埼玉県第2区選出全国最年少代議士―早稲田の大黒柱・高田早苗 (下)急転直下―大隈の政権復帰と学園の興隆

(下)急転直下―大隈の政権復帰と学園の興隆

Ⅳ日本近代の巨人・大隈重信と腹心・高田早苗

Ⅳ―1日本国民の政治的レベル

明治14年10月、一夜にして権力の座(参議)から引きずり降ろされた大隈重信は、藩閥政府によって明治20年5月9日、勝海舟、後藤象二郎、板垣退助らと共に華族に列せられ、政府の最高権力者・伊藤博文と同じく伯爵を授けられた。更に同年12月26日には大隈は正三位に昇叙され、明治14年政変前の従三位から一階級上昇したところを見ると、明治14年には政権から冷酷に(クーデター的に)引きずり下ろした大隈を、藩閥政府が繫ぎ止めようとしたことは明らかである。

そしてこの年(明治20年)9月、不平等条約改正交渉を巡って井上薫外務大臣が辞職する破目に陥り、内閣総理大臣伊藤博文は、それまで兼任していた宮内大臣を辞し外務大臣を兼任したが、伊藤は既に井上の意向を察して、黒田清隆を介して9月9日までには大隈に対して入閣(外相就任)の打診をしたという。

同年10月、後藤象二郎らが井上薫外相が進める条約改正に反対するグループを集めて、大同団結運動を起こし、地租軽減・言論集会の自由・外交の刷新(日本に不利な条約改正反対)など三つの要求を掲げ、12月15日には二府十八県の代表が東京に集まり、「三大事件(三大要求)建白書」を政府に提出するなど不穏な状況となった。

これに対して藩閥政府は明治20年12月25日、山縣有朋内務大臣が保安条例を公布・施行し、非番で忘年会に出席していた警視庁巡査まで動員して、大同団結側の指導者570名に皇居から三里(12キロメートル)以遠への退去を命じた。
この時、東京市街地から追放された者には、自由党系の片岡健吉・中島信行・星亨・中江兆民や、改進党系の尾崎行雄ら、後日、日本政界において最大級の活躍をした人々が含まれている。

大同団結運動には全く関わっていない大隈重信に対して、新たに設立される枢密院の議長に転ずるつもりの総理大臣・伊藤博文は、自分の次の内閣総理大臣に推す黒田清隆を誘って、大隈の入閣交渉を幾たびか重ねた結果、明治21年2月1日、大隈は伊藤首相が兼務していた外相に就任する。
前年9月に入閣の打診があってから半年近くも時間がかかったのは、大隈が自身の入閣と同時に自派勢力の政権入りについて、伊藤らから見れば過大な要求を突きつけたからである。

そういう経過を経て第一次伊藤内閣の外相に就任した大隈重信は、実権の振るえる外務次官に参事官兼取締局次長の加藤高明(28歳)を抜擢する。加藤高明は東大法科を首席で卒業、岩崎弥太郎の長女春路と結婚し三菱に入社したが、陸奥宗光の慫慂により外務省入りした人物である。

大隈は外務省以外には自らの執事とも言うべき腹心の北畠治房を東京控訴院検事長(現・東京高等検察庁検事長)に、前島密(前駅逓総監)を逓信次官に就け、同時に明治14年政変で共に下野した河野敏鎌(前農商務卿)と、同郷・佐賀藩出身の佐野常民(宮中顧問官・前大蔵卿)を、新たに発足した機関としての枢密顧問官(閣僚級)に就任させ、前島が就任していた関西鉄道会社の社長として中野武営(明治14年政変時は農商務省権小書記官)を後任として送り込むことにも成功した。
中野武営は、政治家出身の実業家として、同時に実業界における政治家として活躍、明治38年には渋沢栄一の後を受け、第2代東京商業会議所会頭に就任し13年間務めた。

ところで、大隈重信は明治14年の政変というクーデター的な挙によって、一夜にして権力の座(参議)から引きずり降ろされた後、既述のように立憲改進党を創設し総裁(党首)となっても、政談集会で演説したり、支持者獲得のために遊説したり、また新聞に見解を掲載することはなかったという。
その一つの理由は、「国民のレベルが不十分で、その前で演説すれば反政府的発言で煽動せざるを得ず、単に国民を扇動し政府に批判をぶつけて対決するだけの反政府分子になりたくなかったからである」という(伊藤之雄著『大隈重信』)。
村長(名主や庄屋)や奉行、或いは殿様(大名)の意向を忖度して、「異を唱えることなく暮らすこと」が美風であった封建社会(同調強制社会)で、小野梓が説いたような「法意識」や、「近代国家の国民としての義務や権利の意識」を持てと言う方が、無理ではないか。

素朴な疑問ながら、ではいつ、日本国民が封建的遺風(前近代的メンタリティー)を脱して、そのレベル(政治的自覚あるいは政治的訓練の度合、敢えて言えば「民度」)が十分になったと大隈は判断したであろうか。或いは大隈は、遂にそういう認識に至ることなく死去したのであろうか。泉下の大隈に聞いてみたいところである。

「大蔵省官費留学生」としての生活を終えて明治7年5月帰国した小野梓が、既述のように明治9年5月から11月にかけて発表した「国憲論稿」の中で述べた「(一般民衆の政治意識の高低)と(法意識の有無)とが立憲国家の体裁を規定する最重要事項である」という言葉は、21世紀日本国民にとっても、依然として拳々服膺すべき言葉ではないか。

元禄元(1688)年、イギリスに侵攻して「名誉革命」(歴史家トレヴぇリアンによれば人類史上、千年に一度の快挙)を成し遂げたオランダ人ウィリアム三世が、オランダ無敵艦隊を以て2万余の軍隊と共にイングランド(デボンシャー)に上陸し、6万部も印刷頒布して自らの「イングランド侵攻の目的」を説明したパンフレットには次のように記されている。「あらゆる人々を、信条を理由とする迫害から守ること、そして国民全体がその法律、権利、自由を正統にして合法的な政府のもとで享受できることを確かにする以外の何物でもないことである……」

第一次世界大戦勃発の直前、そして内閣総理大臣就任直前の大正3(1914)年3月、76歳にして元気旺盛な大隈重信は青少年向きの『立憲国民訓』という著作を出版するが、その中で、「憲法は国を強くし、人民を仕合せにする」と断言した。
元々大隈は自立心を重視し、山縣有朋らとは正反対の立場で憲法政治を重視して、「自ら近代化し立憲国家にすることができない国民は滅ぼされてしまう」という厳しい見解の持ち主であった。

