロシア社会の発展に柔道の精神は重要」と述べたことを伝えている。

プーチン氏の話の内容は伝えられていないので、この演説についてコメントすることは出来ない。

しかしながら、唐突を承知で、現在、講道館 柔道資料館において自由に来館者が持ち帰ることができるチラシを、そっくり敢えてここに掲載して読者の参考に供したいと思います。


精力善用 自他共栄



嘉納治五郎師範 遺訓



柔道は心身の力を最も有効に使用する道である。

その修行は攻撃防御の練習に由って身体精神を鍛錬修養し、斯道の真髄を体得することである。

さうして是に由って己を完成し世を補益するが、柔道修行の究極の目的である。



Professor Jigoro Kano left his last teaching to the effect

that

Judo is the Way to use most efficiently one’s mental and physical strength.

By training, one should discipline and cultivate his body and spirit through
the practice techniques for offence and defense, thereby to master the
essence of this Way.

And;

by dint of these means, it is the ultimate goal of Judo

to build oneself up and benefit the world.






「原理」を明らかにした上で、古流柔術を基に画期的「イノベーション(技術革新)」を達成し、「精力善用 自他共栄」という、国連憲章にも勝る「理念」を世界に提示した嘉納治五郎創始の「講道館柔道」は、現在世界に900万の柔道人口を擁し、「普遍性を有する世界文化」として、「地球文化の一端を担う存在」となった。

「ハジメ、マテ」、「イッポン、ワザアリ」等の日本語はサッカーのオフサイド、ラグビーのノッコン等と並ぶ世界語となり、嘉納治五郎は、スポーツばかりでなく産業分野を含めても数少ない「日本発世界標準」の一つとなる「システム」の確立者となったのである。

2008年4月1日から2009年3月末まで一年間に講道館付属柔道資料館を訪れた人々は約2700人、その内1200人は様々な国籍を有する外国人であるという。

今や「講道館柔道」が、日本を外から支える「強力なソフトパワー」の一つとなった明らかな証左ではないか。

政治、経済を専攻し、東京大学文学部第二期生(同期6名)として明治15年東大を卒業した嘉納治五郎(23歳)は、巡査の初任月給が6円の時代に、学習院平教員としての月給80円で足らず、翻訳等、夜なべのアルバイトで得た金をもつぎ込んで「講道館」を立ち上げた。

あくまで「無料指導」を原則とした嘉納の講道館設立の目的はただ一つ、「立派な人を造る」即ち「真の国士を養成する」ということにあった。

初代日本体育協会(体協)会長、アジア人初のIOC委員、日本としては初参加の第5回ストックホルム・オリンピック日本選手団長、日本英語協会会長(昭和二年就任)、貴族院議員(大正十一年勅選)等を歴任した嘉納治五郎は、「雄勁闊達な精神の権化」のような生涯を全うし、その一生は、正に「文明開化、日本近代化の申し子」とでも形容すべき一生であった。

更にここに特筆すべきは、嘉納の中国に対する開明的な姿勢である。

明治29年、明治政府の意向(清国公使の要請を受けた西園寺公望文部大臣)を受け、13名の清国留学生の受け皿として嘉納が開設した学校は、亦楽書院、弘文学院そして宏文学院と名前を変えたが、最盛期の明治39年には、1629名の学生を寄宿させる大きな教育施設であった。

修行年限は三年、日本語、日本文法と普通教育を教え、魯迅や陳独秀も一時ここに在席した。

当サイト「卓話室Tシリーズ3」では要約して『毛沢東の体育論』を紹介したが、これは毛沢東が長沙の師範学校在学中に上海の雑誌『新青年』に寄稿した論文であり、その『新青年』の編集長は前述の陳独秀であった。

日本に来たことがない当時23歳の青年毛沢東は、帰国した元清国日本留学生から得た情報を基に、この論文を執筆したのではないか。

様々な理由で、反日的となって帰国した清国留学生も多かったようであるが、少なくとも宏文学院における嘉納の講話や訓話を通じて、嘉納の「正大な議論」や「深く暖かい懐」に感銘を受けた学生が多かったはずである。

