埼玉県第2区選出全国最年少代議士―早稲田の大黒柱・高田早苗 (中)俊英・小野梓と早大建学いばらの道 |
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(中)俊英・小野梓と早大建学いばらの道 小野梓の肖像画(資料提供:早稲田大学歴史館) 小野梓(おの あずさ)は1852年3月10日(嘉永5年2月20日)、土佐藩(山内氏)の支藩として伊賀氏が支配する土佐国幡多郡宿毛(すくも)村(現・高知県宿毛市)で薬種問屋を経営する軽格武士・小野節吉の次男として生まれ、幼年時代は、かなり病弱で本も読まず、習字も嫌いで、ただ遊び惚けてばかりいる子供であったという。 ところが翌慶應2年12月、持病の肺結核が悪化して父節吉が死去、14歳の小野の悲嘆は大きかったが、以後、夫の家業を継いで薬種商を営む母の助野は小野に怠け心が出ると、夫節吉の遺言を引き合いに出して我が子を叱咤したという。 余談ながら今、小野梓の人生、とりわけその少年期、青年期に決定的影響を与えた、この二人について簡略ながら付言しておきたい。 一方、同郷の先輩・岩村通俊は、岩村三兄弟(岩村通俊、林有造、岩村高俊)の長男であり、明治2年新政府に登用され聴訟司判事として東京に居を構えていたが、明治4年、(北海道)開拓使首席判官であった島義勇(旧佐賀藩士)の後をついで開拓使判官として北海道に赴任、直ぐに開拓使大判官に昇進して明治6年には佐賀県権県令に、そして明治10年には鹿児島県令に任命された。 話を小野梓に戻すと、やがて慶應3(1867)年2月、郷学・校文館がさらに整備充実され「日新館」として開設されると小野はそこへ移り、昼間は日新館で学び、終わってから夜は「望美楼」で学ぶという精進を重ねた。 幕末の風雲は急で、「日新館」では砲術を学び軍事教練も受けた16歳の小野梓は、1868年7月14日、「宿毛機勢隊(総勢120名)」の一員として「戊辰戦争」に出征する。 戦地から帰還して間も無く明治2(1869)年2月、小野梓(18歳)は郷里宿毛の先輩・岩村通俊に伴われて宿毛を船で発ち、大阪、京都を経て東京に到着、この年29歳の岩村は、既述のように明治新政府の聴訟司判事に任ぜられていて、小野は岩村家に寄寓して漢学を学び始める。 こういう小野の態度は土佐藩役人の不興を買い、小野はいい加減な理由で、国元へ戻されてしまった。 他藩に比べても身分差別(上士、下士の区別)が厳しい土佐藩において、旧藩時代から武家とはいえ軽格ゆえに、いやというほど差別されてきた不快な経験から抜け出して自由になりたいという小野梓の思いが噴き出したのであるが、これこそ「近代人」として小野梓が成し遂げた「一大快挙」であると言うことができよう。 日本人は明治維新どころか太平洋戦争惨敗の頃まで、学校の通信簿(通知表)に「士族」あるいは「平民」、たまに「華族」という生徒個々人の身分が明記されていたように、どちらかと言えば退嬰的な封建的メンタリティー(精神構造)ばかりでなく、封建制度(身分制度)の遺物(悪習)を1945年まで引き摺っていたことを忘れてはなるまい。 かくして1870(明治3)年春、近代人としての自覚に目覚めた小野梓(18歳)は、再び旅装を整えて故郷を離れ大阪に出て、大蔵省会計監督官として在阪していた小野義真の家に寄寓し、かねて考えていた海外留学を期してか、英学の学習を始める。 同年7月、小野梓は名前を「東島興児(何と素晴らしい名前ではないか!)」