億万長者・東大農学部教授 本多静六

Ⅰ 首賭け銀杏

現在、東京都心の日比谷公園の辺りは幕末まで北側は萩藩毛利家、佐賀藩鍋島家等々、そして南側は盛岡藩南部家、唐津藩小笠原家等々の大名屋敷(上屋敷)の敷地であった。

時代は明治となって大名屋敷は取り壊され、更地となった土地は日比谷が原と呼ばれ、陸軍操練場が設置されて明治18(1885)年には日比谷練兵場と改称される。

江戸から東京となって近代化(都市化)が進んだ明治21(1888)年、内務省によって東京市区改正条例が公布され、東京市区改正委員会が設置されるという流れの中で明治26(1893)年、東京市は陸軍から日比谷練兵場の払い下げを受け、この地は正式に「日比谷公園」と命名された。

この年以降、東京市職員、著名な専門家(?)等による数々の「公園設計案」が提出されたが、いずれも東京市議会の採用するところとならず明治34(1901)年に至り、辰野金吾帝国大学工部大学校長(東大工学部長)の推挙した本多静六帝国大学農科大学校(東大農学部の前身)教授を中心とする「日比谷公園設計調査委員会」が設置され、そこで立案された設計案が採用されて明治35(1902)年4月に着工、翌年6月1日に仮開園を迎えるに至ったのである。

後に詳述するように、本多静六は留学先のミュンヘン大学から25歳の若さで博士号(財政学?)を取得、ドイツ風或いはヨーロッパ風都市公園に関する知見の最も豊富な人物と見なされていた。

さて日比谷公園の開園と共に、この地で創業したレストラン「松本楼」のテラス前にそびえる樹高20メートル、幹回り6.5メートル、樹齢は推定で400年とされる「イチョウの大木」は、以下に述べる事情によって「首賭けイチョウ」と呼ばれるようになった。

元々、この銀杏は現在の日比谷交差点付近(旧鍋島藩邸内)に生育していたが、明治34年、市区改正法によって日比谷通りの拡幅工事が実施され、この木が邪魔で伐採されることになり、既に払い下げ代金として49円が東京市に納付されていて、伐採は時間の問題であった。

この時、明治32年に母校東大に提出した論文『森林植物帯論』を以て「日本初の林学博士号」を取得し、翌明治33年には帝国大学農科大学校助教授から教授に昇格したばかりの本多静六(34歳)は、東京市参事会議長・星亨(50歳)に面会を申し込んだのであった。

明治日本政界の偉才(異才?)とも称さるべき第2代衆議院議長・星亨(ほし とおる)は明治26年11月25日、国会開院式の直後、議長不信任案を提出され、それをふてぶてしく無視、議長席に座り続けた星は遂に12月13日に至り懲罰委員会に付され、本会議でも3分の2の賛成で衆議院から追放されてしまった。

現職衆議院議長が衆議院を除名されるという日本憲政史上唯一の出来事の主人公・星亨は、しかしながら、翌明治27年3月1日の第3回衆議院選挙に前回と同じく栃木1区から立候補して当選し、議席を回復する。

ところがその後、日清戦争後の「三国干渉(遼東還付)」という国辱的事件(明治28年4月23日)を契機として、「臥薪嘗胆」を合言葉とする「国粋主義的、軍国主義的風潮」が日本社会の底流となって、「自由民権」「民力休養(減税)」等々、今様に言えば「リベラル的主張」をする民党(政党)対薩長藩閥政府の対立という構図に代わって、新たに民党間(板垣退助、星らが率いる自由党対大隈重信が首領の進歩党)、あるいは自由党、進歩党それぞれの政党内部でのゴタゴタが社会現象化してくる。

「歴史は繰り返す」とは蓋し金言であり、主として「対外関係の緊迫化」(例えば最近のウクライナ戦争に象徴される列強の力関係の変化)に起因して、21世紀の今もまた顕著となってきた「日本政界の地合いの変化」と、それに伴う政党内部のゴタゴタの中で様々な葛藤に嫌気がさしたか、自由党領袖としての星は明治29年2月6日、伊藤博文首相を訪ねて外国行きの希望をもらす。

伊藤は自らが率いる薩長藩閥政府と密接な協力関係になってきた民党・自由党との連携に自由党の内部事情によって、むしろ邪魔(障害)となっている自由党領袖・星に対してイタリア公使となることを勧めたというが、明治29(1896)年4月27日、星亨は駐米全権公使に任命された。

そして明治30年、国費留学生・秋山真之海軍大尉が初めてワシントンの日本公使館(大使館に昇格したのは日露戦争以後)に顔出しをした時の駐米全権公使・星亨は、優れた英語力と無類の読書家という一面で周囲を圧していた。

本を詠みながら食事をし、読みながら食べながら人にも会うという、人を喰った人物でもあった星は公使としての交際費の大部分を書籍の購入にあて、後年、星の不慮の死の後、1万を超えるその蔵書は慶應義塾大学図書館に寄贈され、現在も「星文庫」として収蔵されている。

「星コレクション」の中核である”The House of Commons Parliamentary Paper”(Bound set)は英国の近現代史はむろん、あらゆる社会科学分野の情報源であり、19世紀イギリスの議会文書

(Session Papers)を網羅する貴重な世界的資料で、その中には1547年~1782年の「下院議事録」が含まれていて、正に国宝級とも言うべき「極めて貴重な資料」である。

10代でミシミシと英学修行に励んだ結果、24歳にして横浜税関長に就任し、程なくしてロンドンに留学、「バリスター資格(英国法廷弁護士資格)取得日本人第1号」となった俊英・星亨の学殖の深さを窺わせる文献コレクションである。

明治11年2月、予定通り日本国初の「司法省附属代言人」の辞令を受けた29歳の星亨は、代言事務所(法律事務所)「有為社」を設立、英国流に弁護料の半分は前収し、残額を勝敗の如何にかかわらず取る方式を励行、諸官庁依頼の訴訟では高額の弁護料を遠慮なく請求し、数年のうちに「一財産」を築いて政界に進出、「金欠病」に罹った板垣退助が率いる自由党の領袖にのし上がった。

江戸の左官職人の子に生まれ1,2歳の時に父親が失踪、再婚した母親と生活力はないが優しい義父との流浪の生活をする中で13歳の時、遊び友達の親でもある神奈川奉行所御用の西洋医・渡辺貞庵の門人として、幕府直轄神奈川英学所で「英語」を貞庵の息子と共に学ぶことを許されたことが、星の人生を拓くきっかけとなる。