そして大隈が同書の最後に述べたように、アメリカやイギリスは、はるかに偉く、日本などはまだ足元にも寄れないと、アメリカをイギリスの前に挙げて、今後はアメリカ・イギリスが世界をリードして行き、日本はこの二国にはまだ到底及ばないことをよく理解していた。(伊藤之雄著『大隈重信』)
日本の国力や国際環境を顧慮することなく、威勢のいい言葉を吐いて国民を扇動するような、他の多くの政治家とは全く異なる見識の持ち主・大隈重信であった。

大隈が嫌った「世論(感情に流されたせろん)」と、大隈が務めて志向した「輿論(よく考えられたよろん)」との区別に関して、是非とも言及しておきたいのが「言論の自由」という大原則である。
「せろん(世論)」から「よろん(輿論)」を形成していくプロセス(知性の働き)には、「言論の自由」という大原則の存在が不可欠であることは、子供にもわかることである。
ところが大隈の死後に至っても、日本社会にその「大原則」が確立されたことは無く、依然として「権威主義」と「事大主義」とが日本社会の精神的底流となって21世紀の今日に至り、「日本社会停滞の主因」はここにある、と言うことが出来ようか。

「言論の自由」が歪められた事例は、明治から大正、昭和に至るまで枚挙に暇がない中で、超ベストセラー『学問のすゝめ』と共に、明治初期日本国民の啓蒙書として明治8年に出版された福沢諭吉の代表作『文明論之概略(ぶんめいろんのがいりゃく)』が、昭和11年に至り、官憲の圧力によって、その一部の記述が削除されたのが 典型的一例である。

『文明論之概略』第33刷(2021年岩波書店刊)の校注者・松沢弘陽北海道大学名誉教授が同書の「解説」でも説明しているように、政府当局の圧力により、昭和11年11月刊行の同書第2刷では、第4章の長短3か所が削除された。

思い起こすのは、昭和62年その著作『井上成美』によって「日本文芸大賞」を獲得、平成11年には「文化勲章」を授与された作家・阿川弘之は、「昭和の初めから日米開戦に至る出来事については、知れば知るほど、日本人であることが、つくずく嫌になる」と述べたことである。
偏狭な「国家主義」や「国粋主義」(総じて言えば「安直な愛国主義」)に毒されてしまい、「夜郎自大」に陥った日本国民は、昭和6年の「満州事変」や昭和8年の「国際連盟脱退」から「日米開戦」に至るまで、「孤立化」から「袋叩き」、そして「日本国中が焼け野が原」となる事態にまで、突き進んでしまった。

明治8年、「新聞紙条例」や「讒謗率(ざんぼうりつ)」を相次いで発布し、反政府的言論弾圧にシャカリキになっていた「明治新政府当局者」と全く変わらぬ(同レベル)メンタリティー(精神構造)を保持していたのが、「昭和11年の日本政府当局者」である。

このことに関して思い起こすのが、イギリスのジョン・ロックと共に啓蒙主義を代表する人物の一人であるフランスのヴォルテールが言ったとされる「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という言葉である。21世紀に至っても、なお新鮮に響くような、日本社会の政治的レベル(政治風土?)ではないか。

1776年から1780年(安永年間、10代将軍家治の治世、老中田沼意次の時代)の間に、『百科全書、あるいは科学、芸術、技術の理論的辞典』を出版し続けたヴォルテールの遺骸は、「フランスの偉人たちを祀る墓所であるパンテオン(パリ5区)」に安置され、今もパリを見守っている。

そうは言っても、人間(人類)は、他の動物と異なり「感情の動物」でもあり、「恐怖心、猜疑心等々負の感情」や優越心(偏見)に流された世論 (せろん)」により形成された「国民感情」なるものによって、国家が思いもしなかった方向にまで押し流されて(突き進んで)しまうことは、「クリミア戦争」、「普仏戦争」、その後の世界大戦の推移からも明らかなように、歴史が如実に示している。

だが、海中から、或いは僻地から発射される水爆ミサイルが飛び交う今後の戦争に勝者はなく、人類文明の消滅となることは明らかである。
マンモスは気候変動によって消滅したと言われるが、願わくば「感情の動物・人類」が、「感情処理」を誤って、「国民感情」なるものに突き動かされ、人類絶滅という事態を招くことだけは避けたいものである。

Ⅳ―2 大隈の復権と学園の新体制

話は前後するが、謀反人扱いされた大隈重信が伯爵に叙され政権復帰の機会を与えられた明治20年、本編の主人公高田早苗は、東京専門学校設立時からの「評議員」にして改進党幹部である前島密の長女不二と結婚した。

大正8年、84歳で没した前島密であったが、その3年後の大正11年、故郷越後(現・上越市下池辺)に建立された前島密記念碑に「日本文明の恩人」と記された前島は、天保6(1835)年、300年続く越後の豪農・上野家の次男・上野房五郎として生まれ、健気にも12歳で西洋医学を志して単身江戸へ向う。
ところが、江戸での生活は西洋医学の学習どころか蘭方医の雑役に追われ、辛うじて筆耕者として暮らしていたが、海外事情に関心を向ける房五郎は自ら求めて、横浜に上陸したぺルリ提督とアメリカ海軍を目の前に見るという体験を踏んで、「国防考察」の為として19歳の時、全国の港湾を野宿をしながら視察して回る覇気の持ち主であった。
だが、海事に関する知見(学問)もなく、ただ全国行脚をしただけの自分を深く反省したように、並外れた才覚の持ち主であり、単なる学究ではなく「志士的肌合い」の房五郎は、貿易、海事に更に強い関心を向け、その人柄も良かったか、縁あって幕府軍艦教授所の生徒に加えてもらい、オランダ国王から徳川将軍への贈り物である「日本最初の木造蒸気船・観光丸」の乗組員として、和船にはない「蒸気エンジンによる航海」の経験を積み、23歳で巻退蔵と改名する。
そして東北沿岸航海の後、函館で高名な武田斐三郎(五稜郭の設計者)に航海術を学んだ。

その3年後、26歳の上野房五郎は、「ロシア軍艦対馬占領事件(当サイト内コラム「私の心の散歩道」2012年6月1日付参照)」という大事件の後始末をする幕府役人の従者として対馬に渡り、ロシア侵略の証拠物品を収納する長崎に渡って、江戸には戻らず、そのまま長崎に留まり幕府直轄長崎洋学所(後の済美館)学頭・何礼之(が のりゆき)の内弟子に抜擢されるほどの精進をする。
早くから、世界を知るためには、オランダ語ではなく英語を学ぶことであると認識していた上野房五郎改め巻退蔵は、いよいよ自己実現への道を確保し始めたと言えよう。

