丸屋 武士(選)
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青年時代(十八歳頃)の嘉納治五郎
『嘉納治五郎』
(講道館)昭和52年刊より

 これを要するに嘉納治五郎は性来の負けじ魂を、ただ感情に溺れず、合理的に自己を強めることによる「合理主義の精神」によって陶治し、人生の目的を達成した。柔道が「心身の力を最も有効に使用する道」であり、その究極の目的を「己を完成し世を裨益する」ことにあるとした嘉納は、身をもってその事を天下に示した。更に、労作『嘉納治五郎』講道館昭和52年刊の編著者がいみじくも指摘するように、嘉納の生涯についてとりわけ銘記すべき事は、彼が一部の偏狭な国家主義者とは一線を画し、徒らに国体の尊厳をふりかざして皇室の神秘化をはかるような風潮、雰囲気には加担しなかったことである。当然、国策の名のもとに軍備を拡充し、国際間の協調を無視して隣接諸国を脅威するがごとき政策には嘉納は断じて批判的であった。


大学生時代(二十歳頃)の嘉納治五郎
『柔道百年の歴史』
(講談社)1970年刊より

 既にお話したように、五高、一高の校長を足早に(32歳〜34歳)歴任し、友人には時に英文の手紙を送り、晩年まで英語で日記を書いていた嘉納は通算23年4ヶ月余、高等師範学校長であった。駄足ながら付言すれば、高等師範の後身、現在の筑波大学の校章は嘉納家の紋をあしらったものである。1915(大正4)年3月、嘉納校長は当時の高等師範付属中学校教諭、後の東京文理科大学教授諸橋撤次に口授し、次のような教育家四綱領なるものを発表した。



教育家四綱領
  一、 教育之事、天下莫貴焉、修斉治事、
     措之無策、終世済民、外之無術。
  一、 教育之事、天下莫大焉、百世待之、
     大計可定、万民由之、知方可期。
  一、 教育之可好、以効験可必也。
     用之以其道、無所不通、施之以其時、
     無所不達。教育之事天下莫楽鴛、
     陶鋳英才兼善天下其身雖亡余薫永存。



(教育のこと、天下にこれより偉なるはなし。一人の徳教広く万人に加はり、一世の化育遠く百世に及ぶ。
教育のこと、天下これより楽しきはなし。英才を陶鋳して、兼ねて天下を善くす。その身亡ぶといへども余薫とこしへに存す。)


 この教育家四綱領を発表した時、嘉納は東京高等師範学校の全校生徒を大講堂に集めて、次のように述べたという。

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 自分は若いとき大学を出て、総理大臣になろうか、
 それとも千万長者になろうかと考えた。しかし総理
 大臣になったってたかの知れたものではないか。
 千万長者になったって、つまらないではないか。
 男一匹、かけがえのないこの生涯をささげて悔い
 なきものは、教育においてほかに考えられない。
 という結論に達して、教育に向った。それで今度
 こういうものをつくった。
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