星の人生を語る上で忘れてならない人物の一人が故郷越後に「日本文明の父」という石碑が建つ前島密である。300年続く越後の豪農・上野家の次男・上野房五郎は、12歳で西洋医学を志して単身江戸へ向った。ところが、江戸での生活は西洋医学の学習どころか蘭方医の雑役に追われるばかりで、辛うじて筆耕者として暮らしていたが、海外事情に関心を向ける房五郎は横浜に上陸したペルリ提督を目の前に見て、「国防考察」のためとして19歳の時、全国の港湾を野宿をしながら視察して回った。だが、海事に関する知見(学問)もなく、ただ全国行脚をしただけの自分を深く反省したように、並外れた才覚の持ち主であり単なる学究ではなく「志士的肌合い」の房五郎は、貿易、海事に更に強い関心を向け、その人柄も良かったか、縁あって幕府軍艦教授所の生徒に入れてもらい、オランダ国王から徳川将軍への贈り物である「日本最初の木造蒸気船・観光丸」の乗組員になった。

早くから、世界を知るためにはオランダ語ではなく、英語を学ぶことであると認識していた上野房五郎は、23歳になって巻退蔵と改名し、長崎で英語を習得、後述するように慶應元年、薩摩藩開成所英学教師として招聘され、そこを1年務めた後、兄の死を理由に休暇をもらい薩摩を出て再び戻らず、江戸に於て旗本株を買い、巻退蔵改め幕臣・前島来輔(後に密、32歳)となっていたが、慶應3年、幕府開成所数学教授に抜擢される。

薩摩から離れてしばらくの間、江戸で目立たない英書・漢書を教える私塾を運営していた前島は星の両親と親しく、その関係で入門してきた星亨(17歳)が、養子縁組を離縁されると、自宅に引き取って神奈川英学所仕込の星の英学を更に磨き、自ら教授を務める幕府開成所の生徒として英学を学ばせてくれた。

その上、前島が開成所教授から神戸港管理者として転勤するに際し、星の非凡な才能を見込んでか、自らの恩師にして大恩人とも言うべき英学者・何礼之(が のりゆき)に星の英学指導を託したことが、星の出世の端緒となる。

何(が)は、星の両親の生活の面倒を見てくれたばかりでなく、幕府海軍所教官として星を海軍所生徒英語世話掛に推挙し、星は17歳にして両親を養える日給2朱という生計の道をも得たが、程なくして幕府は瓦解する。

明治2年9月、何礼之が校長を務める大阪洋学校(旧制第三高等学校の前身)の訓導・星亨(20歳)は、長崎における高名な何(が)の「英学塾」門弟の一人であった陸奥宗光の推挙によって、紀州藩洋学助教授に任命され、この時以後、陸奥宗光(当時25歳)との緊密な絆、そして陸奥の兄貴分のような伊藤博文(当時28歳)との互いに認め合う関係が生まれる。

この両者とりわけ陸奥との深い関係によって、星亨は24歳の若さで明治7年1月18日、横浜税関長(大蔵省官吏)に就任、極貧の中、13歳で入門した幕府神奈川英学所の所在地であった横浜において、海外との貿易事務を管掌する。

かくして、前島の大恩人であり前島の依頼に応えた何礼之もまた、星が「他日有為の人材」であることを確信して星の両親の面倒をも見ながら星の英語を磨き、逸材・星亨の一生を決める運命の人となったのである。

偉才・星亨を育て上げた時代背景、そして偶然とは思えない強力な人間関係について更に付言すると、長崎は唐通詞の家に生まれた何礼之(が のりゆき)が自学自習した英語力を認められて20代前半で、同じく唐通詞出身の平井義十郎と共に、学頭を務めた幕府直轄長崎洋学所(その後「済美館」と名称変更)には、当時日本国「最先端の地・長崎」に憧れる全国諸藩の俊秀が学んでいた。

元治元(1864)年、その学頭・何礼之(23歳)は、長崎奉行所職員、そして官営「洋学所(後に「済美館」)教員としての役目の外に、自宅敷地に長崎奉行からの補助金を受けて私塾「(何礼之)英学塾」を開設した。

黒田藩、細川藩、鍋島藩、松前藩、土佐藩、阿波藩等々、全国の俊秀300余名を引き受け、薩摩藩からの前田正名や加賀藩からの高峰譲吉(12歳で入門)、そして15歳で紀州藩を脱藩して坂本龍馬の配下となり薩摩藩士・錦戸広樹を名乗って入門した陸奥宗光(21歳、当時は陸奥陽之助あるいは陸奥小次郎と名乗る)も、その門弟の一人であった。

前述したように、300年続く越後の豪農の次男に生まれ、西洋医学を志して僅か12歳で単身江戸に向った上野房五郎改め巻退蔵は、その「英学塾」中の「最優秀人物」と認められ、5歳年下の恩師・何礼之宅に居候となって、衣食の憂いなくマンツーマンで深夜に及ぶ英語の特訓を受け、遂には新たに開設された薩摩藩開成所の英学教師として招聘されたのであった。

慶應3年7月、「済美館」学頭にして私塾「英学塾」塾長・何礼之(27歳)は、幕府開成所英学教授並に任命され長崎を引き払い、かって長崎で教えた5歳年上ながら最優秀の門弟・巻退蔵改め前島密と幕府開成所の同僚教授として嬉しい再会を果たし、同年11月には幕府海軍所軍艦役並格、海軍伝習生徒取締に任命される。

同じ頃、徳川慶喜のやり口に怒って前年には身を引いていた勝海舟は、慶應3年5月、改めて海軍伝習掛に任命されると、イギリス公使パークス、オランダ総領事ファン・ボルスブルックらと頻繁に会談を行うようになり、「峻畏卓抜・機略縦横」の勝海舟が、国家の安危をかけての会談に終始その通訳を務めたのが、語学力もさることながら、その人物も勝海舟のお眼鏡にかなった何礼之である。

明治元年6月、既に幕府開成所を接収していた江戸鎮台府は、その建物をそのまま明治新政府最高の学術機関「開成所」として、何礼之、柳川春三、神田孝平、箕作麟祥、田中芳男の5名を「開成所御用掛(教官)」に任命した。

この5人こそは、まさに当時日本の「学術トップエリート」と称さるべき最高の能力を備えた人々であり、戦ったばかりの徳川幕臣であれ誰であれ、しゃにむに能力の高い人物を漏れなく登用しようとする明治新政府(薩・長・土・肥勢力主体)必死の気迫が伝わってくるような人事ではないか。