「東西の有名な体育家、アメリカのルーズベルト、ドイツのソーンダイク、日本の嘉納は、みなうまれつき弱かったのに、強壮な身体の持主となった人びとである。」

論文の中でこのように嘉納治五郎を引き合いに出した毛沢東は、以下のような持論を展開したが、それは嘉納を知るものにとっては、あたかも嘉納治五郎が毛沢東に乗り移ったかのような印象を受ける論文である。

「……体育こそ、われわれの生活で第一の地位を占めるべきものであって、身体が強壮であってこそ、はじめて学問も道徳も習得することができ、遠大な効果をおさめることができるのである。…」

「……体育は感情を調整するだけでなく意志を強くすることもできる。体育の大きい効果はここにある。体育の趣旨は武勇ということであって、武勇の内容とは勇敢なこと、恐れないこと、大胆なこと、辛抱強いことである。
これはみな、意志にかかわることである。
……意志はもともと人生事業の前提となるものである。……」

「……体育は、筋骨を強くし、知識をふやし、感情を調整し、意志を強める効果をもっている。

筋骨はわれわれの身体に、知識・感情・意志はわれわれの心のなかにある。

心身ともに快適ならば、これを完全な調和ということができる。

体育とは、われわれの生命を養い、心をたのしませることにほかならないのである。…」

現在、講道館柔道六段のロシアのプーチン首相は、紛れもない嘉納治五郎門下生の一人であるが、毛沢東こそ嘉納治五郎門下の筆頭と呼んでは、お叱りを受けるか。

少なくとも論文「体育の研究」において23歳の青年毛沢東が説く基本思想は、前掲した「嘉納治五郎遺訓」を敷衍したものであることは間違いない。

因みに、第一回清国日本留学生の卒業式は明治33年4月17日、講道館で挙行され、7名が嘉納から卒業証書を受け取り、卒業生総代の「答辞」は、衰微した祖国を憂え、その興起を担う決意を披瀝した見事な日本語であった。

嘉納家とは縁が深く、嘉納治五郎本人にとっても恩人の一人である英傑勝海舟は、清国北洋艦隊提督丁如昌とも交流があり、日清戦争で調子に乗った日本国民が、浅はかにも清国に対して侮蔑的、挑戦的態度をとっていることを嫌悪し、警告していた。

中国に対する開明的な姿勢ばかりでなく、嘉納治五郎は、「徳育」「体育」「知育」という、いわゆる「三育のバランス」という考え方を時代にはるかに先駆けて重視した教育者として、正に「天成の教育家」と呼ばれるに相応しい人物であった。

講道館や嘉納塾とほぼ同時期に嘉納が開設した学校「弘文館」は、明治22年嘉納の欧州視察まで7年間持続したが、当コーナー(2009年9月04日付)で詳述したように、そこでは、英語や心理学その他の教科ではなく、「柔道」をあくまで中心に据えたカリキュラムが組まれていたのである。

明治35年8月31日、清国訪問の日程の中で、嘉納は北京の総督衛門における清国総督張之洞との短い会談において、「国民教育の重要性」を述べた上で、その重点三か条の第一として、

「徳性を養成せざるべからず、知識技芸も徳性の備わった人を待ってはじめて用をなす。」と強調した。

当サイト「卓話室T」でも言及したが、学習院教授兼教頭を辞任後、明治24年8月熊本の第五高等中学校(五高)校長に就任した嘉納は、島根県松江の(旧制)中学校や師範学校で英語を教えていたラフカディオ・ハーンを引き抜いて五高の英語及び英文学の教師として招聘した。

程なくして明治26年1月(34歳)、教科書検定を巡ってトラブルのあった前任者に代わって文部省教科書検定課長を命ぜられた嘉納は、連日夜中まで働く猛烈ぶりで検定作業を終了し、この年明治26年6月には、一高(第一高等中学校)校長に任命されたが、着任して息を付く間もなく9月に高等師範学校長兼文部省参事官に任命された。

