埼玉県第2区選出全国最年少代議士―早稲田の大黒柱・高田早苗 (上)文系トップエリート・東大文学部

(上)文系トップエリート・東大文学部

大正3(1914)年、早稲田大学の学長・高田早苗(たかた さなえ)博士は、早大維持委員会の決議により、明治15年以来の多年の大学経営に対する慰労として、また酷使疲労した心身の静養のため、およそ7ヵ月に亘る「欧米漫遊」の途につく時間を与えられた。

4月12日、大隈重信総長、渋沢栄一子爵他多数の名士、教職員・学生数百名の見送りを受け、同行者としての校友・実業之日本社長増田義一と秘書の橘静二と共に、朝鮮半島から満州ハルピンを経てロシア、ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、オーストリア、ハンガリー、トルコ、再びドイツ、そしてスイス、フランス経由で再びイギリスからアメリカに向い、11月6日、横浜に帰港する。

周知のように、この時(1914年7月)「第一次世界大戦」が勃発、高田(54歳)はニューヨーク滞在中、日本贔屓のアメリカ人や在留日本人の招待を受け、始まったばかりの「第一次世界大戦」についての所見を求められた。

そこで高田は、「落ち着き払ったイギリス側の民主主義と、逆上的なドイツ側の軍国主義との決戦は、国民性・国民精神・国民教育の相違、ひいては世界観と平和観との相違によって勝敗が決する、最後の勝利は連合国に帰するであろう」と断言したという。

未だアメリカは参戦せず、世界には、明治2年にドイツ(プロシャ)陸軍が「普仏戦争」に怒涛の勝利を収めた記憶も新しく「ドイツ優勢論」を説く者や、ドイツ(科学)文明を賞賛する「ドイツ贔屓」の意見が多い時であった。

英国憲法の謳歌者であった高田としては、「国王は君臨すれども統治せず」「君主は悪を成し得ず、大臣が全ての責任を負う」という、君民共治の英国主義が、必ずや最後の勝利を占めるであろうと信じて疑わなかったのである。

昨今、ウクライナ戦争を巡って第三次世界大戦(地球文明の消滅)という恐ろしい結末も危惧される中で、我々は高田早苗博士が指摘したイギリスの「国民性」、「国民精神」、「国民教育」との対比において、日本の「国民性」、「国民精神」そして「国民教育」、更にはこれらの要因によって醸成される「日本の国民感情(世論?)」なるものについて、今まさに沈思黙考すべき時にあるのではないか。

Ⅰ イギリスに学べ

Ⅰ―1 東京大学予備門

明治9(1876)年夏、17歳で官立東京英語学校を卒業した高田早苗は、通りを隔ててその向かい側(現在の千代田区神田錦町、学士会館の辺)にあった東京開成学校に進学する。

戊辰戦争後、征討軍東京鎮台府は接収した徳川幕府開成所の建物を、そのまま明治新政府開成所として使用し、当時日本の学術トップエリートとしての英学者・何礼之(が のりゆき)、箕作麟祥、神田孝平、柳川春三、田中芳男の5名を「開成所御用掛(教官)」に採用した。

開成所はその後、大学南校、南校、開成学校と幾たびか改組・改称されて明治7年から東京開成学校となって校長は畠山義成であったが病気療養中で、後年、東京帝大の名総長と謳われた濱尾新が教務を処理していた。

高田らが受けた入学試験は、国書文章、英語作文、地理圖誌、万国歴史大綱、算術及代数一次方程式の5科目であり、図書室には英語書籍11700冊、フランス語書籍3233冊、オランダ語書籍6706冊、漢書4214冊、日本語書籍6798冊の書物が収納されていて、英語書籍が他を圧している状況は、当時日本の高等教育を巡る環境(思想?)を象徴していると言えよう。

高田が入学して間もない明治9年の暮れ、東京開成学校は昇格して「東京大学」となり、予備門2年、大学部4年ということで、高田らは予備門の生徒となり、東京英語学校からの田中館愛橘や市島謙吉、名古屋英語学校からの坪内雄蔵(逍遥)、佐賀英語学校からの天野為之、大阪英語学校からの有賀長雄、山田喜之助、広島英語学校からの山田一郎らが同期生となった。

