埼玉県第2区選出全国最年少代議士―早稲田の大黒柱・高田早苗 (中)俊英・小野梓と早大建学いばらの道

(中)俊英・小野梓と早大建学いばらの道

Ⅱ アングロサクソン仕込の論客・小野梓

Ⅱ―1 土佐宿毛の俊英

小野梓の肖像画(資料提供:早稲田大学歴史館)

小野梓(おの あずさ)は1852年3月10日(嘉永5年2月20日)、土佐藩(山内氏)の支藩として伊賀氏が支配する土佐国幡多郡宿毛(すくも)村(現・高知県宿毛市)で薬種問屋を経営する軽格武士・小野節吉の次男として生まれ、幼年時代は、かなり病弱で本も読まず、習字も嫌いで、ただ遊び惚けてばかりいる子供であったという。
8歳の時、儒者・酒井南嶺に入門、習字、読書を始めたが病弱のせいか平凡な生徒の一人として過ごし、11歳になって宿毛の郷学校である校文館に入学し、自分の学力が同級生のそれに比べて遥かに劣等であることに愕然として猛烈な勉強を始めたという。
1865(慶應元)年、師匠の酒井南嶺が私塾「望美楼」を開設すると13歳の小野はそこに入塾し、3日ごとに論語、孟子の講習討論会に参加し、毎日『通鑑綱目』二巻を読み、『古文真宝』一篇と『文章規範』一篇を暗誦し、さらに文章一篇、詩一首を作ることを日課にしたという。

ところが翌慶應2年12月、持病の肺結核が悪化して父節吉が死去、14歳の小野の悲嘆は大きかったが、以後、夫の家業を継いで薬種商を営む母の助野は小野に怠け心が出ると、夫節吉の遺言を引き合いに出して我が子を叱咤したという。
更に父の友人であった岩村通俊や小野義真らも小野梓の成長を心配して、我が子のように面倒を見ながら激励してくれたという。

余談ながら今、小野梓の人生、とりわけその少年期、青年期に決定的影響を与えた、この二人について簡略ながら付言しておきたい。
小野梓の同族・小野義真は緒方洪庵の「適塾」で蘭学を学び、明治4年工部省に出仕、同年10月には省庁再編により大蔵少承に、更に大蔵省土木営繕寮頭に昇進して、大阪築港、淀川改修工事等に従事していたが明治7年、再び省庁再編により土木寮が大蔵省から内務省に移管されたのを期に退官、以後三菱商会(三菱蒸汽船会社)顧問となり、岩崎弥太郎が重要案件は必ず小野義真の意見を聞いた上で決断したように、小野は三菱財閥の重鎮となり、明治25年には日本鉄道株式会社の社長に就任する。

一方、同郷の先輩・岩村通俊は、岩村三兄弟(岩村通俊、林有造、岩村高俊)の長男であり、明治2年新政府に登用され聴訟司判事として東京に居を構えていたが、明治4年、(北海道)開拓使首席判官であった島義勇(旧佐賀藩士)の後をついで開拓使判官として北海道に赴任、直ぐに開拓使大判官に昇進して明治6年には佐賀県権県令に、そして明治10年には鹿児島県令に任命された。
そこで岩村は、自決した西郷隆盛の遺体を、軍の許可を得て浄光明寺に丁重に葬ったという。
明治19年、新設された北海道庁の「初代北海道庁長官」として再び北海道の地に赴任した岩村通俊は、明治22年、第一次山縣内閣の農商務大臣に任命される。

話を小野梓に戻すと、やがて慶應3(1867)年2月、郷学・校文館がさらに整備充実され「日新館」として開設されると小野はそこへ移り、昼間は日新館で学び、終わってから夜は「望美楼」で学ぶという精進を重ねた。
その結果、同級生をみるみる追い越して優等生にのし上がった小野は日新館第一の学生と呼ばれて、日新館の二階に特別に設けられた「優等学生読書室」を与えられた上、宿毛領主・伊賀氏から褒美として金子(きんす)若干を与えられる栄誉にも輝いた。

幕末の風雲は急で、「日新館」では砲術を学び軍事教練も受けた16歳の小野梓は、1868年7月14日、「宿毛機勢隊(総勢120名)」の一員として「戊辰戦争」に出征する。
高知を出て讃岐の観音寺から船で大阪へ、京都から北陸道を通り新潟を過ぎ、二手に分かれて一隊は米沢口に、小野梓の属した一隊は村上口から庄内地方へ向い、9月7日に鼠ケ関の戦場に達して庄内藩兵と戦い、11日には岩国兵と共に雷村砲台を攻撃してこれを破り、戦死傷者は数名で済んだという。
9月22日には奥羽越列藩同盟最後の拠点・会津若松城も陥落して、「宿毛機勢隊」は9月29日に鶴岡城下まで進んでから引き返し、越後高田から中山道を経て京都に出、10月30日には高知に於て土佐本藩兵と共に招魂祭(戦死者慰霊祭)に参加して12月5日、宿毛に帰還した。

戦地から帰還して間も無く明治2(1869)年2月、小野梓(18歳)は郷里宿毛の先輩・岩村通俊に伴われて宿毛を船で発ち、大阪、京都を経て東京に到着、この年29歳の岩村は、既述のように明治新政府の聴訟司判事に任ぜられていて、小野は岩村家に寄寓して漢学を学び始める。
ところが岩村が7月には開拓使勤務となって北海道に赴任し、小野は東京に留まって昌平黌に通学することになったが、この頃、土佐藩は江戸藩邸内に学校を新設し、在京の土佐藩士にもこの藩校に入学するよう指令が出された。
これに対して小野は、自分がはるばる東京に遊学したのは、「ただに書物を読み覚える為に非ず、広く他藩の人に交わりて天下の大勢を知らんず積り」であり、土州人のみ集まる藩校に入るのは不本意だとしてこれを拒否した。