以後、延べ23年と4ヶ月の間、高等師範学校長を務めた嘉納は、明治31年(39歳)には文部省普通学務局長をも兼任した。

当サイト「卓話室Tシリーズ10」に掲載した「普通学務局長兼任の弁」は、今日の日本が抱える教育問題の核心を突く見識でもあるが、
「教育者の魂を養成すること」を「師範教育の第一の目的」とした嘉納は、その抱負を次のように述べた。
「……教育者は貧弱なる村落における小学校教員でも、その人の心がけ・力量及びその努力のいかんによっては、偉大なる人物を養成することが出来る。
なんとなれば、僻遠の地においても、多数の小学校児童のうちには勝れたる天稟のものは見出し得るものであるが、この勝れたる天稟の児童にたいして勝れたる教育者が六か年の訓育につとめたならば、必ずや、他日大いに伸びる人物の基礎を作り上げることが出来るのである。この基礎の上に間断なく連絡を保ち、高等の教育を了えて、社会生活を営むまで、適当なる指導をおこたらないならば、ついに立派なる人物が出来上がる。して見ると、つまり微々たる一村落の小学校の教師が始めに基礎を作って、大人物を社会に送り出したとも考えられる。教育はこういう性質を有するものであるから、多数の有力なる人物を教育界にぜひ取り入れなければならない。」


VI.エクセレンス(Excellence)の精神
その嘉納の夢を最大級、最先端で実現して見せたのが、国際連盟事務次長兼政務部長、IOC委員、フランス大使を務めた杉村陽太郎である。

昨年当コーナーで5回に亘り「嘉納塾の俊傑、杉村陽太郎の見識」と題してお話した杉村陽太郎は、師匠嘉納治五郎に勝るとも劣らない「高邁な見識と雄渾な気魄」の持主となって、国連という第一級の国際機関において縦横無尽の働きを見せたのである。

毎日夕方5時から6時半まで柔道練習を欠かさない「嘉納塾」において、杉村は既述のように断トツの実力の持主であった。

だが、嘉納塾の素晴しいのは、中年舎塾生として、あるいは、学生柔道界にあって杉村がどんなに強くても、嘉納塾成年舎には後に十段位を得た永岡秀一がおり、塾の近くには、あの「鬼横山」こと横山作次郎が住んでいて、上には上、更にその上あり、というところにあった。

「自負驕慢」などという要素が入り込む隙は何処にもない杉村の柔道修行であったが、当コーナー(2009年4月6日付)で詳述したように、嘉納が奨励した英語、とりわけ文芸活動においても、塾内回覧誌『気帥』を介して、杉村は6歳年上とはいえ同じく嘉納塾中年舎の安藤正次クン(後に台北帝国大学総長、戦後は国語審議会会長)と切磋琢磨できるという、実に恵まれた、この上ない教育環境で育まれたのであった。

「嘉納塾」の教育目的は、「よく艱難困苦に打ち勝ち克己、勤勉、努力の習慣を養い、人のために潔く推譲する精神を涵養する」ことにあった。

「推譲」を辞書で引くと、人を推薦して地位、名誉などを譲ること、とある。

同じく「涵養」を引くと、水が自然に染み込むように、無理をしないでゆっくりと養い育てること、となっている。

この「人のために潔く推譲する精神」を表徴し徹底するために、嘉納塾には「元旦式」という独特のセレモニーがあった。

その模様は、嘉納自らが語るところによると次のようであった。

「明治十七年からであったかと思うが、塾で元旦式ということを行うようになった。この元旦式というのはどういう式かというと、最初に一つの杯をとって塾長たる自分がそれに屠蘇をつぐ。それをば少しも飲まずにこれを上席のものに廻す。そのものがさらに屠蘇をつぐ。やはり飲まずに次へ廻す。こうして、順に廻して、遂に塾長の許へかえしてくる。この間つぐばかりで、誰も少しも飲まない。今度はそれをまた、屠蘇もつがず、飲みもせずに、そのまま廻す。

第三回になって、塾長は第一回に注いだ分量より少なく屠蘇をのむ。次々にまわして同様にする。こうして一巡すると、最後にまだいくらかの屠蘇が残ることになる。

これはどういうことを意味するかというと、最初屠蘇を注ぐのは自ら働くことを意味する。つぎに飲まずにまわすのは人に譲るという心である。めいめい他のためにつくして自分はとらないということになる。二度目は再び譲る。三度目は自分の働いたのより少なくとる。そうして、あまりは共同資本として貯えることになるのである。……」

