丸屋 武士(選)
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幼少時(11歳)の嘉納治五郎
『嘉納治五郎』
(講道館)昭和52年刊より

 話はやや脱線したが、元々嘉納と柔術との接点は近頃騒々しい「学校でのいじめ」にあった。少年時代の嘉納はどちらかと言えば虚弱で、肉体的なことでは普通以下であったという。10歳で母を病気で失った嘉納は11歳(明治3年)の時、生地兵庫県から東京に移って明治政府に仕える父のもとで暮らすことになった。上京してすぐ父の住む日本橋蛎殻町からそう遠くない両国の生方桂堂の塾に通って漢学書道を学んだが、生方の勧めによって箕作秋坪について英語の修業も始めた。本シリーズ9でもお話したように明治6年、14歳になった嘉納は育英義塾に入学し寄宿舎生活を始めた。ここでは特に数学を得意として抜群の学業成績ではあったが、体力、腕力に劣る嘉納は体力に優る少年達のいじめの対象になった。さらに明治8年開成学校に入学すると、粗暴で腕力自慢の土佐藩出身の少年らのウサバラシの対象にされてよく殴られたという。斬髪、廃刀の許可の出たのは1871(明治4)年のことであり、その頃から洋服の普及も始ったが、佩刀禁止となったのは1876(明治9)年のことであった。福沢諭吉の創立した慶応義塾の学生の中には、明治の世になっても戦場の会津で分捕って来た紅い女の着物を着ていたり、朱鞘の大小を差している土佐藩出身者らがいたという。そういう未開野蛮な時代背景の中で嘉納少年は殴られてもただ耐えるしかなかった。


青年時代(十七歳頃)の嘉納治五郎、前列右端
『柔道百年の歴史』
(講談社)1970年刊より

 日本には柔術というものがあり、それはたとえ非力のものでも大力に勝てる方法であると幼少時から聞いていた嘉納は、父にも頼んで柔術の師匠を探すが、時代のせいで柔術もすたれ、なかなか見つからなかった。開成学校あらため東京大学となり、同大学文学部1年に編入された明治10年、嘉納はようやく天神真揚流の福田八之助に弟子入りすることができた。程なくして福田が死去し、その後は神田お玉が池に道場を開いている磯正智の道場に移って嘉納はさらに一段の修行に励んだ。夕食をすませて磯道場へ行き、帰りは11時を過ぎてからになることもあった。その間30人内外の人に対して形の相手をした後、その人々全てに乱取を指導したという。帰途、道を歩きながらよろよろとして倒れかかり、路傍の塀に突き当るほど疲労困憊する猛稽古を続けた。ところが明治14年磯の死によって再度師を失った嘉納は、こんどは天神真揚流とは技の掛け方が全く異る起倒流の飯久保恒年を師として、乱取(形ではない自由意志による試合形式の練習)を中心に一層の修練を積んだ。東大を卒業し学習院の講師となった嘉納はついに明治15年下谷永昌寺に自らの道場「講道館」を開き、書生としての富田常次郎や後に小説『姿三四郎』のモデルとなった西郷四郎らを身をもって鍛えることになった。講道館長として道場を開いて後の嘉納自身の柔道修業は厳しいものであり、その間の事情は本シリーズ11でも紹介した。一日数時間の稽古の中で嘉納は自ら休むことをせず、山下や西郷らにも休ませない荒稽古をもって講道館のしきたりとした。現在日本ではサッカーも盛んになってきたが依然として最も人気の高いスポーツは野球であり、日本の野球人口は100万とされている。少年から老人まで各層の人々が練習に励む中で練習量の最大は何と言っても高校野球である。高校のいわゆる野球名門校では大学出たての嘉納館長率いる講道館と同じく元旦から大晦日まで1日の休みもない。しかしながら野球は広い場所に9人で行う団体競技であり、ノックヤランニング等で個々のプレーヤーを鍛える(シゴク)機会には事欠かないが、一対一で対峙する柔道に比べて、総じて一人一人のプレーヤーの練習密度は柔道とは異なる。大学入学から8年間、とりわけ講道館長となってからの4、5年の嘉納治五郎の修業が如何に密度が高くしかも猛烈なものであったか想像できよう。これに匹敵する練習密度で思い浮かぶのはプロのピアニストぐらいか。人を指導するようになって後も、起倒流の飯久保恒年を招いて指導を仰いだ嘉納は50歳過ぎの飯久保に対し乱取においてはなお及ばないところがあった。だが明治18年(26歳)頃に至ってそれまで嘉納が投げられることが多かった投げ技の名人飯久保のわざは決まらず、逆に嘉納がどんどん一本取れる境地に到達した。間もなく飯久保が所持するあらゆる伝書を与えられ嘉納治五郎は柔術に入門して8年にして起倒流柔術免許皆伝となった。文字通り「精力善用、自他共栄」の道を驀進した8年間の猛練習が実り嘉納は武道家として日本一流の域に到達したのである。余談になるが東大在学中から猛烈に柔術に打ち込んだ嘉納であったが、学業や柔術ばかりでなく、ボートやベースボール(野球という言葉は当時はなかった)にも興じ、フィールダー(外野手)やベースメン(内野手)ではなく自分がピッチャアであったことを後年楽しげに回想している。

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