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元新聞記者司馬遼太郎の慨嘆と気魄−ウィットと説得力に勝るイギリスの新聞

獄中でベンサムの主著を翻訳した陸奥宗光の像(外務省構内)

出獄後それを『利学正宗』として出版した陸奥の横顔

陸奥宗光臨終の地である旧古河庭園
2009年11月21日(土)
道場主 
[東京都]
北区西ヶ原
JR京浜東北線上中里駅から徒歩。外務省(千代田区)構内の陸奥宗光像は10月撮影
「日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。日本をめぐる国際環境や日本の国力などについて論ずることがまれにあっても、いちじるしく内省力を欠く論調になっていた。新聞がつくりあげたこのときのこの気分がのちには太平洋戦争にまで日本を持ちこんでゆくことになり、さらには持ちこんでゆくための原体質を、この戦勝報道のなかで新聞自身がつくりあげ、しかも新聞は自体の体質変化にすこしも気づかなかった。
戦後、ルーズベルトが、
「日本の新聞の右翼化」
という言葉をつかってそれを警戒し、すでに奉天会戦の以前の二月六日付の駐伊アメリカ大使のマイヤーに対してそのことを書き送っている。「日本人は戦争に勝てば得意になって威張り、米国やドイツその他の国に反抗するようになるだろう」というものであった。日本の新聞はいつの時代にも外交問題には冷静を欠く刊行物であり、そのことは日本の国民性の濃厚な反射でもあるが、つねに一方に片寄ることのすきな日本の新聞とその国民性が、その後も日本をつねに危機に追い込んだ。」
これは、名作『坂の上の雲』第七巻(文春文庫)に表明された同書の著者司馬遼太郎の「明治から現代に至る日本社会」についての見解である。
周知のように司馬遼太郎自身は昭和23年から産経新聞社の記者であり、文化部長、出版局次長を歴任して昭和36(1961)年同社を退社し、以後、作家活動に専念した。
その司馬はまた、『坂の上の雲』第六巻においては次のような思いを披瀝している。
「新聞の水準は、その国の民度と国力の反映であろう。要するに日本では軍隊こそ近代的に整備したが、民衆が国際的常識においてまったく欠けていたという点で、なまなかな植民地の住民よりもはるかに後進的であった。
ロシアの革命勢力に対し、
「不忠者」
と呼ばわらんばかりの見出しを、ロシアの敵国の新聞がつける滑稽さはどうであろう。要するに、この当時の日本人は、ロシアの実情などはなにも知らずに、この民族的戦争を戦っていたのである。
ついでながら、この不幸は戦後にもつづく。
戦後も、日本の新聞は、
――ロシアはなぜ負けたか。
という冷静な分析を一行たりとものせなかった。のせることを思いつきもしなかった。かえらぬことだが、もし日本の新聞が、日露戦争の戦後、その総決算をする意味で、
「ロシア帝国の敗因」
といったぐあいの続きものを連載するとすれば、その結論は、「ロシア帝国は負けるべくして負けた」ということになるか、「ロシア帝国は日本に負けたというよりみずからの悪体制にみずからが負けた」ということになるであろう。
もしそういう冷静な分析がおこなわれて国民にそれを知らしめるとすれば、日露戦争後に日本におこった神秘主義的国家観からきた日本軍隊の絶対的優越性といった迷信が発生せずに済んだか、たとえ発生してもそういう神秘主義に対して国民は多少なりとも免疫性をもちえたかもしれない。」
小説の中で、敢えてこういう発言をした作家司馬遼太郎が、
日露戦争をノンフィクションではなく小説として描いた『坂の上の雲』の底に力強く流れるものは、
元新聞記者としての、上記のような「思い」と「見識」であり、
その万感の思いを何年もかけて発表しようとした雄渾な気魄である。
戦車兵として自ら体験した「日本国のお粗末さ」を、一生慨嘆し続けた司馬遼太郎の思いは、満州事変あたりから昭和二十年夏の徹底敗北まで、十数年間に亘る我が国の現代史を顧みて、「日本人というものがつくづくいやになる」という感想を漏らした阿川弘之氏と共通する思いであった。
司馬が慨嘆する「なまなかな植民地の住民よりもはるかに後進的であった」日本国民の「国際感覚」、「政治意識」が滔々と流れる濁流となって、この国に齎した惨禍については、最近の当コーナー(2009年9月4日付)で米内光政との関連において言及しました。
問題の核心は、政治家や軍人の誰彼ではなく、そういう軍人や政治家を生み出した社会そのもの、そこに於ける国民感情、そこで形成される世論の基となる国民一人ひとりの政治意識、国際感覚のレベルにある、というのが予てからの筆者の強い思いである。
司馬遼太郎の指摘のように、「民度と国力」は新聞(マスコミ)の水準に反映されるばかりでなく、逆にその「民度と国力」を絶えず検証していくことが、国家発展のカギであることを忘れてはなりません。
昨今、「世論調査の結果」を、あたかも「金科玉条」、「天の声」、「神の声」のように伝える傾向が瀰漫する中で、その世論に反映する「民度のレベル」即ち「政治意識、国際感覚のレベル」を検証することこそが最も肝要である、と思います。
そうでなければ、とりわけ外交政策等においては、政策責任者がその時々の国民のフラストレーションやヒステリーに迎合して世間に取り入り(支持を増やし)、戦前、宇垣一成陸軍大将が言ったように「一部の短見者流の横車に引摺られて、青年将校でも述べさうなこと(幼稚で視野が狭いこと−筆者註)をお先棒となりて高唱し、何等の策も術もなく、押の一手一点張り、無策外交の極地」に到達し、やがて国家が破局を迎えるのは目に見えているからです。
「帝国議会」開設から早くもと言うべきか、漸くと言うべきか、120年が経とうとして、日本にも「二大政党制」が誕生した今、国民の政治意識、国際感覚の形成に焦点を絞って、司馬遼太郎が慨嘆してやまなかった問題の根源について考えを巡らせてみたい。
話はいきなり今から360年もの昔に遡って、日本で三代将軍徳川家光が死去した1649(慶安2)年の出来事から出発したいと思います。
この年、クロムウェルが主導するイングランド議会内に設けられた特設法廷において、裁判にかけられたイングランド国王チャールズ一世(チャールズ・スチュアート)は、
「暴君、反逆者、殺人者、この国の善良な人々に対する公敵として斬首により死刑に処する」という判決を下された。
判決の3日後、1649年1月30日、セントジェームズ宮から引き立てられた国王は、カンタベリー大司教に付き添われてホワイトホールの外側に設けられた処刑台にのぼって最後の時を迎えた。
この日ロンドン市内は平静で、商店はいつもどおり営業していたという。午後2時4分、にぶい冬の太陽を受けながら国王の首がマサカリで切り落とされた時、その場にいた何千という見物の人々の間から聞いたことも無いうめき声が上がる。
目撃者の一人は「いままで聞いたこともなく、また二度と聞きたくないような声であった」と語っているという。そのうめき声の正体は、勝利感とは全くかけ離れた、「とうとうやってしまった」あるいは、「やり過ぎてしまった」、という悔悟の感情ではなかったか。
この反乱によって国王としての父を失ったチャールズ二世(18歳)と弟のジェームズ(15歳)は従兄のフランス国王ルイ十四世を頼ってフランスに亡命した。強大な力を振るうクロムウェルを憚る(怖れる)フランス朝廷の意向もあって、ヨーロッパを放浪したこともあるこの兄弟であったが、10年の辛酸の後、めでたく1660(万治3)年5月の「王政復古」となった。チャールズ二世は国王となり、「快楽」をモットーとしてほぼ25年間君臨したが、病を得てその生を終えた。兄の死後ジェームズがイングランド国王ジェームズ二世とはなったが、その地位は長続きせず、在位3年足らずでフランスへ二度目の亡命をする破目に陥ってしまった。その間の事情は当サイト卓話室U(シリーズ10〜15)において縷々お話しました。
要するに元禄2年(1689年)の『信教自由令』、『権利章典』成立に至るプロセスは、20万に達する近代的常備軍を擁してヨーロッパに突出するルイ十四世治下の軍事大国フランスに対して、オランダ人ウィリアム三世と「オランダ国民」が、決死の覚悟で打った博打が成功した結果でもあった。
九州よりは大きく北海道よりは小さな祖国オランダの独立を全うするには、イギリスを強制的にでも抱き込んで、「英蘭軍事同盟」を結成する以外に道はなかった、と言えよう。
それを支えたのが、40年前の国王チャールズ一世の斬首、
そして王政復古後、護国卿クロムウェルの骨を、歴代国王も眠るウェストミンスター寺院の墓から引きずり出して、その頭蓋骨を晒す、
そういう「血で血を洗う」ような「凄惨な場面」を繰り返したくない、
という多くのイギリス貴族や「イギリス国民」の思いであった。
その意を挺し国王ジェームズ二世に見切りをつけ、ウィリアム三世の「根回し(調略)」に応じたシュリューズベリー伯爵ら7名のイングランド貴族から、オランダ連邦共和国総督オレンジ公ウィリアム三世に差し出された「イングランド侵攻要請の連判状」が、オランダ軍によるイングランド侵攻の大きな弾みとなったのである。
蛇足ながら付言すると、7名の貴族による「招請状」の末尾にはそれぞれの貴族の暗号(番号)が記入されていた。因みに第12代シュリューズベリー伯チャールズ・タルボットのそれは25であり、密書を届けたのは一船員に身をやつしてオランダに渡ったイングランド海軍のハーバート提督であった。この功によってか、ハーバート提督はイングランド国王(兼オランダ連邦共和国総督)となったウィリアム三世の下でトリントン伯に叙され、海軍卿に任命された。丁度100年前イングランドを襲ったスペイン無敵艦隊(アルマダ)の2倍の勢力(500隻の艦船と2万を超える陸軍)を擁して、
