昭和の大剣士<剣聖>高野佐三郎ー恩人・嘉納治五郎と共有した教育理念(上) |
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昭和の大剣士・<剣聖>高野佐三郎 昭和4(1929)年5月4日と5日の二日に亘り、皇居内覆馬場及び済寧館に於て、昭和天皇の即位を祝う「御大礼記念天覧武道大会」が宮内省皇宮警察部の主催によって開催された。 この昭和4年の「第一回天覧武道大会」の競技種目は、「柔道と剣道」の二つであり、その試合は「府県選士の部」と「指定選士の部」とに大別され、前者は各府県及び外地(満州、朝鮮等)から「斯道の専門家を除く」という条件の下で、各府県の代表となった選士たちの間で戦われた。 柔、剣道共に、まず抽選によって複数のブロックに別れて総当たり戦(リーグ戦)が予選として行われ、各ブロックの一位となった者が勝ち残り戦(トーナメント戦)によって優勝を争う形式で優勝者が決められた。 そして剣道における「府県選士の部」では各府県及び外地の代表51名が出場し、「指定選士の部」には指定選士銓衡委員会(川崎善三郎、高野佐三郎、高橋赳太郎、内藤高治、中山博道、門奈正ら範士6名による構成)の選考に基づき、「宮内省が指定した斯道の専門家」32名が出場した。その「指定選士の部」予選では、8ブロックに別れて総当たり戦(リーグ戦)が行われ、各ブロックの勝者が勝ち残り戦(トーナメント戦)を行って優勝を争った。 注目すべきは、この「指定選士の部」決勝の審判員を務めたのが、高野佐三郎(表)、高橋赳太郎(裏)、門奈正(控)であり、試合に先立って形の演武(大日本帝国剣道形)を演じたのは、打太刀範士高野佐三郎(67歳)と仕太刀範士中山博道(57歳)であった。 なお、この記念すべき大会における「指定選士の部」の優勝は、持田盛治(45歳、朝鮮総督府警務局師範)であり、準優勝は高野佐三郎の養子(戸籍上は義弟、旧姓・千種)である 高野茂美(53歳、南満州鉄道師範)であった。 昭和4年5月に開催されたこの「第一回(御大礼記念)天覧武道大会」は、正に「昭和の大剣士」或いは「剣聖」とも謳われた高野佐三郎の高度な業績を顕す象徴的な出来事であったが、敢えて付言すると、本編の主人公・高野佐三郎には、単なる剣術(撃剣)の名人・達人として数多の弟子を指導した顔ばかりでなく、嘉納治五郎が校長を務める東京高等師範学校という格好の舞台を得て、日本教育界(日本体育界)に画期的な貢献をした人物としての輝かしい事績があり、その事をここに改めて強調したい。 東京高等師範学校(筑波大学の前身)教授・高野佐三郎が、自らの多年に亘る剣術修行と研究とに基づいて大正4年に出版した『剣道』は、剣道指導書として今日までも高い評価を受けている名著であるが、大正天皇にも献上され、現在、国会図書館に収蔵されている同書(オンデマンド版)の表紙の裏には、「賜覧(写)」という大きな文字が刻されている。後に詳述するように名著『剣道』は、「柔道」と共に旧制中学校における必修科目となった剣道を、個人ではなく集団としての学生を視野の真ん中に据えた上で、東京高師校長嘉納治五郎とも共有する世界的「教育理念」を基にした「体育指導書」であると言えよう。それは明治から大正にかけての学校体育の過渡期に、東京高等師範学校教授(体育部主任)永井道明が3年をかけて、誰もなし得なかった「体操教授要目」を作成した事績に匹敵する日本体育史(教育史)における一大快挙ではなかったか。 後に詳述するように明治38年11月、「体操校長」という異名をとる姫路中学校長永井道明(38歳)は、「体育研究のために満三年間の欧米留学を命ず」という文部省からの辞令を受け取り、翌年1月からボストン女子師範学校にguest(客分)として学び、その後「スウェーデン国立中央体操研究所」での研修をも終えて明治42年に帰国する。