外人教師の宿舎として建てられた洋館を宿舎として全寮制の東京大学予備門には貸費制度(生活費を含む奨学金制度)があり、高田も毎月7~8円を支給された。

巡査の月給が6円、小学校平教員のそれが5円という時代のことであり、それだけあれば両親に学費の工面を頼む心配もなく、月謝と賄い料(食費)を払っても1~2円の小遣いが残り、それで日用品を整えたばかりでなく、週に1,2度は牛肉や蕎麦を食べることが出来たという。

余談になるが、明治4年に『安愚楽鍋(あぐらなべ)』を出版した仮名垣魯文(かながき ろぶん)が、「士農工商男女賢愚貧福おしなべて牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と謳ったように、蕎麦はともかく牛肉を食べることは、地方出身の学生にとって珍しい事(初めての事?)で、「文明開化」の味(香り?)がしたのではないか。

ところで予備門は文字通りの(東京)大学予備門であって、「教授言語は英語」と定められた東京大学へ進学するための基礎的知識を授ける学校として教師の殆どが外人であり、日本人教師は3~4人に過ぎなかった。

教授の目的が、「大学での英語による講義を聴講するに足るべき語学力を養う」ことにあったから、英語の読解力と聴取力とを養成することに主力が注がれたが、英語・英会話ばかりが学科の全部ではなくて、生理学や解剖学、動物学や植物学、物理学や化学、数学など、いわゆる「一般教養科目」についても全部、英語で講義されたのである。

数少ない日本人教授としてアメリカから帰朝したばかりの外山正一教授(28歳、後に東京大学文学部長、東京帝国大学総長、文部大臣)から英書の訳読を教わり、アメリカはコーネル大学で修行した矢田部良吉教授(25歳)から植物学の講義を、同じくアメリカのエール大学を卒業した山川健次郎教授(22歳、旧会津藩士、後に日本初の物理学博士、東京帝大総長)から物理学初歩を授けられたが、いずれも「英語の教科書を用いる英語での講義」であった。

とりわけ、マコーレー(Thomas Macaulay、 First Baron Macaulay)の論文「ウォーレン・ヘースティングス伝」、「ロード・クライブ伝」、「ミルトン伝」などを教科書として、懇切丁寧に訳読してくれた外山正一教授に、高田早苗は終生、感謝の念を持ち続けた。

旗本の息子であった外山正一(幼名・捨八)は、1861(文久2)年、13歳で徳川幕府蛮書調所に入学、3年後の16歳には教授方となる秀才ぶりで、その後1866(慶應2)年、最年少13歳の箕作大六(後の東京帝大総長・菊地大麓)らと共に徳川幕府英国派遣留学生の一員に選抜されてイギリスに渡ったが、程なくして幕府が瓦解し帰国を余儀なくされた。

明治3年、外務省に雇われた外山はアメリカへ赴任したが、明治5年には退職してミシガン州アン・アーバー高校(1年半)を経てミシガン大学化学科を卒業し帰国する。明治9年、外山は東京開成学校教授に、翌明治10年東京開成学校改め東京大学の文学部教授に就任したのであった。

予備門における授業の中で高田に最も大きな影響を与えたのは、イギリス生まれの米国聖公会宣教師サイル(Edward W. Syle)によるマグナ・カルタ(大憲章)についての解説であった。

1215年、貴族たちがジョン王に迫って発布させ、原文はラテン語で記された前文と63か条からなるマグナ・カルタ(英語ではGreat Charter of the Liberties直訳すれば「自由の大憲章」) の特に重要な規定は次の5項目である(Wikipedia)。

  • 教会は国王から自由である。(第1条)
  • 王の決定だけでは戦争協力金などの名目で、税金、軍役代納金を集めることはできない。(第12条)
  • ロンドンほかの自由市は、交易の自由を持ち、関税を自ら決められる。(第13条)
  • 必要な場合には国王は議会を招集しなければならない。(第14条)
  • 自由なイングランドの民は、国法か裁判によらなければ自由や生命、財産を侵されない。(第38条)

以上、貴族たちからの圧力を受け、マグナ・カルタによって「法の支配」や「国王の徴税権の制限」等々、王権に掣肘を加える事項を押し付けられ、約束させられたジョン王について思い起こすのは、彼の父ヘンリー2世に大法官(官僚トップ)として仕え、更にはカンタベリー大司教(イングランド宗教界の筆頭)にも任命されながら、自らの宗教的信念を曲げず、イングランド国王ヘンリー2世に逆らったカンタベリー大司教トマス・ベケットが、1170年12月29日夕刻、カンタベリー大聖堂において4人の暗殺者(騎士)に斬り殺された事件である。