蛇足ながら、明治4年12月横浜出港の「遣欧(岩倉)使節団」においても、何礼之(が のりゆき)は田辺太一、福地源一郎と並んで「一等書記官」に任命されている。

ここで再び話を星亨に戻すと、明治31年8月10日行われた第6回衆議院総選挙に、星の股肱の臣とも呼ぶべき「自由党関東派」と称される勢力(いわゆる院外団、壮士と呼ばれた人々を含む)によって、不在(米国駐在)のまま栃木1区から立候補して当選した衆議院議員・星亨は、ハワイにおける日本移民上陸拒否事件を巡って、全権公使として米国務長官との交渉に自分なりの目鼻を付け、明治31年7月20日、上司(内閣総理大臣兼外務大臣・大隈重信)の許可を求めぬまま、勝手にワシントンを発って帰国の途についた。

8月15日早朝、横浜に上陸した星はサンフランシスコで受け取った「帰国を許可せず」という外務省からの電報を出迎え人の前で開封し、「もう帰朝してしまったのだから、今更引き返す訳にはいかぬ」と、うそぶいたとされている。

その後の星は「大隈内閣(隈板内閣)破壊の謀議」に毎日を費やしたという。

折角の「日本初の政党内閣」として発足した隈板内閣においては、大隈配下の政治家達による猟官運動(政治的利権獲得競争)も熾烈を極め、同内閣は僅か4か月で倒壊した。

この時期の日本政界における猟官運動(政治的利権獲得競争)が如何に幅広く(野放図?)激烈であったかは、坂野潤治東京大学名誉教授の修士論文「隈板内閣成立前後における藩閥と政党」(『史学雑誌』75巻9号1966年9月)に克明に記されている。

そして政権は再び第2次山縣内閣、第4次伊藤内閣という「藩閥政治」に戻るという情勢の中で、豪胆、剛腹を以て知られ、仕込み杖を手にする壮士たちをも顎で使っていた星亨は、東京市参事会議長として東京市政に睨みを利かせていた。

その星に対して本多は伐採中止を強く主張し、移植については自分が引き受けると申し出たが、星は許可を与えようとしないので本多は「自分の首を賭けよう」と発言、星はその言葉に折れて納付済みの払い下げ代金49円は返却され、新たに移植費460円を東京市予算から支出して移植は本多に任せた。

第二次世界大戦前まで「首賭けイチョウ」の下には次のような内容の立て札があったという。

此ノ木ハ元、日比谷見付内二アツタモノヲ明治三十五年本園建設ノ為移植サレタ。

当時此ノ木ハ移植デキナイモノトシテ金四十九円デ、払下ゲ地上六間迄切リ落トサレテアツタモノヲ、林学博士本多静六氏ハ必ズ活着スベキコトヲ保証サレタ為、今ノ所二移植サレ、斯ク見事二生育ヲシテイルノデアリマス。移植ハ当時経費四百六十円、ヤク四丁ノ所ヲ運搬スルノニ二十五日間ヲ要シマシタ。

専門の植木職人が移植は到底無理としている状況で、林学の専門家として著名な本多の言葉にも耳を貸そうとしなかった星は、前述したように「東大教授としての首を賭けよう」という本多の意気に折れて伐採は中止、払い下げ代金は返金、新たに東京市から460円の移植費が支出されて本多博士に移植作業が任されることになったのである。

明治38年頃の海軍中尉の年俸が400円であったことを思うと、老大木1本の移植費用に、払い下げ代金の返金分を含めて509円をかけた星の度量も立派である。

東京大学教授職を賭けての「いちょうの大木(当時すでに推定樹齢200年を超える老木)の移植」は、そう簡単なものではなかったはずである。

案の定、この作業の引き受け手が無く、漸く4番目に計画を提示された大倉組(大成建設の前身)が仕事を引き受け、チロル帽に脚絆姿の本多博士、東京市の現場職員、大倉組作業員一体となって、「空前の大木移植作業」が25日間に亘って行われたのである。

伐採を予定して切り詰められ樹高七間(約12.6メートル)となった地上五尺の幹回りが5.73メートルの巨木は掘り下げられ、根土が厚さ五尺(約1.5メートル)、根が直径二丈九尺(約8.7メートル)の円盤状に切り取られ、その重量は二万貫(約7.5トン)の巨大重量物となった。

掘り取り、根巻き等の作業の後、移植場所まで約四丁(450メートル)の距離に鉄レールを敷き、キリン(スクリュー・ジャッキのこと)と称される建設機械等を用いて、5頭の牛に引かせ25日をかけて、運搬と 植付に成功した。

根が直径8.7メートル、樹高12.6メートル、重量7.5トンであったことを考えると、「倒し曳き工法」は考えにくく、樹木への負担を最小限に抑え、できるだけ樹木の現状を維持するために江戸時代より受け継がれる伝統技術としての「立曳き(たてびき)工法」が用いられたのではないか。周囲(上空)にも電線など障害となるものは無かったはずである。

その容貌魁偉、強引な政治手法を以て「押シトオル」とあだ名された星亨(50歳)に面会を求めて、上記のように自らの主張を貫いた本多静六(34歳)もまた後に詳述するように、ドイツはミュンヘン大学に於てドイツ人が4年かかる博士課程を2年で終了して見事に学位を取得し現地新聞にも報道されて帰国、満25歳の若さで東京大学農学部助教授に就任した「日本林学の泰斗」であった。

星は本多との話し合いから間もない明治34年6月23日午後、東京市麴町区(現・千代田区有楽町3丁目)にあった東京市庁舎内で、市長・松田秀雄、助役、参事会議員らと懇談中、暴漢に襲われて刺殺され落命(享年51)、暴漢はその場で東京市助役・吉田弘蔵(元福山藩校・誠之館教師、その後、神奈川県警察部長)に取り押さえられた。

振り返って、この「首賭けイチョウ」と命名された大木の移設を巡っての対面・折衝の中で、明治政界の風雲児・星亨(50歳)と、新進気鋭34歳の林学者・本多静六は、年齢差を超えて互いにその傑出した資質を感じ取る場面もあったのではないか。

ここに改めて今、同時代に生きた渋沢栄一と並んで、埼玉が生んだ本多静六という世界的偉人の軌跡(とりわけその前半生)に注目したい。

Ⅱ  3倍5倍の努力の貫徹

Ⅱ-1 ドイツにおける破天荒な快挙

明治19年春、東京山林学校改め東京農林学校(東京大学農学部の前身)本科2年生・折原静六(同期生50名)に同校・松野教頭から次のような有難い(?)縁談が持ち込まれたという。

「彰義隊の頭取をやった本多晋(ほんだすすむ)という人のところで、一人娘に婿をとることになり、両親と娘の希望が、ぜひ大学(東京大学?)の首席をもらいたいとのことで父親が僕のところへ頼みにきたんだが、丁度君が首席だし、しかも六男だそうだから、君を推薦した。どうだ行く気はないかね」と切り出したという。