永井は後述するように帰国前のストックホルムにおいて、東京高等師範学校(筑波大学の前身)教授及び女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)教授の辞令を受け取っていた。 周知のように、永井による「体操教授要目」は大正2年に文部省から「学校体操教授要目」として公布される。翌大正3年、『学校体操教授要目の精神及其実施上の注意』(教育新潮叢書第一期拾二巻)を著した永井道明は、その緒論の冒頭において、「我が国民の責任」と題して、次のように喝破した。 「適者生存は生物を支配する永久の真理で、優勝劣敗は歴史上の明らかなる事実で、世は常に実力の競争である。この事は古今東西変わらざる現象であるが、今日の世界動乱(日露戦争のこと―筆者註)に於て、益々その真なることを覚らしめた、而して勝者となり、優勝の者となって生存繁栄しようと思えば色々なすべき仕事、盡すべき手段の中で、最も根本となるべきものは教育である。 しかしながら、こういう熱い信念を披瀝した永井道明が直面する日本社会の実態は、永井が体験したような「官費留学生の欧米派遣」或いは「御雇外国人(教師・技師)」を通じて、「出来上がった西洋最新の技術や知識」のみを、表面的に吸収する(西洋文明をなぞる)のが精一杯であった。 日清日露の両戦役に日本が使用した主力軍艦の殆どは、フランス、イギリスで建造されたように、欧米列強に比べては国力も貧弱、長い間の封建制度(身分制社会)に泥んでか、日本国民の国際感覚、政治意識を含めての「民度」は低く、当然人々の体育(スポーツ)意識は低いままで、永井が希求した「家庭体育」「学校体育」「軍隊体育」「社会体育」の相互連携というような視野、視点とはかけ離れたところにあり、「体育政策」「体育施設」の充実発展も、その後長い歳月を必要とした、と言うのが実情ではなかったか。 永井道明より6年早く、明治32年8月渡米した井口あくり(帰国後、女子高等師範学校教授に就任)は、スミス大学を経てボストン体操師範学校に入学、2年後、同校を首席で卒業する。 そういうホーマンズ女史の信条をきっちりと継承した井口あくりは、アメリカ人に比べて体格が如何にも劣り、長い間の「封建制度」という「因習」に基くメンタリティー(精神構造)を引き摺ってか、姿勢が悪く、人前でグズグズしている日本婦人を、小さいながらも筋肉が引き締まって姿勢も正しく、精神も快活で物事にハキハキして果断の気性の人になるよう、「体育」によって養成することを決意したのであった。 井口が留学した頃(明治30年代)のアメリカは、GDPにおいてイギリスを追い越し、間も無く世界一になろうとしていた。その国力と民度の差か、当時アメリカの生徒たちは「体育」の授業には全員「体操着」に着替えるのに、日本では和服にせいぜいタスキをかける程度であったが、そういう中で、「ブルマー」を考案したのも井口あくりであると言われている。 図らずも、共にそういう時代に東京高等師範学校長嘉納治五郎の下で、日本体育史(教育史)に画然たる功績を残した永井と高野という二人の中で、どこの学校(高等教育機関)も卒業していない剣道一筋の高野を、講師就任から程なくして同校教授に昇任させた「天性の教育家・嘉納治五郎の高邁な見識(世界的教育理念)」とその影響力に注目しながら、嘉納の下で、高野が樹立した日本剣道史における輝かしい事績の跡を簡略ながら辿って見たい。 Ⅰ 俊傑・嘉納治五郎の国際的視野と高邁な見識 Ⅰ―1憂国青年・毛沢東に与えた影響 周知のように「講道館長」にしてアジア初のIOC委員・嘉納治五郎は、非職(職務停止)の期間を除いて23年4か月余りを高等師範学校長として、「嘉納の高師か、高師の嘉納か」と称えられる「天下御免の名校長」であった。 嘉納治五郎といふ人が東京高等師範の校長であるといふことは、天下御免の顕著な事実であった。誰もそのことを知らないものはなく、誰もその位置を疑うものはなかった。 