こういう小野の態度は土佐藩役人の不興を買い、小野はいい加減な理由で、国元へ戻されてしまった。
この時、小野は「斯く藩庁の束縛を受くるは畢竟帯刀の身にて士分の列に在ればこそ然るなれ」「今より士格を辞し平人と為りこの身を自由にすることこそ今日の上策ならめ」と考え、叔父・小野善平の養子となり、士族籍を脱して平民となった。

他藩に比べても身分差別(上士、下士の区別)が厳しい土佐藩において、旧藩時代から武家とはいえ軽格ゆえに、いやというほど差別されてきた不快な経験から抜け出して自由になりたいという小野梓の思いが噴き出したのであるが、これこそ「近代人」として小野梓が成し遂げた「一大快挙」であると言うことができよう。

日本人は明治維新どころか太平洋戦争惨敗の頃まで、学校の通信簿(通知表)に「士族」あるいは「平民」、たまに「華族」という生徒個々人の身分が明記されていたように、どちらかと言えば退嬰的な封建的メンタリティー(精神構造)ばかりでなく、封建制度(身分制度)の遺物(悪習)を1945年まで引き摺っていたことを忘れてはなるまい。
「士農工商」とかに区分けされ最上級(士族)とされる人々の間でも、「軽格」あるいは「御家人・御目見え以下」というような言葉(差別言語)が、日常茶飯に使われた時代の「精神構造」は、21世紀の今も未だに引き摺られ、日本社会の底流の一つをなしているのではないか。

かくして1870(明治3)年春、近代人としての自覚に目覚めた小野梓(18歳)は、再び旅装を整えて故郷を離れ大阪に出て、大蔵省会計監督官として在阪していた小野義真の家に寄寓し、かねて考えていた海外留学を期してか、英学の学習を始める。
英学学習も次第に進み、「海外に遊びて洋夷の事情を知るは今日の急務」と説く友人の勧めもあって小野はその希望を小野義真に話すと、義真は、欧米留学はともかく、ひとまず清国を旅行してきてみてはどうか、その程度の費用なら出してやろうと言ったという。

同年7月、小野梓は名前を「東島興児(何と素晴らしい名前ではないか!)」と改め、神戸から米国汽船に乗って上海に渡り、そこから清国内地をまわって11月初めに再び上海に戻り、ここで公用で来ていた小野義真と一緒に帰国する。
この清国旅行によって小野は、西洋列強の侵略の下に呻吟する清国民衆の惨状を目の当たりに見て、その最初の政治論とも言うべき「救民論」を執筆した。
ロマンチックな青年・小野梓(18歳)は上海滞在中に、その「救民論」を英文・仏文に翻訳して当地の欧字新聞に投稿、翌年アメリカに留学した時も、英文を改めて書き直し、シカゴやニューヨークの新聞に投稿したという。

翌明治4(1871)年早春、小野梓(19歳)は小野義真に伴われて上京し、留学の準備として横浜の「神奈川県立英学校・修文館(教頭・星亨)」に於て、寄宿生の一人として英会話を習う。
如何にも早熟と言うべきか、小野はこの時点で、子供向けの歴史書であり翻訳がさほど難しい書物ではないが、P・パーレーの『万国史(”History on the Basis of Geography)』 の翻訳を手がけたという。

何とも幸運なことに、このように才気溢れる青年・小野梓に対し大関某という奇特な人物が、「頗る君の人物に服し且つ其外遊の志を嘉し、君に与うるに在学の資を以てし、自ら伴うて渡米の途に上がらんこと」を承諾したという。
奇特な人物・大関某とは、小野とは同年配で自らもアメリカ留学を目指す旧黒羽藩(1万8000石、現・栃木県大田原市に陣屋があった)の第16代藩主・大関増勤であり、よほど小野の才覚・人物に魅了されたものと見える。
大関増勤の父である黒羽藩第15代藩主・大関増裕は幕末、徳川幕府初代海軍奉行や若年寄に就任している。

こうして明治5年2月、小野梓を自らの助手という立場において学費や生活費一切を含めて小野の米国留学を全面的に支援してくれる大関増勤と共に小野は横浜を発ち、二人は25日かかってサンフランシスコに上陸した。そこから汽車でアメリカ大陸を横断してニューヨークに到着、小野はブルックリンに住居を定めてジョンソン博士に師事し「法律」を学び始める。
蛇足ながら付言すると、横浜を出港し25日かけてサンフランシスコに着いたアメリカ商船には、アメリカでの外債募集を目的に渡米する大蔵小輔・吉田清成(旧薩摩藩士、明治7年にはアメリカ滞在のまま駐米公使に任命される)も乗船していた。船中、小野と吉田は会話する機会があったか、どうか。

ブルックリンに落ち着き学校には行かず、ジョンソン博士を自室に招いて集中的に学習した小野梓は、出来上がったアメリカの法律そのものを学ぶよりは、「欧米の近代法の理念」、「法の思想」を学ぶことが最重要であると考え、専らそこに集中し、並行して合衆国憲法・行政法を学習した。
小野は、欧米に遅れて近代化を開始した日本が欧米なみの近代立憲国家になるためには、西洋近代法体系の根幹をなす「ブルジョア法の理念、理想」をまず理解する必要性を把握していたと言えよう。

いみじくも小野が洞察したように、西洋近代文明の基礎は、欧米諸国が「市民革命の課程」で獲得した「人民の自由と権利の意識」にあることを忘れてはならない。
残念ながら「明治維新」なるものは、権力中枢が徳川一門から薩長勢力に移っただけで、一般国民の「政治意識」や「法意識」は低いまま(封建時代のまま)、福沢諭吉が喝破したように、「幕府屋の看板を外して天朝屋の暖簾をかけた」程度で終わってしまい、厳しい身分制度(封建制度)に由来する退嬰的(封建的?)精神風土は、そっくりそのまま残り、社会の近代化を妨げている。

時として政府を「お上(おかみ)」と呼んで忖度し、「長いものには巻かれよ、太いものには呑まれよ、強いものには降参せよ」、或いは「お家の為に切腹」等々の言葉に象徴される「イエ・ムラ(協調強制社会)的メンタリティー(精神構造)」は抜きがたく、依然として日本社会の底流をなしている。
辞書を引くと、「退嬰的」とは、「進んで新しい事をする意気込みがないこと。しりごみ」となっており、早大校歌に謳われる「進取の精神」或いは「開拓者精神」は、その反対の意味合いを持つ。