と改め、神戸から米国汽船に乗って上海に渡り、そこから清国内地をまわって11月初めに再び上海に戻り、ここで公用で来ていた小野義真と一緒に帰国する。 翌明治4(1871)年早春、小野梓(19歳)は小野義真に伴われて上京し、留学の準備として横浜の「神奈川県立英学校・修文館(教頭・星亨)」に於て、寄宿生の一人として英会話を習う。 何とも幸運なことに、このように才気溢れる青年・小野梓に対し大関某という奇特な人物が、「頗る君の人物に服し且つ其外遊の志を嘉し、君に与うるに在学の資を以てし、自ら伴うて渡米の途に上がらんこと」を承諾したという。 こうして明治5年2月、小野梓を自らの助手という立場において学費や生活費一切を含めて小野の米国留学を全面的に支援してくれる大関増勤と共に小野は横浜を発ち、二人は25日かかってサンフランシスコに上陸した。そこから汽車でアメリカ大陸を横断してニューヨークに到着、小野はブルックリンに住居を定めてジョンソン博士に師事し「法律」を学び始める。 ブルックリンに落ち着き学校には行かず、ジョンソン博士を自室に招いて集中的に学習した小野梓は、出来上がったアメリカの法律そのものを学ぶよりは、「欧米の近代法の理念」、「法の思想」を学ぶことが最重要であると考え、専らそこに集中し、並行して合衆国憲法・行政法を学習した。 いみじくも小野が洞察したように、西洋近代文明の基礎は、欧米諸国が「市民革命の課程」で獲得した「人民の自由と権利の意識」にあることを忘れてはならない。 時として政府を「お上(おかみ)」と呼んで忖度し、「長いものには巻かれよ、太いものには呑まれよ、強いものには降参せよ」、或いは「お家の為に切腹」等々の言葉に象徴される「イエ・ムラ(協調強制社会)的メンタリティー(精神構造)」は抜きがたく、依然として日本社会の底流をなしている。 換言すれば、封建社会の遺風(悪習)を引きずったまま、日本国民は欧米人のような「自由と権利の意識(政治的皮膚感覚?)」を持つに至らず、伝来の「権威主義」と「事大主義」とが瀰漫して、21世紀の今日に至った。 さて一方、欧米人と同じく近代人として目覚め才覚溢れる小野梓(21歳)は、アメリカでの法律学習を2年余り続けた明治6(1873)年6月頃、「大蔵省官費留学生」に選抜されて、ニューヨークからロンドンに到着、そこで昼間は銀行と理財(経済)・会計の研究、夜は法律の原理、法思想の学習を続け、つとめて社交界にも出入りしたという。 元来蒲柳の質であった小野は、昼夜を分かたぬ勉強とイギリスの冷涼な気候がこたえたか、持病のリューマチが悪化して医者の勧めもあり、明治6年秋にはドイツ、フランス、イタリアを旅行、リューマチも大部よくなったが、冬のロンドンで病が再発して苦しんでいるところへ、翌年早々、大蔵省から帰国命令が届いた。 Ⅱ―2 共存同衆と鷗渡会 帰国して4か月後の明治7年9月20日、小野梓は両国の中村楼において、万里小路通房(後に貴族院議員伯爵)、三好退蔵(後に初代検事総長、大審院院長)、尾崎三良(後に貴族院議員、法制局長官)、岩崎小二郎(後に大蔵省銀行局長、滋賀、大分、福岡各県知事を歴任)らイギリス留学の仲間や、司法省若手官僚を加えた仲間と共に、「共存同衆」という啓蒙団体の結成式を挙げる。 「啓蒙団体・共存同衆」には、その後間も無く金子堅太郎、島田三郎、鳩山和夫、増島六一郎(英吉利法律学校・現中央大学の初代校長)や菊地大麓(後の東大総長)ら当時日本の知的トップエリートが加わり、翌明治8年2月には啓蒙団体『共存雑誌』も創刊された。 