「偏差値」とかに血道を上げている二十一世紀の日本人にとっては、「崇高」とも受け止められる教育目的を持って「嘉納塾」を運営した嘉納は、次のような信念に基づいていた。

「当時、自分のもとに託された子供の中には、財産も豊かで、書生や召使などから大事に取扱われるために、つい、わがまま、惰弱に流れるというものもあり、また本人必ずしも悪くはないのであるが、境遇のために邪道に陥るというようなものもあったりするので、いずれの親からも、厳格な教育をという注文を受けた。
自分自らも、昔から困苦の間に人となったものは自然、精神も確実で、敢為の気性も養われ、やがて、有為の人物となっていると信じていた。
それで、親の膝下にあっては、つい、あまやかされて、自然的には困苦欠乏を味わい得ないという人々は、塾において修行する必要があると信じたのだ。」

そして、嘉納が「推譲する精神の涵養」と共に最も重んじた嘉納塾の指導方針は、「敢為の精神を養う」ことにあった。

十一歳から一高入学の十七歳まで5年余り、こういう嘉納塾で訓育された杉村陽太郎は、天性の資質と相俟って、「日本国が世界に誇る外交官」とでも称さるべき存在となって恩師嘉納治五郎を喜ばせ、その死に際しては、小村寿太郎以来、二人目となる「外務省葬」をもって送られた。

一期目(4年)の任期を見事に果した杉村は、国際連盟政務部長という役職の困難さを十分認識しており、一期で役目を降りるつもりでいた。

ところが、事務総長ドラモンドのたっての願いにより引き受けた二期目の事務次長兼政務部長の席にあった昭和8年2月、松岡洋右外相に率いられた日本全権団は満州問題に関する国連総会票決において、「42対1」という歴史的大惨敗を喫した。
松岡は大見得を切って国際連盟を脱退し、日本は以後、世界の孤児となったが、それを提灯行列で祝うような、世間(国際社会)知らずの日本国民であり、その後の浅はかな「焦土外交」の根っこには、そういう「国民性」があった。
辞任して帰国した杉村が、『国際外交録・杉村陽太郎の追憶』と題してその高邁な見識を披瀝したのは、奇しくも尾崎行雄が雑誌『改造』に「偉大なる国民性の養成」と題して、ここに紹介した見解を発表した昭和8(1933)年のことである。

杉村の見識の中味については、当コーナー(2009年3月10日付)で詳述したので、ここでは繰り返さない。

日本国にとって「真の彌栄(いやさか)の道」は、「Excellence(エクセレンス)の精神」、即ち「卓越を求めて絶えず向上する精神」を以て、諸外国に伍して生きて行くうちに開けてくる、という杉村の主張こそは、今、正にこの国が必要とする大方針ではないか。

写真に示す「憲政記念館」構内に建てられた三面塔星型時計塔は、「司法、立法、行政」という三権の分立を象徴して三角の形状をしているが、その高さは、尾崎のモットーを表徴して31.5メートルに設計されている。

尾崎は「百尺竿頭一歩を進む」という言葉を愛した。その意味は「努力のうえにさらに努力して向上する」ということであり、時計塔の高さは尾崎のその意を汲んで百尺(30.3メートル)より高くして31.5メートルに設定されたのである。

「卓越を求めて絶えず向上する精神」が支配するところには、自負驕慢、成金的性格や自己欺瞞の入り込む隙はないはずである。

その「エクセレンスの精神」を支える土台の第一は「体力」、第二は「学問(科学、技術、文芸、美術、音楽)」、第三は「剛健な国民精神の養成」である、とした杉村陽太郎は、「スポーツ亡国」、「科学亡国」は人類史においてはけっしてあり得ず、「スポーツの盛行は興国の兆候である」と喝破した。

ところが、最近行われた小中学生の体力調査の結果、小学校低学年の児童の中には、僅か15センチの段差を飛び降りることが出来ない者がいるという。

OECDが実施した15歳を対象とする学力調査の「読解力」においての、1位韓国に対し日本は15位という結果と共に、衰退しつつあるこの国の実態を象徴していると言えよう。