本多家が、なぜそんな高慢ちきな注文を出したかというと、本多晋のひとり娘・詮子(せんこ)は、ひときわ優れた才媛で、父が上野の敗戦(慶應4年5月15日)の後、外遊した関係で六歳の時からミス・ツルーズという英国人の女宣教師の家に預けられていたので、英語はすこぶるつきの達者、十二、三の頃からよく公使館の通訳に頼まれたほどであった。またツルーズ家より通学する竹橋女学校(当時唯一の最高女学校)では常に首席を通し、時の皇后陛下(昭憲皇太后)の御前講義を勤めたり、揮毫を台帳に供したりなどして賞品をいただいたことなどもあった。

たまたま時の海軍軍医総監・高木兼寛が、日本女性に専門医学を習得する能力ありや否やを実験するため、二人の女学生を選ぶことを竹橋女学校に依嘱し、詮子と松浦女史が選に当たった。高木軍医総監は自分が校長である海軍軍医学校の学生中に、二人の女性を加えて共学させたのである。しかし松浦女史は途中病気で退学してしまったので、詮子だけがほかの軍医学生と共に四年の学科を卒え、さらに引きつづき医術開業試験にも及第した。

当時、私立済生学舎出の女医もすでにあり、詮子は日本で四番目の女医であったが、官立学校出では最初であったので、世間からたいそうもてはやされたという。

本多家の欣持は高く、娘よりもできる人、即ち東京大学首席卒業者でなければもらわないと高言した手前、たやすく候補者が得られず、一門手分けして探しあぐんだ末、ついに折原静六に白羽の矢が立ったのである。

以上は、本多静六が後年自ら語った、その「学生結婚」の端緒となる出来事の始まりである。

本人としては在学中のことであり、学業一途の生活の中に降って沸いた縁談など眼中になく、先送りしようとする折原静六であったが、先方はこの縁談を極めて熱心に推し進める。

熱心な本多家は色々と手を回し、周囲から圧力も加わり、仕方なくドタ靴に髭ボウボウ、汚い身なりで(嫌われることを望んで)相手方の家庭を訪ね食事をした折原に対して、本多晋は「剛毅朴訥仁に近し」というような好意的態度を保ち、何よりも娘の本多詮子が折原静六との結婚に一途になったことが決定的であった。

この事に関して注目すべきは、折原が「結婚謝絶の一方便」のつもりで、「卒業後、ドイツに4年間留学させてもらう」という条件を出したのに対して、「それぐらいの大望のある婿を欲しいのだ。財産の許す限り、何年でも洋行を引き受けましょう」という返事が決定打となり、紆余曲折を経ながらも、この縁談は成立した。

明治22(1889)年5月、東京農林学校卒業を1年前にして、折原静六は本多家の婿養子となり、本多静六として、より一層学業に励んだ。

それまでの駒場学生寮における貧乏な学生生活とは天地の差で、芝区芝園橋脇の本多邸における夢のような「新婚生活の陶酔」を三週間ばかりで切り上げた本多は、妻と相談の上で、再び猛然と学問一筋の生活に打ち込み、遂に明治23年6月締め切り予定の「卒業論文」を2月初めに書き上げてしまうという離れ業を演じた。

その「卒業論文」を差し出すと共に、静六は卒業試験を待たず、明治23年3月23日、横浜出帆の船でドイツ留学の途についたのであった。

当時の東京農林学校(東京大学農学部の前身)では、3月までに学科を終え、4月から6月までは実施演習として山林地方に旅行し、その間に卒論の材料を集め、それを完成して提出し、更に卒業試験を経て卒業するという規定であった。

それを敢えて本多静六は6月に完成すべき卒論を2月に完成し、直ぐにそれを懐中にして学長・前田正名(農商務省次官兼任)を農商務省の次官室に訪ね、洋行の許可を願い出る。

驚いた学長が上述のような規定を持ち出すと、本多は懐中にしていた「卒論」を渡したという。

当然学内で相当の議論が行われたが、前田学長の英断が最大要因となって、本多の破天荒な企ては許可されるという「空前絶後の措置」がなされた。

前田に対して本多は深く感謝しているが、敢えて推し量れば、前田正名学長が受け取った本多の「卒論」の中身は、抜群の学殖を感じさせるものであったのではないか。

余談ながら付言すると、明治2年パリに留学した前田は、明治10年に帰国後、「パリ万博事務館長」を務め、明治12年には時代に先駆ける画期的な論文『直接貿易意見一班』を起草した中で、「1,中央銀行の設立 2,貿易会社の設立 3,産業カルテルの設立」を提唱したように、この時代における傑出した人物であった。

空前絶後の「特例措置」として本多静六の卒業を認めて間も無く、東京農林学校・前田正名学長(農商務次官兼任)は、農商務大臣・陸奥宗光と対立した結果、元老院議官に転出、次いで貴族院議員に勅撰される。

明治28年、養蚕が盛んな京都市綾部を訪れた前田貴族院議員は、「今日の急務は国是・県是・郡是を定るにあり」と演説、養蚕業発展と「地域振興」を促し、この演説に刺激を受けたか翌明治29年、郡是製糸(現グンゼ)が発足し、その後、社名に「是」が付く製糸会社が全国で24社誕生したという。21世紀日本の「国是・県是・郡是(あるいは市是)」には、どのようなことが求められようか。

本題に戻ると、本多静六は既述のように明治23年3月23日、金のかからない三等船客として横浜を出航、初めの1週間は船酔いに苦しめられたが、39日目にフランスのマルセーユに上陸、5月4日には列車でベルリンに到着、5月8日には目的地ターラントに向った。

ターラント山林学校(生徒数70人、20歳以上)での生活は、極めて快適、学友と日本では味わったこともないビールやサンドウィッチを楽しむ愉快な日々を送ったが、ドイツの大学ことに高等専門学校では、何年いても卒業証書というものがなく、ただ何学期何々学科を何々教授から学習したという証明書をくれるだけであった。

そこで本多は10月6日にはミュンヘンに向い、ベルリン大学に次ぐドイツ第二のミュンヘン大学に入学、ドクトル試験を受けて大学教員を目指す道に向った。

当時のドイツでは子供まで洋服、靴履きであるのに対して、本多が日本を離れた頃の日本には製鉄所も存在せず(官営八幡製鉄所の発足は明治34年)、児童は素肌、素足、藁草履という状態であった。

入学したミュンヘン大学は人口35万の壮麗な都市ミュンヘンに広大なキャンパスを擁し、3500人余の学生と170人の教授という陣容に、田舎者の本多は度肝を抜かれたという。