そのように称えられた俊傑・嘉納治五郎は、東大卒業(23歳)と同時に文部省ならぬ宮内省管轄の学習院に奉職すると同時に「講道館」を創立、館長に就任すると共に、家塾「嘉納塾」を開設したばかりでなく、ほぼ時を同じくして英語学校「弘文館」の経営を始めた「天性の教育家」であった。 親戚や知人の子弟(男子)を寄宿させ、「柔道(柔術ではない)」を必修とした「嘉納塾」の教育目的は、「よく艱難辛苦に打ち勝ち、刻苦勉励、努力の習慣を養い、人の為に潔く推譲するの精神を涵養する」ことにあり、「人の為に潔く推譲するの精神」とは一言で言えば、「労苦は自らが引き受け、手柄は他人に譲る」ということである。 明治15年の創立から12年間、入門料(入学金)無料、月謝(学費)無料、一切無料の「講道館」は、正に、「純粋公共教育機関」とも呼ぶべき貴重な存在であった。 さて今ここに、こういう高邁な見識(教育理念)の持ち主である嘉納治五郎の世界的影響力の一例として、敢えて言及したいのは東京高師校長として嘉納が推進する「知育と同じ重みを持つ体育」の実態を、憂国青年・毛沢東に伝え教えた長沙第一師範教授、後に北京大学教授に就任した楊昌済の事績である。 周知のように東京高師校長の傍ら嘉納治五郎が院長を務めた宏文学院は、「日本最大の清国留学生受け入れ機関」として、一時期(日露戦争後)には1600余名の清国留学生を寄宿させていた。 その後、楊昌済は共に長沙に学んで同じく日本に留学した革命家・楊篤生(楊一族の一人)の招きに応じてスコットランドのアバディーン大学に入学、3年間、哲学、倫理学、心理学を学び文学士の学位を取得する。 そこで楊教授から、この年(1915年)上海で創刊された雑誌『新青年』を紹介されて、毛沢東は熱心な読者となり陳独秀と胡適を崇拝したという。雑誌『新青年』主筆・陳独秀は、楊昌済より2年早く明治34(1901)年に来日して、嘉納治五郎が院長を務める「宏文学院」を卒業している。 「我々の国力はきわめて弱い。軍事もふるわない。民族の体質は日を追って悪くなっていく。これはまことに憂うべき現象である」という書き出しで、「体育」を自らの処女論文のテーマに選んだことは、憂国青年・毛沢東にとって極めて至当とは言え、当時の中華民国知識人(読書人)にとっては、意外な視点、意外な角度からの「国家改造論」ではなかったか。 「…幸不幸は我々の努力にかかっている。仁を行おうと欲すれば仁を行うことができる。体育も同じ事である。おのれがふるい立たなければ、外形的、客観的にいかに善美をつくしたところで利益をうけることは出来ないであろう。それゆえ体育は自分自身の発意ではじめなければならない。 このように、毛沢東がこの論文で主張したのは、「全体を強化するための手段として、その部分たる個体の体力を鍛錬せよ」という、どちらかと言えば陳腐な、「体育救国論」ではなかった。 東西の有名な体育家、アメリカのルーズベルト、ドイツのサンド―、日本の嘉納は、みな生まれつき弱かったのに、強壮な体の持ち主となった人々である。 長沙の第一師範学校4年生としてアメリカやドイツあるいは日本に旅行したこともない23歳の毛沢東の、この叙述の根底には明らかに前記楊昌済教授の影響があった。 湖南省教育司長への就任を断り、湖南第一師範教授に就任した楊昌済が、帰国後間もなく発表した論文(「教育学論文」1914年発表)は、新生中華民国における体育の重要性を強調するものであった。同論文において楊昌済は大要次のように述べて、「体育実践」の先頭に立つ嘉納治五郎の姿勢や思いを伝えている。 「東京高師の学生は皆、努めて各人が運動を行っている、校友会運動部には庭球部、蹴球部、野球部、撃剣部、柔道部、遊泳部、短艇部、徒歩部があり、毎夏には隅田川で水上短艇大運動会、冬季には陸上大運動会に参加する。 湖南第一師範学校2年生の頃の毛沢東にとって、恩師楊昌済のこのような内容の論文は、極めて新鮮な印象と驚きとを与えたのではないか。 