「科学亡国」もあり得ないことであり、国家の発展には、「科学の盛行」即ち「自由で開かれた発想」が不可欠であることは、アメリカのオバマ大統領がつい最近(2009年4月)アメリカ科学アカデミーにおいて次のように強調したとおりではないか。

「政治の価値観に科学が軽んじられる日々は私の政権で去った。自由で開かれた発想に国の進歩がある」。

余談ながら、前述したように尾崎行雄は、「敗れて屈せず、勝って驕らざるは、偉大な国民の性格であるが、不幸にして我が同胞は、勝って大いに驕った。敗れたら大いに屈しはしまいか。」と予言した。

「昭和元禄」が崩壊して、「失われた10年、あるいは15年」とか言っているうちに「リーマンショック」とやらの襲来である。リーマンショックに襲われるまで15年以上、日本経済は墜落寸前の超低空飛行を余儀なくされた。それでも、経済ニュースの冒頭では、「史上最長の景気上昇が続く中で」なんていう奇妙奇天烈な「前置き」を頻繁に放送し続けていたのである。
高度経済成長とか経済大国等の言葉に酔って、たった10年か20年の経済的繁栄に幻惑され、日本国民が自負驕慢に陥った結果の今日の体たらく、とも言えよう。

「欲しがりません、勝つまでは」の言葉に象徴される「徹底抑圧」の反動を利用して、「所得倍増」、「列島改造」等々、物欲を中心に推進した国家経営30余年の咎めが出たか、尾崎が予言したように「破れて大いに屈した」ことの一つの表れではないか。
福澤(諭吉)流に評すれば、「その志の小にして思慮の足らざる」こと寒心にたえない、と言わざるを得ない。
あの「ローマ」や「元」ですら亡びた。ネルチンスク条約等によってロシアの東漸を押し止めていた「大帝国清」も、末期にいたっては、列強(英仏独露)に蚕食され、小国日本にまで「日清戦争敗北」という恥をかかされた。

今年「万博」が開催される上海には、「フランス租界」とは別の「共同租界」に、イギリス、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、デンマークと並んで日本も権益を有していた。

幕末から明治になっても横浜や神戸には「租界(外人居留地)」があって、そこでは日本の司法権は及ばず、日本人にとって屈辱的な状況であったが、上海の租界においても同じように清国あるいは中国の司法権は及ばず、中国人にとっては屈辱的状況にあったことを忘れてはなるまい。


VII.教育思想の根底
再び本題に戻ると、バンクーバーオリンピックを中心とした今回の話も、日本の今後を見据えて教育にまで話が及べば、ここでフンボルト、フィヒテに言及せずにはいられない、というのが筆者の思いである。

1810年(文化7年)、新たに発足したベルリン大学は、ナポレオンに率いられたフランス軍の軍靴轟くベルリンにおいて、『ドイツ国民に告ぐ』と題する講演を、1807年12月13日から毎日曜日に翌年3月まで14回、果敢に決行したフィヒテを互選によって初代学長に選んだのであった。

身を挺してウンター−デン−リンデン通りのべルリン−アカデミーの大講堂に立ったフィヒテは、次のように呼びかけた。

「今はドイツ国民がドイツ人として覚酔すべきときである。ドイツ人が真のドイツ人になり、ドイツ精神の自覚に立脚して、宿弊をなすところの利己心を捨て、怠惰と、無智と、浅薄と、怯惰とをなげうって、ドイツ全体のために生きねばならぬ秋である。しからざればドイツ国民は、武力をもって外敵から征服されるばかりでなく、更に精神的にも到底再起出来ない迄に打ちのめされ、その精神力を喪失して唯自ら堕落退廃の一路を辿る外はない。

而してドイツ精神の自覚とは、次の二事を果すことである。第一には、精神力を喚起して、それに由って新たなる世界を打開し、新たなる国民の時代を作り、この世界を発展させることに由って、この新たなる時代の内容を充実することである。そのためには利己心を排撃して、国民的道義心を起さねばならない。第二には、新たなる世界打開の唯一の手段たる国民教育を確立することである。