換言すれば、封建社会の遺風(悪習)を引きずったまま、日本国民は欧米人のような「自由と権利の意識(政治的皮膚感覚?)」を持つに至らず、伝来の「権威主義」と「事大主義」とが瀰漫して、21世紀の今日に至った。
デジタル大辞泉によると「権威主義」とは、権威を絶対的なものとして重視する考え方。権威をたてにとって思考・行動したり、権威に対して盲目的に服従したりする態度、となっている。
一方、「事大主義」とは、自分の信念を持たず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度・考え方、となっている。

さて一方、欧米人と同じく近代人として目覚め才覚溢れる小野梓(21歳)は、アメリカでの法律学習を2年余り続けた明治6(1873)年6月頃、「大蔵省官費留学生」に選抜されて、ニューヨークからロンドンに到着、そこで昼間は銀行と理財(経済)・会計の研究、夜は法律の原理、法思想の学習を続け、つとめて社交界にも出入りしたという。

元来蒲柳の質であった小野は、昼夜を分かたぬ勉強とイギリスの冷涼な気候がこたえたか、持病のリューマチが悪化して医者の勧めもあり、明治6年秋にはドイツ、フランス、イタリアを旅行、リューマチも大部よくなったが、冬のロンドンで病が再発して苦しんでいるところへ、翌年早々、大蔵省から帰国命令が届いた。
明治7年3月、ロンドンを発ち、大西洋から地中海を通り、エジプトのカイロに上陸してピラミッドを見物、スエズ運河から紅海を経てインド洋からシンガポール、中国経由で明治7年5月22日、横浜に帰港、まる3年の充実した英米留学(アングロサクソン文化の吸収と近代立憲国家の実体験)を終えた。

Ⅱ―2 共存同衆と鷗渡会

帰国して4か月後の明治7年9月20日、小野梓は両国の中村楼において、万里小路通房(後に貴族院議員伯爵)、三好退蔵(後に初代検事総長、大審院院長)、尾崎三良(後に貴族院議員、法制局長官)、岩崎小二郎(後に大蔵省銀行局長、滋賀、大分、福岡各県知事を歴任)らイギリス留学の仲間や、司法省若手官僚を加えた仲間と共に、「共存同衆」という啓蒙団体の結成式を挙げる。

「啓蒙団体・共存同衆」には、その後間も無く金子堅太郎、島田三郎、鳩山和夫、増島六一郎(英吉利法律学校・現中央大学の初代校長)や菊地大麓(後の東大総長)ら当時日本の知的トップエリートが加わり、翌明治8年2月には啓蒙団体『共存雑誌』も創刊された。
啓蒙団体『共存同衆』の目的とするところは、日本国民を封建時代の遺風(悪習)から一日も早く離脱させ、協力・共存して近代国家の国民としての権利・義務の観念を明らかにすることにより、日本国の近代化を図ることにあった。

そして創立当初の「共存同衆」は、小野のようにイギリス留学をした若い知識人が中心で、それに当時の「革新的な仏教団体幹部」や「華族」が参加し、旧藩意識や身分・職業にとらわれることなく、自由で平等な雰囲気の中に、若々しい情熱をみなぎらせて活動していた。

そういう活動の中で、小野は明治9年5月から11月にかけて「国憲論稿」を執筆、かってイギリスで学んだベンサムの法学・法思想を主たる拠り所として、「一般民衆の政治意識の高低」と「法意識の有無」とが、立憲国家の体裁を規定する最重要事項であることを強調した。

こういう活動を認められてか、小野梓(24歳)は明治9年8月、司法少丞に任ぜられ司法省に入るが、翌明治10年には司法省少書記官と太政官少書記官を兼任し、さらに明治11年4月には元老院少書記官に転任して、目まぐるしくも12月には太政官少書記官に復帰する。

この間、「国憲論稿」を元老院に提出するなど、小野は「近代立憲国家」の樹立に向けて活発な運動を展開していたが、明治13年2月、大臣・参議と省卿分離が行われた際、言論弾圧に躍起の薩長藩閥政府部内で「共存同衆」の活動が問題視され、熱血漢・小野梓は一時、辞職を決意する。

だが明治13年4月、大隈重信と同郷土佐藩出身の河野敏鎌との推挙によって、小野梓は新設された「会計検査院(院長・山口尚芳)」の三等検査官に就任、5月には二等検査官に、翌明治14年1月には会計検査院長代行に、同年8月には一等検査官に昇進、以後、大隈の庇護のもとに会計検査院に精勤した小野は、大隈との絆を深めていく。

その大熊重信は、小野梓に関して次のように評価している。
「義兄(小野義真)の肥満して豪放なるに反し、体格も小さく肉も痩せて、豪傑肌とは縁遠いが、その俊傑たるは一見その面容に現れていた。……果たして学問の造詣深きのみならず、経綸の才があって、種々の方面の事業に吾輩の参謀となり、秘書となって補佐し、もし或る事をなすがため策を出せば、直ちにその骨格に肉をつけ形を整えて提供し、その案は往々わが輩の考うるところ以上であった」

前述したように、新設された会計検査院において中心的役割を担い始めた小野梓と本編の主人公・高田早苗との運命的な出会いが、梓の義兄・小野義真の屋敷で小川為次郎の仲介により行われたのは、小野が会計検査院の二等検査官から会計検査院長代理に昇格した直後の明治14年2月のことであった。
ここから先の高田早苗と小野梓の運命は、大隈重信と共に狂瀾怒濤、急転直下と言うべき道を辿り始める。

