丸屋 武士(選)
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1904(明治37)年4月28日、金子が2時間15分に及ぶ大演説を行ったハーバード大学サンダース講堂(劇場)
『日露戦争と金子堅太郎−広報外交の研究』
松村正義著(新有堂)昭和55年刊より

 鉄道会社の製図工であったモースは、ハーバード大学教授アガシーに助手として採用され、その研究を助ける傍ら研鑽を積んで同大学講師に昇格し、動物学と比較解剖学の講義を担当するようになった。1877(明治9)年腕足類を求めてアメリカ西海岸から日本を訪れたモースは神奈川県江の島の民家を研究室として採集と研究に没頭していた。そこを訪問したのがアメリカ帰りの東京大学教授外山正一であった。外山はアメリカ留学前の1861(文久元)年蕃所調ばんしょしらべ所に入学し、学力優秀で文久3年には同所教授方になった。1866年(慶応2)年には幕府の方針により川路太郎(寛堂)らに引率されて2年間イギリスに留学した。1871(明治3)年外務省に雇われてアメリカへ赴任したが、明治5年退職し、ミシガン州アン・アーバー高校(1年半)を経てミシガン大学に進学、3年後同大学化学科を卒業した。帰国して明治9年東京開成学校教授、翌明治10年開成学校あらため東京大学文学部教授となったが、モースを江の島に訪問した時、東大文学部唯一の日本人教授であり月棒は150円であった。外山はその後東大文学部長、東京帝大総長、文部大臣を歴任した。外山に要請されたモースは明治10年東京医学校と東京開成学校が合併してできたばかりの東京大学の教授として医学部における動物学、生理学を教えてダーウィンの進化論をも講じるようになった。前ページでお話した通り、嘉納治五郎はこの時文学部1年生であり、天神真揚流福田八之助に入門して柔術にも打ち込み始めていた。モースは更に東京大学に要請されて哲学を教える教授を探すことになった。榎本武揚と共に4年間オランダに留学した西周が、帰国後scienceを「科学」、philosophyを「哲学」と訳し、日本に哲学という言葉が生まれたことは「卓話室U」のオランダ話の中で紹介した。近頃「助っ人」とか「御雇外人」といった言葉遣いの中に、先進国(西洋)に対する反発と劣等感の裏返しのような心情、気風を感じることが多い。そういう言葉遣いをする人々は、明治10年のこの現実をこそきっちりと認識すべきである。結局モースはハーバード大学教授ノートンにその人選を依頼してフェノロサに白羽の矢が立った。


ビゲロー
『フェノロサ・天心の見た近江−明治21年
臨時全国宝物調査から』
(滋賀県立琵琶湖文化館)平成16年刊より

 アーネスト・フランシスコ・フェノロサは1876(明治8)年、ハーバード大学大学院哲学科を修了、同大学神学部に籍をおくかたわら、前年開校したばかりのマサチューセッツ美術師範学校で美術を学び始めていた。来日した26歳の新鋭フェノロサ教授は明治11年から東京大学文学部において哲学を教え始めた。翌明治12年の授業内容を見ると、文学部第一科(史学、哲学、政治学)の2年生に哲学史、3年生に理財学(経済学)、政治学を教えている。教材としてはJ・S・ミルの『自由論』(政治学)、『政治経済学原理』(理財学)等を用いていたという。東大文学部第2期生(同期生は6名)嘉納治五郎とフェノロサの交流はここに始り、嘉納に与えた影響については7ページでお話した。
 話を元に戻すとモースは横浜に3度目の上陸をした後、連れのビゲローをかっての自分の官舎であった東大近くの加賀屋敷に案内し、なじみの日本人旧友たちに引き合わせた。この明治15年の夏、モース、フェノロサ、ビゲローは関西地方を旅行、モースは陶器、フェノロサは絵画、ビゲローは刀剣、鍔、漆器(蒔絵)を主に蒐集を重ねた。翌明治16年4月から19年4月までビゲローは東大医学部において自然発生論、伝染病源論の講義を担当した。モースの月給350円、フェノロサの月給300円に対してビゲローの月給は50円であったから教授ではなく講師ではなかったか。因みに当時の巡査の初任月給は6円であり、東大生の年間授業料は12円であった。しかしながら東大における待遇などはどうでもいいことで、7年間の日本滞在におけるビゲロー最大の功績は、フェノロサ、岡倉天心らの指導による明治美術運動の背後にあって、経済的援助を惜しみなく提供したことであった。ビゲローが資金援助をした「鑑画会」の助けによって狩野芳崖や橋本雅邦ばかりでなく疲弊していた多くの画家が窮境を脱したという。更に東京美術学校(現在の芸大)を追われた岡倉天心(東京大学文学部第1期生、同期8名)が明治31年日本美術院を設立した際には、資金援助を要請する岡倉の電報に応じてビゲローは1万ドルを寄付した。本シリーズ中柔道家山下義韶の年棒の件でもお話したように明治31年の日本円にして2万円は「夢想もしない巨額の寄付」であり、日本美術院設立の決定的役割を果したビゲローであった。その上、7年にわたる日本滞在によってビゲローが収集した美術品は800枚もの能衣装のほか、銘「安綱」の刀剣等国宝級の名品を多数含めて1万5000点に及んだ。これら美術品は全てビゲローの遺言によってその死後ボストン美術館に寄贈され今日に至っている。とりわけ法華堂根本曼荼羅図(東大寺三月堂に伝来の8世紀の仏画)と大威徳明王像(岡倉天心遺愛の11世紀の仏画)の2点は、海外に流出した仏画の中でも最も価値の高いものであった。


修験者姿のビゲロー
『日本美術の恩人ビゲロー略伝』
村形明子著(雑誌『古美術』第35巻)1971年12月刊より

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