因みに、毛沢東が「世界の三大体育家」として、嘉納治五郎やアメリカ合衆国第26代大統領セオドア・ルーズベルトと共に、その名を挙げたドイツのサンドーとは、バーベルやダンベルを用いて筋肉を大きく発達させる方法を考案し、その普及のために1898(明治31)年、『筋力とその強化法』を出版したドイツ人医師ユージン・サンドーのことである。 周知のようにセオドア・ルーズベルトは喘息持ちの虚弱な少年であったが、ニューヨーク有数の資産家であり、リンカーン大統領ともつきあいがあった父親が自宅の2階に設けた運動場で、少年時代は姉や近所の友達とレスリングに励み、ハーヴァードに入学するとボクシングにのめり込んで、ライト級(当時はヘビー級との2階級のみ)において学内2位となるほどの精進をした。 次に毛沢東が挙げた三大体育家の一人である嘉納治五郎は、明治30年頃(日清戦争後)の日本社会の実態を前にして、四方を環視(監視)する世界の強国(英仏独露米等)を「智力円満、元気充実の大人」に例え、これに対して日本は、「智識経験共に乏しく、僅かに幼弱の域を脱して将にこれから世に出ようとする青年者」と捉え、そういう祖国日本を憂える危機感の中で明治31年8月、「造士会」を設立した。 そして月刊雑誌『国士』第一巻(明治31年10月5日発行)は、「サンダウの体力養成法に就いて」と題する論文を、原著出版と時を違えず、正に最新のスポーツ情報(あるいは西洋事情というべきか)として掲載した。その後、同論文の続きは『国士』誌上に何回か連載され、『国士』第6巻(明治32年3月5日発行)には、「サンダウの体力養成法(其の四)」という論文が掲載されている。更にその『国士』第6巻には付録として、「サンダウ氏解剖図」と題するB4サイズの絵図が折りたたんで挟み込まれているが、それは右手に高々と鉄アレイを吊り上げた筋骨隆々たる人物の「全身筋肉図」であり、全身の筋肉部位の名称が詳細に記されている。ユージン・サンドーの著書出版から程なくして、雑誌『国士』第一巻に早々と掲載されたこの論文の影響であろうか、「嘉納塾」塾生(講道館員)の中にもその後、筋トレ(科学的トレーニング)を実行する者が現れ始めたという。楊昌済も日本滞在6年の間に、これらの論文に目を通したのではないか。 「偏狭なナショナリズム(鈴木大拙師が言う安直な愛国主義)」を忌避する雄勁闊達な内容を特徴とする月刊雑誌『国士』の編集方針こそは、「世界的視野の持ち主」として明治維新以来の知育偏重教育の結果、知識万能主義が瀰漫する日本国の将来を危ぶむ「憂国の人・嘉納治五郎」の本質を示していると言えよう。 さて余談にはなるが、敢えて付言すると楊昌済教授と、向学心に燃える憂国青年毛沢東との関係は、単に学術上の恩師と愛弟子という関係に止まらなかった。 毛の湖南第一師範学校卒業(1918年6月)と時を同じくして、楊昌済は北京大学教授に転任したが、それは中華民国初代教育総長(文部大臣)を務め、この時、北京大学々長であった蔡元培の招請によるものであった。 一方、楊昌済は北京に転勤して2年足らずの1920年1月、病を得てその49年の生涯を閉じたが、この1920年の冬、毛沢東は故郷長沙に戻っていた恩師楊昌済の娘・楊開慧と結婚したのである。毛の最初の上京の際に、居候した楊家で出会って恋仲になっていたこの二人には、程なくして毛岸英、毛岸青という男の子二人が授かった。 Ⅰ-2 IOC委員就任前後の日本スポーツ界 後にも詳述するように、明治42年1月、東京高師校長応接室に、駐日フランス大使ジャベール(クーベルタン男爵の友人)の訪問を受け、アジア初のIOC委員就任の要請を快諾した嘉納は、オリンピック参加の意志を固めながら日本を代表する運動選手の選出母体について思いをめぐらせ、最初は自らが兼務で局長(普通学務局長)を務めたこともある、古巣とも言うべき文部省に協力を求めた。 