現在のドイツ国民にとって残された唯一の路は、唯教育振興の一路あるのみである。その故に、こゝにドイツ国民教育の原理を確立せねばならないと云うのである。以上の二事を外にして、ドイツ民族恢復の如何なる道も存在していない。」

英仏とは異なり、18世紀になってもドイツは300以上もの中小国家の寄り合い所帯であり、ある意味では封建諸侯が割拠する日本とも似ていた、と言えよう。

そういう環境にあっては、家父長制あるいは家長制的政府という理念、後には「警察国家の理念」が発達し、個々人の行動様式にも「忍耐しつつ服従する臣下のタイプ」、敢えて言えば、ドイツの俗物のタイプが大勢を占め、そういう流れ(基調)は今日まで途絶えていないのではないか。

黒船来襲当時の日本が近代国家の体を成していなかったように、1806年10月27日、威風堂々のベルリン入城を果たし、翌年7月9日ティルジット和約というドイツにとって屈辱的な講和の式典に臨んだナポレオンの前に屈服したプロイセンは、近代国家となるには内政上余りにも多くの問題、即ち「時代遅れの支配機構」を抱えていた。

1807年10月にシュタインが主席大臣に就任して始まった軍制改革、土地改革その他多くの「プロイセン改革」の中で、1809(文化6)年2月10日の内閣告示により、<国家顧問官>の称号を得て、内務省の文化・教育部門の責任者に任ぜられた41歳のウィルヘルム・フォン・フンボルトらによる「教育改革」は、その後のドイツの発展に大きく寄与したばかりでなく、後世の日本その他世界の多くの国々の教育政策にまで影響を与えた正に人類史に残る輝かしい改革であった。

ベルリン大学創立に至る経過には、それまでのドイツの大学に対する反省があって、フンボルトらは、実際生活に役立つ知識のみを得ることでおこる人間の偏狭化、したがって特殊専門的な学問をおさめる職業教育に反対し、ドイツ観念論哲学を基礎にした教養大学創立を目指したのである。

ギムナジウムを卒業した学生はベルリン大学その他においては、まず観念論哲学に基づいて哲学を学習し、孤独の中で自己を見つめ、自己の発見に努め、卒業の暁には法曹や学問の道に進むことが予定され、卒業後は主として官吏となってプロイセンの改革を支えた。

かくしてこの時代のドイツに、生活水準も高く、宗教に対しても距離をとって、一般市民とはかなり違う、教養ある「教養市民層」が誕生したのであった。

しかしながら、このようにしてドイツで新たに成立した教養階層はイギリスやフランスあるいはアメリカなどの教養階層とはかなり異なっていた。

イギリスの教養階層は商業や工業を営みながら自立し、経済に関心を持っていた。

フランスの教養階層は収入の多い地位を持たず、政治的特権がない点で苦しんでいた。

一方、ドイツでは官僚、法曹、教師、プロフェッサーとして国家や王権と結びついていたのである。

国家や王権と結びついていた「ドイツ教養市民層」は、それ故にこそ、支配者に忠誠を誓わねばならなかった。

この点で「英米の教養市民層」とは根本的に異なることを認識すべきである。

その違いが根本的であることを認識することが、今を生きる日本国民とっては極めて重要なことである。

歴史家マイネッケがいみじくも指摘したように、「フランスとイギリスでは、近代国家と近代の個人とがほとんど同時におこった。

イギリスとアメリカでは、人格の自由権と政治的自由権とが全く自明な、自然なままの調和をたもちつつ発達した。

西欧では文化、個人、国家はずっと妥協しあい、摩擦が生じなかった。

これにひきかえドイツにおいては、人格の自由と政治的自由との協調というような理想は、おおむね実現しがたかった。」からである。

マックス・ヴェーバーは自らのフライブルク大学教授就任演説『国民国家と経済政策』(1895年)において、ドイツ人の政治的未成熟を憂慮し、政治的教育の必要をこんこんと説いたように、常にドイツ国民の政治的思考をなんとか訓練したいという熱望を懐いていたという。