「イングランドの自由とプロテスタントの信仰」、
「我、貫徹せん」
とフランス語で書かれたウィリアム三世の標旗を旗艦の甲板に掲げたオランダ無敵艦隊は、1688年11月5日デボンシャーのトーベイに強制上陸、その後1ヶ月余で、オランダ進駐軍は、ただ呆然として為すすべも無いイギリス臣民を威圧、鎮定した。叔父であり、岳父でもあるイングランド国王ジェームズ二世を討ってでも、「英蘭軍事同盟」を結成して「ヨーロッパの勢力均衡」を図り、戦争を生きがいとするルイ十四世の野望を阻止しようとしたオレンジ公ウィリアム三世の執念、「鉄の意志」が実ったと言えよう。
あの時代に「王国」ではなくオランダ「連邦共和国」という国があり、しかもその国が世界最高の繁栄を享受し、「世界貿易を牛耳っていた国」であったことを忘れてはならない。長崎「出島」の存在などはオランダにとって何ら大勢に影響ないことであり、世界の大勢とは何の関係もない絶海の小島日本では、この前年(貞享4年)に五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を発布し、この年、柳沢吉保が側用人に登用され、年号が「元禄」となった。南洋日本人町が消滅したのはこの頃のことである。
話を元に戻すと、この「オランダ革命」あるいは「オレンジ家の変」とでも称さるべき「事変」の結果成立した『権利章典』においては、
平時において国王が議会の承認なしに常備軍を組織・維持することは
違法である
と定められたが、王政(君主制)そのもの、あるいは君主が「統帥権」を行使することを全面的に否定したわけではなかった。そして、その「統帥権」の問題が解決されたのは、170年後の第一次パーマストン内閣、あるいは正式にはその後の第一次グラッドストーン内閣の下(1868年〜1874年)で「軍事改革」が行われ、軍最高司令官は陸軍大臣に従属することが決定された時であった。
この時、陸軍大臣カードウェルが提唱した6年という短期兵役制が確立し、イギリス軍は十分な予備兵力を確保できるようにはなった。しかしながら、「統帥権」に手をかけて、国民の税負担を軽減し軍事予算の拡大を抑えるはずの議会は、その後の歴史においては軍事予算の増大、軍備の拡大を許し続けるという皮肉なことになったのである。
「統帥権」は陸軍大臣にあり、第一次大戦下、ウィンストン・チャーチルは陸軍大臣キッチナー元帥の部下としての海軍大臣に登用されたのである。
蛇足ながら、キッチナー元帥の来日については当コーナー(2007年11月18日付)で言及しました。
170年あるいは200年もかかった「統帥権」を巡る議会と国王(君主)との戦いの帰趨を決したのは、「イギリスの新聞」であり、ヴィクトリア女王時代のその経緯は、後日稿を改めて言及したいところです。
イギリスにおける君主と議会との絶え間ない確執、
そしてそこに割って入り、双方との絡み合い、睨み合いのなかで「世論形成」を謀る(計る)「イギリスの新聞」が、
ウィリアム三世の時代(元禄時代)や、
パーマストン内閣の時代(嘉永、安政時代)に果した役割には、
人類史に輝く目覚ましいものがあります。
とりあえず、今ここでは第三代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル首相とヴィクトリア女王の確執という話をする前に、ウィリアム三世とアン女王の時代における(政治)パンフレットや新聞の果した役割に光を当てて、話を進めたいと思います。
1660年、目出度く「王政復古」によって「快楽」をモットーとして暮らせるようになった国王チャールズ二世が、クロムウェルの秘書をしていたサーローに、共和制政府は民衆の支持も権力も得ていたのに、なぜ一瞬にして両方とも失ってしまったのかと尋ねたとき、サーローは次のように答えたという、
「主として王党派のパンフレットの力によるものでございます。
王党派のパンフレットは、クロムウェル派のものより数では劣っておりましたが、
ウィットと説得力の点で勝っておりました。
政府の権威もこれには抗し切れなかったのでございます」。
政府の権威を吹っ飛ばすに止まらず、戦争を止めさせたり内閣を崩壊させ、世論の方向を導く上で、今日では考えられないほどの威力を発揮したのが、日本においては元禄時代のイギリスの(政治)パンフレットであり、それが発展した「ウィットと説得力に優るイギリスの新聞」である。
そして、世界に先駆けて特異の発展を遂げたイギリスの新聞、その「新聞の権化」とでも称さるべき人物が、晩年に小説『ロビンソン・クルーソー』を執筆したダニエル・デフォーであった。
28歳の時(延宝5年)刊行した『企業論』あるいは『改革プロジェクト各論』(An Essay upon Projects)と題するパンフレットにおいて、国営道路網の改良、年金、保険、破産法の検討、軍事教育のための学校等に関する意見と共に、女子教育のための学校の必要性について論じたデフォーは、これによって著作家として広く世間に知られるようになった。
実は非国教徒であったデフォーは、前記ウィリアム三世がオランダから侵攻してきた時、上陸したトーベイから堂々と進軍してくる2万余のオランダ軍を途中のヘンレーまで駆けつけて歓迎したほど、ウィリアムに対する信奉心の篤い人物であった。
1688年(元禄元年)12月18日のロンドン入城まで、イギリス人を相手の軍事的衝突の殆んど無いオランダ進駐軍であり、当サイト(卓話室Uシリーズ11の5頁)でも言及したように、ウィリアム自身は近隣の貴族の館を訪ねたり有名な絵画を鑑賞したりしていたが、略奪等を禁ずる軍律は厳しく、行軍途中のウィンカートンでは盗みを働いた兵士2名が絞首刑に処せられたという。新国王となったそのウィリアム三世の信条とする
「宗教に於ける寛容」、「風俗習慣の改革」、
「トーリー、ホイッグ等の党派間闘争の中庸化」、
「ヨーロッパに突出する軍事大国フランスからの無理難題の拒絶」、
「イングランドとスコットランドの連合」、
そして、「イングランドの通商拡大」、
これら全てをダニエル・デフォーは熱烈に支持し、その後10年余り、デフォーは国をも揺るがすような威力ある筆力をもって、ウィリアムの為に大働きをしたのである。
そのウィリアムは英国王位に就いて、希求していた「英蘭連合」は成立したが、「並び立つ者なし」を座右銘とするルイ十四世との対決は終わらなかった。1691年1月、ほぼ3年ぶりに祖国オランダに帰ったウィリアムは、ハーグにおいてバイエルン選帝侯、ブランデンブルグ選帝侯、スペイン領ネーデルラント総督らと合議し、ヨーロッパ制圧の野望に燃えるフランスに対抗して22万の軍勢を投入することを決定した。この時以降連続して6年間、ウィリアムは春には大陸に渡ってルイ十四世の軍と戦い、秋には帰国してイングランド議会を開会するという厳しい生活を余儀なくされ、元々蒲柳の質であったせいか体力を消耗していった。
ウィリアムを消耗させたプファルツ戦争は、1697年9月から10月にかけてオランダのライスワイク(英語名リズウィック)で締結された条約によって一応終結した。ルイ十四世率いるフランスとウィリアムが主導するイギリス、オランダ、スペイン、ドイツ等アウグスブルク同盟諸国との間で、
「ウィリアム三世のイギリス王位承認」、
「オランダのスペイン領ネーデルラント(現ベルギー)要塞地帯に対する駐兵の承認」、
「フランスのナイメーヘン和約以降の征服地のストラスブールなどを除いての返還」
が取り決められたのであった。1678年のナイメーヘン条約によってルイ十四世の威勢は全ヨーロッパに及んだが、このライスワイク条約によってルイの大陸制圧の野望は一応阻止されたのである。
1697年11月14日、「プファルツ戦争終結」という大任を成し遂げたウィリアムはオランダから帰国、2日後の16日には、あのチャールズ二世の王政復古の祝典以来ほぼ半世紀ぶりの、豪華絢爛たるウィリアム三世ロンドン入りの祝典が催された。オランダ軍によるイギリス侵攻から9年が経ったこの時、イギリスにおけるウィリアムの人気は最高潮に達したという。
だが、「戦争を生きがいとする」ルイ十四世はこの条約によってほんの休息時間を与えられたに過ぎず、スペイン王位の継承問題に絡んで新たな戦場に軍隊を送る準備をしていることは明らかであり、宿敵の本質を見逃さないウィリアム三世は対抗手段の準備にかかった。ところがウィリアムは、以前にもまして強力な困難にイギリス国内で直面することになってしまった。
プファルツ戦争の終結とともに、イングランド議会は、国王は彼の軍隊を解体すべきだと主張し、
軍事優先の政策に不快感を示すようになり、
平時における常備軍反対の主張が高まってきたのである。
これに対してデフォーは『議会との合意に基づく常備軍は自由な政府と矛盾しないことを示すの論』と題するパンフレットを刊行した。にもかかわらず、1698年の総選挙で強力となったトーリー党は、12月6日開会した新たな議会においてはウィリアムの行動を妨げる足枷となって、全ての国外の紛争からイングランドを守ることで一致団結していた。彼等は大部分が地方の郷士で、自分の所有地に住まいし、この前のヨーロッパの戦争では莫大な税金を払っていた。