1225年改正されたマグナ・カルタの一部が、現在もイギリスの憲法を構成する法典の一つとして有効であることは、如何にもイギリス的ではないか。

オハイオ州ケニオン大学で神学を学び、「御雇い外国人教師」として東京開成学校で哲学、歴史等を教えたサイル先生の「マグナ・カルタ」に関する説明を聞いて感動した高田早苗は、すっかりイギリス贔屓となり、やがて東大文学部で英国憲法と英国憲政史を研究、後日その研究成果で身を立てることになったのである。

蛇足ながら付言すると、『東京開成学校一覧 明治9年』(PDF)によると、サイル先生の東京開成学校における担当科目は「史学及理学」であり、外山正一教授の担当科目は「英文学及化学」となっている。

Ⅰ-2 東京大学文学部第3期生(同期10名)

西南戦争最中の明治10年4月12日に発足した神田一ツ橋(現・神田錦町)の東京大学は、法・理・文三学部綜理に加藤弘之が就任、文学部には「第一史学、哲学及び政治学科」「第二和漢文本科」が設けられたが、明治12(1879)年9月に至り、文学部2学科のうち「第一史学、哲学及び政治学科」としていたものを、史学を削って哲学科、政治学科、理財学(経済学)科となった。

明治11年9月、高田早苗(19歳)が入学した東京大学文学部の第三期生は高田早苗、天野為之、市島謙吉、坪内雄蔵、有賀長雄、山田一郎、丹乙馬、石渡敏一、香坂駒太郎、和田垣謙三ら10名であったが、坪内雄蔵(逍遥)は留年(落第)して高田らより1年遅れの明治16年7月、文学部政治学科を卒業する。

この時代日本の「文系トップエリート」とも称さるべき東京大学文学部の第一期生は岡倉覚三(天心)ら8名、第二期生は嘉納治五郎ら6名であり、嘉納治五郎は東大入学と同時に、かねて念願の柔術修行に没頭しつつ、学業においては恩師フェノロサ教授(25,6歳)に少なからず傾倒し、ハーヴァードでは専ら哲学を専攻したフェノロサの哲学講義を受けるために、明治14年文学部政治学科を卒業すると改めて文学部哲学科に学士入学を果たし、同時に審美学、道義学の専科(大学院)にも入って明治15年、政治経済専攻の高田や天野ら第三期生と同じく明治15年7月、哲学科をも卒業した。

余談ながら敢えて言及すると、周知のように、東大文学部を卒業した嘉納は文部省ならぬ宮内省が主管する学習院の教員として月給80円で採用される。既述のように巡査の月給が6円、小学校平教員のそれが5円の時代であり、天性の教育家とも謳われた嘉納は、その後27歳の若さで学習院教授兼教頭に抜擢された。

驚嘆すべき気概の持ち主・嘉納治五郎は、学習院奉職と同時に「講道館」を設立、自ら館長に就任して西郷四郎や富田常次郎、山下義韶ら門弟を身を以て鍛え、併せて嘉納塾を運営したばかりでなく、英語学校「弘文館」の経営にも乗り出したのである。英語学校「弘文館」においては、「柔道」が必修科目であり、ジョン・スチュアート・ミルの思想がカリキュラムに組み込まれ、校主(校長)嘉納は、雇った教員の誰よりも多くの授業を担当する奮闘ぶりであった。

嘉納と同じ東大文学部第二期生には、後に元老・井上薫の娘婿となった都筑馨六や、大久保利通の次男・牧野伸顕もいたが、遣欧使節団(岩倉使節団)に津田梅子や山川捨松らと共に随行して既にフィラデルフィアの中学校を卒業して帰国した牧野は、嘉納らの同期生として折角入った東大文学部を退学して外務省に入り、ロンドンに赴任して行った。

話を高田早苗に戻すと,高田が入学した明治11年9月、初めて東大文学部教授に就任したアーネスト・フェノロサは事前に何冊もの参考書を熟読し要点を整理してわかりやすく解説した。

新進気鋭25、6歳のフェノロサ教授の講義は、西洋の新知識を貪欲に吸収しようとする高田や有賀,先輩の岡倉や嘉納ら学生の間に極めて人気が高く、彼らに十分な満足を与えたようであった。

当時の東大法学部には法律学科のみがあり、しかも英語を用いての「英米法」が講じられるだけで、一方、司法省法学校においてはフランス語で「フランス法」が講じられている時代であった。