そのきっかけは、明治14年3月、参議・大隈重信が有栖川宮を通じて天皇に「国会開設」の奏議を行ったことにあった。
西郷隆盛の自決、大久保利通暗殺後の薩摩閥は黒田清隆、松方正義らが睨みを効かせ、木戸孝允病没後の長州閥は伊藤博文、井上薫、山縣有朋らが牛耳って、佐賀出身の参議・大隈重信が他の参議を出し抜いて、とりわけ伊藤博文には内緒にして、天皇に対する「国会開設奏議」を行ったことは、薩長閥にとっては許容範囲を超える暴挙と認識され、伊藤博文、岩倉具視らを中心に、一気に 大隈追い落としの動きが始まる。

この時代を凝視すると、「御一新(明治維新)」とか言っても、どのような近代国家を構築すべきか確たるビジョンもなく、太政大臣とか右大臣とかを頂点とする「古めかしい統治制度」が発足していた。
弾正台改め司法省、民部省やら大蔵省或いは内務省等々が誕生し、暗中模索と言うべきか、朝令暮改の典型的な状況が続き、幾多の省庁の再編、再々編に明け暮れる中で、手にした政治権力を必死に守ろうとする薩長藩閥勢力や岩倉、三条ら旧公家勢力であった。
大隈の天皇に対する「奏議」の要点は、国会の早期開設と、民選議院に多数を占める政党の首班をして内閣を組織させ、議院の信任を失うに至って退職させるべきであるという、イギリス流の議院内閣制(政党内閣制)であった。

丁度この頃、北海道開拓使が10年の歳月と数千万円の国費を投じて進めてきた開拓使官有物を、開拓使長官・黒田清隆が同郷薩摩の五大友厚らが組織した関西貿易社に38万円の安値で、しかも無利子30年賦という好条件で払い下げることが公になり、世間を驚かせる。
明治14年7月21日の閣議において、この案件は黒田のごり押しで可決され、30日には(天皇によって)裁可されたが、既に7月26日から『東京横浜毎日新聞』や『郵便報知新聞』が払い下げ反対の論説を張り、各新聞もこぞって政府攻撃の論陣を展開して世論を盛り上げていた。
しかも、この微妙なタイミングの7月30日、馬車に乗った明治天皇は「東北・北海道巡行」に出発し、有栖川宮、北白川宮と共に、参議・大隈重信・黒田清隆・大木喬任らも随行する。

70日余りの「東北・北海道巡行」を終えた天皇一行が帰京した明治14年10月11日夜、政府は「御前会議」を開催し、明治23年を期して国会を開くことと、開拓使官有物払い下げの中止を決定し、同時に大隈重信の「参議罷免」を決定した。
そして翌12日、「明治23年を期し、議員を召し国会を開き、以て朕が初志を成さんとす」という「詔勅」が、「若し仍(な)お故(ことさら)に躁急を争い事変を煽し国安を害するあらば、以て処するに国典を以てすべし」との、大隈派と板垣退助ら自由民権派に対する弾圧宣言つきで発表されたのである。
薩長勢力を軸とする岩倉、三条ら「反大隈派」の結集力は、小野や大隈の予想も及ばぬクーデター的な「非常手段」を以て、大隈重信を権力の座から追い落とし、旧佐賀藩士・大隈重信は43歳にして初めて失業したのであった。

このとき、かねて大隈と提携してきた農商務卿の河野敏鎌、駅逓総監の前島密も野に下り、官僚の中でも統計院幹事兼太政官書記官・矢野文雄、統計院少書記官・牛場卓蔵、統計院権小書記官の犬養毅と尾崎行雄、外務権大書記官の中上川彦次郎、外務権小書記官の小松原英太郎、農商務大書記官の牟田口元学、権小書記官の中野武営、文部権大書記官の島田三郎と権小書記官の田中耕造、大蔵権小書記官の森下岩楠ら、後に政治家、実業家としてトップクラスの大働きをしたエリート官僚たちも、大隈に殉じて辞職するという大事件が、「明治14年の政変」と称される出来事の一面である。

その大隈重信が参議(権力の座)を追われた明治14年10月、国会期成同盟の板垣退助とその一派は、早くも10月29日、江東の井生村楼(いぶむらろう)に於て全国有志78名を集め、「自由党結党式」を挙げ、総理に板垣退助、副総理に中島信行が選ばれ、幹部の多くは「土佐立志社」以来の同志が名を連ねた。
同時に、「自由党盟約」その他の規則が決議されたが、盟約の第一章には、自由の拡充・権利の保全・幸福の増進・社会の改良を掲げ、第二章では善美なる立憲政体の確立を目的として掲げ、第三章で全国有志との一致協力を宣言した簡潔な盟約であった。

板垣らの動きに刺激を受けたか、自由党結党から10日も経たない11月7日から、自由党とは考えを異にする新しい政党の結成を目指して、小野梓を中心に高田早苗、市島謙吉、岡山兼吉ら「鷗渡会」の学生に小川為次郎、橘槐二郎等も参加して何度も会合を重ねた結果、12月16日には、「新しい政党(立憲改進党)」の檄文・宣言・綱領などがまとまったという。

結党の準備工作はその後も続けられ、同時に大隈に殉じて下野した河野敏鎌、前島密をはじめ、矢野文雄、藤田茂吉、犬養毅、尾崎行雄、箕浦勝人ら「東洋議政会」のメンバーに加えて、「嚶鳴社」の沼間守一、島田三郎、更には『朝野新聞』を創刊した硬骨のジャーナリスト成島柳北(徳川幕府騎兵頭・外国奉行)なども大隈重信傘下の新しい政党に加わろうとしてきた。

小野は明けて明治15年3月24日に「立憲改進党」結党届を当局に提出し、3月27日には高田早苗ら鷗渡会員は雉子橋(現・千代田区九段南)の大隈邸を訪問、小野梓によって一人ひとり大隈重信に紹介され、正式に大隈の腹心となり、「立憲改進党員」として全力を尽くすことを誓ったという。
こういう動きの中で東大生・高田早苗(21歳)は、矢野文雄(雅号・龍渓、31歳、郵便報知新聞社長)と共に、小野梓が起草する党綱領その他の草案起稿訂正の顧問格であったという。