ヨーロッパの出来事にそんなに首を突っ込んで、先の見えない長期の戦闘に軍隊を海外派遣するのは、危険で無益で、金のかかり過ぎである。何故イングランドの兵士がオランダのために、外国にまで行って戦わないといけないのか。
フランス軍がイングランドの地に上陸しようとしているというのなら、戦争に入るかどうか、まだ考える時間が十分にある。
第一、 フランス人にそんなことが出来るはずがない。
第二、 わが艦隊がそれに備えて見張っている。
これが当時のイングランド議会を支配する空気であった。そしてイングランド国内の世論も、イングランドはこの問題に距離を置き、外国勢の間だけでとことん争わせるべし、ということであった。
既にそれまでの下院議長ハーリーの指導で陸軍の規模は僅か7000に激減し、しかも外国人を認めないことになって、ウィリアムの子飼いのオランダ近衛兵ブルー・ガーズ(Blue Guards)もオランダに送り返されることになった。激怒したウィリアムは、1698年12月の議会に対する勅語の草稿に、イギリスを見限ってオランダに戻る意向を挿入したが、この前年4月に大法官に昇進し、12月には男爵に叙されたウィリアムお気に入りのジョン・サマーズの諫言により思い止まったという。
こういう風潮に対してデフォーは元禄13(1700)年11月15日、『二つの重大問題の考察―1、スペイン王家に対してフランス王はどうでるか、2、イングランド人はどのような手段をとるべきか』と題するパンフレットを刊行した。さらに翌12月、『二つの重大問題の再考察』、『品格ある議会人の六つの資質』を刊行し、後者においてデフォーは、
「イングランドの善良なる国民」には、
共通の危機に国民を目覚めさせようと努力する君主と、
全くその感覚・感情を喪失したかに見える議会と、
この二つがあることを指摘したのち、
現在の国際情勢の危機に十分敏感な、国王の味方となる人物を、
新しい議会のために選出するよう選挙人に要請した。
更に直後の1701年1月9日、大部のパンフレット『プロテスタント・キリスト教の危機の考察』を刊行し、それを「キリスト教プロテスタント派の偉大なる守護者にして防衛者である現国王」に献呈した。匿名で刊行されたこれらの政治パンフレットは全てトーリー党の孤立政策を貶め、国王ウィリアムの政治手腕に一層の好意的な光を当てることを意図していた。
デフォーのこういう努力によっても、事態はウィリアム国王の指向するような方向には行かず、オランダ生れのウィリアムに対するトーリー党その他イギリス人の不平不満もこの1、2年の間に根強いものとなりつつあった。プファルツ戦争終了後帰国したウィリアムを迎えての、あの壮麗な祝典がウソのように思われる人心の変わりようであった。
そのような流れの中で、デフォーが前述の『二つの重大問題の考察』、『プロテスタント・キリスト教の危機の考察』というパンフレットを刊行する前の1700年8月1日、ジョン・タッチンがイギリス人の不満を代表して『外国人』と題する風刺詩を発表し、イギリス人(イギリス貴族)に対して無愛想(滅多に白い歯を見せない)である上、不人気な外国政策を遂行するウィリアムに個人攻撃を加えた。とりわけ、その攻撃の鋭い鉾先はウィリアムに仕える高位のオランダ人に向けられて、
ウィリアムについてイングランドにやってきて高い地位を占め、多大の論功行賞を受けたオランダ人は出て行け、
イングランドは生粋のイングランド人のためのものだ、
民族の純粋性を守れ、
と言う論調で、全てを忌まわしい「外国人」という言葉で締めくくった詩であった。
「民族の純粋性」とかいう、1930年代のドイツ、あるいはつい最近1990年代のバルカン半島(コソボ)で流行り、そして今、世界大不況にもがき足掻くヨーロッパにその兆候がはっきり見えてきた、おなじみの「民族(人種)差別ヒステリー」がイギリスを席巻していた。
そこでデフォーは、1701年1月、崇拝するウィリアム三世のために筆を取り、今度はパンフレットではなく、タッチンの風刺詩に対抗する長編の風刺詩『生粋のイングランド人』(The True-Born Englishman)を刊行したのである。
この風刺詩の売れ行きは正に驚異的なもので、9版まで正規の版を重ね、海賊版は12版に及び、この時代までに英語で書かれた詩としては最も広く読まれた詩となった。
ビジネスマン(商売人)として忙しく働きながら、匿名で(政治)パンフレットを矢継ぎ早に刊行する一方、このような長編詩を書き上げ出版して、信奉するウィリアム三世の為に、正に「縦横無尽の筆力」を発揮したダニエル・デフォーである。
デフォーによるこの長編の詩の趣旨は、イギリス人は長い歴史の過程で多くの民族が混合してできた雑種であって、「生粋のイギリス人」などは現実に存在しない。その雑種の人間が架空の血統を誇って「外国人」を軽視するなど笑止の至りだということである。
これによって一般平均的なイングランド人は、今や完全に自らを恥じ、二、三百人程度のオランダ人を政府や軍に受け入れたからといって、イングランドという国がガタビシするような実情ではないことを認めるようになったという。
デフォーにはこの詩の驚異的な売り上げによる相当の金銭的利益もあったが、最も重要なことは、以後、彼はウィリアム三世という「最も偉大にして最善の国王」によって用いられ、「身に余る」報酬を与えられたことであった。
ついに、ダニエル・デフォーは41歳にして、その威力ある筆力によって国王の腹心、助言者の一人となったのである。
それほどこの長編風刺詩『生粋のイギリス人』はインパクトの大きい出版物ではあったが、その中身はインパクト(パンチ力)もあるかわりに多くの人々の自尊心を害し、揶揄嘲弄された人々の恨みを買う怖れのある文言に満ち満ちていた。ここにその第一部に撒き散らされた文言のほんの一部をアトランダムに紹介したい。
「 この得体の知れない、生まれの悪い雑種から
  イギリス人という高慢ちきで意地の悪い代物が現れた、
  いろいろな民族の習慣、苗字、言語、風俗が、
  それぞれに曰くを持っており、
  その残骸は亡びることなく強力で、
  言語の上にも特殊な発音を残した、
  それを聞けば立ちどころに、
  ローマ=サクソン=デンマーク=ノルマン流の英語と分かる。

こういう連中が、オランダ人を軽蔑し、
  新米の外国人を罵る英雄たちなのだ。
  自分たち自身が、史上例なき悪党の子孫で、
  王国を簒奪し、都市の住民を追い出した
  流れ者の泥棒やならず者の群の
  末の末であることも忘れて。
  ピクト人や顔に色を塗ったブリテン人、裏切り者のスコット人、
  どれもこれも飢餓、窃盗、強奪などが元で逃げて来たのだ。
  ノルウェーの海賊、海を荒らすデンマーク人、
  彼等の赤毛の子孫が各地に住みついている。
  これら全部が、ノーマン=フレンチと混じり合い、
  そこから、かの「生粋のイギリス人」が現われたのだ。

  フランスの料理人、スコットランドの行商人、イタリアの売春婦、
  それぞれが貴族か、貴族の母親になった。
  乞食も私生児も新しく取り立てられて、
  この国の貴族は増えるばかり、ほんの一時年月が経てば、彼らも
  在来の者に劣らず、いっぱし生粋の貴族になる。」
正に「罵詈讒謗」、「悪態の限り」とでも評すべき表現で溢れかえっているこのような風刺詩が一年のうちに21版も版を重ねた結果は、やがてデフォーの身に恐ろしい災難として跳ね返ってくることになる。ウィリアム三世が外国人ということで軽侮されていることに反論するよりは、世にときめいている貴族、紳士たちの面の皮を剥いでやりたいという気持ちがありありの、こういう出版物に対して揶揄嘲弄された有力者たちがどのような感情を抱いたか、想像に難くない。
この詩が刊行された1701年から1702年にかけてイギリスの政治情勢は急速な展開を見せた。1701年2月の総選挙ではトーリーは振るわなかったが、議長に選ばれたのは相変わらず大陸政策に徹底して消極的なトーリーの指導者ハーリーであった。
そのトーリー党は、再度オランダ、オーストリア、スペイン等との大軍事同盟を狙うウィリアム三世の対外政策に断固反対の上、議会においては専ら前内閣の閣僚であったホイッグ党貴族の弾劾にうつつを抜かし、上院(貴族院)との角突き合いの喧嘩に明け暮れていた。
政治権力を得るために、スキャンダルを持ち出してお互いの足を引っ張り合い、
国王(国民)に対してはオベッカを競い合う、という古今東西お馴染みの図式である。
ところが、いわゆる「名誉革命」という「人類史に於ける大金字塔」を打ち立てたばかりの、イングランド国民の「国際感覚」、「政治意識」が、もはや議会の多数派トーリー党の孤立主義を許して置かなかった。
「臣民の権利と自由を宣言し、王位の継承を定めるための法」即ち『権利章典(Bill of Rights)』の成立は、世界(人類)の歴史に一線を画する正に数百年に一度の大事件であり、その思想は100年後の「アメリカ独立宣言」や「フランス人権宣言」の源流ともなったのである。
オランダに亡命を余儀なくされていた「社会契約論」の提唱者ジョン・ロックも、オランダ進駐軍と相前後して祖国イングランドに帰国し、『市民政府二論』及び『人間悟性論』を相継いで出版していた。ロックのこの二つの著作がその後の世界に与えた影響について今更ここに述べる必要はない。
そしてそういう雰囲気の中で醸成された国民の国際感覚、政治意識を巧妙に利用したのが、少数派ホイッグ党であり、その尖兵を務めたのがウィリアム王を信奉し、今やその助言者でもあるダニエル・デフォーであった。