日露戦争の勝利、とりわけ世界戦史に画然たる「日本海(対馬沖)海戦大勝」に酔いしれていた日本国民の大多数は、「オリンピックとか何とか、たかが西洋の運動会に、日本(ロシアに勝った立派な国)が、わざわざ行ってやる必要はない」という何とも陋劣な(世間知らずの)態度であった。 次に嘉納は、私立日本体育会の会長である加納久宜子爵に相談したが、嘉納治五郎の求める理想と、加納久宜の主宰する日本体育会(日本体育大学の前身)の理想(国粋主義的?)とは異なることを理由に拒絶された。ここにおいて嘉納治五郎は従来の団体に頼ることを断念し、全く別個に新規の団体を創立し、その目的を達成しようと決心するに至ったのである。 明治43年、嘉納は東京帝国大学総長・浜尾新(後に文部大臣、枢密院議長)、早稲田大学々長高田早苗(後に文部大臣、早大総長)、慶應義塾々長・鎌田榮吉に呼びかけて体育団体結成に協力を求めた。 そして遂に翌明治44年7月、我が国最初の体育団体「大日本体育協会」が発足し、会長・嘉納治五郎(51歳)、総務理事として大森兵蔵(37歳)、永井道明(42歳)、安部磯雄(46歳)の3名が選出されたのである。嘉納と初代総務理事安部磯雄は、幼少期に鍛えられた「漢籍(四書五経等)」による教育と、世に出る前に身に着けた「高い英語力」に加えて、「世界的教育理念」をも共有したせいか肝胆相照らす仲となって、体協の発展(即ち日本スポーツ界の発展)に力を尽くした。 38歳の中学校長として3年間の欧米留学を命じられ、帰国後東京高師教授に就任した体協初代総務理事永井道明の、アメリカ、スウェーデンに於ける中年男の猛烈な「体育修行」については後に詳述したい。 Ⅰ―3 東大文学部第二期生・嘉納治五郎 明治10年4月、開成学校改め東京大学となって幕府開成所以来継続して使用された神田一ツ橋(現・千代田区神田錦町)の敷地に、同大学文学部第二期生として開成学校以来通い続けた嘉納治五郎は、大学入学と同時に、かねてから念願の柔術修行にのめり込む。 夕食をすませて、父親・嘉納治郎作(明治新政府初代海軍卿・勝海舟との縁によって海軍省に出仕)の邸宅がある日本橋蛎殻町からは程近い磯道場へ行き、帰りは11時を過ぎてからになることもあったという。 ところが明治14年、磯の死によって再度師を失った嘉納は、今度は天神真楊流とは技のかけ方が全く異なる起倒流の飯久保恒年を師として、乱取りを中心に一層の修練を積んだ。 明治15年、巡査の月給が6円、小学校平教員のそれが5円の時代に東大文学部を卒業した嘉納学士は、文部省ならぬ宮内省が所管する学習院に月給80円で採用される。 その学習院に於ても明治18年、嘉納(26歳)は学習院第2代院長・谷干城によって幹事兼教授に抜擢され、最晩年の父・嘉納治郎作(海軍省権大書記官)を喜ばせた。 更に翌明治19年、嘉納(27歳)は、既に工部大学校(東大工学部の前身)校長を務め、極めて開明的な人物であった学習院第3代院長・大鳥圭介によって教授兼教頭に抜擢され、大鳥院長とは馬が合った嘉納教頭は、教員の採用その他多くの事を任されていたが、大鳥の後任第4代院長・三浦梧楼(陸軍中将、元陸軍士官学校長)とはソリが合わず、明治22年、学習院教頭を辞して宮内省御用掛の身分のまま、ヨーロッパ視察を命ぜられた。 フランスを経由してドイツに滞在し明治24年1月帰朝、嘉納は宮内省御用掛から文部省参事官に転じ、明治24年8月には熊本の第五高等中学校(五高)校長に任命される。 東大入学と同時に柔術修行にのめり込んだ嘉納治五郎ではあったが、柔道は、東大生としての余暇に熱中した謂わば余技であり、敢えてここで文学部第二期生(同期6名)としての嘉納の学問修行についても触れておきたい。 