丸屋 武士(選)
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 このような教育家としての活動以外に、アジア人初のIOC委員として、また自ら主導して設立した日本体育協会初代会長として、嘉納はその晩年オリンピックの東京招致に尽力した。1938(昭和13)年3月エジプトのカイロにおける第35回国際オリンピック委員会(IOC)総会に出席した嘉納は3月10日に始った前後6回にわたるナイル河船上の会議によってついに3月19日、夏の東京(昭和15年開催予定)、冬の札幌(昭和17年開催予定)大会招致を最終的に勝ち取った。国際連盟を脱退してしまった日本に対して当然ヨーロッパのIOC委員らは悪感情を持っていた。その中での嘉納治五郎の離れ技(業)とでも評すべき快挙であった。北京オリンピックが終ればロンドンの次の2016年オリンピック招致運動が具体化し東京もその渦中に入ることになろう。しかしながら、嘉納治五郎や後述する新渡戸稲造のような国際的に通用する人物に匹敵する人材は当今の日本には見当たらない。このカイロ会議の後嘉納はアメリカに渡って東京招致に協力してくれたアメリカのIOC委員に謝意を表し、4月23日バンクーバーから日本郵船の氷川丸に乗船して帰国の途についた。飛行機のないこの時代に嘉納が乗った豪華客船氷川丸は横浜を基点にシアトル、バンクーバーとの間を片道2週間かけて往復し、一等船客の往復運賃は1000円、家が一軒建つと言われた。現在、横浜港山下公園に係留展示されている同船は本日、2006年12月26日からメンテナンスのため営業を一旦打ち切り、一年後展示を再開するという。その氷川丸があと2、3日すれば日本の島影を見ようかという1938(昭和13)年5月4日、高齢での無理が祟ったのか嘉納は肺炎のため船中で急逝した。5月9日講道館大道場において神式による葬儀が営まれ1万人が会葬したという。


嘉納治五郎得意の左浮き腰(受け山下義韶)
『嘉納治五郎−私の生涯と柔道』
(日本図書センター)1997年刊より

 少年時代には漢学(経史詩文)と英学を修め、始めは政治に志を立てた嘉納は東京大学文学部の第二回生(同期6名)として卒業した。当時の東大法学部は法律科のみで政治経済は文学部に属していたが東大在学中嘉納が最も大きな影響を受けたのは理財学(経済学)と政治学の教授フェノロサであった。そしてそのフェノロサは後述するようにハーヴァードで哲学を専攻したが、東大文学部における主たる教材は、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』(政治学)と『政治経済学原理』(経済学)であった。猛練習に明け暮れた柔術と共に嘉納治五郎の血肉となったのは、合理主義とロマン主義を融合させようとした19世紀イギリスの代表的碩学ジョン・スチュアート・ミルの思想であった。周知のようにミルは父親のはからいによって3歳からギリシャ語を勉強し、8歳までにはプラトン等の著作を理解した。神童というべきか、13歳までにはアリストテレスの論理学に関する論文を原語で読んだことで有名である。東大生嘉納治五郎にとって、新進気鋭(当時26、7歳)のフェノロサ教授が講義するミルを土台とした「自由とは何か」という授業は魂を揺さぶられるものだったのではないか。ジョン・スチュアート・ミルが幼時から学んで自らの血肉とした古代ギリシャ文明は、東大教授フェノロサを介して嘉納治五郎の人格形成に大きく寄与した。古代ギリシャ都市国家における直接民主制と近代国家の経世済民との間には直接のつながりはない。しかしながら少くともアテネの民主政治を担った人々の「精神の高さ」はミルを介しフェノロサを通して学徒嘉納治五郎にしかと伝わった。ミルが理想とした多面的で恐れを知らず、自由で、しかも合理的なバックボーンを形成した嘉納は前述した通り感情的、情緒的な国家主義や国粋主義、総じて言えば「島国根性」とは全く無縁の人物となった。高邁な見識と雄渾なる気魄をもって嘉納が創始した講道館柔道は、21世紀の今日、世界中に900万の競技人口を擁し、雄勁闊達な国際人嘉納治五郎の足跡は地球文化として永遠に残ることになったのである。

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