この頃、ドーヴァー海峡を挟んで30キロ先のフランスでは、当サイト(卓話室Uシリーズ8の2頁)でも言及したように、「近代に於ける最も偉大な軍制改革者」と呼ばれるルーヴォア侯爵が、太陽王ルイの命を受け、工兵隊、砲兵隊のような「特殊部隊」を世界に先駆けて新設していた。
その上、それまで半独立(貴族の私兵等)で小規模の寄せ集めの軍隊に過ぎなかったものが、中央の権威(王の権威)に統括されて王への絶対的忠誠を誓い、服装(制服)、給与制度が整った秩序と規律のある世界最初の近代的軍隊に仕立て上げられていた。
1678年のフランス陸軍の常備軍は28万に達し、1688年(元禄元年)には、近代的軍隊における徴兵制度への実質的な第一歩としての「民兵選出制度」も導入されていたのである。
1701年当時のフランス陸軍は22万、これに対するオーストリア(神聖ローマ帝国)陸軍10万、イギリス陸軍7万5千という状況の中で、
フランス軍がイングランドに攻撃を仕掛けたならば真っ先に損害を被ると思われるケント州の農民たちは、
種は蒔いたが、刈るのは恐らくフランスの奴らと騒ぐほど、
イギリス国中が本気で「戦争を生きがいとする」ルイ十四世による危険を感じ始めていた。
12年前、オランダ進駐軍のロンドン入城によってフランスへの亡命を余儀なくされたイングランド国王ジェームズ二世に対して、従兄のルイはパリ郊外サンジェルマンに住居を与えて厚遇し、ジェームズのイングランド復帰のための活動を陰に陽に支援していたからである。
「王権神授説の権化」としてのルイにとって、議会とかなんとか、国民(臣民)が政治に口出しするような小癪なイングランドの現状は到底我慢のならないものであった。
更に「カソリックの守護神」としてのルイにとっては、異端(プロテスタント)を信奉するオランダやイングランドを改宗させる努力は当然のことで、自らカソリックであることを明白にした(それゆえイングランドを追われた)ジェームズを支援するのは、イングランド国王に復帰させ、それによるイングランドの強制的改宗(上からの改宗)を狙っていたからであった。
イングランド国民の危機感は募り、ついに1701年5月7日、5人のケントの紳士によって、かの有名な「ケント州民の請願」が開会中のイングランド下院に提出された。ヨーロッパの危険な現状に注意を払い、議会が国民に負っている当然の責任を全うするよう求めた、その請願書には次のような文言が記されていた。
「我々はここに謹んで、名誉あるこの議会が、国民の声に考慮を払われんことを、懇願する。我々の宗教と安全が緩みなく護持されるように、また諸兄の忠誠なる手腕が軍費調達の法案に向けられんことを、そして神聖なる国王陛下が(その慈悲深く穢れなき我らが統治を、神よ、とこしえに続け給いますように!)、同盟国への援助を遅きに失することなく強力に実現することが出来ますように、伏して懇願するものである。」
これに対して、ホイッグ党の差し金だと、怒ったトーリー過半数の議会は5時間の感情的な議論の末、ケントの5人を下院守衛長に引き渡し、数日後5人はニューゲート監獄に身柄を移された。開会中の下院の権威を踏みにじるものであると怒り狂った下院の略式即決の違法な処分に、国中に怒りの声が高まったという。
そして、一週間後の5月14日の朝、ダニエル・デフォーはおよそ「16人の貴顕の紳士に護衛されて」下院議事堂に進軍し、下院議長ハーレーに『議会下院へのレギオン建白書』(Legion’s Memorial to the House of Commons)と題した書面を提出し、返答を求めて待つことなく退出した。
これによって議会に「恐怖の激震」が走り、議員はこっそり地方に戻り、議会が閉会した時には5人のケントの紳士たちも正式に自由の身となった。ロンドン市民は釈放された5人のケントの紳士のためにマーサーズ・ホールで盛大な饗宴を催し、そこに有名な『レギオン建白書』の作者ダニエル・デフォーも光栄ある来賓として出席したという。
事態は、5人の紳士の扱いによって惹き起こされた国民の広範な不平不満を、
対フランス開戦賛成派のホイッグ党が巧妙に煽り立てた結果であり、
衆愚(大衆運動)が議会や合法的立憲政府の存在を危うくする危険を孕む状況でもあった。
しかしながら、決して「革命家」、「煽動家」ではないデフォーの『レギオン建白書』における単刀直入、明快な文章は、当時のイングランド人民の「国際感覚、政治意識」に力強く訴え、大多数の支持を得るという稀有な出来事を齎したのであった。その建白書の最後には、ルイ十四世が読んだならば目を剥くような、穏やかならざる次のような文言が記されていた。
「なぜなら、イングランド人は国王の奴隷でないのと同様、
議会の奴隷ではない。
我々の名はレギオン(軍団)、我々は多勢だ。」
単刀直入なデフォーは、「下院議員がイングランドの主人ではない、彼らは、彼らをその代表に選んだ人民の公僕である、だから自分たちの誤りに注意を払ってこそ、よくやっていると言える。」と述べたあと、国民の苦情を列挙するリストを15の項目に分けて並べ立てた上で、「あなた方が奉仕する」国民の権利についても明確に主張した。
「イングランドの善良なる人民は、直ちに幾つかの根本的手段が取られることを真に必要とし、ここに要求する。
すべての公的債務は直ちに弁済されねばならない。
不法に投獄されている人々は解放され自由の身にならねばならない。
フランス国王が理性に耳を傾けないならば、ウィリアム国王が直ちに彼に宣戦布告をし、そのために必要な軍備の調達が議決されるように求めなければならない。」
と要求したあと、最後に、高圧的な下院に対するとどめの一撃として、
「議会は、国のために勇敢にもケントの請願書を持ってこの議場に現われたがために、
言語道断な恥ずべき仕打ちを受けた紳士諸賢に、
感謝の意を表されんことを。」
としたのである。
この元禄14年(1701年)当時、犬公方さまの下で「生類憐みの令」に従っていた日本国民は、仮にデフォーのこのような言葉を聞いても、「鳩に豆鉄砲」とでもいうか、「いったい、どこのお星様の話」であるかと、思う以外になかったのではないか。近代市民社会として一応のレベルに達したイングランド国民の「国際感覚、政治意識」あってこその、デフォーの強烈な説得力であったと言えよう。
余談になるが、王政復古により1661(寛文元)年4月28日ウェストミンスター寺院において戴冠式を挙げたチャールズ二世は、戴冠式の前にクロムウェルを墓から暴きだし、その妻子の斬首を命じた。その後、同寺院に聳え立つ尖塔の頂部に釘付けにされ、二十年以上晒されていた「反逆者、極悪人」たる護国卿クロムウェルの頭蓋骨は、暴風雨によって転げ落ち、好事家の手を300年近く転々として、ついに1960年、彼の母校ケンブリッジ大学シドニー・サセックス・カレッジの礼拝堂に埋葬された。
宗教や政治信条によって人の命が羽毛のように軽く扱われていたイギリスで、国民がより高い政治意識のレベルに到達したのは、ウィリアム三世やオランダ進駐軍との合力によって、イングランド国民が最終的に『信教自由令』、『権利章典』を成立させ、「近代市民社会」を確立した結果であり、出版、言論、集会、移住を含む「自由の権利」の確立なくしては、起こりえない出来事であった。
「治にも乱にも、何か守るところを持してたやすくは動かない」と言われる美徳の持主イギリス人が、国王チャールズ一世の斬首という事態から40年という歳月をかけて打ち立てた「人類史に於ける大金字塔」が、『権利章典』である。その成立は、きれいごとでは済まず、狐や狸のように狡猾でしぶといイギリス貴族と、オランダ人ウィリアム三世との虚々実々の駆け引きの結果であったが、そこに至るプロセスこそが、正に『名誉革命』の名に相応しい出来事であった。
本題に戻ると、程無くして1701年9月13日、パリ郊外に亡命中のジェームズ二世の臨終の床に立ち会ったルイ十四世は、ジェームズの息子をイングランド国王ジェームズ三世として承認することを約束した。
その結果、イギリスではフランスに対する怒りの渦のなかで国王ウィリアムが議会を解散し、1701年12月31日開会した新議会は、フランスとの戦争を熱烈に支持するホイッグ党優位の議会となってイギリスの戦争準備はようやく整った。
ところが直後の翌1702年2月20日、ハンプトンコートで乗馬中のウィリアム三世は、馬がもぐら穴につまずき落馬して鎖骨を折ってしまった。長年の戦争で心身を消耗していたウィリアムは3月8日、51歳にしてこの世を去った。弱冠21歳の時、オランダに侵攻した12万のフランス軍を前に、国土を水没させてまで戦い抜き、「どのような苦況に陥っても屈しない男」として全ヨーロッパの人々に畏敬されたウィリアムは、背も低く(169センチ)、どちらかと言えば風采の上がらない人物でもあった。その時以来30年間、ウィリアムが宿命的対決を続けてきたルイ14世は、対照的に長身で容姿端麗、辺りを払う威容を誇り、馬上の英姿は見る者を讃嘆させるほど颯爽としていたという。強靭で頑健な身体を誇り、飢餓も厳寒も荒天も意に介さず、野戦攻城を好んで、戦争に「栄光」を求める人物でもあった。ウィリアムの死後スペイン王位を巡る争いに太陽王ルイは全ヨーロッパを相手に主導権を揮える強大な力を有していたが、ウィリアムより12歳年上のルイには、如何なる勇将猛将も勝てない敵である「老化という大敵」も着実に忍び寄っていた。