ここで、話はいきなりアメリカ合衆国に飛ぶ。

天保2(1831)年4月18日、ニューヨーク市に根をおろしていた小売商人、銀行家、および貿易商人らの有志によって、宗教色をなくした現代的な大学のはしりとして、ニューヨーク大学(NYU)が設立された。

植民地時代の大学は、主として神学に基づく古典を学ぶ場であったが、時代の進展に合わせて、近代的な言語学、哲学、歴史、政治経済、数学および自然科学を、家柄や階級ではなく、実力によって選ばれた若い男子が学ぶことのできる大学のアメリカにおける嚆矢となったのが、ニューヨーク大学である。

ニューヨークには、初代駐日公使として日米修好通商条約を締結したタウンゼント・ハリスが、来日前にニューヨーク市教育局長として1847年創設し、アメリカで最も伝統ある公立大学となったニューヨーク市立大学(CUNY)や、1948年創立のニューヨーク州立大学(SUNY)もあるが、NYUは私立大学である。

その設立委員長であったアルバート・ギャラティンは、NYU設立の必要性について、友人にあてた手紙において次のように述べた。

「労働階級の標準的な教養水準および意識を、より恵まれた地位にいる人と同程度にまで向上させないことには、この民主的な体制と参政権を保持するのは不可能なように私には思えます。」

ギャラティンの指摘のとおり、民主主義を維持するには、「不断の意識的努力」が必要であることを、我々日本国民は21世紀の今も、十分には認識していない。

尾崎行雄が、正直且つ簡単に述べたように、自らの「政治的智徳が足らない」こと、即ち「国民性が陋劣」では、偉大な国家を建設出来ないことに思い至らないのが、今日の実態でもある。

スイスはジュネーブの貴族階級に生れたギャラティンは9歳で両親を失い、遠縁に預けられたが、13歳で入学したジュネーブのアカデミーで示した早熟な知性は、当時高名な学者たちの注意を惹くほど高いものであったという。アカデミーを卒業して1年後、19歳のギャラティンはアメリカに向った。アメリカ合衆国独立宣言に鼓舞され、窮屈なジュネーブ上流階級の保守主義から逃れる為であったとも言われているが、本当の理由はもっと平凡で、アメリカへ行き貿易と土地投機によって一山当て、ジュネーブにいては不可能な、自らの独立を果すことであった。

民族学者、言語学者あるいは、政治家、外交官としても卓越した業績を残したエイブラハム・アルフォンス・アルバート・ギャラティンは、アメリカ合衆国草創期に第四代財務長官を務め、その在任期間はアメリカ史に輝く13年の長きに亘った。連邦財政の均衡に腐心したその功績を顕彰して、堂々たる彼の銅像が今、首都ワシントンDCの財務省前に立っている。

因みにニューヨーク大学の校訓(モットー)はラテン語でPerstare et praestare英語でTo persevere and to excel とされている。敢えて日本語にすると、

「きびしく耐えしのぎ、卓越する」ということになろうか。(了)



参考文献

務台理作著『フィヒテ』1949年岩波書店刊

福吉勝男『フィヒテ』1990年清水書院刊

尾崎行雄著 尾崎咢堂全集編纂委員会編集

『尾崎咢堂全集』第8巻 昭和30年尾崎行雄記念財団刊

阿部謹也著『物語 ドイツの歴史』中公新書2009年刊

嘉納治五郎著『私の生涯と柔道』2000年日本図書センター刊

嘉納先生伝記編纂会編『嘉納治五郎』1964年講道館刊

西村貞二著『ヴェーバー、トレルチ、マイネッケ―ある知的交流』

                    中公新書1988年刊

大嶋仁著『福沢諭吉のすゝめ』新潮選書1988年刊

斉藤秋男・新島淳良・光岡玄編訳『続 毛沢東教育論』昭和39年青木書店刊

西村貞二著『フンボルト』1990年清水書院刊

亀山健吉著『フンボルト 文人・政治家・言語学者』中公新書昭和53年刊

PHP研究所編『新日米関係論―共存の哲学を求めて』

昭和59年PHP研究所刊

山崎勝彦著『疑人用いず、用人疑わず−サムスン創業者・李秉喆伝』

                   2010年日経BP社刊

参照

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』;ニューヨーク大学 ;租界      

           




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