ところが好事魔多し、ミュンヘン大学に転校1か月後に、養父・本多晋から手紙が届き、本多が4か年の洋行費として用意した四千円は全部静岡県の富永某という銀行家に預けておいたところ、同家が突然破産し、送金不能となったので、以後自活するようにとの知らせであった。

ドイツではアメリカと違って、皿洗いや掃除人に雇ってくれるところはなく、本多は驚天動地という心境の中で、手持の千円で学業を続ける決意を固めた。

緊縮生活の敢行にとりかかった本多は、下宿は安い屋根裏部屋に引っ越し、中食と夕食は三日分ぐらいを炊いて置き、酢漬けや塩漬けの胡瓜をおかずとして、ビールならぬ水を飲んで済ます生活を始める。日本からきた醤油が瓶に半分ほど減ると、それに塩を加え、半分水を入れて使い、何回もそうするうちには僅かに色のついた塩水のようになるまで使うという徹底ぶりであった。

経済的受難は本多にとって、かえって勉学上に経済主義を実行させることになり、勉強に対する努力を倍加して学費と修行年限の短縮を試み、本多はついに4ヶ年の博士課程を2ヶ年で終了しようとする野心的、破天荒な計画を立てるに至った。

まず教室においては、最も教師の講義を聞きやすい最前列真ん中の机に名刺を貼っておき、朝の6時から晩の7時まで講義を聴き続け、下宿に帰ってからは一心に宿題をやり、一問ごとに、積極的、消極的、折衷的の三つずつの解答を作り、それを教師に見てもらうようにする。

4年の学科を2年で全部聴講し、その間に学位論文を書くために、本多は毎夜3~4時間しか眠らなかった。

幸運なことに入学してまだ2年も経たないうちに、本多の激烈な勉強ぶりに同情してくれたウェーベル教授からドクトルの試験を受けてみよと勧められた本多は、夏休み中、南アルプス山中ハレップの山小屋に立て籠もって、全身全霊を打ち込んで論文作成にとりかかり、親しいスイス人学友(後にチューリッヒ大学教授)が字句の訂正を手伝ってくれたこともあり、楽々と「論文試験」を突破することができた。

しかし、論文試験に数倍する難関は、口述試験と演説討論の二つの試験で、口述試験は各教授列席の前で、各教授から三十分ずつ、いじめられるしきたりであった。

財政学における教授二人のうち、ドイツのみならず世界的権威でもあるブレンターノ教授は、大変な難問を出し意地の悪い人物としても評判であるためウェーベル教授は、もう一人のマイエル教授を受けるように勧めたが、剛毅にも、本多は第一級の人物の試験を受けることを希望したのである。

案の定、財政学主任教授ブレンターノは、本多が入学後まだ1年余りしか経っていないことに難色を示したが、教授会では「論文がパスしているのだから、できなければ落とすまでのことだ。とにかくやらせてみたらよかろう」ということになった。

難関ブレンターノ教授との公開面接試験に備える本多の工夫は、教授が講義の種本にしている『エーアベルグの財政原論』という菊版(A5版に近い)257ページの本を一字一句も余さず暗誦しようという途方もないことであった。

ところが本の内容は難解で、到底覚えがたく、さすがの本多も、洋行に際し「餞(はなむけ)」として養父から授けられた日本刀を用いての自殺も脳裏に浮かぶところまで心理的に追い詰められた。

ここに至って本多は、郷里・埼玉が生んだ「世界的偉人・塙保己一」が、盲目というハンデを背負いながら、群書類従六百三十余巻の内容を、ことごとくその頭脳の中にしまっていたことに気づき、再度死力を尽くす覚悟を決めたのであった。

再び決心を固めてやってみるがダメで、またやってみるという不安焦燥の日々を数日過ごすと、精神が統一されてきた本多は、昼は孜々として暗誦につとめ、暗誦できるページ数も増えてきて、夜は下宿の主人や娘に発音や字句の不熟を訂正してもらうという努力を倦まず弛まず続けること1ヶ月、ついに題さえ言えば、どこでもすらすらと一句も違わずに質問に答えられるようになったという。

ずらりと並んだ教授連のいちいちに答えた本多に対して、ほかの教授たちは規定の三十分で止めてくれたのに、最後のブレンターノ教授は無愛想な言葉で次々と質問を続けたが結局、本多を落第させることはできなかった。

その口述試験が終わるとウェーベル教授は本多を自宅に招き、「僕は62歳になるが、まだあんなに厳しい試験はかって見たこともない。また君のように見事に答えたのも、これが初めてだ」と、大変喜んだくれたという。

見事に口述試験を突破した本多が、ドクトル(博士)になるためには最後の「演説討論の試験」が残っている。

これに対して本多は、マイクや拡声器の無い時代であるから、古代ギリシャ最大の雄弁家デモステネスをも視野に、イザー川の滝の下に行き、厚い雪の上に立って滝の響きに向って片手に演説原稿を持ちながら、大声で演説の練習をした。

そしていよいよ本多一人のドクトル試験のために、全大学が半日休業となり、新聞には「今回、日本留学生本多静六君がドクトルの論文と口述試験に合格したるゆえ、3月10日に大学の大講堂において、左の時事問題(関税同盟)について演説討論会を開く、有志者は当日午前10時までに大学の大講堂に参集されたし」という広告が出た。

正面にバイエルン国王の肖像画がかかった大講堂の演壇に案内された本多は、左右に赤青の礼服に身を包んだ教授たちが居並ぶ中で、数週間に亘って練りに練った弁舌を以て、一時間余にわたる大演説を行い、二、三の討論も無事に終わって演壇を降りた時、ミュンヘン大学総長が本多の側に来て手を差し伸べ、「ドクトル本多おめでとう!」と握手を求めたという。

大学4ヶ年の課程をターラント時代と合わせて二ヶ年で終了し、ドイツの最も栄誉ある最高学位を獲得した明治25年3月10日は、本多静六にとって「人生最大の日」であったのではないか。

Ⅱ-2  給料四分の一貯金から億万長者に

明治25年5月末、ドイツから帰国した本多静六(満25歳)は、7月26日付を以て帝国大学農科大学助教授(高等官七等従七位)に任命された。

そこで本多は一か月58円の月給袋から、いきなり四分の一の14円50銭を引き抜いて貯金し、一家(居候を含めて9人)は、その残りの43円50銭で生活をやりくりし、この1ヶ月14円50銭の天引きが、後に数百円(今日の何千万円)の資産を積む第一歩となったことを我々は深く認識すべきである。