かくして明治15年4月16日午後3時、木挽(こびき)町の明治会堂に於て、「立憲改進党」の結党式が行われ百数十人が参集した中で、総理に大隈重信、副総理に河野敏鎌が、小野梓(30歳)と牟田口元学、春木義彰とが掌事(幹事)に選出され、三人の掌事の中で小野が筆頭であった。

Ⅲ―1 学問の独立(近代立憲国家の前提)をめざして

明治15年7月、東京大学法・文・理三学部卒業式が行われ、文学部第三期生の哲学兼文学専攻の有賀長雄と同じく、 政治・経済及文学専攻の高田早苗、山田一郎、天野為之、法学部の山田喜之助、砂川雄峻、岡山兼吉ら「鷗渡会」のメンバーは文学部政治経済専攻の市島謙吉を除いて無事卒業した。市島は前年の「明治14年の政変」に憤激して東大を退学し、小野邸に近い親戚の別荘に起居して小野と行動を共にしていたのである。

東大卒業を前にして既述のように、明治15年3月27日に雉子橋の大隈邸を訪問した高田ら「鷗渡会」の七人は「立憲改進党員」として全力を尽くすことを誓っていたが、小野を頂点とする鷗渡会メンバーに対して大隈重信は格好のテーマを投げかけてきた。

大隈の養嗣子(大隈の長女・熊子の夫)大隈英麿は、盛岡藩主・南部利剛の次男であったが、14歳の時、姉の夫である華頂宮博経親王に従って渡米、現地の初中等教育を経てダートマス大学に入学し天文学を専攻したが、指導教授の転任によりプリンストン大学に移り、天文学ではなく数学を専攻して学位を取得し、帰国後は統計局に勤めていた。
大隈重信は佐賀にいた時代に佐賀藩士の娘・江副美登と結婚して長女・熊子を設けたが、明治4年、佐賀から大隈の母三井子が東京に連れてきた熊子の結婚相手として、大隈が見込んだ相手がアメリカ帰りの南部英麿であった。

鷗渡会の小野や高田らに対して、大隈が語ったのは、「自分は早稲田に別邸を持っている。今回養子・英磨が理科の学校を開こうというので、別邸内に建築した小さい校舎をそれにあてようと思っていた。しかるに今度思わぬ事により諸君の如き法律・政治・理財等を学ばれた多数の同志を得たのであるから、理科のみならず政・経・法学を教える学校を興そうと思う。そういう方面は自分自身に縁故が近く、かつ現に長崎に居った時分には学校の世話を焼いた事もある。どうだ、諸君もひとつこの学校に従事して骨折ってみては」ということであった。

ふり返ると明治2年3月30日、大隈は参与兼外国官副知事(外務次官)に加え、会計官副知事(大蔵次官)に任命され、同年4月17日に外国官副知事の兼任を免じられ、会計官副知事専任となっていたが、英国公使パークスとのキリシタン問題での交渉など大事な外国交渉にあたっては、木戸・大久保・岩倉・三条ら明治新政府首脳にとって、外国官副知事の職を離れても大隈は相変わらず頼るべき存在であった。

大隈の優れたところは、誰がやっても確固たる方針が立てられないような厳しい状況下で、最も良いと思う政策を立案し、政府の幹部と列強の公使らに説明したことである。
また状況が思わぬ方向に展開しても絶望することなく、試行錯誤を繰り返しながら再び新しい方針を立て、同様に説明したことである。(伊藤之雄著『大隈重信』)
列強公使らに説明できる語学力(英語力)、類まれな政策形成能力、そして機略の持ち主・大隈重信こそは、「日本国近代化の申し子」と称さるべき貴重な人材であった。

高田ら東大生は、そういう大隈の学校設立という話に興味を抱いたばかりでなく、とりわけ高田早苗は、既述のように英語教師として「進文学舎」に出講すると共に同校の経営に尽力し、その復興に貢献した経験もあり、これは面白いと真っ先に賛成した。
話が決まると、小野は鷗渡会メンバー7名に次のような役割分担を求めたという。
高田早苗と天野為之は新しい学校を専門にやること、山田一郎と市島謙吉は新聞記者と学校とを兼務すること、岡山兼吉、砂川雄峻、山田喜之助の三名は小野梓が提供する些少の資金で弁護士を開業し、兼ねて学校の法律部(法学部)を受け持つ、というものであった。

明治15年9月22日、政治学・経済学、法律学及び理学を「外国語」ではなく「日本語」で教授する東京専門学校の開設が「郵便報知新聞」と「朝野新聞」に広告され、入学資格は16歳以上で普通教育を終わり、ほぼ和漢の学に通ずる者として募集人員は制限しないが、寄宿舎の収容人数は120人に限ると発表された。
高田ら鷗渡会員は、半日だけ雉子橋の事務所(大隈邸?)に詰め切って、入学の問い合わせに答え、申し込みを受け付け、10月8日には大隈や小野と共に早稲田(戸塚村)の校舎を検分して、17日に新校舎で入学試験を行い、その結果78名が合格、19日には二年編入試験があって十数名が抜擢された。

かくして明治15年10月21日には盛大な開校式が行われる運びとなった。
新築の講堂において、学生87名、来賓として慶應義塾からの福沢諭吉、小幡篤次郎、東京大学からの外山正一教授、菊池大麓教授、モース教授、ハウス教授、その他政治家ら数十人が居並ぶ中で、午後1時、校長・大隈英磨が「開校の詞」を朗読する。次に講師(10名)を代表して天野為之が演説、続いて評議員代表として硬骨のジャーナリスト成島柳北が祝文を朗読した。

そして最後に評議員の小野梓が次のような名演説を行い、万雷の拍手を浴びたという。
「……一国の独立は国民の独立に基し、国民の独立は、国民精神の独立に根ざす。而して国民精神の独立は、学問の独立に由るものであるから、其国を独立せしめんと欲せば、先ず其学問を独立せしめなければならなぬ。