ハーヴァードにおいては専ら哲学を専攻したフェノロサは東大当局の要請により、哲学の他に政治学、理財学(経済学)をも担当したが、フェノロサは日本における極端な保守主義、即ち島国的思想を墨守して外に出るのを好まず、欧州思想の輸入の必要を認めず世界主義に反対する人々、これに対する極端な欧化主義、即ち旧来のアジア的思想・慣習を破壊して日本を欧化しようとする人々、そのどちらにも反対であることを、事あるごとに表明していた。

「哲学史」においてフェノロサは、ドイツのヘーゲル派哲学者アルベルト・シュべーグラーの『哲学史概説』の英訳本をテキストとしながら、デカルトからヘーゲル、スペンサーに至る近世哲学史の概要を講じ、特にカント、ヘーゲルのドイツ観念論哲学と、ベンサムやミルのイギリス功利論、スペンサーの進化論哲学との対比、総合に重点を置いたという。

言うまでもなく、講義ばかりでなく、繰り返される暗記や筆記(作文)の試験は当然、英語で行われていたが、第一期生・岡倉覚三(天心)ら8名、第二期生・嘉納治五郎ら6名、第三期生・高田早苗ら10名に対して、フェノロサ、クーパー、ホートンら外人教師3名と外山正一、中村正直(サミュエル・スマイルズの「Self Help」を『西国立志編』別名『自助論』として翻訳出版、100万部以上を売り、ジョン・スチュアート・ミルの「On Liberty」を『自由論』と題して翻訳出版する)や、三島中州(後に大審院判事、東宮御用掛、二松學舍創立)ら日本人教授10名が指導する、少数精鋭、文字通り「エリート教育の場」東京大学文学部であった。

Ⅰ―3 東京大学文学部(英文学趣味)

既述のように巡査の月給が6円、小学校平教員の月給が5円の時代に、予備門(2年間)に引き続き東大文学部4年間においても貸費生として1ヶ月に7~8円を支給されていた高田早苗は、エリートにふさわしく、かなり余裕のある学生生活を満喫した。

学業の傍ら、土曜、日曜には歌舞伎の新富座へ通い、時に神田の白梅亭か両国の立花亭に通って講談、落語を楽しんだ上、寄宿舎の夜は自由で、就寝前の部屋に布団を積み上げ高座として、有名落語家の真似や、代表的歌舞伎役者の声色、しぐさをまねる者、口角泡を飛ばして時事問題を論ずる者、中には猥談を得意とする者もいたという。

少年時代に耽読した江戸文芸の面白さと、父母から受けた江戸趣味とを下地として、このような寄宿舎生活の中で、高田早苗は芝居に通じ、講談・落語・人情噺にも通じる通人・粋人となっていく。

その上、同期生の中でも群を抜いた英語力の持ち主であった高田は、同じく英語に堪能な同期生の丹乙馬の勧めにより西洋小説を手にすると、忽ち有数の西洋文学通にもなった。

ウォルター・スコットの『ロブロイ』を手始めに、同じくスコットの『アイヴァンホウ』や、初代リットン男爵エドワード・ブルワーの小説にも手を伸ばした。

周知のように、「ペンは剣よりも強し」という有名な言葉は、ブルワーの戯曲『リシュリュー』に出てくる言葉である。

更には、当時殆ど知られていなかったアメリカ人エドガー・アラン・ポ^ーの小説をも通読し、ひとかどの西洋小説通となった東大文学部政治経済専攻の高田早苗である。

一方、夜の寄宿舎で余興を披露する(ふざけあう)ばかりでなく、浩然の気を養うためのリクレーションとして、長身・眉目秀麗な高田を筆頭に、市島や坪内ら同期生は週に1,2度、神田神保町の割烹・松月へ出かけて天麩羅を肴に飲み食いしながら、憲法論や、政治論、経済論、更には文学論や小説論に華を咲かせたという。

さてその「憲法」の発布は明治23年、民法の施行は明治31年のことであることを忘れるべきではない。

フランスへ留学し、リヨン大学から首席で博士号を取得した法学者・梅謙次郎(帝国大学法科大学校長、内閣法制局長官、法政大学初代総理)や、同じくリヨン大学で博士号を得た富井政章(帝国大学法科大学長、立命館大学初代学長)ら法律学者によって起草された日本「民法典」が施行されたのは、明治31年7月16日になってのことであった。