国王ウィリアム三世と彼の妻メアリー女王との間には子が無く、メアリーは先に死去していたため、イングランド王位はメアリーの妹アンのものとなった。
アン女王は実に気の毒な女性で、17回懐妊したが流産、死産の連続でただ一人10歳まで生きた王子(グロースター公)も11歳で早世した。
広く知られているように、ウィリアムの急死により、にわかに王権が転がり込んできたアンの女官長に任命されたセアラ・ジェニングスは、王女アンの侍女の一人であり、幼時からの親友であった。
国王となったアンによってイギリス、オランダ、オーストリア(神聖ローマ帝国)連合軍司令官に任命されたセアラの夫であるジョン・チャーチルは、バヴァリア(ドイツ南東部)に遠征し、1704年8月13日、ドナウ川沿いの小村ブリントハイム(英語名ブレナム)でフランス・バヴァリア連合軍を撃破し、ついにルイ十四世に鉄槌を下した。驕り昂ぶり老化もすすんだルイに、この大敗を告げる勇気のある臣下はいなかったという。
当サイト卓話室U(シリーズ8)でも言及したように、この大勝利にアン女王は狂喜して、チャーチルは初代モールバラ公爵に叙され、莫大な年金と共に、オックスフォードの近郊ウッドストックの地に、ブレナムと命名した宮殿を何年もの歳月をかけて建造する資金も与えられることになった。
「イギリス史上最高の恩賞」とも言える「ブレナム宮殿」の敷地(61平方キロ)は東京の世田谷区よりも広く、今もこの御屋敷(世界遺産)に居住し管理しているのは第11代モールバラ公爵である。第二次世界大戦の指導者サー・ウィンストン・チャーチルは本家ではなく分家の出であるが、部屋数200を超えるこの宮殿の一室で生れた。
さてアン女王の御代となったばかりの1702年12月1日、デフォーは『非国教徒撲滅捷径』(The Shortest Way with the Dissenters)と題するパンフレットを出版した。デフォーはこの論文によって國教会派(トーリー)を揶揄し、彼らの非国教徒嫌悪の気持ちを極端に戯画化し、同時に、トーリー(國教会派)が、非國教徒を恐れて実行できないでいることを、実行せよと正面切って勧めることによって、国教会派の弱腰を憫笑した(おちょくった)のである。あざ笑われたことが分かり、この論文の真意を知った国教会派は憤激した。翌1703年1月3日、極端なトーリーで重臣の一人である第2代ノッティンガム伯爵ダニエル・フィンチによって、デフォー逮捕の令状が発せられ、1月10日には、『ロンドン・ガゼット』紙に、デフォー逮捕に直接役立つ情報を提供した者には50ポンドを与える旨の告示が載った。それに付せられた人相書きには
「中肉の、やせた男で四十歳くらい。顔色は茶色、頭髪は濃褐色、ただし、かつらを常用する。
かぎ鼻、かく張ったあご、灰色の目、口のそばに大きなほくろがある。
ロンドンに生まれ、コーンヒルのフリーマンズ・ヤードで長年、靴下問屋を営んでいたが、現在はエセックスのティルベリー・フォートで煉瓦、さんがわら工場を経営している」
と書かれてあった。 
5月20日、密告によってデフォーは職工の家で逮捕され、ニューゲート監獄に収監されて7月7日には判決を言い渡された。二百マルクの科料、ロンドンの最も人の集まる場所3ヵ所で、連続3日1時間ずつ、さらし台(pillory)にかけられること、女王のお許しが出るまでニューゲートに収監されること、出獄後も7年間は、不届きな行動があればいつでも呼び戻されること、という厳しい判決であった。
デフォーの煉瓦タイル工場は倒産し、デフォー自身も2度目の破産宣告を受けた。7月29日は王立取引所の前で、7月30日にはチープサイド通りで、7月31日はテンプル門で、午前11時から正午までか、午後2時から3時まで、本人が選んだ時間にデフォーはさらし台(pillory)に立たされた。
この刑で過去には死にかかった者もあり、見物人の嘲笑を浴び、石や腐った卵や汚物を投げつけられることも珍しくなかったという。
だが、デフォーの場合は、民衆は彼に対して反感どころか、同情、賞賛を惜しまず、歓呼の声を上げ、花束を捧げる者もあったという。
民衆の自由を守るために、不正な当局に屈せず、厳しい罰を甘受しているデフォーを立派な男と見たのであった。
デフォーの刑期は短縮され、1703年11月、下院議長ハーリーの尽力によって釈放された。以前から、自分に役立ちそうな人物としてデフォーに注目していたハーリーは、1704年5月、ホイッグを押しのけてアン女王の下で宰相(Secretary of State)に任命され、デフォーの政治活動も活発になった。
デフォーが最初に与えられた使命は、政府のための密偵として、国中を騎馬旅行して、さまざまな選挙区の政治的動静や有力者についてハーリーに報告することであった。
イングランドとスコットランドの議会の合併交渉が始まった1706年、ハーリーはデフォーをエディンバラに送り、スコットランドの政治情勢について報告させた。スコットランド議会を傍聴し、多くの匿名のパンフレットを発行して世論に刺激を与え、スコットランド人を合併賛成に導くのがデフォーの仕事であった。
1707年5月、合併は成功し、デフォーは自分の果した役割に誇りを感じて、700頁の大冊『合併史』(History of Union,1709)を出版し、合併の経緯を述べた。
単発のパンフレットに止まらず、デフォーの有名な定期刊行紙『レヴュー』は、1704年2月19日に発行されて1713年6月まで続けられた。最初のうち『レヴュー』という紙名の後に「あらゆる党派の新聞記者や政治屋の誤報、偏向を排除するもの」というモットーが記されていた。
彼は読者の好みに媚びるのは自分の主義ではないとして、1712年12月30日には次のような声明を発表した。
  「他の記者たちのように、読者の機嫌を取り、喜ばせるために書こうとは、私は思わない。地上の何びとをも喜ばせ、または怒らせることを望んだり、あるいは、恐れて書いたり、書くのを控えたりはしない。私の立場は、他のいかなる記者の態度とも違う。彼らは気に入られようとし、誘いをかけ、欲心を買おうとする。新聞を読んでもらい、買ってもらいたい魂胆からである。私は、読者が自分自身の利益、必要のため、また、私が問題を利用する目的のために買わずにはいられないような新聞を作る。読者は進んで買うのであって、筆者は当然読者に感謝する立場にはなく、読者こそ筆者に感謝すべきだと思う。」
しかしながら、冷静な論調と、落ち着いた説得によって、トーリーやホイッグの党派間の確執を減らそうというデフォーの努力は実り少なく、一方に偏すまいとする彼の主義では、読者の数が減っていくことも認識していたという。
これこそ正に、事業(商売)としてマス・メディアを使う者にとっての永遠の課題であり、要するに、「極端に走らなければ沢山は売れない」、という一面を語っている。前述のデフォーの風刺詩『生粋のイギリス人』が、海賊版を含めて21版も版を重ね史上最高の販売部数を記録したのは、その詩に撒き散らされた、エライ人、威張っている人の面の皮を引っ剥ぐような、「どぎつい言葉」の数々に人々が「快感」を覚えたせいではないか。
そしてこの頃、イギリス史を画する大政治家の一人であるハーリーの大きな懐に、もう一人入って活躍したのが、ジョナサン・スウィフトである。
デフォーに優るとも劣らない筆力をもって、世論の方向を導く上で決定的とも言える論陣を張り、その後仮名で小説『ガリバー旅行記』を刊行したスウィフトは、一時、国家の枢機を預かるハーリーと酒を酌み交わす親密な関係を誇り、得意顔であった。
ホイッグに対する悪意に満ちたパンフレットを発行して日々張合いのある生活を送っていたのは、「ブラックユーモアの大家」と称される程の悪魔的筆力を駆使してホイッグをやっつけ、その先に宗教家(司教)としての高い地位を(頂けることを)夢見ていたからである。
蛇足ながら付言すると、スウィフトは22歳の時から10年間、当サイト卓話室U(シリーズ10〜15)に於けるウィリアム三世と並ぶ主人公であるサー・ウィリアム・テンプルに書生(筆耕者)として格安の給料(年俸20ポンド)で雇われ、ムアパークの屋敷に住み込み、テンプルの臨終をも看取った。
「外交交渉の名手」として、1668年1月、「プロテスタント三国同盟」を一気呵成に成立させ、全ヨーロッパにその名が轟いたウィリアム・テンプルは、自らが仕える国王チャールズ二世の「優柔不断」や「二枚舌」に耐え、その宮廷における「買官制度」その他の因襲の中で、飽くなき権謀術数(足の引っ張り合い)に明け暮れる貴族たちにも押しつぶされることのない、「独立不羈の精神」の持主であった。
当サイト卓話室Uのシリーズ10から15までのサブタイトルを、「散文の名手」とも呼ばれ日本では英文学関係者にその近代的随筆を以て知られるテンプルの名に、敢えて「国士」と冠して話を進めました。
それは、テンプルが国王チャールズ二世からの宰相(Secretary of State)就任要請を断った「気骨」や、王弟ジェームズとの約束を守って、名誉革命という陰謀との関与を、情報提供をも含めて、一切断ち続けた「品性」に魅せられたばかりではありません。
外交交渉や政治の修羅場で、見事とも言うべき気骨と品性を示したばかりでなく、「高邁な見識」と「雄渾な気魄」の持主としてウィリアム・テンプルが、行動は迅速果敢、物事の本質に迫る本能にすぐれ、
疲れを知らぬ行動力と粘り強さを持つ一方、驚くほど率直かつ誠実な人物でもあった故に、正に「国士」と称されるのに最も相応しい人物であると感じたからであります。