当時、薩摩藩、筑前藩(福岡藩)、土佐藩、加賀藩、松前藩、佐賀藩、徳島藩等々全国諸藩からの俊秀が英学或いは医学修行のために、日本最先端の地・憧れの長崎に雲の如く参集していた。
そういう長崎で巻退蔵は、日本初の「木造蒸気船・観光丸」乗り組みの経歴を買われてか、松江藩・八雲丸の機関士長、福井藩・黒龍丸の機関士長兼教授として、その実力を披露する場面もあった。

巻退蔵より5歳年下の「済美館」学頭・何礼之(24歳前後)は、長崎奉行の寛大かつ強力な支援を受け、自宅敷地に「(何礼之)英学塾」を設置し、塾長として諸藩の俊英300余名を引き受け、後に明治新政府に招聘され明治新政府最高顧問とも言うべき立場(「大学南校」教頭)に立った宣教師グイド・フルベッキを同塾の教頭格として招き、自らも指導を仰ぎ、同時に同塾上級者の英語や数学の指導を任せていた。

何礼之と平井義十郎とが学頭を務める幕府直轄洋学所(後の済美館)の筆頭教授(校長?)を務めたのが、長崎奉行・服部常純(後に海軍奉行そして最後の若年寄)の英断により、破格の待遇(年俸1200両)で召し抱えられた宣教師グイド・フルベッキ(当時34,5歳)である。
オランダ系移民としてアメリカ国籍を得る間も無く、結婚したばかりの妻と共にアメリカから来日した宣教師フルベッキは、その高潔な人格によって諸藩の俊秀を魅了し、英語は当然のこととして、土木工学(とりわけ数学)に造詣が深く、全学生の畏敬の的であった。

一方、別の道から英学を志していた佐賀藩士・大隈八太郎(重信を名乗るのは明治2年頃から)は、佐賀藩が新たに長崎に設置した藩校・蛮学調所(発足後すぐに「致遠館」と校名を変更)の校長として高名なフルベッキを招聘することに成功する。
引き続き「済美館」や「(何礼之)英学塾」でも最高指導者として授業を行いながら、新たな職場である「致遠館」に主力を注ぐ校長フルベッキの下、佐賀藩校「致遠館」の英語初級コースでは、小出千之助を筆頭に石丸虎五郎、馬渡八郎、大隈八太郎らが教師を務めた。
フルベッキは初級をマスターした学生に中級英語を教える傍ら、大隈ら教師に対しては高度の英語を指導し、教材として「聖書」や「アメリカ合衆国憲法」を用いていた。

アメリカ合衆国憲法前文(Preamble)には、「われら合衆国の人民は、より完全な連邦を結成し、正義を樹立し、国内の静穏を保障し、共同の防御に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫の上に自由の祝福のつづくことを確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために憲法を制定する」と記されている。(宮沢俊義編『世界憲法集』)

「上様」とか「上意討ち」とかいう言葉が日常茶飯に使われていた日本で、このような文言を目にした大隈八太郎や「致遠館」学頭・副島種臣らは、どのような感懐を懐いたであろうか。
後年、『早稲田大学百年史』に、「フルベッキなくして大隈なし。大隈なくして早稲田大学なし」と記されたのは、こういう事情からである。明治31年、赤坂葵町の自宅で心臓麻痺により急死したフルベッキの遺骸は、明治政府が派遣した「儀仗兵」によって運ばれ、青山墓地に埋葬される。
大隈がどのような手段と条件とを以て、諸藩の垂涎の的である高名なフルベッキを説得し(口説いて)、佐賀藩校校長としての招聘に成功したのか、泉下の大隈に聞いてみたいところである。

話を巻退蔵に戻すと、群を抜く才覚の持ち主であった巻退蔵は、上級者にはフルベッキが指導する前記「(何礼記)英学塾」において、英学・数学の最優等生として、何(が)の自宅に居候となり衣食の心配なく、何(が)によって深夜に及ぶ特訓を受けるようになった。その結果、慶應元年、巻退蔵(30歳)は、新たに創設された薩摩藩開成所英学教師として招聘されるに至ったのである。

夜には小松帯刀・大久保一蔵(利通)・町田久成その他薩摩藩士との酒食を交えての交流を楽しんだ巻退蔵は、1年後、故郷・越後の兄の死を理由に休暇をもらい、薩摩を出て再び戻らず、江戸に於て旗本株を買い、巻退蔵改め幕臣・前島来輔(後に密)となって英語、数学を教える小さな私塾を営み、目立たないように(薩摩藩士による暗殺を恐れてか?)暮らしていたが、慶應3年、32歳にして幕府開成所数学教授に抜擢された。

大政奉還後、駿府藩(徳川藩)公用人として、同藩勘定組頭の渋沢栄一らと共に駿府で働いていた前島密は、その後周知のように慶應4年、大久保利通が京都から大阪への遷都を企画していることを知り、遷都の地は日本の中心たる江戸でなければならないと大久保に建言し、大久保を動かした。
更に明治2年の暮れ、明治新政府に出仕した(民部省改正掛)前島は、徳川藩士・渋沢栄一を口説いて明治政府に出仕させた大隈重信(民部省上司)から、明治3年、鉄道の建設費と営業収支の見積作成を依頼された。
お駕籠で人々が往来し、大きな川には橋を架けず、「川留め」なんていうことが当たり前とされる、のどかな中世を守っていた当時の日本に、その標準となるような資料は全く無かったが、前島は苦心の末に「鉄道憶測」と題する精密な計画案を作成したという。

こういうことが機縁となったか、前島は「大隈重信の同志(腹心?)」として、「明治14年政変」に際しては、既述のように駅逓総監の地位を投げうって、大隈と共に下野したのであった。
長女・不二の夫となった高田早苗の発案により、月謝を1円から1円80銭に値上げして東京専門学校の経営を大隈家の家計と切り離す計画を全うさせるためか、明治20年、開校以来の東京専門学校評議員・前島密(52歳)は、大隈英磨(30歳)に代わって、東京専門学校第二代校長に就任した。
高田を中心とする東大文学部第三期生の天野為之、市島謙吉、(坪内逍遥)ら中核的教員と新校長にして高田早苗の岳父・前島密との連携は十分で、東京専門学校は以後、創業時の苦難を乗り越えて益々発展、隆盛へと向っていく。