そして創立当初の「共存同衆」は、小野のようにイギリス留学をした若い知識人が中心で、それに当時の「革新的な仏教団体幹部」や「華族」が参加し、旧藩意識や身分・職業にとらわれることなく、自由で平等な雰囲気の中に、若々しい情熱をみなぎらせて活動していた。 そういう活動の中で、小野は明治9年5月から11月にかけて「国憲論稿」を執筆、かってイギリスで学んだベンサムの法学・法思想を主たる拠り所として、「一般民衆の政治意識の高低」と「法意識の有無」とが、立憲国家の体裁を規定する最重要事項であることを強調した。 こういう活動を認められてか、小野梓(24歳)は明治9年8月、司法少丞に任ぜられ司法省に入るが、翌明治10年には司法省少書記官と太政官少書記官を兼任し、さらに明治11年4月には元老院少書記官に転任して、目まぐるしくも12月には太政官少書記官に復帰する。 この間、「国憲論稿」を元老院に提出するなど、小野は「近代立憲国家」の樹立に向けて活発な運動を展開していたが、明治13年2月、大臣・参議と省卿分離が行われた際、言論弾圧に躍起の薩長藩閥政府部内で「共存同衆」の活動が問題視され、熱血漢・小野梓は一時、辞職を決意する。 だが明治13年4月、大隈重信と同郷土佐藩出身の河野敏鎌との推挙によって、小野梓は新設された「会計検査院(院長・山口尚芳)」の三等検査官に就任、5月には二等検査官に、翌明治14年1月には会計検査院長代行に、同年8月には一等検査官に昇進、以後、大隈の庇護のもとに会計検査院に精勤した小野は、大隈との絆を深めていく。 その大熊重信は、小野梓に関して次のように評価している。 前述したように、新設された会計検査院において中心的役割を担い始めた小野梓と本編の主人公・高田早苗との運命的な出会いが、梓の義兄・小野義真の屋敷で小川為次郎の仲介により行われたのは、小野が会計検査院の二等検査官から会計検査院長代理に昇格した直後の明治14年2月のことであった。 そのきっかけは、明治14年3月、参議・大隈重信が有栖川宮を通じて天皇に「国会開設」の奏議を行ったことにあった。 この時代を凝視すると、「御一新(明治維新)」とか言っても、どのような近代国家を構築すべきか確たるビジョンもなく、太政大臣とか右大臣とかを頂点とする「古めかしい統治制度」が発足していた。 丁度この頃、北海道開拓使が10年の歳月と数千万円の国費を投じて進めてきた開拓使官有物を、開拓使長官・黒田清隆が同郷薩摩の五大友厚らが組織した関西貿易社に38万円の安値で、しかも無利子30年賦という好条件で払い下げることが公になり、世間を驚かせる。 70日余りの「東北・北海道巡行」を終えた天皇一行が帰京した明治14年10月11日夜、政府は「御前会議」を開催し、明治23年を期して国会を開くことと、開拓使官有物払い下げの中止を決定し、同時に大隈重信の「参議罷免」を決定した。 このとき、かねて大隈と提携してきた農商務卿の河野敏鎌、駅逓総監の前島密も野に下り、官僚の中でも統計院幹事兼太政官書記官・矢野文雄、統計院少書記官・牛場卓蔵、統計院権小書記官の犬養毅と尾崎行雄、外務権大書記官の中上川彦次郎、外務権小書記官の小松原英太郎、農商務大書記官の牟田口元学、権小書記官の中野武営、文部権大書記官の島田三郎と権小書記官の田中耕造、大蔵権小書記官の森下岩楠ら、後に政治家、実業家としてトップクラスの大働きをしたエリート官僚たちも、大隈に殉じて辞職するという大事件が、「明治14年の政変」と称される出来事の一面である。 