……本校が政治・法律の二科の外に、理科を設け更に英語科を附加したのは、独仏を排して英に依ろうとするからである。ドイツの学も其遼を極めざるにあらず、けれども人民自活の精神を涵養し、其活発の気性を発揚するものに至っては、勢い英国人種の気風を推さざるを得ない。これ本校が独仏語に取らず、故(ことさ)らに英語に取って子弟に授くる所以である。

最後に、余は本校の公明正大なることを天下に知らしめたい、という要求を持っている。本校の目的は、学生諸君をして速やかに真正の学問を得しめ、早く之を実際に応用せしめんとするにある。諸君若し卒業の後、政党に加入せんと欲せば、諸君が本校で得た真正の学識に依って、諸君自らが決すればよい。本校は決して、諸君が改進党に入ると、自由党に入ると、乃至は帝政党に入るとを問うて、其親疎を別たないのである。
余は、全ての学校を政党の外に独立せしめて、学校の学校たる本質を全うせしめんことを翼望する。」

「近代立憲国家」の樹立を目指した小野梓は、学問の独立の必要と、学問の独立の在り様(学者の生活保障、外国語からの独立、政党からの独立)を明確にして、官学、政府官僚からの独立を強く望んでいたのであり、とりわけ上記のように「独仏社会よりは英国社会を上位に置く立場」を鮮明にしていた。

明治10年代を中心に数多くの大学が設立された日本ではあったが、忘れてならないことは、「近代立憲国家」の樹立を目指し、イギリス社会をお手本とする小野梓とは立場を異にして、皇帝ウィルヘルム1世が君臨し、鉄血宰相ビスマルクが辣腕を振るったドイツ帝国を模範として、ドイツ語教育に力点を置き、ドイツ社会をよしとする人々も多かったことである。

こういう時代背景において発足した東京専門学校の校長(校主)には大隈英磨(26歳)が就任、教授(講師)陣として政治経済学科に高田早苗(22歳)、天野為之(21歳)、山田一郎(22歳)が、法律学科に砂川雄峻(22歳)、岡山兼吉(28歳)、山田喜之助(23歳)が、理学科に大隈英磨、田中館愛橘(28歳)、石川千代松(22歳)が、英語科に田原栄(24歳)が就任し、殆ど全ての講師(教授)が東京大学を卒業したばかりの「鷗渡会員」であり、立憲改進党の党員であった。
蛇足ながら付言すると、明治44年の「早稲田大学校規」及び「「教授会規定」の改定が行われる迄は、全ての教員は「講師」であり、高田を含めて「教授」という肩書は無かったのである。

学校運営のための「評議員会」が設けられ、前島密、鳩山和夫、島田三郎、北畠治房、沼間守一、牟田口元学、成島柳北と共に小野梓もその一員であり、東京専門学校評議員会の構成員もまた大隈一味、即ち立憲改進党の主要メンバーであった。

東京専門学校評議員・小野梓(30歳)は、立憲改進党筆頭掌事(筆頭幹事)として党の業務ばかりでなく、地方遊説や演説会に奔走しながら東京専門学校の事実上の校長として、校務を統括すると共に、講師(教授)として「国権汎論」や「日本財政史」という授業をも引き受け、まさに八面六臂の活躍ぶりであった。

Ⅲ―2 政府・官憲による妨害・迫害

このように盛大な「開校式」を以て始まった東京専門学校の創業期は、それから3年間、明治18年10月まで、「学生募集難」、「教員獲得難」、「経営資金難」に苦しみ、高田早苗は大隈夫人・綾子の好意で、同僚の田原栄(英語科講師)と共に学校の隣の大隈家の別邸2階に居住していたが、開校半月後の11月、ある日の夜半2時頃、寄宿舎の廊下で一青年が袋叩きにあって、高田が呼び出され、事情を糺すと政府の密偵であることが判明したという。

「開校式」という晴れの場に大熊重信が敢えて姿を見せず、「改進党の学校ではない」と小野梓が断言しても、創立者・大隈が前年に下野したばかりの前参議であり、小野以下の評議員は大隈配下の前官僚や立憲改進党の幹部たちである上に、高田以下の講師(教授)たちが殆ど改進党員である実情からして、薩長藩閥政府が、改進党の学校ではないか、謀反人の養成所ではないか、5年前の西郷隆盛の私学校の二の舞ではないか、と疑いの目を向け、その活動の妨害、迫害を企てるのは、「近代立憲国家」とは程遠い当時日本の民度(国民の政治意識や政治的自覚の程度)からして、当然のなりゆきであった。

明治15年11月、薩長藩閥政府は政党の弱体化をはかり、自由党総理・板垣退助とその竹馬の友である副総理格の後藤象二郎に旅費を与えてフランス、ドイツ、イギリスへ外遊させ、その事(自由党の軟化)を暴いた改進党に対して自由党は、改進党が岩崎弥太郎の三菱から党費を援助されていると反撃し、それによって両党の反目は甚だしく、野党が互いに泥仕合を演じあって、政府の野党離間策はまんまと成功する。

その間、密偵を放って情勢を探り、討論に加わらせて学生を激発させ、政談演説を傍聴した学生を拘引し、政府弾劾の秘密文書を入手した学生を教室内で捕縛し、県人会に警部が臨検して学生の言動を筆記し、不平等条約改正運動に参加した学生を郷里へ追放する等々、東京専門学校の発展を阻止するために、明治政府(薩長藩閥政府)による「集会条例」「新聞紙条例」を悪用しての弾圧は執拗に続く。

その上、校舎と寄宿舎を建てるために当時の金で1万円余を出して弱体化した大隈家の財力を削ぐために、政府は大隈に融資する人々に対して官憲を使ってのいやがらせをするまでに至り、大隈は郷里・佐賀の田畑を処分し、蔵にしまってあった金目の道具等を売り払い、挙句に明治17年3月、大隈は雉子橋の本邸を抵当に入れ、早稲田(戸塚村)を本邸として移住した。