明治10年4月、前年9月開校の札幌農学校(Sapporo Agricultural College)に次いで日本で二番目の学士号授与機関として発足した東京大学法・文・理三学部は、神田一ツ橋(現・神田錦町)の徳川幕府開成所以来の敷地に開校となったが、当時の東大法学部では英語で「英米法」が講じられているだけで、政治、経済は文学部で教えられていた。 その東大文学部に明治11年、医学部動物学教授エドワード・シルベスター・モースの斡旋によって、哲学教授として破格の待遇で招聘されたのが、後に「日本美術界の恩人」となった当時25歳のアーネスト・フェノロサである。ハーヴァードでは専ら哲学を専攻したフェノロサであったが、草創期東大当局の要請により、政治学、経済学をも担当した。 事前に何冊もの参考書を熟読し、要点を整理して分かりやすく解説する25歳、新進気鋭のフェノロサ教授の講義は、前編でも言及したように、西欧の新知識を貪欲に吸収しようとする嘉納ら学生の間に極めて人気が高く、彼らに十分な満足を与えるものであった。 安政6(1859)年出版されたミルの『On Liberty』は明治5(1875)年、中村正直により『自由之理』として翻訳出版されたが、早くも翌明治6年にそれを遠方まで買いに出かけ、貴重な書物を手に入れた嬉しさのあまりか、帰路、馬上で同書を読んだ25歳の河野廣中(後に第11代衆議院議長に就任)は、大きな衝撃を受け、自らの自伝『河野磐州伝』に次のように書き記した。 「思想上に大革命を起こし、従来の思想は根本から打ち砕かれ、…微塵となり…全く余の生涯に至重至大の一転機を画した」 明治14年7月、嘉納治五郎は政治学と理財学(経済学)を専攻して卒業した後、ハーヴァードでは専ら哲学を専攻したフェノロサから「哲学」を学ぶために、改めて同じく明治14年、文学部第一科(哲学)に学士入学をするほど恩師フェノロサ教授(28歳)に傾倒した嘉納治五郎であった。 フェノロサは第二学年向けの「哲学史」に於て、ドイツのヘーゲル派哲学者アルベルト・シュべーグラー著『哲学史概論』の「英訳本」をテキストに、暗記や筆記(論述)の試験を繰り返しながら、デカルトからヘーゲル、スペンサーに至る近世哲学史の概要を講じ、特にカント、ヘーゲルのドイツ観念論哲学とミルのイギリス功利論、スペンサーの進化論哲学との対比、総合の試みに重点を置いたという。因みに明治12年6月実施した第三学年向け政治学(ポリティカル・フィロソフィー)の試験に、フェノロサ教授の出題した問題6問のうち第3問は次のようなものであった。 スペンサー氏の不可知論を批評せよ。政治学倫理学の根本問題に対するスペンサーとヘーゲル両氏の哲学それぞれの関係を示せ。ヘーゲルは「絶対的二元論」を説明し得るや。 俊英・嘉納治五郎の、この問題に対する答案(英文)はどのようなものであったか、興味深いところである。 Ⅰ―4 柔術からアウフヘーベン(止揚)された柔道 明治15年、東大卒業と同時に講道館長に就任した嘉納治五郎の柔道修行は厳しいものであり、今日の高校野球名門校と同じく年中無休、元日から大晦日まで講道館の稽古には一日の休みもなく、その稽古も時によっては数時間に及ぶことがあった。 古流柔術においては主流を占めていた「形」による練習に換えて、それまで細々と行われていた「乱取り(試合形式の練習)」を前面に押し出した講道館柔道においては、「受け」と「取り」とが「約束事である形」を繰り返す在来柔術の方式に比べて、練習における体力的精神的消耗は、一段も二段も激しいものであったことは疑いない。 そもそも乱取りは、「明治維新」の少し前から「残り合い」ということから行われ、それが発達して今日も行われる乱取りが出来たと言われている。「残り合い」とは、約束事として順序方法を定めて「形」を行う場合に、もしも相手の技が効かぬ時には、わざと掛からない。 稽古時間中、嘉納は殆ど休憩を取らず、弟子の西郷四郎、富田常次郎(小説『姿三四郎』の著者・富田常雄二段の父)、山下義韶らにも同じように休まず練習することを要求したという。 