その大隈重信が参議(権力の座)を追われた明治14年10月、国会期成同盟の板垣退助とその一派は、早くも10月29日、江東の井生村楼(いぶむらろう)に於て全国有志78名を集め、「自由党結党式」を挙げ、総理に板垣退助、副総理に中島信行が選ばれ、幹部の多くは「土佐立志社」以来の同志が名を連ねた。 板垣らの動きに刺激を受けたか、自由党結党から10日も経たない11月7日から、自由党とは考えを異にする新しい政党の結成を目指して、小野梓を中心に高田早苗、市島謙吉、岡山兼吉ら「鷗渡会」の学生に小川為次郎、橘槐二郎等も参加して何度も会合を重ねた結果、12月16日には、「新しい政党(立憲改進党)」の檄文・宣言・綱領などがまとまったという。 結党の準備工作はその後も続けられ、同時に大隈に殉じて下野した河野敏鎌、前島密をはじめ、矢野文雄、藤田茂吉、犬養毅、尾崎行雄、箕浦勝人ら「東洋議政会」のメンバーに加えて、「嚶鳴社」の沼間守一、島田三郎、更には『朝野新聞』を創刊した硬骨のジャーナリスト成島柳北(徳川幕府騎兵頭・外国奉行)なども大隈重信傘下の新しい政党に加わろうとしてきた。 小野は明けて明治15年3月24日に「立憲改進党」結党届を当局に提出し、3月27日には高田早苗ら鷗渡会員は雉子橋(現・千代田区九段南)の大隈邸を訪問、小野梓によって一人ひとり大隈重信に紹介され、正式に大隈の腹心となり、「立憲改進党員」として全力を尽くすことを誓ったという。 かくして明治15年4月16日午後3時、木挽(こびき)町の明治会堂に於て、「立憲改進党」の結党式が行われ百数十人が参集した中で、総理に大隈重信、副総理に河野敏鎌が、小野梓(30歳)と牟田口元学、春木義彰とが掌事(幹事)に選出され、三人の掌事の中で小野が筆頭であった。 Ⅲ―1 学問の独立(近代立憲国家の前提)をめざして 明治15年7月、東京大学法・文・理三学部卒業式が行われ、文学部第三期生の哲学兼文学専攻の有賀長雄と同じく、 政治・経済及文学専攻の高田早苗、山田一郎、天野為之、法学部の山田喜之助、砂川雄峻、岡山兼吉ら「鷗渡会」のメンバーは文学部政治経済専攻の市島謙吉を除いて無事卒業した。市島は前年の「明治14年の政変」に憤激して東大を退学し、小野邸に近い親戚の別荘に起居して小野と行動を共にしていたのである。 東大卒業を前にして既述のように、明治15年3月27日に雉子橋の大隈邸を訪問した高田ら「鷗渡会」の七人は「立憲改進党員」として全力を尽くすことを誓っていたが、小野を頂点とする鷗渡会メンバーに対して大隈重信は格好のテーマを投げかけてきた。 大隈の養嗣子(大隈の長女・熊子の夫)大隈英麿は、盛岡藩主・南部利剛の次男であったが、14歳の時、姉の夫である華頂宮博経親王に従って渡米、現地の初中等教育を経てダートマス大学に入学し天文学を専攻したが、指導教授の転任によりプリンストン大学に移り、天文学ではなく数学を専攻して学位を取得し、帰国後は統計局に勤めていた。 鷗渡会の小野や高田らに対して、大隈が語ったのは、「自分は早稲田に別邸を持っている。今回養子・英磨が理科の学校を開こうというので、別邸内に建築した小さい校舎をそれにあてようと思っていた。しかるに今度思わぬ事により諸君の如き法律・政治・理財等を学ばれた多数の同志を得たのであるから、理科のみならず政・経・法学を教える学校を興そうと思う。そういう方面は自分自身に縁故が近く、かつ現に長崎に居った時分には学校の世話を焼いた事もある。どうだ、諸君もひとつこの学校に従事して骨折ってみては」ということであった。 