私学征伐を目指す薩長藩閥政府は明治16年2月に、官立学校の教員や裁判所の判・検事の私立学校への出講を禁止したばかりでなく、同年12月の「徴兵令」大改正によって、それまで適用されていた学生への徴兵猶予を官公立の学校に限定し、私学には適用しないとの差別をする。
このため東京専門学校では、300名の学生の中から60名の徴兵該当者を出し、経営が悪化した。

大隈の早稲田移住を機に高田早苗は牛込若松町に新居を構え、専務教員の主任格として政治科の講義を山田一郎、天野為之、坪内雄蔵(仲間より1年遅れの明治16年7月、東大を卒業して講師陣に加わる)らと4人で分担し、法律科や英語科へも出講したので、高田の担任時間が1週30時間、1ヶ月120時間にもなったという。

何分草創期のことで、天野が経済のほか政治も憲法も講義し、坪内がバジョットの『英国憲法論』の訳読を担当し、高田自身も英国憲法と英国憲政史のほかに租税論や貨幣論を担当、その上に英文学についても講義、山田一郎が静岡大務新聞の主筆として静岡に去ってからは政治学も論理学も高田の担当となったという。

教室における講義ばかりでなく、高田は研究の成果や講義の筆記を再検討し増補改訂して、明治17年2月、小野梓が経営する「東洋館書店」から『貨幣新論』を文学士高田早苗著として処女出版する。
小野梓は自らの三大事業(改進党結成・学校開設・書籍館経営)の一環として、海外名著の取扱い販売と、優秀書籍の出版とによる国民知識の啓発を目的とする「東洋館書店」の経営に乗り出していたが、程なくして経営難(自転車操業)に陥り、それが結果として自らの寿命を縮めることになった。

Ⅲ―3 内部の敵

草創期の苦難として記憶すべきは、政府官憲による弾圧や経営難ばかりでなく、明治17年12月から翌年6月にかけて起こった法律学科の存廃問題である。
明治17年12月15日、法律学科の講師(教授)岡山兼吉から(1)東京専門学校が都心を離れた不便な早稲田(東京府南豊島郡戸塚村)にあるのを、神田区内便宜の地に移すべきである。(2)東京専門学校が立憲改進党総理の大隈の学校であるという世間の疑惑を払拭するためにも、早稲田の地から移転すべきである。(3)この移転を折から設立準備中の英吉利法律学校(東京法学院、のちの中央大学)との合併という形で実現したい、という提案があった。

この提案の背景には、既述のような政府による官立学校教授や判事・検事の私立学校への出講禁止という外部環境以外に、既に早稲田に出講している講師(教授)たちの給料が低すぎるため、教授たちは弁護士活動に忙しく、休講が目立ち、学生からも不満が出ていた。
更には学校と密接な関係にあった立憲改進党が、政府の野党分裂策に乗せられ自由党との泥仕合を展開、松方デフレと呼ばれる不況のせいもあって疲弊し(資金難に陥り)解党問題が表面化、大隈総理、河野副総理が脱党するという危機的状況があった。
その上、実質上の校長・小野梓が9月30日の喀血以来、学校運営に十分な力が注げないという状況の中で(間隙を突いての)岡山兼吉の提案であった。

翌明治18年6月18日に「学校臨時会議」が開かれ、岡山兼吉の移転案は最終的に否定されたが、山田一郎から、「今日の要は断固法学部を廃し、本校を純然たる政治の学校となす」との提案がなされ、議論が沸騰したという。
最終的には大隈の裁断によって辛うじて法律学科の存続が決まり、この時、高田、天野らを委員とする「検討委員会」が作られ、小野を交えて高田、天野、市島ら「鷗渡会」メンバーが結束し、それぞれが講義を分担し、後任教員の補充に全力を挙げて法律学科の存続をはかる努力が続けられる。

このようなギリギリの局面に於て、早大法学部の存続を決定づける大英断を下した大隈重信は、近代日本の政治家として最大級の器(スケール)の持ち主であり、その基本態度として、「世論(せろん)」と「輿論(よろん)」とを区別していたことに注目したい。
マスコミ、とりわけテレビカメラとSNS等が政治の前面に出ている21世紀初頭、大隈の言う「世論」と「輿論」の違いについて、日本国民は改めて今、沈思黙考すべき時にあるのではないか。

伊藤之雄京都大学名誉教授がいみじくも指摘したように、大隈は国民のよく考え抜かれた理性的な意見である「輿論(よろん)」と、気分や感情に影響された意見である「世論(せろん)」とを区別した上で、「輿論」に基づいた政治を理想とし、中産階級以上の自立した個人がリードしているイギリス風の政党政治を目指していたのである。

Ⅲ―4 大隈家からの独立

こういう苦難の中で、明治16年7月には学生数200に達し,校舎も増築され、翌明治17年7月には、開校時に2年に編入された政治経済学科4名、法律学科8名、合計12名の卒業生を送り出すことが出来た東京専門学校である。

小野梓の健康が優れず、学校の事務は大隈と同じ旧佐賀藩士でフランス留学後に司法省に出仕していた秀島家良幹事が処理していたが、明治17年8月、高田は東京専門学校監督に任命され秀島(32歳)と共に校務を処理し始めると、両者の意見は食い違うことが多く、長身・眉目秀麗・頭脳明晰の高田早苗(24歳)も、「世故に長(た)ける」ことに欠けるところがあったか、生意気なり、無礼なり、傲慢なり等々の非難が大隈家周辺に生じて、高田は前島密、北畠治房など改進党長老や、評議員で党幹部の沼間守一、島田三郎らに呼び出され警告されたという。

結局、明治18年3月、高田早苗(25歳)は東京専門学校監督の地位を天野為之に譲り、学問・文芸・思想の校外普及を志し、坪内逍遥と共に井生村(いぶむら)楼で学術講演会を開き、同時に「中央学術雑誌」を創刊、同誌は以後、「同攻会雑誌」、「中央時論」などと改題されながら、全国有数の学術雑誌として歓迎されながら明治29年まで発行され、それ以後は今も続く「早稲田学報」となった。

