丸屋 武士(選)
(2006年12月)
1         10 11 12
 

山下筆子が演じる「柔の形」
『柔道百年の歴史』
(講談社)1970年刊より

 金子堅太郎とセオドア・ルーズベルトが15年ぶりに運命的再会を果たした1904(明治37)年3月には、ルーズベルトの心を強く日本に引き寄せる契機となったもう一つの大きな出来事があった。日露開戦から一月たらずの1904(明治37)年3月1日、ホワイトハウスにおいて日本の柔道家山下義韶よしつぐとアメリカ人レスラー、ジョージ・グラントの他流試合が行われ、ルーズベルト大統領は講道館柔道の「武術としての威力」を自らの目でまざまざと認識した。続いて翌3月2日、再びホワイトハウスを訪問した山下には山下の要請によってワシントン駐在日本公使館付武官竹下勇海軍中佐が同行していた。竹下の通訳と補佐的役割(山下との実演?)とによって講道館柔道を実体験したルーズベルトはスポーツ万能、特にテニス、乗馬に優れ、格闘技(レスリング、ボクシング)にも並々ならぬ感性を有していたせいか、すっかり柔道の魅力に取り付かれてしまった。そしてこの二日連続のホワイトハウスにおける出来事の結末は、日本人にとって何とも痛快、破天荒なものであった。まず山下が年俸4000ドル、2年契約でアメリカ海軍兵学校に教官として採用されることになった。新設される同校柔道科の担任としてである。当時の為替レートは1ドル約2円であり、日本の海軍中尉の年俸が400円であったから山下の年俸8000円は途方もない高給であった。同時にホワイトハウスの書斎を改造して柔道場が設けられ、そこで週に3回、ルーズベルトが山下義韶(あるいは竹下勇、時に両者)の指導による柔道の稽古に励むことが決められた。週3回の指導をすることになった山下は、その結果ホワイトハウスに常駐同然の身分となった。ホワイトハウスとメリーランド州アナポリスにある海軍兵学校は近くであり、今でも観光客にとっては観光コースの隣接スポットである。余談になるがこのアメリカ海軍兵学校の付属施設(博物館?)には太平洋戦争終結を示す戦艦ミズーリ甲板上で調印された降伏文書(写し?)が展示されていて、筆者も40年前に目にしたことがある。


ワシントン社交界の花(重鎮)ワーズワース夫人の屋敷内に設けられた道場における山下と妻筆子
『柔道百年の歴史』
(講談社)1970年刊より

 一方竹下は以後ホワイトハウスを訪れるのにアポイントを必要としないという、外国公館の駐在武官としては破格の身分になった。その上3月17日には竹下に対してホワイトハウスにおける大統領主催の晩餐会の招待状が送られてきたのである。1904(明治37)年3月21日夜、大統領夫妻を囲み竹下中佐と晩餐を共にしたのは、デイ最高裁長官夫妻、ヒッチコック内務長官夫妻、チャフィー陸軍参謀総長夫妻、アルドリッチ上院議員夫妻、フォーレイカー上院議員夫妻らであった。大使ならともかく駐在武官(海軍中佐)がこのような前代未聞の待遇を受けたのはひとえに「講道館柔道」のたまものであり、竹下自身が妻にあてた手紙の中で「柔道ノ稽古ナド度々White Houseニ至り説明ナドシタ為デセウ皆が羨シガッテ居マス」と書き送っている。ワシントン社交界が瞳目し、人々の羨望を集めた出来事であった。頭隠して尻隠さずと言うべきか、大統領の日本贔屓はこのように歴然としていた。アメリカ国民に厳正中立を要求した大統領行政命令が発布されて10日たらずのこの出来事に駐米大使カシニ伯爵をはじめロシア側はさぞ苦々しい思いをしたことであろう。日露開戦初頭から「講道館柔道」という思わざる武器を手にした竹下海軍中佐の果した役割は正に絶大と評すべく、敢えてここに竹下あての大統領からの招待状を紹介したい。

 *----------------------------------*
 The President and Mrs.Roosevelt request
    the pleasure of the company of
    Commander Takeshita at dinner
         on Monday evening
       March 21st at 8 o'clock
              1904
 *----------------------------------*

1         10 11 12