ふり返ると明治2年3月30日、大隈は参与兼外国官副知事(外務次官)に加え、会計官副知事(大蔵次官)に任命され、同年4月17日に外国官副知事の兼任を免じられ、会計官副知事専任となっていたが、英国公使パークスとのキリシタン問題での交渉など大事な外国交渉にあたっては、木戸・大久保・岩倉・三条ら明治新政府首脳にとって、外国官副知事の職を離れても大隈は相変わらず頼るべき存在であった。 大隈の優れたところは、誰がやっても確固たる方針が立てられないような厳しい状況下で、最も良いと思う政策を立案し、政府の幹部と列強の公使らに説明したことである。 高田ら東大生は、そういう大隈の学校設立という話に興味を抱いたばかりでなく、とりわけ高田早苗は、既述のように英語教師として「進文学舎」に出講すると共に同校の経営に尽力し、その復興に貢献した経験もあり、これは面白いと真っ先に賛成した。 明治15年9月22日、政治学・経済学、法律学及び理学を「外国語」ではなく「日本語」で教授する東京専門学校の開設が「郵便報知新聞」と「朝野新聞」に広告され、入学資格は16歳以上で普通教育を終わり、ほぼ和漢の学に通ずる者として募集人員は制限しないが、寄宿舎の収容人数は120人に限ると発表された。 かくして明治15年10月21日には盛大な開校式が行われる運びとなった。 そして最後に評議員の小野梓が次のような名演説を行い、万雷の拍手を浴びたという。 ……本校が政治・法律の二科の外に、理科を設け更に英語科を附加したのは、独仏を排して英に依ろうとするからである。ドイツの学も其遼を極めざるにあらず、けれども人民自活の精神を涵養し、其活発の気性を発揚するものに至っては、勢い英国人種の気風を推さざるを得ない。これ本校が独仏語に取らず、故(ことさ)らに英語に取って子弟に授くる所以である。 最後に、余は本校の公明正大なることを天下に知らしめたい、という要求を持っている。本校の目的は、学生諸君をして速やかに真正の学問を得しめ、早く之を実際に応用せしめんとするにある。諸君若し卒業の後、政党に加入せんと欲せば、諸君が本校で得た真正の学識に依って、諸君自らが決すればよい。本校は決して、諸君が改進党に入ると、自由党に入ると、乃至は帝政党に入るとを問うて、其親疎を別たないのである。 「近代立憲国家」の樹立を目指した小野梓は、学問の独立の必要と、学問の独立の在り様(学者の生活保障、外国語からの独立、政党からの独立)を明確にして、官学、政府官僚からの独立を強く望んでいたのであり、とりわけ上記のように「独仏社会よりは英国社会を上位に置く立場」を鮮明にしていた。 明治10年代を中心に数多くの大学が設立された日本ではあったが、忘れてならないことは、「近代立憲国家」の樹立を目指し、イギリス社会をお手本とする小野梓とは立場を異にして、皇帝ウィルヘルム1世が君臨し、鉄血宰相ビスマルクが辣腕を振るったドイツ帝国を模範として、ドイツ語教育に力点を置き、ドイツ社会をよしとする人々も多かったことである。 こういう時代背景において発足した東京専門学校の校長(校主)には大隈英磨(26歳)が就任、教授(講師)陣として政治経済学科に高田早苗(22歳)、天野為之(21歳)、山田一郎(22歳)が、法律学科に砂川雄峻(22歳)、岡山兼吉(28歳)、山田喜之助(23歳)が、理学科に大隈英磨、田中館愛橘(28歳)、石川千代松(22歳)が、英語科に田原栄(24歳)が就任し、殆ど全ての講師(教授)が東京大学を卒業したばかりの「鷗渡会員」であり、立憲改進党の党員であった。 学校運営のための「評議員会」が設けられ、前島密、鳩山和夫、島田三郎、北畠治房、沼間守一、牟田口元学、成島柳北と共に小野梓もその一員であり、東京専門学校評議員会の構成員もまた大隈一味、即ち立憲改進党の主要メンバーであった。 