日本には「憲法」なるものさえ無かった、この明治10年代に、割烹・松月で酒を飲みながら「憲法や憲政史」を切り出すのは高田で、経済論の中心は天野為之や市島謙吉であり、貨幣論においては高田も一言あったという。後年の坪内雄蔵(逍遥)の活躍からすれば意外なことであるが、文学論や小説論では高田がリーダーであったという。

その高田早苗は、万延元年(1860年)3月10日(「桜田門外の変」から1週間後)、豪商と称えられた先祖から8代目の父・高田小太郎清常(当時32歳)と母・文(函館奉行所調役の娘)の三男として生まれた(幼名・銈之助)。

享保以来、江戸在住の旧家の末であったが、銈之助は父が零落しての借家(旗本長屋)生まれで、その旗本長屋の所在地 ・深川伊予橋通りは、武家屋敷のみで町屋は混じらず、銈之助の幼少時の友達は全て武家の子弟であったという。

優しい父と、武家の娘として躾の厳しい母に育てられた銈之助は、明治6年(13歳)、「西洋風の学校」として佐野鼎(さの かなえ)が創立した神田「共立(きょうりゅう)学校(高橋是清が再建した現・開成中学・開成高校の前身)」に入学するが、この年、「早苗」と改名した。

静岡県富士市出身(旧富士郡水戸島村の郷士)の佐野鼎は、黒船来航以後、何百人もの門弟に「西洋式兵制」を教えた石曾根信敦の塾で、19歳にして「塾頭」を務める秀才ぶりで、直ぐに新設された加賀藩の洋式兵学校「壮猶館」の「西洋砲術師範方棟取役」として召し抱えられる。

その後、徳川幕府による「万延元年遣米使節」や「文久遣欧使節」にも一員として(福沢諭吉らと共に)加えられ、欧米を視察・体験した佐野は、明治3年には明治新政府に採用される。

小石川造兵司頭として明治新政府に雇われた佐野鼎は、明治3年、自邸に隣接する神田淡路町の広大な敷地の払い下げを受け、そこに、寺子屋や藩校とは異なる西洋式の学校を加賀藩関係有志と共に設立して、外人教師をも雇って「共立(きょうりゅう)学校」と命名した。

共立学校は一時、皇族も通学する有名な進学予備校の一つとなったが明治10年、佐野がコレラで急死(享年46)、その後、廃校同然となっていた「共立学校」は、加賀藩関係者の依頼を受けた高橋是清によって見事に再建され、今日も喧伝される「開成から東大」への道が大きく開かれたのである。

新たに学校経営者となった高橋是清は、その学校の教育方針を、「東京大学予備門入学を目指す」と明確に表明し、その方針が成功して、「開成学園(開成中学・開成高校)」隆盛への道が開けたのである。

後に詳述するように、高田早苗は東大在学中に親友の父が経営する進学予備校「進文学舎」の講師(英語教師)に就任したばかりでなく、廃校寸前の同校の経営再建に大きく貢献した。

その際、大学東校改め東大医学部への予備校としてドイツ語を主として教えていた「進文学舎」を、東大予備門その他専門学校への予備校へと方針転換し、ドイツ語を廃止して英語に切り替えたことが、同予備校再建の最大要因であった。

「共立学校」を経た高田が17歳で東京英語学校を卒業した明治9年の8月14日、北海道開拓使は、開拓使次官・黒田清隆や黒田に懇願されアメリカ合衆国農務省局長を辞して(大統領の許可を得て)来日したホーレス・ケプロン(超高給の開拓使御雇教師頭取兼開拓使顧問)らのお膳立てにより改組され、東大に先駆けて日本初の学士号授与機関となった札幌農学校(Sapporo Agricultural College)の開校式が行われた。

周知のように、賜暇(1年)中のマサチューセッツ農科大学長ウィリアム・クラーク博士(陸軍騎兵大佐)を教頭(実質的な校長)として招聘した同校は、優れた教育(数学も土木も教授言語は全て英語)によって、後述のように多くの有為な青年を世に送り出す。

卒業後5年間は北海道開拓使の仕事に従事することを義務付けられているとはいえ、日本初の学士号授与機関であり、生活費も支給される札幌農学校へ入学した生徒の中には、高田と同じく東京英語学校を卒業した優秀な学生が多数いた。

