『日本美術の恩人ビゲロー略伝』 村形明子著(雑誌『古美術』第35巻)1971年12月刊より
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金子堅太郎とセオドア・ルーズベルトという日本の歴史上最も貴重な交遊関係の仲立ちとなったビゲローがフェノロサやモースと並んで「日本美術の恩人」と評価されていることは、日本人にとってはうれしい話である。だが、ビゲローは日本美術を高く評価してその莫大な財産(岡倉天心の息子はビゲローを暴富の医人と呼んだという)をその蒐集にあてただけの人物ではなかった。日本滞在の7年の間に、フェロノサ、岡倉と共に滋賀県大津市の園城寺(三井寺)法明院住職桜井敬徳阿闍梨について天台密教の修業を始めたビゲローは、明治18年9月21日菩薩戒を受けて仏道に帰依し「月心」と号するようになった。密教を益々追求(修業)した月心ことビゲローは明治22年秋(帰国直前)には節食その他の影響で心身衰弱状態に陥り、恩師桜井阿闍梨から「無理するな」という言葉と共に「密教を学ぶ者は往々にして狂人となる」と言われたという。帰国して冬はボストン市ビーコン街の自邸で、夏はタカナック島の別荘でゆったり過ごしていたビゲローは1902(明治35)年夏、桜井阿闍梨の13回忌出席のために2度目の来日をした。秋になって京阪へ旅行したビゲローは京都日出新聞山田記者のインタビューに応じて自らの絵画論を展開した。その中で、洋画であれ、日本画であれ、要は画家本人が志気高尚であるか否かが決定的に重要であると述べている。同時に、宗教の影響、長い因襲によって日本人の精神は「非常に美術に嗜好を有し、自ら志気高尚である」とも述べている。
ボストン市ビーコン街56の自邸にルーズベルト大統領を客に迎えたビゲロー |
『日本美術の恩人ビゲロー略伝』 村形明子著(雑誌『古美術』第35巻)1971年12月刊より
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翌1903(明治36)年1月日本を離れ、ヨーロッパを旅行してクリスマスの頃ビゲローはボストンに戻った。余談になるがアメリカ合衆国はこの頃既に工業生産高においてイギリスを抜いて世界の首位に立ちつつあり、オートバイのハーレイ・ダビッドソン1号機が製作販売されたのもこの年のことであった。翌1904年からの4年間はビゲローの人生の最高潮とも言える時期であった。2期目となるルーズベルト大統領とは「ビル」、「テッド」とファーストネームで呼び合う仲であり、ビゲローはホワイトハウスに客となり、大統領やその家族のボストン訪問に際してはビーコン街の自邸を提供したという。ビゲロー邸に泊った大統領やその家族はビゲローが収集した日本文化の精髄とでも言うべき美術品の数々を鑑賞し、日本文化についてのビゲローの所懐を聞いたのではないか。アメリカ学術会議例会において、ビゲローが「修習止観座禅法要」、「仏教の祥細について」、「三味の通常意識に対する関係」と題して三回連続の講演を行ったのもこの時期のことであった。恐らく天台密教の思想をアメリカ人としては始めて同胞に紹介したビゲローは1908(明治41)年には母校ハーバード大学におけるインガソル記念講演の講演者として招かれ「仏教と不滅」と題して講演した。生涯独身で過し1926年10月6日自邸で死去したビゲローの分骨(遺灰の半分)は遺言によって故人が密教の祈祷に用いた法具と共に、生前親しかった美術商山中定次郎によって日本に運ばれた。墓碑落成を待って1928(昭和3)年4月29日から3日間、園城寺でフェノロサ・ビゲロー共同追悼会が盛大に挙行された。ビゲローの戒名は大慈院無際月心居士。
ビゲローの墓(2006年6月筆者撮影) |
この墓の左手前に高さ1.8m程の墓碑が立っている。それに刻まれた英文の「墓碑銘」を村形明子氏(京都大学名誉教授)の訳文をそのままお借りしてここに紹介する。
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此地及び彼の祖国アメリカに
ウィリアム・スタージス・ビゲローの遺灰が横はる。
彼は仏道に帰依し、法名を月心居士と号す。
桜井阿闍梨の弟子にして、法明院の保護者なり。
医学博士にして、日本美術を愛好蒐集し、旭日勲章を
授与。
その生涯は慧徳慈悲を特徴とす。普く、特に知音の
敬愛を受く。
1850年4月4日生、1926年10月6日没
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(傍線筆者) (シリーズ15に続く)
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