東京専門学校評議員・小野梓(30歳)は、立憲改進党筆頭掌事(筆頭幹事)として党の業務ばかりでなく、地方遊説や演説会に奔走しながら東京専門学校の事実上の校長として、校務を統括すると共に、講師(教授)として「国権汎論」や「日本財政史」という授業をも引き受け、まさに八面六臂の活躍ぶりであった。 Ⅲ―2 政府・官憲による妨害・迫害 このように盛大な「開校式」を以て始まった東京専門学校の創業期は、それから3年間、明治18年10月まで、「学生募集難」、「教員獲得難」、「経営資金難」に苦しみ、高田早苗は大隈夫人・綾子の好意で、同僚の田原栄(英語科講師)と共に学校の隣の大隈家の別邸2階に居住していたが、開校半月後の11月、ある日の夜半2時頃、寄宿舎の廊下で一青年が袋叩きにあって、高田が呼び出され、事情を糺すと政府の密偵であることが判明したという。 「開校式」という晴れの場に大熊重信が敢えて姿を見せず、「改進党の学校ではない」と小野梓が断言しても、創立者・大隈が前年に下野したばかりの前参議であり、小野以下の評議員は大隈配下の前官僚や立憲改進党の幹部たちである上に、高田以下の講師(教授)たちが殆ど改進党員である実情からして、薩長藩閥政府が、改進党の学校ではないか、謀反人の養成所ではないか、5年前の西郷隆盛の私学校の二の舞ではないか、と疑いの目を向け、その活動の妨害、迫害を企てるのは、「近代立憲国家」とは程遠い当時日本の民度(国民の政治意識や政治的自覚の程度)からして、当然のなりゆきであった。 明治15年11月、薩長藩閥政府は政党の弱体化をはかり、自由党総理・板垣退助とその竹馬の友である副総理格の後藤象二郎に旅費を与えてフランス、ドイツ、イギリスへ外遊させ、その事(自由党の軟化)を暴いた改進党に対して自由党は、改進党が岩崎弥太郎の三菱から党費を援助されていると反撃し、それによって両党の反目は甚だしく、野党が互いに泥仕合を演じあって、政府の野党離間策はまんまと成功する。 その間、密偵を放って情勢を探り、討論に加わらせて学生を激発させ、政談演説を傍聴した学生を拘引し、政府弾劾の秘密文書を入手した学生を教室内で捕縛し、県人会に警部が臨検して学生の言動を筆記し、不平等条約改正運動に参加した学生を郷里へ追放する等々、東京専門学校の発展を阻止するために、明治政府(薩長藩閥政府)による「集会条例」「新聞紙条例」を悪用しての弾圧は執拗に続く。 その上、校舎と寄宿舎を建てるために当時の金で1万円余を出して弱体化した大隈家の財力を削ぐために、政府は大隈に融資する人々に対して官憲を使ってのいやがらせをするまでに至り、大隈は郷里・佐賀の田畑を処分し、蔵にしまってあった金目の道具等を売り払い、挙句に明治17年3月、大隈は雉子橋の本邸を抵当に入れ、早稲田(戸塚村)を本邸として移住した。 私学征伐を目指す薩長藩閥政府は明治16年2月に、官立学校の教員や裁判所の判・検事の私立学校への出講を禁止したばかりでなく、同年12月の「徴兵令」大改正によって、それまで適用されていた学生への徴兵猶予を官公立の学校に限定し、私学には適用しないとの差別をする。 大隈の早稲田移住を機に高田早苗は牛込若松町に新居を構え、専務教員の主任格として政治科の講義を山田一郎、天野為之、坪内雄蔵(仲間より1年遅れの明治16年7月、東大を卒業して講師陣に加わる)らと4人で分担し、法律科や英語科へも出講したので、高田の担任時間が1週30時間、1ヶ月120時間にもなったという。 