四分の一天引き貯金を始めて2,3年経つと、預けた金の利子も通常収入として、その四分の三は生活費に回すことができ、天引き生活は楽に続けられるようになった。

天引き貯金によって相当まとまってきた資金で、本多はまず日本鉄道(上野青森間の私鉄)の株十二円五十銭を三十株購入した。

追加投資してそれが三百株になった時、日本鉄道株は払い込みの二倍半で日本政府買い上げとなり、年々一割の配当を受けつつ本多は三万七千五百円の金を手にした。

因みに明治33年の上級公務員(高等文官)の初認月給は50円、大卒銀行員の初任月給は23円であり、既述のように明治38年頃の海軍中尉の年俸は400円であった。

その大金を手に本多が次に向った先は、秩父の山奥(中津川)の天然美林であり、何万円もの資金を以て、一町歩がたった4円の山を八千町歩、最終的には一万町歩にまで買い増した。

そこへ、日露戦争後の好景気が到来して木材価格が高騰、木材搬出の施設も整ってきて、その広大な山林の一部の立ち木だけを一町歩280円(買値の70倍)で売る。

ある年には年収が28万円となり、当時の淀橋税務署管内の納税者ナンバーワンとなった。

明治42年度農商務省一般会計歳出が142万円強という時代である。

既述のように、本多が最初に手掛けた株は日本鉄道株であったが、私鉄株にはその後の将来性を認めなかった本多は、ガス、電気、製紙、ビール、紡績、セメント、鉱業、銀行など三十種以上の業種の優良株を選んで、後には本多の株式総額財産は数百万円に達した。因みに大正15年の総理大臣月給は1000円、同年の長者番付1位となった岩崎久弥(三菱)の年間所得は431万円であった。

本多が株式投資で最も成功したケースは関東大震災後の株式暴落場面で、十円近くまで下がった東京電灯株を十二円五十銭から買い進め、資金のある限り45円まで買い進めた。予想通り株価が五十円を越したところで、本多は持ち株の三分の二を換金したという。

金というものは、本多も言うように、雪だるまのようなもので、その中心になる玉ができると、あとは面白いように大きくなってくるが、その「雪だるまの芯」を作るための2,3年に亘る勤倹貯蓄生活ができるか否かに、全てはかかっていると言えよう。

本多家では買い物はすべて現金、月末近くになると毎日おかずが無くて、ゴマ塩で食事を済ますことがあったという。大人は我慢しても、幼い子供が「おかあさん、今夜もごま塩?」「もう三つ寝るとオトトを買ってあげますよ」というような母子の会話を聞いて気が滅入るような、やわな神経では到底、四分の一貯金法の実践は無理である。

本多が喝破したように、「貯金の問題は、要するに、方法の如何ではなく、実行の如何である」

本多家が四分の一貯金法を5年、10年実践し、ついには億万長者となれたのは、ひとえに妻・詮子の努力によると言っても過言ではあるまい。

本多のドイツ留学中、詮子は自宅で婦人小児科医を開業した。そのかたわら乳幼児(長女・輝子)を抱えて、日本で4人目の女医として、女学校、病院等にも勤務するという八面六臂の活躍ぶりであった。

しかし本多の帰朝後は、一切の外勤を謝絶して、一意、子女の養育と家政の整理に務め、しかも毎夜子供を寝かしつけた後は、本多の助手として原稿の清書や、講義案の整理をし、その上、英文翻訳や手紙の代筆まで一切引き受け、夜中2時3時になっても少しの不平不満、倦怠の色さえ見せなかったという。

本多が四分の一貯金を思い立つと、詮子はただちにその実行にとりかかり、既述のように、夕食にごま塩を唯一のおかずとするような厳しい局面に遭遇しても、泣き言一つ漏らすことなく、家計一切を切り盛りした。その上、いささかの漏れもない家計簿を付けたばかりでなく、毎年大晦日に、その年の決算報告をするという徹底ぶりであった。

正に「この夫にしてこの妻あり」という言葉がぴったりの、億万長者・本多家であった。

Ⅱ-3 巨額財産を匿名で公共機関に寄付

痛快なことに1932(昭和2)年、満60歳になった本多静六は、東京帝国大学農学部教授の定年退官をきっかけとして、必要最小限の財産だけを残し、現在の貨幣価値にして100億円を超えるとも言われる他の全ての巨額財産を2,3年かけて、学校や、教育、公益諸団体に、「匿名または他人名義」で寄付するという、この上ない快挙をやってのけたのであった。

その痛快な快挙を象徴するのが、昭和5年、本多から匿名で埼玉県に寄付された秩父市(旧大滝村)中津川の、2600ヘクタールに及ぶ見渡す限りの森林である。

埼玉県は、本多が寄付した2632ヘクタールを含む3010ヘクタールの県有林(東西約10Km,南北約9Km)を、本多が提案した育英基金の基本財産として経営管理し、昭和29年から奨学金貸与を開始して今日に至った。

令和3年の時点で、同基金を原資として埼玉県農林部が実施している「本多静六博士奨学金(貸与型)」募集人員は4名、継続貸与者は25名とのことである。

2600ヘクタールは埼玉県桶川市全域、あるいは比企郡鳩山町全域を上回る面積である。

奨学金に言及したからには、(公財)埼玉学生誘掖会についても付言しておきたい。

明治33年、本多と渋沢栄一が中心となって「埼玉学生誘掖会」が創設され、明治37年には都内で修学する埼玉県民子弟の為の寄宿舎が建設される。最盛期には100人の学生を収容した寄宿舎は、昭和12年、鉄筋2階建てに改築され平成13年まで存続したが、その後、同財団は新宿区砂土原町の学生寮跡地を売却した基金を原資とする奨学金給与事業に転換し、平成15年には第一回奨学生として5名を採用している。「誘掖」とは、導き助けるという意味である。

さて、快男児・本多静六は、その85年の見事な人生に基づいて「人生幸福」を次のように定義した。

「幸福とは自己の努力によって、健全なる欲望が満たされ、精神、肉体共に愉快を覚ゆる状態を指し、しかも、それが自己の健康と社会の希望に反しない場合をいう。そうして、真の幸福そのものは、比較的、進歩的のものであるから、常に絶えず新たな努力精進を要するものである」