序にいえば前記第三代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル首相は、そのウィリアム・テンプルの甥のひ孫に当たる人物です。
話を本題に戻すと、大陸での戦争を止めようと決意していたトーリーの領袖ハーリーは、1708年にはアン女王に罷免されたが、1710年にはホイッグとの凄まじい選挙戦を勝って首相的立場に返り咲いた。この1710年(宝永7年)の選挙戦は、棍棒で殴りあい、剣と熊手、石とつるはしで渡り合う場面が続出する猛烈なものであった。トーリーは地すべり的大勝利を得、ホイッグは下院の三分の一に満たず、株価は30パーセント下落、イングランド銀行は外国手形の割引を拒否するという事態となり、これを聞いたルイ十四世は大喜びしたという。こういう状況で内閣を組織したハーリーがフランスとの和平実現を目指して、主戦派のホイッグ、とりわけその領袖のモールバラ公爵ジョン・チャーチルを追い落した「手口」や、その間の経緯については別の機会に言及したい。
結局、背後にこのような長い歴史があって、早くも19世紀の半ばには、ヨーロッパ(世界)で唯一、責任内閣制(Responsible Cabinet)が有効に機能する国となったのが、イギリスという国である。
ドーヴァーを隔てて30キロ先の隣国フランスは、革命後、第二帝政等を経た上、少数政党が分立して、「責任内閣制」の長所を享受するには至っていない。そのフランス(フランス政治)の本質に関する杉村陽太郎の鋭い観察を、最近当コーナー(2009年7月3日付)で紹介しました。
一方、ドイツは、ラテン語で記された「世界最初の国際条約」と呼ばれるウェストファリア条約が、別名「ドイツの死亡診断書」とも呼ばれたように、30年戦争で国民も国土もすっかり疲弊荒廃してしまった。その後、徳川時代の日本と同じく小国分立時代が長く、明治維新とほぼ時を同じくして、プロイセンによる統一ドイツとはなったが、中央集権国家としてのキャリアは英仏に比して極めて浅く、国民の政治意識はイギリスのそれとは全く異なる。
かのマックス・ウェーヴァーを「非国民」呼ばわりし、ヒトラーのような人物に「草木のように」なびいていった大多数のドイツ国民の政治意識のレベルは、戦後西ドイツ政府の政策(政治教育)の結果、変わったか、どうか。
要するに、この責任内閣制と言う政治システムは、
後述する外交官にして政治家、陸奥宗光が総括したように、
200年という歳月をかけて、
世代から世代へと受け継がれた前例や習慣の融合(amalgamation)の結果であり、漸進的で殆んど無意識の発展(gradual and almost unconscious growth)の結果もたらされた、
「イギリス独特の政治システム」である。
ここに敢えて陸奥の総括を敷衍して、そのイギリス独特の政治システムを支える基本思想の源流が、1581年7月26日、ウィリアムの曽祖父である沈黙公ウィリアム一世によって発せられた「忠誠廃棄宣言」別名「王権喪失宣言」であることを指摘しておきたい。
当サイト卓話室U(シリーズ12の2頁)で言及したが、80年という歳月をかけて人類史上初の超大国(世界帝国)スペインから独立したオランダが、スペインの桎梏を叩き壊す過程で、スペイン国王フェリペ二世に対する「王権喪失宣言」としてネーデルラントに発布した宣言が、全ての近代国家の「思想的源流」なのである。
イギリス独特の政治システムとは、そういう「堅固な基本思想」を土台として、国王チャールズ一世の首と護国卿クロムウェルの首とを、その構築物を支える「すじかい」のようにしている強固な「政治システム」である、とも言えよう。左に行過ぎないようにチャールズ一世の首が、右に行過ぎないようにクロムウェルの首が、突っ張っているシステム、とも言えようか。
当サイト、卓話室T(シリーズ15の9頁)でも言及したが、文久遣欧使節団の一員(翻訳方)としてヨーロッパ6カ国を訪問した福澤諭吉は、ロンドンにおいて「議会(Parliament)」という言葉の理解に難渋した。「封建制度」という枠の中で代々生きてきた末の他の使節団員と同じく、福澤もそういうことを理解する素地を欠いて、「議員とは、結局役人の一種」という程度の認識に止まらざるを得なかったという。
時は移り、デフォーやスウィフトが筆一本で国政を左右していた時代からおよそ170年が経ち、「議会」という言葉を理解しきれなかった福澤がロンドンを訪問してから22年後の明治17(1884)年、その責任内閣制の本場イギリスに、未だ議会などは見たこともない日本から、仙台監獄を出獄したばかりの陸奥宗光(41歳)が上陸した。
ロンドン滞在9ヶ月の間に陸奥は、国際法、憲政史、主権、議会、政党、内閣、司法権、民主主義、階級分化等々についての集中的な講義を受け講義のノートを整理し、それをさらに清書して何冊かのノートとして残した。
コピーしたそのノートを今、当コーナー写真欄で紹介したいという誘惑に駆られるほど、流麗、練達の陸奥宗光の英文から窺われるのは、彼のめざましい(猛烈な)勉強ぶりと意気込み、それによって培われた「深い学殖」である。
明治15年12月30日、国事犯陸奥宗光は、8ヶ月の刑期を残して特赦の恩典に浴し仙台監獄を出て4年半ぶりに家族と再会したのであった。
3年前から妻の手許を離れ、古河市兵衛の家で育てられていた陸奥の次男潤吉(14歳)は、父の出獄を待ったかたちで明治16年5月、正式に入籍し古河潤吉となる。
この明治16年11月には、陸奥が獄中で苦心の末翻訳したジェレミー・ベンサムの主著『道徳及び立法の原理序説』(An Introduction to the Principle of Morals and Legistration,1789)が、『科学正宗』と題され山東直砥によってその上巻が出版され、翌明治17年1月には下巻が出版された。
蛇足ながら正宗はせいそうと読む。
幕末には勝海舟の神戸海軍操練所や、坂本龍馬の「海援隊」に加わっていた陸奥は維新後、その才幹を買われて兵庫県知事(25歳)、神奈川県令、地租改正局長等を歴任したが、薩長藩閥政府の有様に憤激して官を辞した。
その後明治8年に元老院議官に任ぜられた陸奥は、西南戦争に絡んで土佐立志社の挙兵計画に加担したことが発覚し明治11年逮捕され、除族の上、禁固5年の刑を受けた。
入獄して間も無く、陸奥の座右にはベンサムの法律論の翻訳書3冊が置かれたが、さらに東京の留守宅からベンサムの原書二冊がウェブスターの辞書と共に差し入れられたという。
経験主義者である陸奥は、先験的な規範や命題を排し、「人之常情」という経験を尊重し、その経験の内部に(外部にではなくて)、「其理を開発する」ところに、ベンサムの真髄を見たという。
獄中の勉強と思索の中で形成された陸奥の政治体制論の骨子は、名著『陸奥宗光』の著者萩原延壽によれば、「畏懼の主義(専制政治)」と「自由(立憲政治)」との対立にあった。
そして人智の進歩を阻障する三つの実例として「頑陋なる宗教家」、「僻古の道学者」、「偏見なる政治家」を挙げた陸奥は、「政権」と「人権」を区別し、「人権」とは、何よりもまず、出版、言論、集会、移住をふくむ「自由」の権利であり、政権の作用する領域をできるだけ限定すべきである、というのが陸奥の立場であった。
相異なる議論が、激しく争い合うような事態が一時社会に流行することがあるかも知れないが、「主治者」はこれに対して干渉すべきではない、と陸奥は獄中で執筆した『福堂独語』等において主張した。
出獄した陸奥に外遊を勧めたのは伊藤博文、井上馨、山縣有朋らであり、伊藤らの意をうけて2年に及ぶ外遊資金調達の中心となったのが、渋沢栄一と陸奥の次男潤吉を養子とした古河財閥の祖、古河市兵衛であった。
こういう経緯で明治17年春イギリスに現われた陸奥は、ロンドン滞在の9ヶ月間、前述のように集中的かつ断続的に講義を受けたが、その相手はロンドンで弁護士を開業し、ケンブリッジで法律の講師をしているトーマス・ワラカーであった。
そのワラカーに陸奥は明治17(1884)年11月から、冬休みのケンブリッジで3週間、毎日二度ずつの集中講義(特訓)を受け、9ヶ月に亘る研究の総仕上げとした。
この時、陸奥は議会と内閣の関係(責任内閣制)等々に関する質問を、文書によって提出し、講師の解答に対する自らの再質問を含めて、1冊のノートにまとめ、それを清書して残したのである。
現在、神奈川県立金沢文庫が製本して収蔵している『陸奥ノート』第一巻が、その全内容(萩原延壽の著作においては陸奥ノート第4冊とされているもの)を収めており、筆者もその第一巻を参考としている。
そのケンブリッジにおける集中講義の前にロンドンでワラカーから受けた指導や講義、ロンドンでの読書や見聞、陸奥が既に日本において蓄えたイギリスの政治や法律に関する知識、とりわけ獄中で成し遂げたベンサムの主著の邦訳などを通じて、陸奥の血肉となった西洋の自由主義的な政治及び経済思想の全てを引っさげて、陸奥は次のような項目を質問した。  
責任内閣制 Responsible Minister
二院制 Two Houses of Parliament
代議士の選出 Election of Representatives
常任委員会 Standing Committees
憲法の改正 On the Reform of the Constitution
法の解釈 On the Interpretation of Law
弾劾制度 Impeachment