明治22年には、それまで個人が所有していた「講義録」の発行権を得た東京専門学校は、「(早稲田)講義録」の読者を校外生として扱い、優等生には正規学生に採用する道を開いていて、後に博士号を取得した津田左右吉は、校外生から邦語政治科2年に編入され明治24年に卒業、大正7年に『古事記及び日本書紀の新研究』を発表した津田は、大正9(1908)年には早稲田大学法学部文学部教授に就任する。

Ⅳ―3 東京専門学校講師(教授)兼読売新聞主筆

岳父・前島密と同じく才覚溢れる高田早苗は、明治21年頃から引き続き東京専門学校の講師(教授)を務めながら、「読売新聞』主筆として論説を連載し始める。
当時28歳の高田は英文は読み書き共に自信はあったが、流暢な日本文を書くことには自信がなく、坪内逍遥が応援するという約束で入社し主筆となって論説を担当した。だがその前に高田は入社の翌日からロイター通信の電報を直接翻訳して、その日の新聞に載せ、それだけで社長以下は「一流新聞並になった」と大喜びであったという。
当時の外国電報は、ブリンクリーというイギリス人がジャパン・メール社にいてロイター電報を転載し、それを「毎日新聞」その他当時一流新聞と呼ばれた業者は翻訳して掲載するから、一日遅れで、誤訳も多いのが実態であった。

「松屋主人(高祖父・興清の雅号)」という筆名の社説によって、高田は政治・経済・社会の時事問題を、平易な小品文として、品よく読みよく、解りよく、しかも趣味ゆたかに論評した結果、解りよくて読みよいのが何よりと、読売の評判は鰻登りとなり、発行部数は大幅に増えたという。

同時に高田は坪内逍遥(筆名・春の屋おぼろ)を客員として迎え入れると共に、人を介して尾崎紅葉と幸田露伴を正社員として入社させ、幸田露伴は間も無く「国会新聞」に転じたが、尾崎紅葉は終始、「読売の一枚看板」として、後年有名になった「金色夜叉」等々の小説により読売読者を惹きつけた。

かくして読売新聞は全国唯一の文学新聞となり、識者に愛読されたばかりでなく、「社会より一歩先んずべし、二歩は先んずべからず」という高田早苗の新聞経営思想が着々と実を結び、小新聞業者は読売を見習って政治記事を扱い、外国電報(海外記事)を掲載し、報知・毎日・日日・時事などの大新聞業者は論説や雑報を平易に書くようになり、振り仮名までも付け始めて、高田の新聞経営思想は当時日本のジャーナリズムに大きな影響を与えたのであった。

読売主筆として高田は、「通俗国会問答」を読売紙上に連載し、憲法とは、議会政治とは等々について懇切丁寧に、しかも平易に語り聞かせ、その結果、高田は間も無くして国会議員に推されるようになる。当時の日本では、「自由民権」とか「国会開設」とか騒ぎ立てるのは、目覚めたごく少数の有志であり、一般民衆の殆どは、「憲法」という言葉を「弘法(大師)」と同様に受け止める程度の民度(政治レベル)であった。

民度(国民の政治レベル)の低い当時の日本では、「憲法発布」の意味するところを理解できる者は少なく、高田による「通俗国会問答」は、一般国民に必要な知識を与える格好の手段として文字通り洛陽の紙価を高め、当時の大新聞と呼ばれる報知や毎日でも高々2,3千部の発行であったが、読売は文芸趣味(人気連載小説)のお蔭で、5千部内外を発行し、一番儲かる新聞と呼ばれ、更に高田の論説によって発行部数は飛躍的に伸びたという。

Ⅳ―4 埼玉二区選出全国最年少代議士(30歳)
―川越周辺の人々の熱意と品性

明治22年、高田早苗の自宅は麴町10丁目にあって、そこは、この年創刊した「憲法雑誌」の本社でもあり、そこから読売新聞社へ通い、再興された改進党事務所へも往復し、本業である東京専門学校講師(教授)として、週に14時間、「英国憲法」「日本憲法」「代議政体論」の講義を行った上、同校教務幹事として事務幹事の田原栄と共に、校務をテキパキと裁いていた。

国会開設を1年前にして、高田には総選挙に立候補する意志は無かったが、以前高田の学術講演を聞いた者、読売の「通俗国会問答」で啓発された者、「憲法雑誌」で高田の学殖に傾倒した者、地方に散在する東京専門学校卒業の校友等々が、それぞれ若き憲法学者・高田早苗を議政壇上に送ろうと、「輸入候補」として地盤を提供しようと申し出る者が殺到して高田は断り切れず、とりあえず一応の予約をしなければならない地方自治体が、明治22年末までに関東近県5,6か所に及んだという。

最初の申し込みは、小田原中心の神奈川県第2区(高座郡、愛甲郡、津久井郡)からで、加藤松之助という校友を介しての有志の懇望を受け、その後も5,6か所から申し込みがあり、取り合えず受託したが、最後の申し込みが決定的であった。
それは川越中心の埼玉県第2区(入間郡、高麗郡、比企郡、横見郡)からで、中井尚珍という旧川越藩士と、黒須廣吉という大呉服店の若主人が有志を代表して読売新聞社に高田を訪ね、「否応いうなら日日新聞の福地櫻痴(源一郎)を立てる」と膝詰め談判に来たという。
福地源一郎は明治15年、立憲帝政党を結成し、自由党や立憲改進党に反対する「政府与党」となることを目指した人物であり、高田にとっては反対党の領袖とでも言うべき人物に選挙区を譲るわけにはいかない。

翌明治23年、第一回衆議院総選挙に臨んで、最初に申し込まれた神奈川2区が順序ともいえるが、ここには中島信行(43歳)という自由党の名士がいて勝ち目はない。因みに、その中島信行は若い頃、坂本龍馬の配下として亀山社中・海援隊の同僚隊員であった陸奥宗光(陸奥小次郎)の義弟でもあり、神奈川2区で当選して初代衆議院議長に選出される。

そこで申し込みこそ最後だが有志の支援の最も熱心な埼玉県第2区から高田は立候補したが、その埼玉2区の有志は、「候補者は選挙人に頭を下げたり迎合したりすべきではない」、「代議士は地方的利益の代表者ではなく、選出された以上は国家全体の代議士である」という高田の信念を十分に理解した上で、目一杯支援してくれたという。