北海道大学初代総長に就任した佐藤昌介、その後輩の植物学者・宮部金吾、大宗教家にして思想家の内村鑑三や、東大法学部教授兼一高校長を務めて後、東京女子大学初代学長や国際連盟事務局次長を務めて、洗練された英文によって「ヨーロッパ論壇の大家」となった新渡戸稲造らは皆、高田早苗と同じく官立東京英語学校出身者である。

日本初の学士号授与機関であり、生活費も支給される札幌農学校に高田も関心を示したが、蝦夷地へ行くことを心細く思う母親を慮って、札幌農学校へは行かなかったとか。

もし、高田が同校に入学すれば、内村鑑三(同校第二期生の首席)や新渡戸稲造らと切磋琢磨する英語力抜群の高田早苗が躍動したことであろう。

向って右の門柱に東京大学、左の門柱に東京大学予備門と記された神田一ツ橋の校舎

(資料提供:東京大学文書館)

 

Ⅰ―4 東京大学文学部(晩成会から鷗渡会へ)

さて明治10年1月、西郷隆盛の鹿児島私学校が火種となって勃発した「西南戦争」は、同年9月、西郷の自決によって終結、翌明治11年には大久保利通が暗殺されるという世相の中で、明治12年から13年にかけて自由民権運動が急速に高まり、これに対して薩長藩閥政府は明治12年5月には「官吏政談禁止令」を、翌明治13年4月5日には「集会条例」を発布して「屋外集会」を禁止したように、「言論弾圧」に躍起となっていた。

丁度その頃、東大文学部学生であった高田早苗の周辺は政論沸騰の時代であり、文明開化の啓蒙運動、不平等条約改正促進の国権運動、そして国会開設要求の自由民権運動が渦を巻く、演説ばやりの時代であった。

時代に先駆けて明治8年、福沢諭吉は慶應義塾に「演説館」を建設し、高田早苗は東京開成学校に入る前に、父と共に三田の「演説館」で福沢諭吉の演説を聞いたのが「演説」というものの聞き始めであったという。その後、福沢の門下生・尾崎行雄が明治10年には『公会演説法』を出版している。

因みにspeechを「演説」と翻訳したのは福沢諭吉であり、philosophyを「哲学」と翻訳したのは徳川幕府派遣留学生としてオランダのライデン大学等で4年間学んだ西周(にし あまね)である。

福沢は当初、「演舌」としたが、すぐに「演説」に改めたという。

カール・マルクスの『共産党宣言』やジョン・スチュアート・ミルの『経済学原理』が出版された時代(1848年)に、「お上(おかみ)」とか「上様」とかいう言葉が日常茶飯に使われ、「参勤交代」なんていう滑稽なほどの「中世」を守っていた日本社会(協調強制社会)には、演説とか哲学という言葉はなかった。

高田が東大予備門在学中の明治明治9年頃、慶應義塾の「演説館」に刺激されてか、東京大学三学部(法・理・文)の神田一ツ橋(現・神田錦町)構内にも「演説会堂」が設置され、聞くだけでは満足できない文学部上級生の間に「共話会」が生まれた。

明治11年には高田の同期生の中に法科学生が中心となって同じく演説の練習を目的とする「戊寅(ぼいん)会」が誕生するという状況の中で、明治13年頃、遅まきながら高田が中心となって坪内雄蔵、天野為之、石渡敏一らが、演説の練習を第一目的とする集団としての「晩成会」が結成された。「大器晩成」という言葉を意識してのことであろうか。

少数派ながら「晩成会」の発起人・幹事として政治的リーダーとしての頭角を現し始めた高田早苗は、かてて加えて、学業の傍ら卒業までの2年間に亘って、「進文学舎」という予備校の英語講師に就任したばかりでなく、傾いていた同校の経営を立て直すという手柄を挙げる。

当時有名な進学予備校としては、英語で教育する「成立学舎」の他に東京英語学校(日本中学)、共立学校(開成中学)、三田英語学校(錦城学校尋常中学)、郁文館(郁文館中学)と並んで若き日の森鴎外もドイツ語を学んだ「進文学舎」などがあった。

その「進文学舎」は、もと橘機郎という医者が創立したもので、大学東校そして同校改め東大医学部への受験予備校として主としてドイツ語を教えていたが、高田が大学3年の頃は、さびれて廃校同然となっていた。それを社主の次男で高田の親友である橘槐二郎から聞いた高田は、義侠心によってか、その挽回に乗り出したのであった。