何分草創期のことで、天野が経済のほか政治も憲法も講義し、坪内がバジョットの『英国憲法論』の訳読を担当し、高田自身も英国憲法と英国憲政史のほかに租税論や貨幣論を担当、その上に英文学についても講義、山田一郎が静岡大務新聞の主筆として静岡に去ってからは政治学も論理学も高田の担当となったという。 教室における講義ばかりでなく、高田は研究の成果や講義の筆記を再検討し増補改訂して、明治17年2月、小野梓が経営する「東洋館書店」から『貨幣新論』を文学士高田早苗著として処女出版する。 Ⅲ―3 内部の敵 草創期の苦難として記憶すべきは、政府官憲による弾圧や経営難ばかりでなく、明治17年12月から翌年6月にかけて起こった法律学科の存廃問題である。 この提案の背景には、既述のような政府による官立学校教授や判事・検事の私立学校への出講禁止という外部環境以外に、既に早稲田に出講している講師(教授)たちの給料が低すぎるため、教授たちは弁護士活動に忙しく、休講が目立ち、学生からも不満が出ていた。 翌明治18年6月18日に「学校臨時会議」が開かれ、岡山兼吉の移転案は最終的に否定されたが、山田一郎から、「今日の要は断固法学部を廃し、本校を純然たる政治の学校となす」との提案がなされ、議論が沸騰したという。 このようなギリギリの局面に於て、早大法学部の存続を決定づける大英断を下した大隈重信は、近代日本の政治家として最大級の器(スケール)の持ち主であり、その基本態度として、「世論(せろん)」と「輿論(よろん)」とを区別していたことに注目したい。 伊藤之雄京都大学名誉教授がいみじくも指摘したように、大隈は国民のよく考え抜かれた理性的な意見である「輿論(よろん)」と、気分や感情に影響された意見である「世論(せろん)」とを区別した上で、「輿論」に基づいた政治を理想とし、中産階級以上の自立した個人がリードしているイギリス風の政党政治を目指していたのである。 Ⅲ―4 大隈家からの独立 こういう苦難の中で、明治16年7月には学生数200に達し,校舎も増築され、翌明治17年7月には、開校時に2年に編入された政治経済学科4名、法律学科8名、合計12名の卒業生を送り出すことが出来た東京専門学校である。 小野梓の健康が優れず、学校の事務は大隈と同じ旧佐賀藩士でフランス留学後に司法省に出仕していた秀島家良幹事が処理していたが、明治17年8月、高田は東京専門学校監督に任命され秀島(32歳)と共に校務を処理し始めると、両者の意見は食い違うことが多く、長身・眉目秀麗・頭脳明晰の高田早苗(24歳)も、「世故に長(た)ける」ことに欠けるところがあったか、生意気なり、無礼なり、傲慢なり等々の非難が大隈家周辺に生じて、高田は前島密、北畠治房など改進党長老や、評議員で党幹部の沼間守一、島田三郎らに呼び出され警告されたという。 結局、明治18年3月、高田早苗(25歳)は東京専門学校監督の地位を天野為之に譲り、学問・文芸・思想の校外普及を志し、坪内逍遥と共に井生村(いぶむら)楼で学術講演会を開き、同時に「中央学術雑誌」を創刊、同誌は以後、「同攻会雑誌」、「中央時論」などと改題されながら、全国有数の学術雑誌として歓迎されながら明治29年まで発行され、それ以後は今も続く「早稲田学報」となった。 明けて明治19年1月11日、東京専門学校の実質的校長であった小野梓(31歳)が病没した。 その提案は、授業料月額1円を1円80銭にすることにより、大隈家の家計を煩わすことなく、東京専門学校の独立会計を確立しようというものであった。