そして更に本多は、「成功への近道」として次の七つの項目を挙げている。

1,常に心を快活にもつ――楽天主義。

2,専心その業に励む――職業の道楽化。

3,功は人に譲り、責は自ら負う。

4,善を称し、悪を問わず。

5,好機はいやしくもこれを逸せぬこと。

6,勤倹貯蓄――四分の一貯金の実行。

7,人事を尽くして天命(時節)を待つ。

以上を総括して本多は、「人生即努力」であり、「努力即幸福」にほかならない、と結んでいる。

Ⅲ 燃える向学心―少年期からの奮闘

折原静六は、1866(慶應2)年8月、関東平野の真ん中 ・埼玉県南埼玉郡三箇村大字河原井(現在の久喜市菖蒲町)で中百姓の六人目の子供として生まれたが、三人は早死して10歳以後は、二人の兄、一人の姉、一人の妹となり、父の禄三郎は埼玉県第十八区副区長として、8キロ余り離れた桶川町の区役所に毎日乗馬で通い、外出がちで、祖父の友右衛門が孫たちの世話をして、5人の中でもきかん坊の静六をとりわけ可愛がったという。

その祖父・友右衛門は、明治24年には数千の信者に推されて不二道孝心講第十代目の大導師となり、富士登山67回、手弁当で諸国を巡回し、勧善懲悪の道などを講じ回ったという。

信心深い折原家では天保の頃から不二道護法会の歌として、「ははちちの御恩のふかき御めぐみを、寝ても覚めても忘るなよ」といった歌が朝夕歌われる習慣の、信仰心の深い家庭であった。

どちらかと言えば裕福な農家の、頑健、負けず嫌いのきかん坊であった静六の生活は、9歳の時、父が借金を残して一夜で病没したことにより一変する。

借金を返すために祖父の監督のもと、一家は風呂なし(冷水浴)、塩菜(朝食は飯と塩だけで済ます)という極度の緊縮生活を余儀なくされ、次兄は東京の商店の小僧に出された。

11歳になった秋から静六は麦踏みをやり、朝、学校に行く前に草刈りを行い、翌年の冬からは夜学にも通うようになって学校の成績も良くなり、それまでの遊び(肉体的遊び)に夢中の餓鬼大将から、「学問をして偉い人になろう」という心境が芽生えて、静六の自覚的努力の第一歩が始まったのである。

そして15歳の秋、一家の借金(一千円)も皆済されて、暇さえあれば母や兄に学問のための上京を懇願していた静六の宿望が叶い、かって岩槻藩の藩校・遷喬館の教師をして静六の兄・金吾も教えを受けた島村泰先生が、大蔵省勤務の傍ら私塾を開いている四谷仲町の自邸に、内弟子兼学僕という形で世話になることになった。だが、それには条件がついていて、秋の麦蒔きから翌年の5月初めまでの約半年(農閑期)ということであったが、静六は大喜びであった。

元々折原家は田畑を12町歩所有しており、そのうち2町歩を自作する大きな農家であり、農繁期には家に帰って手伝う静六の労力はあてにされていたが、静六は祖父に頼んで、自分のする仕事を請負制度にしてもらい、仕事を早く仕上げた余暇は勉強時間として使うことを認めてもらった。

米搗き(こめつき、精米作業のこと)は、三斗八升一臼、麦は荒搗き三臼、田の草取りは一日七畝、畑うないは六畝というように仕事の分量を決め、それをやってしまえば、あとは全て自分の時間ということになり、益々仕事に励んだが、疲れがひどかったり、意外に時間がかかることもあり、その後、静六は手足で働きながら、頭の中または口で本を読める仕事即ち米搗きを、専門の仕事として選んで熟練し、米搗きは静六に限るとまで褒められるようになる。

米搗き装置(足踏み式)の桟の上にゆるく麻糸を張り、その間に本を拡げて目の前の本を読みながら米を搗く(体を動かす)工夫をする。

右足を踏み込んで例えば「一意専心」と調子を取り、左足を踏み込んで「粒粒辛苦」という塩梅で、漢籍を口に出して暗誦するのは、現代にも通用する極めて効果的な学習法ではないか。

そのおかげで四書五経その他の本をすっかり暗誦することができ、他人が中学(旧制)に通って勉強する内容を、半年は東京で塾僕的書生として、半年は郷里で米搗きをしながらの「変則的勉強」を15歳から18歳まで、足かけ4年間続けた折原静六であった。

この4年間で、大学・中庸・論語あるいは文選といった漢籍を学ぶ中で、「座右銘」のような名文を繰り返し暗誦した結果、静六は「座右銘」中の次のような言葉を10代の若さで、生涯の行動指針とすべき言葉と認識した。

「座右銘」の中の、「人の短を誹(そし)らず、己の長を誇らず、恩を施しては須(すべから)く忘るべく、恩を受けては忘るるなかれ、名をして実に過ぎしめず、常に謙譲を守り、俗にありて染まず、暗味の中に光明を含め、言語飲食を節すべし」という言葉を拳拳服膺した折原静六は、それを自らの人生行路の羅針盤として自覚したのである。

しかしながら、理屈と実践は異なる。

教室その他に於て、こういう言葉を学習しただけで人が変われるものならば、世の中は立派な人で溢れるはずであるが、現実は全く違っている。

静六がその後この立派な羅針盤を得た上で、後述するように、自らの「修養(性格矯正)」を「一生における内面的大事業」として捉え、生涯に亘って修養(修行?)を貫徹したところに、傑出した人物となる根源があった。

明治16年12月、折原静六(満17歳)は恩師・島村泰の勧めによって、新時代の専門学(農林学)を教えるために前年発足した半官費で学費の安い官立「農林学校」に入学願書を出したが、入学資格満18歳以上をクリアーするため、村役場に頼んで半年早く生まれたことにしてもらった。

東京大学の発足が明治10年、専修大学(専修学校)、法政大学(東京法学校)、早稲田大学(東京専門学校)等が発足したのが明治13年から15年という時代のことであり、翌明治17年2月、折原静六は合格者50人中50番(ビリ)という成績で同校に入学する。

当時の山林学校は、生徒の殆どが中学(旧制)か師範学校の卒業生であり、既述のような変則的な学問をした折原静六は、7月1学期の期末試験で代数と幾何の2科目に落第し、自殺まで思い詰めるが、懐の深い恩師・島村泰の懇篤な言葉に救われ、発奮して以後、猛勉強の道を驀進する。

そこから折原が工夫し編み出した勉強法が、「エキス勉強法」と自ら名付けた勉強法である。

毎日学校で学んだノートを、帰ってからひと通り修正した上、さらに通読して、どこが一番重要な箇所であるかを見極め、改めてそれを数分の一、ないし数十分の一に要約して、別紙に細字で書き抜く。それが試験前になると、一学科で2~3枚から5~6枚くらい溜まる。それをポケットに入れて散歩に出かけ、歩きながら全体の趣旨を口内または口頭で言ってみる。