まずドイツ語を英語に置き換え、東京大学医学部への予備校ではなく、東京大学予備門その他専門学校への準備校とする路線転換を図り、高田と橘槐二郎が英語を担当、校長の橘機郎が漢文を、もう一人の教師が数学を教えて、再興の初めは6~7人であった生徒が、間も無く50~60人となり、やがて100~150人となったという。

予備校「進文学舎」に於て、東大生・高田早苗の英語指導を受けた卒業生には、後年の司法大臣・枢密院議長の原嘉道博士、八幡製鉄所長の服部漸博士、外交史大家の信夫淳平博士ら錚々たる人々がいた。

高田の親友・坪内雄蔵(逍遥)は、フェノロサ教授の政治学、哲学に落第したため、貸費(奨学金)を失い寄宿舎を出て神田の下宿に移り、高田の紹介で「進文学舎」へも出講して学資を稼ぎながら、高田や市島、天野らとは1年遅れの明治16年7月、東大文学部政治学科を卒業する。

さて「情けは人の為ならず」という言葉があるが、この「進文学舎」出講が機縁となって高田早苗は、その人生を決定づけた人物・小野梓との運命的出会いの機会を得たのであった。

「進文学舎」社主の次男で高田の親友・橘槐二郎の長兄・橘謙三の友人に小川為次郎という人物がいた。

小川為次郎は商家の出身で、正規の学歴は無かったが独学で諸科目を修め、国文学のほか経済と数理さらには統計学をも学び、明治新政府の統計院に出仕していたが、そこに出入りする会計検査院の青年論客・小野梓(おの あずさ)と懇意であった。

その小川が、廃校同然の「進文学舎」を再興した才気煥発の東大生・高田早苗を、啓蒙団体「共存同衆」の領袖として世間にその名を知られた青年論客・小野梓に紹介したのである。

明治14年2月、東大文学部4年生の高田早苗(22歳)は、当時30歳の青年論客・小野梓と浅草橋場の小野義真邸で初対面の挨拶をしたが、高田は小野の政治家的風貌、明快な弁舌、そして犀利な観察力とに魅せられて、両者は、たちまち肝胆相照らす仲になったという。

小野義真は土佐幡多郡宿毛(すくも)の出身で小野梓の同族であり、当時は三菱財閥の顧問であったが、元々は大蔵省出仕の官吏として参議・大蔵卿・大隈重信の元配下であり、その縁で小野梓も官途について明治14年頃には、会計検査院の検査官として、浅草橋場の小野義真邸に起居し、小野義真の妹りゑ(理遠)が小野梓の妻であった。

たちまち肝胆相照らす仲となった両者初対面の別れに際し、小野が高田に「君たちは大学に於て、政治経済という当世必要の学問をしており、自分はまた政界に身をおいて、君たちの知らぬ事を多少知っているから、君の友人中にこれはと思う人があったならば、幾人でも連れてくるが良い。一週一回、会合して、互いに知識の交換をしようではないか」と言ったという。

そこで高田は東大文学部にいる自分の周囲の学生の中から慎重に人選して、「共和会」から岡山兼吉、市島謙吉、山田一郎、「戌寅会」から山田喜之助と砂川雄俊、そして「晩成会」から高田と天野為之の合計七人が、一週一回、神田一ツ橋の寄宿舎から浅草橋場の小野義真邸まで、はるばる徒歩で通うことになり、会の名前を「鷗渡(おうと)会」とする。付近に隅田川を渡る「鷗(カモメ)の渡し」という渡船場があり、それにちなんでの会名であった。

かくして「鷗渡会」は発足し、翌明治15年夏の東大文学部卒業まで、会を重ねるうちに小野梓と会員7名は主義主張が一致することを互いに感得し、同志的結合が緊密になっていく。

小野はイギリス留学中からベンサムのユーティリタリアニズム(功利主義)を好み、世界の進歩は、感情的に押し通して得らるべきではない、必ず着実の手段と善良の方便とをもって最大多数の最大幸福を念願することによってのみ達成されると主張する。

一方、高田早苗や天野為之ら東大文学部学生はフェノロサ教授からベンサムの功利主義政治哲学を学んでおり、とりわけ高田早苗は早くも東大予備門時代に、貴族が王権に掣肘を加えたマグナ・カルタに関するサイル先生の解説を聞いて、すっかりイギリス贔屓になっていたことは前述した通りである。(続く)