当時、大隈家から毎月166円ずつ、年額2000円の補助があった。既述のように巡査の月給が6円、小学校平教員のそれが5円の時代である。 早い時期の大隈の資金の元手となったのは、明治2(1869)年に明治新政府から下げ渡された(下賜された)築地本願寺に近い敷地約5000坪、建物も広壮な邸宅(旧旗本3000石の屋敷)である。 明治5年に開通した新橋・横浜間鉄道建設の必要資金をイギリスから調達した大隈は、それにより、「夷狄(いてき)のカネを借りた張本人」として命を狙われるような未開野蛮な日本社会(半開国)において、30代の若さで大蔵大輔、参議、大蔵卿という大任を担い、「維新回天の大業(中世から近代への飛躍)」を主導した人物の一人であり、伊藤之雄京大名誉教授が言うように、「日本近代の巨人」であった。 維新の元勲にして長州閥の頭目・木戸孝允(桂小五郎)の後押しが効いてか、明治2年1月12日に会計官御用掛に任命された大隈重信(30歳)は、2月には旧旗本の娘・三枝綾子と結婚、3月30日には会計官副知事(現在の財務次官)に任命され、続いて7月には大蔵大輔兼民部大輔にと重用され、明治新政府官僚の中核的存在となって、その築地の豪邸は「築地梁山泊」と呼ばれるようになる。 既述のように、大隈は佐賀藩蘭学寮の教官をしていた23,4歳の頃、同じく佐賀藩士の娘・江副美登と結婚し、文久3年には長女熊子が生まれるが、大隈の母・三井子は、上京して明治新政府高官となった大隈の築地の屋敷(「築地梁山泊」と呼ばれる豪邸)を見て、綾子にも会った上で佐賀に戻り、美登を大隈と離縁させ、別の人(佐賀藩の支藩の一つ鹿島藩の藩士・犬塚綱領)と再婚させることまで仕切って、明治4年、改めて熊子(8歳)を伴い再度上京、以後、大隈家に同居するようになった。 その後、明治4年、築地の屋敷は海軍省の用地(海軍兵学校用地?)として売られ、大隈は4500円を得たという。新たに求めた新居は有楽町(日比谷)にあった旧土佐藩・仙台藩・中津藩の屋敷で、合わせて1万何千坪あったが、大隈はそれを1400円の10年分割払いで買う。無償で下賜された築地邸を海軍に売って、日比谷の三屋敷を安く買ったので、大隈の手元には3100円もの大金が残った。 更には、この日比谷邸をわずか4年後の明治8年に5万5000円(現在の23億円以上)で売って、大隈は雉子橋外(現在の九段南)に転居し、それを明治20年にフランス公使館に売り払って田畑が広がって土地が安い早稲田(東京府南豊島郡戸塚村)に別宅ではなく本邸を設けたのである。 余談ながら敢えて付言すると、大正5(1916)年に建てられた軽井沢の大隈別荘は、実業家の根津嘉一郎(東武鉄道社長)が別荘地を開発するに当たり当時の第一級セレブ大隈に贈呈されたものであるが、それにより土地のブランドイメージが上がって別荘地全体の地価が上がり、根津は儲けたという。 周知のように大隈重信は大正11年に没し、国葬ではなく国民葬を以て、多くの人々に送られたが、その翌年の大正12年8月24日午後、避暑のため滞在していた軽井沢の大隈別荘から徒歩で賀陽宮ほか若手皇族や供奉の者数人と共に早大グラウンドに向ったのは、当時22歳の摂政の宮(後の昭和天皇)であった。 話を本編の主人公高田早苗に戻すと、明治19年、いつまでも大隈家の財政援助に依頼していては、学校としての不羈独立はあり得ない。苦しかろうが、自分の学校を自分の費用で経営し、学問の独立を学生の手で実現させて見せるという意気込みを以て80銭の増額負担に踏み切ってくれと説いた高田早苗の呼びかけは、即座に学生一同の同意を得た。 |