丸屋 武士(選)
(2004年6月)
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  好著『嘉納治五郎―私の生涯と柔道』の編者である大滝忠夫東京教育大学(現筑波大学)教授は自ら柔道九段として斯界の重鎮であった。そしてこの書の底本となった「柔道家としての嘉納治五郎」、「教育家としての嘉納治五郎」は講道館の機関紙ともいうべき雑誌「作興」の昭和2年1月号から昭和5年6月号まで32回に分けて連載されたものであり、嘉納治五郎が口述し、落合寅平が筆録したものである。その落合寅平は大滝氏が東京高等師範学校(現筑波大学)を卒業して新任の体育教師として赴任した東京府立第五中学校(現東京都立小石川高校)の校長であり、柔道を直接嘉納治五郎について修業し東京高師において国文学・漢文学を専攻した人物である。ここでは、落合が筆録者として雑誌の本文にもれて載らなかった話で、落合・註として敢えて書き加えた一文の一部を紹介するものである。
             
 嘉納治五郎は14歳の時、私立育英義塾に入学し、オランダ人ライヘ、ドイツ人ウェッセルについて英語とドイツ語を学び、その後官立英語学校も卒業して、明治8年(16歳)に官立開成学校に入学した。開成学校は明治10年に東京大学となり、同大学文学部1年に編入された嘉納は政治学、理財学および哲学を専攻した。明治14年、政治学、理財学は卒業して残り1年を道義学と審美学を学ぶ為に哲学選科に入った嘉納は、明治15年7月東大文学部を卒業した。学業にも非凡であった嘉納は卒業前の明治15年1月から、知人の橋渡しによって学習院の嘱託講師として政治学と理財学とを英書と日本語で教える二つのクラスを担当した。学生の多くは彼より年長であったという。7月に東大を卒業した嘉納は8月から正式に学習院教師となり、教育者として天賦の才があったのか、明治18年3月(26歳)には理財学教授、翌年(27歳)には学習院教授兼教頭となった。その後明治25年(33歳)には第五高等中学校校長として熊本に赴任した。余談になるが夏目漱石は嘉納校長の去った後の五高において英国留学前の4年間英語の教師をしていた。五高の校長としては席の暖まる間もなく明治26年嘉納は東京に戻り、第一高等中学校校長兼文部省参事官となった。明治31年(39歳)嘉納は前年就任した東京高等師範学校(現筑波大学)校長と兼任で文部省普通学務局長に就任して、日本教育界に巨大な足跡を残すこととなった。
 ここに紹介する落合寅平の一文は開成学校入学当時(16、7歳)の嘉納について述べたものであり、「零細の時間をよく利用して棄てない」という趣旨は、当意志力道場の設立趣旨とも重なり、あえてここに紹介する次第であります。
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