21世紀の今日においても、地元に橋を架け、トンネルを掘る政治力のある代議士(中央省庁に影響力の強い代議士)を求めるのが、依然として大方の傾向ではないか。
明治23年7月1日行われた第一回総選挙に於ける埼玉県第2区には、定員2名に対して12名が立候補し、「改進党」の高田早苗(30歳)が第一位で当選、弥生倶楽部(自由党)の清水宗徳が第二位で当選し、30歳の高田が記念すべき第一回総選挙における全国最年少代議士となった。

このことについて思い起こすのが、日本では田沼意次が権勢を振るい始めた1770年、『現代の不満の原因についての考察』を出版して、「政党制の意義」、「議会の王権からの独立」を強調し、「議会情報の公開」を要求したエドマンド・バークが、初めてバッキンガムシャーから立候補してイギリスの国会議員(下院議員)に当選した時(35歳)、選挙区民(ブリストルの選挙人)に対して行った演説である。

「……私は諸君のどんな人とも面識すら有しない不利な状況のもとで、当地へ呼ばれてきた。私のための事前の選挙活動は何一つ行われなかったし、逆に私は投票が開始されて以後に初めて立候補の指名を受けた有様である。投票期間がかなり進んでから初めて、私は諸君の前に姿を現した。しかるにこれら各種の不利な状況の積み重ねにもかかわらず、諸君の善意が私の身にこの幸福で好首尾な結果を生み出してくれた以上、私がこれまで諸君に対して個別に答えてきたのと全く同様に、この場で集団としての諸君に対して、単純かつ率直に只々、どうも有難う、諸君に感謝します、諸君の親切心を忘れることはできない、としか言うことができないとしても、諸君は私を格別咎め立てしないであろう。」

こう述べた後、エドマンド・バークは、自分をイギリス国会の代議員(代議士)として選んでくれたブリストルの人々(選挙人)に対して、自らがイギリス国会の代議士に選ばれたからには、ブリストルの成員としての地方的利益を代表する者ではなく、イギリス本国議会の成員として、奴隷的な従順(体制ベッタリ)、あるいは放恣な人気取り(聞こえが良い言葉或いは過激な言葉を並べて人々を煽る)という両極端へ走る傾向を避けて、用意周到さと決断力を以て、「大英帝国の在り様、行く末」について、「自己の判断力」と「良心の最も明白な確信」とに基づいて、代議士としての義務を果たして行きたい、と述べたことである。

そしてバークは、政治家の任務について、「政府の正しい目的を明確にするのは思弁哲学者の仕事である。正しい目的のための正しい手段を見出し、効果的にこの手段を用いることは、行動の場の哲学者たる政治家の仕事である」と述べている。これぞ正に、「行動の場の哲学者エドマンド・バーク」の真骨頂を示す言葉ではないか。
埼玉県第二区選出・全国最年少代議士にして東京専門学校の大黒柱・高田早苗(30歳)にとって、自身の当選から126年前に、英国議会下院に登場した新進気鋭の代議士エドマンド・バークこそは、格好のお手本とも言うべき人物であった。

Ⅴ―1 鳩山和夫校長・高田早苗学監

さて、上記のように八面六臂の活躍をする「東京専門学校のエース教授」とも称さるべき高田早苗や坪内、天野ら主力教員と、高田の岳父にして校長・前島密の協力・連携が功を奏したか、大隈家の家計と切り離され独立の道を確実に歩み始めた東京専門学校は明治23年、前島密と同じく東京専門学校開校当初から、評議員会の一員であった鳩山和夫を新たに第三代校長として迎え、更なる発展を目指す。

第三代校長に就任した鳩山和夫は、明治時代日本を代表する秀才の一人であり、大学南校(開成学校)を首席で卒業した鳩山は、明治8年、「第一回文部省派遣海外留学生11名」の一人に選抜された。
アメリカ東部の大学で勉学に励んだ日本を代表する俊英たち9名は、ボストンに駐在する留学生監督・目賀田種太郎(22歳)の監督の下、以下のような大学に入学する。
鳩山和夫はコロンビア大学法科へ、小村寿太郎はハーヴァード大学法科へ、菊地武夫と斎藤修一郎はボストン大学法科、平井晴二郎と原口要はレンセラー工科大学に、長谷川芳之助、松井直吉、南部球吾はコロンビア大学鉱山学科という内訳であった。ボストンまで目賀田種太郎や上記9名と同行してきた古市公威は、彼等と別れてフランスに向い、他の一人はドイツに向った。

鳩山はコロンビア大学法科で学位を得るとエール大学大学院で法学博士となり、明治13年には帰国、24歳で東京大学講師となった。
その明治13年9月、エール大学大学院で学友として鳩山と交流を深めた相馬永胤、田尻稲次郎や前留学生監督・目賀田種太郎らが帰国早々、日本で初めて「日本語」で法律や経済を教える学校としての専修学校(専修大学の前身)を設立した際、鳩山は親身になって協力した。
既述のように、当時 東大法科では英語で英米法が、司法省法学校ではフランス語でフランス法が教えられていた時代である。

目賀田種太郎は、駿府藩(徳川藩)貢進生として大学南校から早くも明治3年に国費留学生(日本初?)として渡米し、ハーヴァード大学法科から3年で学位を取得して帰国、その学習能力の高さに文部省は驚嘆したか、明治8年、弱冠22歳の目賀田を留学生監督に任命したのである。
明治12年帰朝した目賀田は、勝海舟の三女逸子と結婚、開明的な勝海舟は、アメリカ帰りの20代の若者たち4,5人が設立した日本で初めて日本語で法律や経済を教える「専修学校(専修大学の前身)」に一方ならず肩入れした。

余談ながら敢えて言及すると、上記9名と別れてフランスに向った古市公威は、名門・中央工学校(エコール・サントラル)とパリ大学理学部とを卒業して明治13年に帰国、直ちに内務省土木局雇い入れとなり、翌年には東大講師に、更に明治19年、古市公威(32歳)は帝国大学工科大学校(工部大学校の後身、東大工学部の前身)初代校長に就任する。
フランス留学中、猛烈に勉強する古市の健康を心配した下宿の女主人が休むよう忠告すると、古市は、「自分が一日休むと、日本が一日遅れる」と答えたという。今、東大構内(正門の近く)に、古市公威の銅像(座像)が置かれて学内を見つめている。