こういう勉強法を以て雪辱の意気に燃える折原は、たちまち他に追いつき追い越して、2学期の終わりには教師から「お前は幾何の天才だから、もう出席しなくてもよろしい」と言われる程、成長した。

規定破りの満17歳6か月、ビリで入学した「東京山林学校」は王子西が原に校舎と貧弱な寄宿舎があったが、明治19年7月、駒場農学校と合併されて新しく「東京農林学校」となった駒場の寄宿舎は、二階建て洋風のハイカラな建物であった。

同時に、学内に本科と乙科が設けられ、全校生に志望を出させて試験の上、折原は予科3年に編入されて翌明治20年には、いよいよ本科生となりドイツ人教師から林学をも学んで、本科一年では次席、本科2年には首席となっていた。

50人中のビりで入学し、本科2年に至って首席となった折原静六が、この期間に立ち向かったもう一つの課題は、「自らの性格矯正」であった。

当時の折原静六は、首が長く背骨が曲がって、前こごみの瘦せ型で、鋭い底光りのする陰険な目つきと、苦虫を嚙み潰したような顔つきであったという。

本人も言うように、生まれつき負けず嫌いで、すこぶる強情な気性であった。早く父親と別れ苦労して育ったためか、成長と共にますます頑固となり、偏屈となり、何事にも反抗的な態度をとって、人を信じ、人に従順になるということがなかなか出来にくかった。ことごとに一理屈も二理屈もこねまわさなければ気が済まず、他からは多少立てられながらも、なんとなく煙たがられて、万事に人と協調し難いところがあった。

こういう厄介な性格の持ち主・本多静六の将来を慮った恩師・島村泰は、ある日、天源淘宮術(てんげんとうきゅうじゅつ)の新家春三(にいなみはるみつ)先生のところへ折原を連れて行き、折原(折原の抱える内面的問題の解決)を頼んで、そのまま大蔵省へ出勤したという。

ここで余談ながら、学期末試験に落第し自殺まで思いつめた静六を慰め励まし、その性格矯正にまで心を砕いて、折原静六を教導した大恩人・斎藤泰先生(大蔵省勤務の傍ら家塾を営む)が明治新政府の官僚となる前に教師を務めた岩槻藩校・遷喬館について是非とも言及しておきたい。

「岩槻に過ぎたるものが二つある。児玉南柯と時の鐘」と謳われた児玉南柯(こだまなんか)は、岩槻藩(2万石)の要職を歴任し、43歳で前任者の不正の責任を取って職を辞し隠居の身分となっていたが、第五代藩主大岡忠正に要請され、1796(寛成8)年、家塾「遷喬館」をスタートさせた。

15年後の1811(文化8)年、隣に武芸稽古場が併設され、「遷喬館」は「勤學所」と改名された藩校として、文武両道によって藩士の人格形成を目指す儒者・児玉の理想を実現する場となった。

1830(文政13)年、85歳で病没した児玉南柯が命名した家塾「遷喬館」の由来は、中国最古の詩編としての「詩経」にあって、「学問を欲し友を求める」ことを「鳥が明るい場所を求めて暗い谷から高い木に飛び遷(移)る」姿に例えた「出自幽谷 遷于喬木」という一節にあるという。

ここに「遷喬館会約」の一項目を紹介しておきたい。

一、塾を遷喬と称するは、蓋(けだ)し学ばんと欲する者、友を求めて切磋、その進むや、なお鳥の幽谷より出でて喬木に遷るが如きなり。請う、ともに務めよや。

向学心に燃え、兄や母に上京を懇願した折原静六(15歳)の受け入れ先が、兄の金吾も教えを受けた由緒ある岩槻藩の藩校「遷喬塾」教師から大蔵省勤務となって、四谷の自邸に私塾を開いている斎藤泰先生であったことは、如何にも運命的ではないか。

本題に戻ると、例によって強情な折原に新家先生は鏡の中の自分の顔をよく見るように言うと共に、次のように言ったという。

「君がもって生まれたこの性癖は、容易には直らないが、しかし直さなければ君は意地に食われて死ぬばかりだから、死んだつもりで懸命にその性癖を直しなさい。君は常に人から利口だ、偉い男だと言われよう言われようと思っているが、それが一番悪い癖の源だから、これからはあべこべに、馬鹿になろう、馬鹿になろうと心掛け、なんでも人のいうままに従順になって『あれは薄馬鹿だ」といわれるぐらいになれば、それが君の成功の始まりだ」

納得した折原は、まず積極的に自己の悪い性癖を直すことを決意、さっそく手帳の第1頁に、悪いと思う癖を箇条書きに書き上げた。

その上、書きにくいことは符号で書き、朝起きた時と寝る前とはもちろん、人混みの中でもどこでも、暇さえあればそれを見て悪癖を直すことに努力したという。

同時に常に鏡を見て、「顔は心の姿であって、悪相になるのも福相になるのも、みな心のもち方如何による」ことを肝に銘じて修養、20歳頃から、昔日の面影は一変し、丸々と肥った体となり、体は無病健全、気持ちも極めて明朗な人物となった。

そして人の意見も素直に聞けて人を信用するようにもなり、たとえ人に騙されて損をしたり、自分の功を人に奪われたりしても、これが修養なのだ、なに渡る世間に鬼はない、自分は人のやれという仕事を素直に忠実にやってさえいれば、それでよいのだ、という気持ちになり、腹が立ってもすぐ気持ちの転換もでき、どうやら福相らしくなった20歳の折原静六であった。

本多静六本人が、いみじくも述懐したように、人間のもって生まれた性格というものは、なかなか矯正し難いもので、ちょっと油断をすれば、すぐに短所が頭を持ち上げてくる。

その短所を抑え込む修養即ち自らの性格矯正を、「一生における内面的大事業」と捉えて、生涯に亘って努力し続けたところに、同じく埼玉出身で同時代の渋沢栄一あるいは、その『自伝』によって世界的に有名なベンジャミン・フランクリンらと並ぶ、「世界的偉人」としての本多静六の偉大さがあるのではないか。 (了)

引用・参考文献

本多静六著『本多静六自伝―体験八十五年』実業之日本社刊2016年

本多静六著『人生計画の立て方』実業之日本社刊2017年

本多静六著『私の財産告白』実業之日本社刊2021年

前島康彦著『日比谷公園』東京都公園緑地部監修・東京公園文庫 (財)東京都公園協会刊1994年

林学博士上原敬二著『樹木の移植と根廻』加島書店刊昭和55年

高橋祐一著・発行『国家プロジェクトの賜物 日比谷公園の歴史と文化』上巻2021年

小坂祐弘(松本楼社長)著『日比谷公園と共に七十年 松本楼の歩み』昭和48年