明治15年に「講道館」を創始してからも、嘉納館長は起倒流師範である飯久保恒年を道場に招いて、「起倒流」の「形」と「「乱取り」の出張指導を仰いだという。 明治初期における古流柔術の稽古姿勢は一般に自護体で自然体は稀であり、一方の手を相手の腋の下に差し入れて組むという、相撲のような仕方であったという。乱取りに最も長じていた起倒流竹中派だけは自然体の組み方をしていて、嘉納は熱心に修行の末、敏速自在に進退動作が出来、技の変化もより多くさせるこの自然体こそ、乱取りの目的を果たすに最適のものであると結論した。 古流柔術の主体であった「当身技」や「関節技」を、「形(例えば「極の形」)」として残し(棚上げし)、互いに襟、袖を取り合って「投げ技」のみを応酬する百分の一秒台の瞬間的反応の中での攻防に、「乱取り稽古の真髄」があり、「生きた技を短期間で習得する道」も、さらにその先の「より高いレベルの技に到達する道」も、「乱取り稽古」の中にこそあることを、嘉納は体得していた。 このような創意工夫をこらす嘉納の下に、講道館員は総力を傾注して投げ技を探究、錬成して数年のうちに講道館を代表する選手の投げ技は、冴えに冴えて柔術諸豪を圧倒し、その威力によって遂には諸流を統一、後に詳述するように明治32年、「大日本武徳会」は「柔術試合審判規定」を策定するための委員長に嘉納治五郎を指名したのであった。 要約すると、嘉納治五郎による世界的イノベーションの核心は、「投げ勝負の徹底的追求」、即ち当身技や手首等に対する関節技を禁止して、互いに自然体で立って襟、袖を掴むことで始まる、あくまで「投げ勝負を探究する乱取り中心の稽古体系の確立」にあった。 換言すれば、遠い間合いからの打突蹴はむろん、近い間合い(組み際)における頭突き、あるいは膝蹴りや肘打ち等、武術(喧嘩術?)としては極めて有効な技術を一切排除して、互いに襟、袖を取りあうところから始まる「講道館柔道という格闘技の新システム」によってのみ、可能となったのが「精妙な投げ技」である。 Ⅱ 天の時―警視総監三島通庸と柔道・剣道 さて、古くから「天の時、地の利、人の和」という言葉がある。 同年、警視総監に就任した三島通庸(鹿児島県士族)は、警察官の士気高揚と武術の奨励、振興に極めて熱心な人物で、以後、この武術大会は毎年、「弥生祭武術大会」あるいは「警視庁武術大会」と呼ばれて、全国から多数の剣術家や柔術家が馳せ参じる。 その明治18年の第一回大会から3,4年に亘って同大会に参加した講道館員の目覚ましい活躍が、「講道館柔道」が全国に覇を唱える大きな一因となったことを記憶しておきたい。 「多方面から講道館に試合に来た者にはたいした者はなかったが、さすがに警視庁には全国から大家を集めただけに、ここには、相当あなどるべからざる相手も少なからずおった。しかし投げ技においては殆ど恐るべき者がなかった。ただ寝技にかけて講道館の者を相当苦しめた者がおった。後になっては研究を積んで、恐れないまでになった。ここに警視庁における試合について特記すべきことがある。それは楊心流の戸塚門下の者と講道館の者との試合である。 幕末当時の柔術家で、日本一等強い門下を持っていたのは戸塚彦助であった。維新後になっても、なお当時の名人が残っており、、戸塚彦助本人もまだ達者であり、その後継者の戸塚英美もおって、その手に育てた者のうち、なかなか技の秀でた者があり、千葉県に本拠を据え、(明治)21年頃になって、講道館の名声が知れ渡るにつれて、警視庁の大勝負となると、自然、戸塚門と講道館と対立することとなる。21年頃のある試合に、戸塚門下も14,5名、講道館からも14,5人、各選手を出したと思う。その時、4,5人は他(他流派)と組んだが、10人程は戸塚門と組んだ。 戸塚の方では、わざし(業師)の照島太郎や西村定助という豪の者などがおったが、照島と山下義韶とが組み、西村と佐藤法賢とが組み合った。川合(慶次郎)は片山と組んだ。