鳩山和夫に話を戻すと、明治18年、鳩山(29歳)は外務省に入省し書記官、取締局長に任命されると同時に、東京大学改め帝国大学法科大学校(東大法学部の前身)教授となった。
そして既述のように明治23年7月、明治15年の設立当初から評議員を務めてきた東京専門学校の第三代校長に就任したのである。鳩山を校長に迎える直前の明治23年春、東京専門学校は教員数48名、学生数1031名となり、同年9月には坪内逍遥を主任として新たに文学部を創設し、翌明治24年には帝国大学文科大学校哲学科を首席で卒業した大西祝を招聘して、その文学部に哲学科を設置した。

話は前後するが、本編の主人公・高田早苗は明治23年の代議士初当選以来、政治と教育の二足の草鞋をはいて、政争が激甚の時、遊説の時、休講はあったが、週に13時間、月に32時間は国家論、議政体論を講義したばかりでなく、東京専門学校の経営及び発展策については、幹事あるいは政治学部委員或いは文学部委員として、細大となく相談に与り、遠慮なく意見を述べることに変わりはなく、明治25年10月21日には、鳩山和夫校長を援けて創立10周年の式典を挙げた。

前年の明治24年7月、東京専門学校幹事として新卒業生の懇親会に出席した高田は、「官吏になろうと思うな、なるべく地方へ帰って模範国民となれ、立身を急がず、悠々と構えて大器晩成を期せよ」と懇切丁寧に説得したことを記憶しておきたい。

そして開校以来11年目となる明治26年7月15日に行われた卒業式(東京専門学校では得業式と称した)では、法律科・行政科・文学科・邦語政治科・英語政治科・専修英語科合計169名(兼修英語科を含めると180名)の卒業生を送り出したという。(伊藤之雄著『大隈重信』上巻)
開校以来11年、前述したような高田や天野、市島や坪内らの奮闘努力が実を結びつつあった。

かねてから高田らは、早稲田講義録を発行して得た利益金を積み立てていたが、明治29年に至り、明治24年に卒業して講師を務めていた塩沢昌貞(経済学者、後に第四代早大学長、第二代早大総長)を東京専門学校初の海外研修生として、アメリカのウィスコンシン大学に送ったが、その資金は高田らが苦心して積み立てて来た早稲田講義録販売利益金から捻出されたのである。

翌明治30年3月、高田の発案で市島謙吉幹事を部長として体育部を新設、剣道部師範・内藤高徳(後に大日本武徳会主席師範)、柔道部師範・横山作次郎(講道館四天王の一人)を迎えて武道館を開いたが、これが早稲田大学体育部の始まりであった。
その後明治34年には、柔道部、剣道部に加えて野球部、漕艇部、庭球部、弓術部が加わった体育部が結成され、初代体育部長に安部磯雄が就任し、周知のように安部は野球部長をも兼任した。

明治30年4月、当時第二次松隈内閣(松方正義首相、大隈重信外相)の外務省通商局長に任命された大隈の腹心・高田早苗は、外務大臣官邸での東京専門学校評議員会において、来るべき明治35年10月の創立20周年を目途として、専門学校を大学に昇格させるべき5ヶ年計画を提案する。当然、事前に大隈重信や鳩山校長、天野、坪内、市島らの了解を得ていた5ヶ年計画であった。

既述のように高田は、第一回衆議院総選挙に埼玉県第二区でトップ当選を果たし、全国最年少代議士として第二回から第四回までの衆議院総選挙に連続当選してきたが、明治31年3月15日の第5回衆議院総選挙に初めて落選した。
ところが同年6月30日、我が国最初の政党内閣としての隈板内閣(大隈重信首相兼外相、板垣退助内相)が成立し、「政党内閣制」を主張して藩閥官僚の「超然内閣主義」と戦ってきた大隈や高田の奮闘は、ひとまず功を奏し、高田早苗は同年8月、文部省高等学務局長に任命される。

東京専門学校に関しては明治31年10月15日、高田は同校を「社団法人」に改組することを提案し、鳩山和夫、天野為之、坪内逍遥、市島謙吉と共に社員となった。ところが10月31日には我が国初の政党内閣も、成立後僅か4か月で崩壊、首班・大隈と共に下野した高田は、以後、鳩山校長を援けて大学昇格事業に専念する。

翌明治32年2月、高田らは英語学科を廃して一年制の高等予科とし、中学校(旧制)卒業の新入生に各学部への予備教育を授け、語学力の他に歴史地理、国漢、修辞作文などの教養を与えて、大学昇格に備えた。
そして同明治32年8月、文部省が「私立学校令」を発布したのに合わせて明治33年2月には、大学部設置に備えての職制を新たにして、高田(40歳)は鳩山校長(43歳)の下で「学監」となり、会計監督に市島謙吉、幹事に田中唯一郎を嘱任することに評議員会の同意を得る。

こういう流れの中で高田は、「大学昇格の必要」と「予科設置の必要」を主張し検討した結果、明治33年7月の評議員会、34年1月の校友大会で、大学部の設置、専門部(大学院)の併置、高等予科の附設、教員留学生の派遣、図書館及び校舎の新築と、これら事業に要する基金の募集を発表した。

2月には新聞紙上に基金募集の広告を出し、自らの岳父・前島密を基金募集委員長に、市島謙吉を会計監督に、校友及び有志を基金募集委員に嘱任して、明治34年4月17日から6月1日まで45日間、東京専門学校学監・高田早苗は、静岡、滋賀、大阪、京都、奈良、岡山、広島、福岡、佐賀、長崎、熊本、山口、三重、愛知、岐阜の各府県に出張し、昼は講演、夜は校友会に明け暮れて、基金募集への協力を求めた。

その間、前島委員長と市島は越後と仙台へ、天野為之と田中唯一郎は奥羽六県連合校友会へ、山沢俊夫(校友総代)は山梨県へ、天野と浮田和民は東北四県へと、それぞれの分担地区へ出張して協力を求めた結果、募金予定総額30万円のところ、28万円までの申し込みを受け、それによって木造の新校舎一棟、煉瓦造の図書館書庫、木造の図書館が明治35年8月までに完成した。明治35年9月2日、東京専門学校は「早稲田大学」と改称することが許可され、9月17日には高田早苗が大学部政治経済科の科長と専門部(大学院)政治経済科の科長を兼任し、高等予科の主任は安部磯雄、図書館長には市島健吉が嘱任され、安部磯雄は体育部長・野球部長を兼任した。

Ⅴ―2 明治35年10月19日(創立20周年)