明けて明治19年1月11日、東京専門学校の実質的校長であった小野梓(31歳)が病没した。
小野梓と肝胆相照らす仲であった高田早苗は、同年3月18日、大隈邸における評議員会において、事前に田原栄、天野為之、市島謙吉らと3日に亘って検討した大胆な提案をする。
学校財政の不足は、主として学生の授業料滞納に起因することを踏まえての高田の提案であった。

その提案は、授業料月額1円を1円80銭にすることにより、大隈家の家計を煩わすことなく、東京専門学校の独立会計を確立しようというものであった。当時、大隈家から毎月166円ずつ、年額2000円の補助があった。既述のように巡査の月給が6円、小学校平教員のそれが5円の時代である。

早い時期の大隈の資金の元手となったのは、明治2(1869)年に明治新政府から下げ渡された(下賜された)築地本願寺に近い敷地約5000坪、建物も広壮な邸宅(旧旗本3000石の屋敷)である。
明治元年から2年にかけて、外国官(外務省)や会計官(大蔵省)での大隈の実績は高く評価され、大隈が大久保・西郷・木戸らに準じる存在になりつつあった(伊藤之雄著『大隈重信』)状況を反映した、大隈の住宅事情である。

明治5年に開通した新橋・横浜間鉄道建設の必要資金をイギリスから調達した大隈は、それにより、「夷狄(いてき)のカネを借りた張本人」として命を狙われるような未開野蛮な日本社会(半開国)において、30代の若さで大蔵大輔、参議、大蔵卿という大任を担い、「維新回天の大業(中世から近代への飛躍)」を主導した人物の一人であり、伊藤之雄京大名誉教授が言うように、「日本近代の巨人」であった。

維新の元勲にして長州閥の頭目・木戸孝允(桂小五郎)の後押しが効いてか、明治2年1月12日に会計官御用掛に任命された大隈重信(30歳)は、2月には旧旗本の娘・三枝綾子と結婚、3月30日には会計官副知事(現在の財務次官)に任命され、続いて7月には大蔵大輔兼民部大輔にと重用され、明治新政府官僚の中核的存在となって、その築地の豪邸は「築地梁山泊」と呼ばれるようになる。
そこには伊藤博文、井上薫、前島密や渋沢栄一、更には山口尚芳、中井弘、五大友厚、北畠治房ら明治新政府中核を担う若手官僚ばかりでなく、天下国家を論じる文人墨客までもが連日入りびたり、当時19歳ながら勝気溢れる綾子夫人は如才なく、これらの人々をもてなしたという。

既述のように、大隈は佐賀藩蘭学寮の教官をしていた23,4歳の頃、同じく佐賀藩士の娘・江副美登と結婚し、文久3年には長女熊子が生まれるが、大隈の母・三井子は、上京して明治新政府高官となった大隈の築地の屋敷(「築地梁山泊」と呼ばれる豪邸)を見て、綾子にも会った上で佐賀に戻り、美登を大隈と離縁させ、別の人(佐賀藩の支藩の一つ鹿島藩の藩士・犬塚綱領)と再婚させることまで仕切って、明治4年、改めて熊子(8歳)を伴い再度上京、以後、大隈家に同居するようになった。
娘熊子はよく気が回り、勝気な綾子に調子を合わせ行き届いた対応をして、大隈家は、うまく収まっていたという。

その後、明治4年、築地の屋敷は海軍省の用地(海軍兵学校用地?)として売られ、大隈は4500円を得たという。新たに求めた新居は有楽町(日比谷)にあった旧土佐藩・仙台藩・中津藩の屋敷で、合わせて1万何千坪あったが、大隈はそれを1400円の10年分割払いで買う。無償で下賜された築地邸を海軍に売って、日比谷の三屋敷を安く買ったので、大隈の手元には3100円もの大金が残った。

更には、この日比谷邸をわずか4年後の明治8年に5万5000円(現在の23億円以上)で売って、大隈は雉子橋外(現在の九段南)に転居し、それを明治20年にフランス公使館に売り払って田畑が広がって土地が安い早稲田(東京府南豊島郡戸塚村)に別宅ではなく本邸を設けたのである。
ちなみに明治18年3月1日、品川駅~赤羽駅間(現在の山手線品川駅~池袋駅間と赤羽線池袋駅~赤羽駅間)が単線で開通するという交通事情であった。

余談ながら敢えて付言すると、大正5(1916)年に建てられた軽井沢の大隈別荘は、実業家の根津嘉一郎(東武鉄道社長)が別荘地を開発するに当たり当時の第一級セレブ大隈に贈呈されたものであるが、それにより土地のブランドイメージが上がって別荘地全体の地価が上がり、根津は儲けたという。
更に付言すると、軽井沢に「大隈別荘」が出来た後、大阪の代表的富豪である鴻池家とその番頭・原田二郎が御大典記念として2万坪の土地を早稲田大学に寄付、そこに安部磯雄念願の早大野球部夏季練習用グラウンドと宿舎が建設される。

周知のように大隈重信は大正11年に没し、国葬ではなく国民葬を以て、多くの人々に送られたが、その翌年の大正12年8月24日午後、避暑のため滞在していた軽井沢の大隈別荘から徒歩で賀陽宮ほか若手皇族や供奉の者数人と共に早大グラウンドに向ったのは、当時22歳の摂政の宮(後の昭和天皇)であった。
安部磯雄部長、飛田穂州監督に率いられた早大野球部によるベースランニング、フリーバッティング、守備練習、紅白試合を見た若き日の昭和天皇は大いに満足、視察終了後はレフトグラウンド奥の芝生を踏み分けて大隈別荘に戻り、程なくして宮内省にも野球チームができたという。

話を本編の主人公高田早苗に戻すと、明治19年、いつまでも大隈家の財政援助に依頼していては、学校としての不羈独立はあり得ない。苦しかろうが、自分の学校を自分の費用で経営し、学問の独立を学生の手で実現させて見せるという意気込みを以て80銭の増額負担に踏み切ってくれと説いた高田早苗の呼びかけは、即座に学生一同の同意を得た。
ここに明治19年4月、東京専門学校は、その経済面において大隈家から完全に独立した。
(続く)