政党の規律と党員の行動 Party Discipline and Action of Members
選挙区にたいする代議士選出権の停止 Suspension of Return of Member for Parliamentary Borough
小選挙区制 Single Member Constituencies
イギリスにおける民主主義的傾向 Democratical Tendency in England
政党 Political Party
議会の財政 On the Finance of Parliament
代議士の報酬 Payment of Members of Parliament
明治維新からまだ二十年に満たない日本が、真に責任内閣制にもとづく政府の形態を採用することができるものかどうか。もしそのこたえが否定的ならば、真髄、すなわち、責任内閣制を欠いた立憲政体を採用することの意味はどこにあるのか、と陸奥は質問した。
「日本のような国の場合、責任内閣制にもとづく政府をただちに(at once)採用できるかどうか、うたがわしい。
イギリスの場合、それが成立するまでに二百年かかっている。」
というのがワラカーの答えであった。
俗に、「桃・栗三年、柿八年」と言うではないか。
どのように優れたシステムやアイデアも、
とりわけそれが「政治体制」に関わる場合は、
有効に機能するに至るには、少なくとも数十年という歳月を必要とするのが、
人間社会の常態ではあるまいか。
であるならば、陸奥がイギリスへ勉強に行ってから125年経った今年2009年の秋になって、日本にも漸く「二大政党制」が成立したのも、ごく自然の成り行きと言えよう。
明治以来、日本の政治の本質は一言で言えば、一方に於ける「依らしむべし、知らしむべからず」、他方における「長いものには巻かれろ、太いものには呑まれろ」、というところにあった。
いわゆる「超然主義」あるいは、強権(強圧)主義が有効に機能してきたのがこれまでの日本国であり、それを支えてきた主たる要因は、大多数の日本国民の「精神構造(メンタリティー)」にあった。歴史的、地理的制約によって培われてきた「事大主義」と「権威主義」とを、「門を支える門柱」のようにしている「精神構造」である。
確かに、陸奥がイギリスへ勉強に行く前から、「国会開設」、「自由民権」を声高に叫ぶ人々も少なくはなかった。だが、大多数の日本国民を支配していたのは「事大主義」、「権威主義」を主柱とする精神構造と、それに付随するレベルの低い政治意識、国際感覚であった。
因みに辞書を引くと、
事大主義とは「自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度」とあり、
権威主義とは「権威をたてにとって思考行動したり権威に対して盲目的に服従したりする態度」とある。
イギリスという国は元禄2(1669)年、「臣民の権利と自由」を宣言する『権利章典』を成立させ、国王チャールズ一世の斬首から200年の歳月を経て、一九世紀半ばには「責任内閣制」に基づく政府が機能する社会を形成した上、アジアやアフリカでは「砲艦外交」をも展開する帝国主義国家となった。
帝国主義国家イギリスの外相、首相として30年間活躍し、多くの国民の人気を博して、死去するまで「オールドパム」の愛称を以て親しまれたのが、再三ここに言及した第三代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルである。
その間日本では「参勤交代」や「高札」に象徴される「封建制度」が墨守され、「鎖国」によって日本人は、「アメリカ独立戦争(革命)」や「フランス革命」等々とは全く無縁の環境に暮らして居た。そういう地理的歴史的制約によって、国民が「日本をめぐる国際環境や日本の国力」について冷静な議論をするような素地がなく、冒頭紹介した司馬遼太郎の慨嘆のように、たとえ議論することがあっても、それが「いちじるしく内省力に欠ける」議論になりがちである傾向は、誠に止むを得ないところである。
作家夏目漱石がその著『三四郎』において喝破したように、
「明治の思想は西洋の歴史に現われた三百年の活動を四十年で繰り返している」というのが明治時代の実態であった。
「明治維新」とか「御一新」とかいっても、極論すれば、政治権力が「徳川一家」から「島津一家、毛利一家連合」に移行したに過ぎず、その実態は福澤流に言えば「幕府屋の看板を卸して天朝屋の暖簾を掛け、今の参議を昔の閣老に比すれば毛が三本多い位の相違にて」という程度のことであった。それを『江湖新聞』紙上ではっきり言った福地源一郎(櫻痴)は、明治元年薩摩兵に逮捕され糾問所へ引き立てられて新聞は廃刊となった。
国民の政治意識や国際感覚のレベルは低く、「この民や旧幕の専制を以て行われたる無気力の瓦(かわら)石なれば昔より今に至るまで針路も方向もある可らず」という状況でもあった。
「内発的」とか「外発的」というような言葉を使って、陸海軍その他の外面的近代化にしゃかりきになっている日本の状況を、長年憂慮していた夏目漱石が胃を痛く(悪く)したのは誠に気の毒なことである。そういう鋭敏な精神の持主であったが故に、『三四郎』その他数々の名作を生んだのでしょう。
そうこうしているうちに、司馬遼太郎や阿川弘之氏も唾棄する「神秘主義的国家観」なるものが横行し、「日本軍隊の絶対的優越性」とかいう迷信が蔓延って、「金甌無欠の神州日本」なんていうオメデタイ言葉に、多くの日本国民が酔っていたのは、つい70年前のことであった。
当サイト卓話室T(シリーズ15の9頁)で言及したように、
明治11年、全国の府県会の先陣を切って行われた東京府議会選挙に当選した福澤諭吉は、49名の議員の中で選ばれて副議長となったが、すぐにその地位を辞退、程なくして議員も辞職してしまった。議場に横溢する「権威主義」その他封建的メンタリティー(精神構造)に呆れ返ってのことであるという。
長々と、敢えて遠回りをしたが、話を再び陸奥宗光に戻すと、
自らの帰国の日程を極秘にして、明治19年2月1日、密に神戸に上陸した陸奥は、この年10月、外務省に出仕、
明治21年から駐米公使としてワシントンに赴任し、帰国後、山縣有朋内閣の農商務大臣に就任して、明治政府の中枢を担った。その上、農商務相在任中に行われた第一回衆議院選挙(明治23年)に、陸奥は和歌山1区から立候補して当選、なんと閣僚中ただ一人の衆議院議員となったのである。
その後、第二次伊藤博文内閣の外務大臣に就任した陸奥は、明治27年イギリスと交渉して、安政元年(1854年)以来の不平等条約の主要項目「治外法権」の撤廃に成功し、イギリスを皮切りにロシア、フランス、アメリカ、ドイツ、イタリアなど不平等条約を結んでいた15カ国全てと条約改正(治外法権の撤廃)に成功した。
不平等条約のもう一つの眼目である「輸出関税自主権」の回復は日露戦争に勝利して後、小村寿太郎外務大臣の手によって明治44(1911)年、ようやく達成された。「日清、日露」両戦争を契機として条約改正が成ったところに、「国際社会の冷厳な現実」を見ることができよう。
不平等条約によって「半植民地(屈辱的)状態にあった日本国」が、その桎梏を脱するのに57年という歳月がかかったことを、我々は忘れてはなるまい。
小説『坂の上の雲』に描かれているのは、近代国家としてそういう重いハンデ(負の遺産)を背負った日本国の、50年余の厳しく切ない(遣る瀬無い)状況の中で、様々な分野で必死の奮闘努力をした人々の姿である。
不快ではあっても、歴史の現実から目をそらし、見えないようなフリをするのは、虚弱な精神、即ち激しやすく(傷つきやすい)脆い精神構造の現われである。
現実(歴史)を直視、正視し、不安な事、不快な事から目をそらさない、
或は自らにとって不都合な事に目をつぶらない精神こそが、「自虐」とは対極にある「逞しい」精神と言えよう。
虚弱な精神構造の行き着く先は、困難に遭遇しての幼児的(根拠のない)強がり、あるいは容易に挑発に乗り、暴発することである。
西南戦争直前の明治8年3月まで、横浜の元町(フランス山、或はトワンテ山と呼ばれていた辺り)にはフランス海兵隊100名、イギリス海兵隊300名が居留民(外国人)を保護するために駐屯していた。この事は、「関内」という駅名と共に、我々が直視(正視)し、永く記憶すべき歴史的事実である。陸奥は25歳にしてそういう時代の神奈川県令を務め、伊藤博文も明治初年、横浜と同じく神戸外人居留地(租界)を抱える兵庫県知事を務めたのである。
外相として陸奥は「カミソリ」と呼ばれ、今、冒頭の写真に示した見事な銅像が外務省構内に立っている。序に言えば、当コーナー(2009年4月6日付)で言及したように、その死に際し、初めて「外務省葬」を以て送られたのは、小村寿太郎であった。「外務省葬」の二人目は元国際連盟事務次長兼政務部長その後フランス大使の杉村陽太郎、三人目は駐米大使斉藤博である。
さて、21世紀になって漸く今、本格的「二大政党制」に到達した日本において、陸奥宗光が125年前に渾身の考究をした、議院内閣制(責任内閣制)という政治体制が、果たしてイギリスのように有効に機能するか否か。
オレンジ公ウィリアム三世ならぬダグラス・マッカーサー将軍と、オランダ進駐軍ならぬアメリカ進駐軍とによって、「民主主義」なるものを与えられて、たったの65年しか経っていない。
問題は今後であり、今後の日本国民一人ひとりの「国際感覚、政治意識」の成熟如何にある、と言って差し支えないと思う。