かくして明治35年10月19日、開校20周年を迎えた東京専門学校は、校名を「早稲田大学」に改めることを許可されて、同日午後1時から「早稲田大学開校式」を挙行する。
校友、学生、来賓あわせて7000名、鳩山校長の式辞、高田学監の報告、創立者・大隈重信伯爵の演説、校友代表・山沢俊夫の祝辞に続いて、来賓として文部大臣・菊地大麓の祝辞(代読)、日本銀行総裁・山本達雄の祝辞、東京帝国大学教授・加藤博之博士の祝辞に次いで、伊藤博文侯爵の祝辞が異彩を放ったという。

学監・高田早苗は大隈の諒解を得た上で、「明治14年の政変」に於て中心人物の一人として大隈重信を政権から引きずり下ろし、山縣有朋と共に東京専問学校を猜疑の目をもって圧迫し、弾圧し続けた伊藤博文に対し基金募集の当初に訪問して、東京専門学校20年の経営苦心について語り、眇(びょう)たる一私学校でも国家教育に多大の貢献をしたはずであることを述べ、この際一臂(いっぴ)の力を添えて頂きたいと募金協力の要請をした。

これに対して伊藤博文は欣然として500円を寄付、明治政界の中心人物(初代内閣総理大臣、初代枢密院議長、初代貴族院議長)・伊藤博文の名前は奉加帳の筆頭に記されて、募金成績を上げる大きな要因となった。
伊藤は開校式にも出席し、式辞として「本校が経済よろしきを得て、20年来、一厘一毛の官費を仰がずして、独力その基盤を固め、その隆盛を致すと共に、絶えず怠らず改良を加えて、ついに今日の盛大を見るに至ったことを、世人と共に驚嘆すると同時に、大隈伯及び教職員諸君に敬服する」と挨拶した。

一方、『六合雑誌』明治35年12月号は、「早稲田大学開校式」を取り上げて、次のように賞賛した。
「専門学校発達の歴史を説くに当たっては、大隈、前島、鳩山諸氏の功を説くも可なり。形式的の世辞をやめれば、高田、天野、坪内三氏の功労を賞賛せざるを得ない。
高田氏の政治学における、天野氏の経済学における、坪内氏の文学における、人をして仰望の念を抱きしめる、名望と実力とを伴えば是より強きはない。早稲田大学は三頭政治であり、三頭にして一頭をなしている。三氏が20年間、学校の為に尽くした功績と、学者としての実力とは、相俟って、ますます早稲田大学の地位を鞏固にするであろう。是れ教師の統一を示す所以にして、学校の生命は資金にもあらずして、その発達は教師の統一に存する」

この開校20周年記念日からエール大学タイプの(座)布団型の制帽、制服が定められたが、それは官立学校の「丸型縁(ふち)つき帽」とは異なり、私立学校としての対抗意識と自負の表れであったか。

大隈重信、大隈綾子を中心に卒業生たちと。向って大隈の左に高田早苗、浮田和民、
田中王堂。綾子夫人の右に鳩山和夫、安部磯雄、田中唯一郎。
明治38年前後

(資料提供:早稲田大学歴史館)

Ⅴ―3 日清生命(株)、日清印刷(株)の創設

「早稲田大学開校式」が挙行された明治35年には、3月1日に第8回衆議院総選挙が行われ、第5回総選挙に落選して以来、東京専門学校を中心に教育界に生きてきた早稲田大学学監・高田早苗(43歳)は、埼玉県第2区の人々の懇望黙(もだし)しがたく、再び同選挙区から立候補して当選、明治36年12月末まで、改めて政界と教育界に二足の草鞋を履く。

そういう環境の中で、明治36年4月、文部省から大学部商科新設の許可を受けると、高田は4月22日の大阪中之島公会堂に於ける全国校友大会に臨み、大隈重信、鳩山和夫校長、天野為之、有賀長雄、和田垣謙三、浮田和民らと共に講演を行い、ついで住友吉左衛門以下52名の関西財界人と懇談して、早稲田商科についての援助を依頼した。
そして天野為之を科長とする日本初の商科大学としての早稲田大学商科の始業式が明治36年9月18日に挙行された。

蛇足ながら付言すると、神田一ツ橋の東京高等商業学校が新大学令により東京商科大学(一橋大学の前身)に昇格したのは1920(大正9)年4月1日のことであり、更に付言すると、早稲田大学と慶應義塾大学とは、大正9年2月5日、「新大学令」による大学として認可されたのであった。
商科新設と同じ明治36年9月、学監・高田は中等教員養成のために高等師範部(現在の教育学部の前身)を独立させ、部長には浮田和民が嘱任される。

このように、正に騎虎の勢いを以て、早稲田大学発展に寄与した学監・高田早苗は、日露戦争最大の陸上戦闘・奉天大会戦大勝直後の明治38年3月20日に東京を出発、28日には長崎を出港し上海へ上陸して清国各地を訪問した。
5月27日の日本海(対馬沖)海戦大勝の捷報を聞いて北京を出発した高田は、南満州の大連市街、旅順の戦跡を見物後、同じころ清国視察旅行に来ていた東京高等師範学校長・嘉納治五郎(高田の一期上の東大文学部第二期生)一行と同じ船で6月15日に帰朝した。
80日に及ぶ高田の清国漫遊の目的は、清国の近代化に貢献し日清友好を促進すべく、清国留学生を早稲田大学に大量に招致することにあった。

余談ながら清国留学生に関して、敢えてここに言及すると日清戦争後の明治29年、駐日清国公使から西園寺公望・外相兼文相に対して、駐日清国留学生に対する日本語による教育の依頼があった。
西園寺はそれを旧知の高等師範学校長・嘉納治五郎に丸投げし、嘉納は高等師範学校教授本田増次郎(柔道二段)に神田三崎町の民家を与え、北京の総理衛門における選抜試験に合格した13名の留学生(18歳から32歳)を本田の監督の下に教育し、明治33年4月17日、目と鼻の先の講道館において「第一回清国官費留学生卒業式」が行われ、校長嘉納治五郎から7名が卒業証書を受け取った。
当初、亦楽書院と命名していた小さな学寮は、後に「弘文学院改め宏文学院」となって、嘉納校長(院長)の下で清国留学生1600名が寄宿する日本最大の清国留学生受け入れ機関となった。