この勝負に、実に不思議なことには、2,3引き分けがあったのみで、他はことごとく講道館の勝となった。 講道館の者はもちろん強くはなっていたが、かほどの成績を得るほどまでに進んでいたとは自分は考えていない。全く意気で勝ったのだと思う。実力は戸塚もさすが百練の士であって、たやすく下風につくものではなかった。さきに言う通り、維新前には戸塚門を日本第一の強いものと認めておったのだ。しかるに、この勝負があってから、いよいよ講道館の実力を天下に明らかに示すことになったのである。 この勝負の後のことであったと思う。当時戸塚は、千葉県監獄の柔術の教師をしていたそうだが、時の千葉県知事船越衛の命を受けて、高弟西村定助を同伴して、講道館の教育の方法を視察にきたことがある。いろいろ説明してのち、西郷(四郎)が誰かを相手に乱取りをしているのを見て、戸塚英美は評して「あれが名人というのでしょうな」と言ったことを記憶している。その評を聞いて大いに満足した。 かくして「講道館」の名声は確立、明治19年には98人であった入門者が、20年には292人、21年には378人、22年には605人という状況となったのである。 話を元に戻すと、警視庁が明治18年に至って殉職警官の慰霊を名目に上記のような大規模な「武術大会」を催すに至ったのは、8年前の明治10年、西南戦争最大の激戦となった「田原坂の戦い」に大功を挙げ、また犠牲者も多かった警視隊隊員(抜刀隊隊員)の霊を慰め、併せて維新以来、廃る一方の剣術や柔術の振興を図ることにあった。西南戦争で警視庁出身者で構成された「警視隊(総員9500名)」を率いたのは、別働第三旅団長(陸軍少将)・川路利良大警視(初代警視総監、旧薩摩藩士)である。 明治10年3月9日、明治新政府軍は薩摩西郷軍が田原坂に布いた防衛線の突破を図るが、地形を巧みに利用した薩摩軍の激しい銃撃と抜刀白兵戦術に手も足も出ず、遂に3月13日、「植木口警視隊(354名)」の中から新たに「抜刀隊(110余名)」を臨時編成する。 戦後、川路利良・初代警視総監は『撃剣再興論』を出版し、警察において剣術を奨励する意向を明らかにして明治12年、馬場先門内に巡査教習所が設置され、警視庁に撃剣世話掛が設けられて梶川良正、上田馬之助、逸見宗助がまず最初に採用された。その後、真貝忠篤、下江秀太郎、得能関四郎、三橋艦一郎、坂部大作など続々と採用されたのである。 そしていよいよ本編の主人公・高野佐三郎(身長171センチ、体重86キロ)の出番が来た。 明治19年4月、弱冠25歳の高野佐三郎は鉄舟の添え書きを携え三島総監を訪ね、本所元町警察署世話掛を拝命した。同じ頃、奉職してきた者に、牛込署の内藤高治、高輪署の高橋赳太郎、和泉橋署の川崎善三郎がいる。内藤は後に大日本武徳会の主席となり、「西の内藤、東の高野」と呼ばれるライバルとなって、高橋、川崎とは、「警視庁の三郎三傑」と称揚されるレベルの高い剣友となった。 Ⅲ 剣術家・高野佐三郎の名声確立 高野佐三郎が警視庁剣術世話掛を拝命してから3年後の明治21年7月19日午前9時15分、高野の恩師・山岡鉄舟が皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命した(享年52)。 山岡の葬儀から1ヶ月後の明治21年8月、高野佐三郎は警視庁を辞して埼玉県警察本部傭員となり、家族と共に浦和に転居し、埼玉師範学校(後に女子師範学校、現・埼玉会館の地)の前に住宅と剣道場を建て、道場名を「浦和明信館」とした。 「浦和明信館」の名声は高まり、10年余の間に、地元埼玉以外に千葉、茨木、栃木、山梨、鎌倉、東京、北海道にまで明信館支館が出来、後に高野は東京九段に明信館総本部を置くことになるが、総館数46,館員数6千余人で、門弟は警察官、学生を加えると1万余人に及んだという。(続く) 高野佐三郎の恩師山岡鉄舟の墓(谷中全生庵) |