それには、元新聞記者司馬遼太郎が、「なまなかな植民地の住民よりもはるかに後進的」と嘆いた、低レベルの国際感覚、政治意識を脱する恒常的努力(政治教育)が求められるのではないか。
前述したように、その場に横溢する封建的精神構造に呆れかえって、福沢諭吉は折角当選した東京府議会議員(東京都議会議員の前身)をすぐに辞めてしまったが、昨今義務教育化しつつある高校で、その福澤の名著『学問のすゝめ』を現代語訳して教科書として使っては、どうであろう。
「テレビ」等における人々の言動を時折眼にして、その政治意識の低いことには呆れることが多く、政治学者(東大教授)丸山眞男でなくても唖然、呆然とする言説で溢れている2009年の日本国の現状でもある。「国民はその水準以上の政府をもつことはできない」とか「愚劣なる政府は愚劣なる国民に依拠する」というのは、正に至言ではないか。
ところで先般、当コーナー(2009年9月4日付)において、世界から日本に来る留学生の数が米英仏のそれに比べて段違いに少ないことを指摘した。
それは何故か。
2000年度の時点で、日本が海外から受け入れた留学生は6万4千(2002年には9万強とか)であるが、これに対してアメリカ54万強、イギリス22万強、フランス14万強、ドイツ18万強という数字が出ている。
これらの国々には、日本にはない魅力があって、その何であるかは、日本人が日常全く意識しない(考えが及ばない)ところにあると思う。
自動車や家電等々の「組み立て産業」が優秀であるとか、優れたアニメや漫画が制作されているとか、日本画や日本刀等々の美術工芸品が優れているとか、そういった事とは次元の違う(はるかに次元の高い)テーマを解決した国として、米英仏は世界中で認識されているのである。
「近代民主主義の開拓者」として、
アメリカは、「国王を持たない世界最初の近代的共和国」を創設し、
イギリスは、「最初の議会を創出」し、
フランスは、「統一法を持つ平等な社会と世俗国家(政教分離国家)」を世界で初めて成立させた国である。
軍事力や経済力の強大を誇るだけでは世界の人々の尊敬は得られない、ということであろうか。当コーナーでつい最近(2009年9月4日付)紹介した米内光政海軍大将(元内閣総理大臣)が、「科学技術より国民思想の方が大事だよ」と医師武見太郎に説いたのは、同じ問題を指摘してのことであった。
今、日本を含めてこれらの国々は、(第二次)世界大不況とでも呼ぶべき経済的苦境のさなかにあり、問題解決は容易な事ではないと思う。
ウォールポールがその解決に敏腕を振るった「南海泡沫事件」と称されるイギリスの経済的破綻も、今回の「リーマンショック」とか、不安を押さえる為かさりげなく「金融危機」と呼ばれている経済破綻も、本質的に全く同じ経済現象であり、「歴史は繰り返す」という言葉のとおり、小手先の彌縫策は通用せず、2年や3年で、百年に一度というスケールのこの深手が癒えることは到底あり得ない。
余談ながら付言すれば、イギリスの経済破綻を惹き起こし、多くの破産者や自殺者を齎したばかりでなく、科学者ニュートン、音楽家ヘンデルにも経済的大損害を与えた「南海(南洋)会社」は、ここで度々その名に言及したあのトーリー党の領袖ハーリーが、1711年(宝永8年)設立したものである。国債発行のために設立されたイングランド銀行はホイッグ党の牙城となって、トーリーの為にはビタ一文動かそうとしないことに対する、ハーリーの対抗策であったのか。
序に申し添えると、近頃、日本では国債増発問題が喧しくなってきたが、そもそも「国債発行というシステム」はオランダ連邦共和国に端を発し、それを世界で始めて国家の財政政策として確立したのもオランダ人ウィリアム三世の治世におけるイギリスにおいてであった。それ以前には、チャールズ二世やフェリペ二世らが一度ならず「破産者」になったことは普く知られている。
今、漸く「二大政党制」に到達した日本は、同時に、いわゆる先進国のトップを切って人口減少高齢国家に「転落」して、太平洋戦争の敗北以来、再度の「国難」とでも呼ぶべき事態に直面し、これを打開する道は容易には見つからない。
その「国難」を前にして、つらつら思うに、国家を人体に例えれば、
「政治システム」は人の骨格、
「経済システム」は人の筋肉、
「思想を含めた文化」が人の靭帯(腱)、
と捉えることが出来るかと思う。
国家として発展するには、これら三要素それぞれが充実した頑健な身体を必要とするが、当面する危機を脱し、近代国家として発展していくには、今後何十年もかけて上記「三つのシステム」の充実を心がける以外に、道はないのではないか。
とりわけ「政治システム(骨格)」が弱小では、大きな力を発揮することは絶対に出来ないことを忘れてはならない。
その道は、イギリス人が、200年あるいは300年かかった道でもあるが、強固な政治システムの構築ばかりでなく、如何なる政策も1年や2年でどうこうなるものではない。3年、5年あるいは10年、20年を見据えた政策を遂行する「覚悟と辛抱」が必要不可欠である。
「治にも乱にも何か守るところを持してたやすくは動かない」のがイギリス人の美徳とされているが、我々日本人は「総じて躁急」という、よろしくない性癖を、この際思い切って断つべき時ではないか。
当コーナーで5回に亘って紹介した「嘉納塾の俊傑」杉村陽太郎は、「国運の伸張を計るには単なる愛国心のみでは足らぬ。船を荒海に進むる時、いたずらに勇気のみを以てし得ざると同じである。」と警告した。
同時に杉村は「時は力である。(中略)活世界の問題を解決するとき、時ほど大切な要素はない。
人間の生命は短いから一代の間に是非ともある事業を完成せんと焦るのが人情の常である。しかし国家社会は個人の如く早くは動かぬ。進むにも退くにも時を要する。
之を察知せずしていたずらに功を急ぐものは破れる。
為政家の心得べきは、
国家社会を基調とし、その永遠の生命と広汎なる活動を眼中に置き、遠大な経綸を以て事を行うべきことである。一時または一代の変態的風潮に迎合せんと努むるものはその功業も長きを期すべからず。あたかも一人または一党のために国策を弄ぶと同じである。
尊き伝統を重んじ、将来無窮の開展を期するは善であり、眼前一時の利害に迷い之に固着するは悪である。
国策の遂行は完成せらゝることなき連続の事業であり、祖国無窮の生命と永久の生成とを土台とし基調とする。」と喝破した。
近頃注目の、「仕置き人」ならぬ「仕分け人」とその関係者は、国士杉村陽太郎のこういう言葉を拳々服膺すべきでしょう。
困難を困難として受け入れる「覚悟」と、問題解決までの風雪に耐える「辛抱」とが求められる21世紀初頭の日本国民である。
あたかも人の筋肉が見る見る萎縮するように、毎年、30万人の労働人口を失いつつある「人口減少高齢国家」の行き先には、経験したことのない困難や「異変」は必至である。
しかしながら『坂の上の雲』に活写されている秋山兄弟その他、「日露戦争という試練」に立ち向かった20世紀初頭の先達の苦心、辛酸に比べれば、まだマシではないか。
昭和初期に横行した、あのバカバカしい「神秘主義的国家観」や、
「日本軍隊(経済)の絶対的優越性などという迷信」に毒されること無く、
「冷徹な現実主義精神と合理主義精神とを両親として、
戒心を兄とし、
不撓不屈の精神を親友として生きる」姿勢をもって、
時代に立ち向かっていくならば、
少なくとも「国を誤る」ことはなく、道も開けるのではないか。
日清戦争後の三国干渉(遼東還付)の屈辱に耐え、「遣る瀬無き悲憤」を乗り越えて後始末を終えた外務大臣陸奥宗光は、明治30年8月24日、持病の肺結核が悪化し満53歳にして西ヶ原の本邸で没した。
三国干渉(遼東還付)という煮え湯を飲まされて以後、日本の外交当局は、同時に二つ以上の列強と事を構えることは絶対的に避ける、という努力を続けたが、時と共に「夜郎自大」、「総じて躁急」という国民性に、そういう知的営為は押し流されてしまい、行き着いた先は「焦土外交」という「無策外交の極地」であった。
陸奥が息を引き取った西ヶ原の本邸は、後に(大正時代)、当コーナー(2007年8月26日付)で紹介したように、ジョサイア・コンドル設計の洋館と小川治兵衛の手になる日本庭園とからなる古河邸として生まれ変わり、現在は国指定名勝として訪れる人が絶えない。ところが、ここが陸奥宗光臨終の地であることはあまり知られていないようである。

参考文献
宮崎孝一著『ダニエル・デフォー―アンビヴァレンスの航跡−』
1991年研究社刊
ジェームズ・サザーランド著 織田稔、藤原浩一訳
『ロビンソン・クルーソーを書いた男の物語−ダニエル・デフォー伝−』
2008年ユニオンプレス刊
萩原延壽著『陸奥宗光』1997年朝日新聞社刊
友清理士著『イギリス革命史』2004年研究社刊
G・M トレヴェリアン著『イギリス史』1974年みすず書房刊
責任編集大野真弓『世界の歴史8−絶対君主と人民−』昭和50年中公文庫
臼田昭著『モールバラ公爵のこと−チャーチル家の先祖』昭和50年研究社刊
宇野量介著『仙台獄中の陸奥宗光』1982年宝文堂出版販売刊
参照
フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia);南海泡沫事件;関税自主権
『陸奥ノート』第一巻、神奈川県立金沢文庫収蔵











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