本題に戻ると、清国漫遊から帰国した明治36年6月、高田は思わざることから日清生命保険会社を創立することになった。
高田の清国漫遊中に、東京高等商業学校出身の実業家・岩下清周(北陸銀行頭取、簑面有馬電気鉄道社長)から鳩山校長に対して、東京高等商業(一橋大学の前身)と早稲田が一緒になって生命保険会社を起こすことを提案してきたという。

天野為之、市島謙吉らも賛成で会議を重ねたが、市島ひとりでは決しかねて高田の帰国を待っていたという。帰国して話を聞いた高田は、鳩山校長を通じて、社長か専務を早稲田出身者にするよう申し入れると岩下が断り、高田は早稲田単独で創立経営すべきと主張する。
そして高田は、幹事の田中唯一郎に相談し、計画主任に法学部教授の池田竜一を得て、校友の増田義一(実業之日本社長)、山田英太郎(日本鉄道専務取締役)、山田の友人の鈴木寅彦の賛同も得た高田は大隈に相談したところ、大隈は発起人になることを承諾したという。
それに力を得た高田は、岳父・前島密男爵に創立委員長になってもらった。

明治39年10月8日、創立発起人会を開き、それぞれの担当部署を定め創立計画の実施に着手して、営業を開始したのは明治40年3月で、社長は前島密、専務取締役は池田竜一早大教授、その他の重役幹部は市島など早稲田の教授や校友であり、株主の大部分も校友で、社員には早稲田の卒業生を採用した。
高田(47歳)は発起人として重役会には必ず出席し、支店長の人選にも自ら当たり、経営万端につき池田専務に注意を与え援助を惜しまず、そういう高田の献身的努力と、当事者の奮闘とによって日清生命保険会社は、四大保険会社の一つにのし上がったという。

同じく明治40年、学監・高田早苗の騎虎の勢いは衰えることなく、日清生命の開業と相前後して明治40年4月4日、高田は日清印刷株式会社の設立総会を開き、4月8日には日清生命の姉妹会社としての日清印刷株式会社の設立登記を済ませた。

高田と市島謙吉そして校友(実業之日本社長)増田義一が相談役となった日清印刷は、凝り性で責任感の強い高田が毎月の重役会に出席し、経営スタッフも知恵を絞って献身した結果、早大出版部の図書や、大学関係書類の印刷に限らず、広く官庁、銀行その他企業及び一般の注文をも引き受けて、博文館、秀英舎、凸版印刷と肩を並べるまでに成長したという。その後、市島謙吉が社長に就任し、大正12年の関東大震災、14年のストライキなどを乗り切り、昭和9年には秀英社と合併して、それが現在の大日本印刷株式会社となっている。
日清生命、日清印刷共に日清と名付けたのは高田早苗の発案であり、清国留学生を積極的に招致していた学監・高田の、隣国清国と親善提携して、東亜に並び立ちたいという願望からであった。

Ⅴ―4 高田早苗学長、大隈重信総長

高田が上記のような活躍をした明治40年は、東京専門学校創立25周年に当たり、学生数8000を擁するに至った早稲田大学では、記念事業ばかりでなく、重要な制度改革が行われた。
先ず同年4月には、社団法人を改めて財団法人となり、維持委員会は、維持員を従前の7名から、高田、市島、坪内、田原栄、大隈信常、三枝守富の他に、新たに浮田和民、鈴木喜三郎、塩沢昌貞、金子馬治、田中穂積、坂本三郎、田中唯一郎らを加えて15名に増やした。

更に4月17日、中央校庭において、教職員及び学生列席の上、大隈重信を大学経営の実務には関与しない名誉的地位としての総長に推戴し、高田早苗が学長に就任することが決定された。

同年1月30日の校友大会で高田が発議した大隈重信伯爵銅像建設のことも、市島謙吉が建設委員長となって、校友だけの寄付金によって計画が進められ、10月20日の祝典の日の午前、大礼服姿の等身大の威風堂々たる銅像となって、中央校庭に立った。

創立25周年の祝典は、銅像除幕式に続いて、明治40年10月20日の午後1時から、銅像前の広場で盛大に行われる。朝野の名士多数が来会し、高田学長の式辞、大隈重信の演説に次いで、西園寺公望総理大臣の祝辞(代読)があり、牧野伸顕文部大臣の祝賀演説、渋沢栄一男爵の祝辞があった後、フランス、ドイツ、イギリス各国大使から祝辞があったという。

余談ながら、渋沢栄一は翌明治41年、財団法人化された講道館の監事に就任したように、養育院や日本女子大の創立にも深くかかわり、教育関係にも力を尽くして東京専門学校の募金活動にも大きく貢献したが、既述のように明治初年、「築地梁山泊」と称された大隈邸に伊藤博文、井上薫、前島密らと同じ少壮官僚として日夜入り浸っていた一人が大蔵省出仕の渋沢栄一であった。

東京専門学校創立25周年祭に際して新学長・高田早苗は、その式辞において過去5年間における学園の進歩発展を報告し、「理工科新設」の計画を発表して世間一般の援助を要請し、最後に東京専門学校創立以来、25年間たえず背水の陣を布いてきたことを回顧して、今後は背水の陣を布かなくてもよいように、一層奮励して学園の基礎を固めるであろうことを誓った。

大隈総長は、来賓に対する謝辞と、今後の抱負とを述べた後、学園25年間における当局者の苦心経営に感謝し、今日の発展を祝福する意味において、自らが所有する大学の敷地(8828坪)を大学に寄付すると述べて、万雷の拍手を浴びた。
大隈の身長は180センチ、黒い角帽に真紅のガウンを羽織った、この日の「近代日本の巨人・大隈重信」の姿は、さぞかし絵になったのではないか。
式後、大隈邸での大園遊会の後、安部磯雄の司会によって学生、教職員、校友が5つのグループにわかれて早稲田から提灯行列を行い、皇居前広場で万歳を高唱して散会した。この時、校歌「都の西北」が初めて歌われたという。 (了)

明治43年前後の高田早苗、天野為之、坪内逍遥 (資料提供:早稲田大学歴史館)

主要引用参考文献

中村尚美著『小野 梓』早稲田人物叢書1989年早稲田大学出版部刊
京口元吉著『高田早苗伝』昭和37年早稲田大学出版部刊
伊藤之雄著『大隈重信(上)―巨人が夢見たもの』2019年中公新書
伊藤之雄著『大隈重信(下)―巨人が築いたもの』2019年中公新書
小松春雄著『イギリス保守主義史研究―エドマンド・バークの思想と行動』1961年お茶の水書房刊
『東京開成学校一覧 明治9年』PDF