丸屋 武士(選)
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ワシントンの公園における山下夫妻
『柔道百年の歴史』
(講談社)1970年刊より

 さて、地球上如何なる民族あるいは国家においても武術ないし格闘技が存在しない所はない。一例としてカンボジアでは900年余の伝統を有する独特の武術が今日も実践され、先頃NHKでも報道された。東大卒業(明治15年、23歳)とほぼ同時に嘉納治五郎は小さな寺の一偶を借りて「講道館」(一種のベンチャー)を立ち上げ、自ら創始した新システムによる猛稽古によって精鋭柔道家を育成した。その成果をひっさげ、5、6年のうちに警視庁における試合を圧倒的に制し、結果として全国制覇をなしとげた嘉納は底知れぬ能力の持主であった。「講道館」設立とほぼ時を同じくして、嘉納は独力で「弘文館」という学校を設立、何人もの教師を雇って経営に当り、その上親類や知人で嘉納を頼る人々の子弟を書生(住み込み)として預り指導、監督する塾をも始めたのである。元々子供の躾を依頼されたことから始った嘉納塾は厳格そのものの規則を定めながらも柔道を中心に据えて個性を尊重する個人教授的な家塾であり、「よく艱難困苦に打ち勝ち、克己、勤勉、努力の習慣を養ひ、人のためにいさぎよく推譲するの精神を涵養する」ことを目的とした。一方、学校「弘文館」のカリキュラムには「柔道」と共に「フィロソフィー及びポリティックス」、「ミル経済学」「ペイン心理学」等が盛り込まれていた。学習院の講師(4年後には教授兼教頭)をしながらの23歳の嘉納の何という活力、その剛毅な気迫には驚嘆を禁じ得ない。
 福沢諭吉は、日本近代化の課題を千の軍艦や万の商船の背後にある「文明の精神」を把握することにあるとして、「物理学」を全ての学問の原型においた。ニュートンを意識してのことであろう。そして福沢の関心は、丸山眞男が指摘するように、自然科学やそれによってもたらされた汽車や軍艦ではなく、そのような近代的自然科学を産み出すような人間精神の在り方であった。できたばかりの東京大学で哲学や理財学(経済学)等を学び、物理学でいう偶力「物体に働く大きさが等しく向きが反対の一対の力」を柔道の原理として明らかにした嘉納治五郎こそ「文明開化、日本近代化の申し子」とでも呼ぶべき存在ではないか。原理(嘉納の口ぐせの科学的根拠)を明示し、起倒流、天神真揚流等古流柔術のエッセンスを取捨選択して、嘉納は講道館柔道という「全く新しいシステム」を構築した。その上、帝国主義、国家主義全盛のあの時代に、その新しいシステムを貫く理念として「精力善用、自他共栄」という言葉を掲げたのであった。既に本シリーズ11でもお話したように、今やサッカーの「オフサイド」、ラグビーの「ノッコン」等々と同じく「イッポン」、「ワザアリ」、「ハジメ」、「マテ」等々の日本語は世界語となり、「未来永劫滅びることはないであろう」と嘉納自身が広言した通り(シリーズ11の2ページ)、講道館柔道は21世紀において「普遍性を有する世界文化」、「地球文化」の一端を担う存在となった。ウェブサイトの情報によれば、世界のスポーツ人口の最大は言うまでもなくサッカーであるが、柔道人口はそれに次ぐ900万に達したとされている。国別で見るとフランス50万、ドイツ30万、ブラジル25万、日本20万であるという。この現実を前に、日本国民にとって柔道はもはや「お家芸」とか何とか「島国根性」まるだしで対応できるような段階にはないことを認識すべきではないか。そもそも50万もの柔道人口を擁するフランスは武術ないし武芸が上流人士の「男のたしなみ」とされ、エクゾゼミサイル、ミラージュ戦闘機等々武器の輸出を経済の大きな柱とし、それを国策とするお国柄である。卓話室Uでもお話したように、17世紀ヨーロッパで戦争が無かったのはわずか7年であったという。残りの93年はどこかで戦争が行われていたことになる。第1次、第2次世界大戦を含めるまでもなく欧州こそ「戦争の本場」と言っても過言ではあるまい。当然、戦争の本場欧州(その延長としての米州)における騎士道ないし戦士道は極めてダイナミックでありそのパワーは東洋に比して桁違いである。今年(2006年)ドイツで戦われたサッカーのワールドカップをテレビ観戦された方々もそのことは十分認識されたのではないか。とりわけミドルシュートの威力、迫力に象徴される彼我のパワーの差は歴然としていた。骨格、体格及び伝統による力の差は如何ともしがたく、体重制のない格闘技、とりわけボディコンタクトが更に激しい集団競技としてのバスケットボールやラグビーに至っては彼我の力関係は絶望的である。いくら悔しくても、これが現実(客観的事実)であり、オリンピックその他世界的スポーツイベントの度に日本の成績についてふりまかれる希望的観測は「盛り上げる」ためにあるものと解釈すれば気にもならないか。一方サッカーワールドカップにおいては、大して痛くもないのに大袈裟にころがって相手の反則を審判にアピールする彼等のズルイ戦術もとくと拝見した。それにしてもフランス戦士ジダンの(武術的に見て)見事な頭突きは太陽王ルイ14世治下の近衛銃士隊第一中隊長ダルタニアンを彷彿とさせるものがあった。小説『三銃士』にも描かれている実在の人物ダルタニアンは第三次英蘭戦争において、イギリスから来援した若きジョン・チャーチル(後のマールバラ公爵)らと共にオランダのマーストリヒト大要塞を攻撃中、1673年6月30日、頭部に銃弾を受けて落命した。


山下夫人に護身術を習ったリー将軍の孫娘たち
『柔道百年の歴史』
(講談社)1970年刊より

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